合宿編(全22話)
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日が沈んだ頃になってようやく、片付けの合図をもらった。いくつかの練習試合がずいぶん長引いてしまったせいだった。緒方さんは、それだけ実力が伯仲しているということだね、と嬉しそうに語っていたけれど。
片付けを終えてレセプションルームに戻り、カメラのデータをタブレットに移すだけ移して食事へ行くことにする。選手のみんなも、もうクールダウンとシャワーを終えて戻ってきているようだ。
ここで一つ問題がある。宍戸くんから借りた帽子のことだ。食堂に行けば会えるだろうし、そのまま返せば問題ないはずなのだが、食堂で会った場合そのまま一緒に食事という流れになりかねないことは経験上わかっている。そして、きっとまた氷帝は固まって座っているだろう。跡部のあほもいるはずだ。会いたくない。
しかし帽子を返さないわけにも行かない。どうしよう。いつも使っているものだろうし、返すなら早いほうがいいに決まってるけど。
悩みながら廊下を歩いていると、少し遠くに忍足くんの姿が見えた。そうだ。今なら帽子を彼に預けて、そのまま立ち去れるのではないだろうか。宍戸くんへのお礼は、改めて朝にでも言えばいい。そうだ、そうしよう。
「忍足くん!」
声をかけて駆け寄ると、忍足くんと一緒にこちらへ視線を向けた人物が3人。向日くんと、芥川くんと、そして。
「うわ、跡部のあほもいたの」
「随分な挨拶だな、てめえ」
跡部が盛大に顔をしかめたので、危機感を感じて忍足くんの後ろに隠れた。早速ケンカを売ってしまった。仲良くしてやろうなんて気は元々ないけど。
「なまえちゃんだ~!」
芥川くんは跡部の視線の厳しさも気にならないのか、ニコニコしながら私の手を取ってブンブン振る。とってもご機嫌だ。
「俺、今日の試合勝ったんだよ、見てた?」
「ごめん、見てない」
「えー、何で!」
「多分、別のとこで仕事してたんじゃないかな」
「ていうか、ジロー。お前、いつの間にみょうじと仲良くなったんだよ」
不服そうに会話に割って入ってきた声は向日くんのもの。
「今日の朝!」
なぜか誇らしげにそう答える芥川くんに、私は彼が今朝のことを話してしまうんじゃないかと気が気でなかった。
「あ、あのね、それより!」
話を変えようと大きな声を出してしまったが、とにかく芥川くんが口を閉じてくれたのでよしとしよう。
「あの、この帽子、宍戸くんに返しておいてもらっていいかな? ありがとうって伝えておいてくれると嬉しいんだけど」
一番頼りになりそうな忍足くんに帽子を差し出してそう言えば、忍足くんはええで、と快く引き受けようとしてくれる。けれど、その帽子はすっと取り上げられ、私に突き返されてしまった。私に帽子を差し出しているのは、跡部だ。
「てめえで借りたものは、てめえで返すのが筋だろうが」
正論だった。別に意地悪でも嫌味でもなく、ただそうあるべきだから発せられた言葉なのだろう。跡部がいなかったら、昨日のあの事件がなかったら、私だってそうしていた。だから跡部のせいだと思う反面、あんなことをいちいち気にしている自分が情けなくなってくる。それなのに素直に『ごめん、わかった』って言えないのはなんでだろう。
「跡部に頼んでないもん。関係ないじゃん」
「そう言う問題じゃねえだろ。宍戸ならすぐ来る。小さな手間を惜しんで礼儀を失するのは気に入らねえな」
その通りだ。わかっているから、跡部の静かな表情を見返すので精一杯だった。
「跡部、別にええやん。このくらい俺が渡しといたるから」
「甘やかすんじゃねえよ」
忍足くんのフォローを突っぱねて、なおも跡部は私に帽子を突きつける。
向日くんの戸惑った視線が行ったり来たりしているのを感じた。あーあ、困らせちゃった。
「跡部、なまえちゃんいじめちゃだめだよ!」
ば、と勢いよく跡部から帽子を奪ったのは、芥川くんだった。ジロー、と跡部のたしなめるような声を聞くか聞かないかのうちに、私は芥川くんに引っ張られて廊下を走り出す。
人の流れに逆らって、ダイニングルームとは反対の方へ。何を思ったのか、芥川くんは医務室がわりのウォークインクローゼットであるあの部屋に私を押し込めて、やっと満足したようだった。
「大丈夫?」
「う、ん、大丈夫だけど」
少し息が切れていたけど、それだけだ。
センサーが私たちに反応して、小さなダウンライトが辺りを照らす。暖かいオレンジ色の光だった。
「あの、芥川くん。私、いじめられてないよ」
「相手の困ることするのはいじめるって言うんだよ。なまえちゃん、困ってたじゃん」
「別に跡部、間違ったこと言ってないから、その」
「うん。俺も跡部の言ってること、あってると思う」
「じゃあなんで」
芥川くんはぽすりとスツールに座り込んで、私を見上げる。にこりと笑って、それから一言。
「わかんねーや」
「わ、かんないの?」
「うん、わかんないけど、別にいっかなって」
いいのか。それでいいのか。君は跡部の友達なのに。
なんだか力が抜けて、私も芥川くんの隣に座る。芥川くんは手の中の帽子を私にかぶせて、何も言わないまま後ろの棚に背を預けた。
「ありがとう」
「うん。でも、なまえちゃん、迷惑じゃなかった?」
「何で?」
「跡部に言いたいことあったかなって思って」
「ううん、いいよ。どうせ言えないもん」
「そっか」
昨日のことまだ怒ってるんだとか、今日は私が悪かったとか、面と向かって言える気がしない。
「帽子、自分で返すね」
言うと、芥川くんはへへ、と嬉しそうに笑う。
窓もない小さな部屋が、なぜかとても優しく感じられた。
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