合宿編(全22話)
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夕食を終えて、お風呂に入って、ベッドに倒れこむ。私のベッドよりずっと柔らかなそれは、病みつきになりそうなほど心地いい。
今日は長い1日だった。もう今朝のことが思い出せなくなりそう。
不意にタバコが吸いたくなった。吸った本数など数えるほどなのに、不思議なものだ。今日はずっと誰かが側にいたから、静かな部屋に一人でいると手持ち無沙汰なのかもしれない。
しばらく目を閉じてじっとしているとノックが響いたので、私はためらわずにどうぞ、と返事をする。
きっと、あいつだろう。
「やあ、みょうじ。お疲れ」
そう言ってドアを開けたのは、想像通り乾だった。遠慮することなく踏み込んできて、ベッドの端に腰掛ける。何だか、久々に彼の顔を見た気がした。
「乾のばーか」
「無理やり連れてきたこと、まだ怒ってるのかい?」
「違う、乾の顔見て安心した自分にムカついた」
「はは、今日は緊張もしただろうからね」
よく頑張ったな、とポンポン頭撫でられるから嬉しくて。でも、それが腹立たしくて彼の手をはたき落とした。
「ばか! もっと褒めて!」
「もっと頑張ったら褒めるよ」
「乾、スパルタすぎ。今日1日で体力使い果たしたよ」
「もう帰りたくなった?」
「わかんない、けど」
「けど、か。いい傾向だ」
私の言葉の続きを彼はすでに知っているようだった。嬉しそうに口のはしを持ち上げて、手にしたノートに何かを書き込んでいる。
ちらりと見えたページはすでに半分ほど埋まっていた。今日はきっといいデータとやらがたくさん取れたのだろう。
「乾こそ頑張ってんね」
「滅多にない機会だからね」
「楽しい?」
「ああ、楽しいよ。俺が楽しいと思う場所にみょうじがいてくれるから余計にね」
「乾のばか、くさいセリフ、ばーか」
彼の背中を軽くける。ただの照れ隠しだ。
「どういたしまして」
「ねえ、返事間違えてる。私ばかって言ったんだけど」
「どういう意味の『ばか』なのかくらい分かるさ」
ふふふ、と低く笑った彼。何それ、乾のくせに。食堂では助けてくれなかったくせに。
「ほんとばか」
「そうだね」
乾は、いつもそう。なんでもわかったような顔をする。したり顔がムカつくのに、私はいつもそれに安心してる。何も言わなくても伝わったような感覚に、何も言わなくても許されているような感覚に、甘えている。
「ねえ、乾」
「何だ」
「私ね」
少し真面目な話がしたかった。こんな時でなくちゃ、素直に言えない気がしたのだ。だから、連れてきてくれてありがとうって、踏み出すきっかけをくれてありがとうって、そんな言葉を形にしようと思ったのに。
「あ」
視界をかすめた、影。
「ん、どうした?」
「ぎゃあああ! いま! いた! いたよ、乾!」
壁を這っていった黒光りする物体。あれは紛れもなくやつだ。あの、地球上で最も憎むべき虫だ。
「もしかして、ゴ」
「やめて! 名前を言わないで!!」
「おい待て、俺を盾にするな!」
「お願いどうにかして乾でしょ!」
「乾家が虫に強いなんてデータはないぞ!」
「私だって無理だもん! 我が家はほとんど出ないし! てか、なんでいんの!」
「やつらは森にも潜んでいるからな。外から入ってきたんだろう」
「言ってる場合か!」
「そ、そうだな。接近戦は不利だ、殺虫剤をもらってこよう」
「え、まってここに私を一人にしてないで!」
「誰かが監視していないと」
「じゃあ私が殺虫剤もらってくるから」
「いや、俺が」
「逃げようとしてんだろ乾のばか待ってよ、置いてかないでよ! 死なば諸共だよ!」
立ち上がろうとした乾を、服の裾を掴んで引き止める。だって、乾がいない間にあいつが襲いかかってきたらどうするんだ。私一人では戦えない。
その時だった。
「どうした! 無事か!」
ばん、とドアを吹っ飛ばす勢いで開いたのは。
「真田!」
乾の嬉しそうな声。
そう、彼は真田くんだったはずだ。
私と乾はさっと真田くんの後ろまで移動する。
「な、何だ、何があったのだ」
「あれが出たんだよ」
私の声に、乾も静かに頷いた。
「真田、君の力が必要だ」
私たちの真剣な眼差しに、真田くんはゴクリと唾を飲み込んだようだった。
***
「まじで真田くん救世主、ありがとう」
「助かったよ、真田。仕留めた時のスイングは見事だったな」
真田くんが部屋に置かれていた雑誌で奴を仕留め、後の処理までしてくれて、やっと私の部屋に平和が戻った。
雑誌は私が後で読むのを楽しみにしていたヴォーグだったけれど、一緒に捨てることになった。仕方ない。背に腹は変えられないのだ。
「貴様ら、虫の一匹や二匹で軟弱な」
「だってあいつ怖いじゃん、気持ち悪いじゃん」
「気持ち悪いのは否定せんが、騒ぐほどのことではあるまい」
「さ、真田くんすごいな」
真田くんときたら、眉ひとつ動かさず、この有様である。なんて頼りになるんだろう。うちのお父さんだっていつもへっぴり腰なのに。乾なんて、戦うそぶりさえ見せなかったのに。
「乾も真田くん見習ってね」
「ああ、みょうじもね」
「私は無理、もう諦めた戦えない」
「言っておくが、俺は殺虫剤さえあれば戦えるからな」
「私だって武器があればいけるもん」
中身があるようでない会話を、真田くんはそこまでだ、と静止した。
「つまらんことで言い合うな」
全く、と息をつく様子はまるでお父さんだ。真田くんて確か部長だっけ。あれ、違ったかな。彼はそんな雰囲気を持っているけれど。
乾はといえば、小さく肩をすくめただけだった。まあ、私たちにとってはよくあることなので、真剣な顔をされると困ってしまうのだろう。
「とにかくもう寝ろ。明日も早いぞ」
真田くんの声に乾は時計を見て、まだ9時半だけど、と苦笑い。
「今日はみょうじも疲れただろうから、長居するのは悪いか。俺ももう行くよ」
「うん。おやすみ、乾、真田くん」
それぞれにおやすみ、と返してくれた二人を見送って、私は扉を閉める。
散々だったけど、みんなでバタバタするのは少し楽しかった。修学旅行みたい。なんて言ったら、また真田くんに怒られるだろうか。
私は真っ白なシーツに顔を埋めて、目を閉じる。リネンウォーターの甘い花のような香りが優しかった。
乾が来る前と同じ、静かになった部屋。
でもどうしてか、もうタバコを吸いたいとは思わなかった。今より少し子供だった自分を、少し懐かしく思うだけ。
ただ、それだけ。
10 合宿編09