合宿編(全22話)
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柳くんと一緒にドリンクを作り終えてからも仕事は尽きず、ランドリールームへ、キッチンへ、レセプションルームへ、コートへ、行ったり来たり。思ったよりずっと慌ただしい時間を過ごした。運動部のマネージャーは毎日こんなことをしているのかと思うと、本当に頭がさがる。私は今後一生マネージャーなどと言う大役は背負うまいと決めた。
夕食の時間になって、私は一人ダイニングルームへ向かっていた。
緒方さんたちスタッフは選手たちと入れ替わりでご飯という手はずになっている。私も後でいいと言ったら、友達と食べておいでよ、とにっこり笑って言われてしまった。心苦しくはあったけれど、お腹も減っていたし、ここは緒方さんの優しさに甘えておくことにする。
と、廊下の向こうから大きな影が歩いてくるのが見えた。あれは、樺地くんだ。跡部くんの側でよく見かける、大きくて無口な男の子。
「みょうじさん」
「あ、はい。こんばんは」
「こんばんは。跡部さんが、呼んでいます」
「え」
跡部くんが私を。嫌な予感しかしない。思わず眉を寄せて樺地くんを睨むけれど、樺地くんはつぶらで綺麗な瞳を持って私を静かに見返すだけ。
「行きたくないって言ったら、見逃してくれる?」
「……できません」
低く静かに、けれどはっきり言い切った樺地くんは、続けて、すみません、と呟いた。
同時に私の視界がぐらりと揺れる。
「う、わ、わ!」
かくして、樺地くんに担ぎ上げられた私は、なすすべなく跡部くんの元まで運ばれてしまったのである。
***
賑やかなダイニングルーム。続々とみんなが集まってくる中、私の隣には人形かと見まごうほどの美男子が長い脚を組んで座っている。同じテーブルの面々、氷帝学園テニス部の皆さんからは、同情の視線が集まっていた。
やばい。よくわからないけど逃げ出したい。
携帯を取り出して、テーブルの下で乾に『助けて』とメッセージを送ったら、『頑張れ』とつれない返事が返ってくる。遠くの彼を睨みつけてもさっと視線をそらされるだけ。くそ、やっぱりあいつのメガネ叩き割ってやる。スペアも全部、粉々にしてやるからな。
「どうした。俺様の隣の席がそんなに気に入らねえか」
急に伸びてきた手が、私の携帯を取り上げてしまう。あ、と思ってみやると、跡部くんの冷たい色をした瞳と視線がかち合った。
「いや、あの、なんか落ち着かないっていうか」
「緊張する必要はねえ」
必要がないことなんて先刻承知だ。したくなくてもするんだから、どうしようもない。
そうだ。何かあるなら用件を聞くだけ聞いて逃げてしまおう。
「私に何か用事があった?」
「スッタフがお前を褒めていたから、褒美に俺の隣の席を用意してやったまでだ。素直に喜べ」
「嬉しくねえ……」
思わず呟いた本心に、すう、と跡部くんの視線が厳しくなる。あ、これやばいやつか。
助けを求めて正面に座っていた丸メガネの人の足をチョン、と蹴ってみるけれど、彼は諦観の微笑みを浮かべたまま首を横に振った。見捨てないでほしい。君のとこの部長じゃん。なんとかしてくれたっていいじゃん。
「おい」
ぐ、と指で、無理やり跡部くん方を向かされる。彼の手は容赦無く私の頬を掴んでいるので、ほっぺたを中央に寄せられた私の顔はさぞ滑稽だろう。元々良いわけでもない顔を余計ブスにして何が楽しいのか。
「この俺様が誰だかわかって言ってるのか? アーン?」
すげえお金持ちですげえ美形の跡部くんでしょ。知ってるよ。だからこそ嫌なんだよ、察してくれよ。目でそう訴えるも伝わっていないのか、跡部くんはますます眉間のシワを深くした。
「嬉しいだろ」
「うえひふない」
「もう一度言ってみろ」
いや、言えねえよ。その前に手を退けてよ。
ていうか、ご尊顔が近い。眩しいからやめてほしい。私には乾くらいの方が落ち着くんだ。いや、乾がブスだと言っているんじゃない。断じて違うけど。
散らかって熱くなってしまった思考をどうにか冷まそうと、目を閉じた瞬間だった。
柔らかい感触が唇をかすめる。
間近の顔。ざわり、とダイニングルーム中に広がる動揺。何しとんねん、跡部。誰かが呟いた声が聞えた。なんで関西弁。いや、そうじゃなくて。
「え? は?」
言葉らしい言葉が紡げなくて、ただ跡部くんを見上げる私。跡部くんはそんな私をみて満足そうに低く笑った。
「少しはありがたがれよ」
「はあ!? 何すんの何なのばかじゃないの!」
やっと戻ってきた思考に、跡部くんの肩を勢いよく押せば、傾いたのは私の椅子の方。けれど跡部くんが椅子ごと支えてくれて、罵れば良いのかお礼を言えば良いのかもわからなくなる。
「そこまでだ」
急に手を引かれて、私は勢いよく立たされた。一度はこと無きを得た椅子は、ガタン、と床へ倒れ込む。
「手塚、くん?」
「みょうじは俺が預かる。いいな」
私の手を引いた手塚くんは、跡部くんの返事を聞かずに背を向けてしまった。私は倒れたままの椅子と何も言わなかった跡部くんが少し気になったけれど、この場に留まろうとは思えなくて手塚くんに続いた。
手塚くんは奥まった席に私を座らせると、自分もその隣に座る。テーブルには青学の面々が集まっていた。乾の姿が見えないのは、柳くんといるせいだろう。
「あの、助けてくれたん、だよね。ありがとう」
「いや」
苦虫を噛み潰したような渋面の手塚くんは、何を考えているのかいまいちわからない。とにかく助かったことだけは確かだけれど。
「手塚、みょうじさんが怖がっちゃうから、ほら、笑顔笑顔!」
手塚くんの正面に座っていた菊丸くんが、ニコリと笑ってそう言ってくれた。手塚くんは小さく息をついただけだったけれど、場は少し和んだようだ。
「みょうじさん、災難だったね。あまり気にしない方がいいよ」
大石くんが私を励ますように言ってくれて、私も笑顔を返してみせる。
「うん、びっくりしたしムカついてるけど、それだけだから。気にしないことにする」
もう金輪際、跡部のあほのそばには近寄るまいとか、機会があったら一度くらいひっぱたいてやろうとか、そのくらいは思うけれど。ショックでメソメソするような可愛らしさは残念ながら持ち合わせていない。
「そうか」
呟いた手塚くんは、複雑そうな表情。きっと心配してくれたんだろう。
「ありがとう」
二度目のお礼に、手塚くんは、ああ、と小さく頷いてくれた。何だか、くすぐったい感じ。あれ。あれ。違うんだ。好きななっちゃったとか、そういうことではないんだけど。ただ少し、手塚くんってかっこいいなって。それだけなんだけど。
久しぶりに音を立てた自分の心臓に、驚いたのだ。
とても、とても、久しぶりの感覚だったから。
09 合宿編08