夏が翻る
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早朝の空気は、肌を切るような冷たさだった。
こんなに朝早く起きたのは、本当に久しぶりだ。小学校の遠足の時以来だろうか。まだ息が白いような季節ではないものの、これからもっと寒くなって行くんだろう。テニス部は年中無休だから、きっとそんな中でもみんなこんな時間に起きて、ラケットを握って。
「大変だなあ」
そうなのだ。私がこんな時間に頑張って起きたのにはテニス部に理由がある。
もう2年生へと部長は引き継いだと聞いたが、練習へは幸村くん達3年も参加を続けているらしい。さすが、うちのテニス部は他の部活は一味違う。
つまりどういうことかと言えば、頑張って朝早く起きれば、朝練前の幸村くんに会うことができるということだ。
嫌われていいと思ったものの、迷惑をかけたくはなかった。だから、できるだけ人の多いところで騒ぐのは避けなければならなかった。そうして丸井くんにオススメされたのが、早朝を狙うことだったのだ。確かに、生徒の姿はほとんどない。丸井さまマジ丸井さまである。
下駄箱の前、少しだけ冷たくなった指先をこすり合わせて、幸村くんを待つ。
ああ、なんだか緊張してきた。早く幸村くんが来てくれないと、逃げ出してしまいそうだ。
そんなことを考えているうちに、近づいてくる人影。間違いない、幸村くんだ。幸村くんを見つけるのは、私の特技だから。
天気を気にしているのだろうか、そっと曇天を仰ぐ彼の姿は絵画みたい。
ふと視線を空から戻した彼は、こちらに気付いたようだった。
「おはよう、幸村くん!」
よし、今日は噛まずに言えた。
「おはよう」
少し驚いたように目を見開いた彼は、すぐに笑顔に戻って私に挨拶を返してくれる。
「そこ、いいかな? 靴、仕舞いたいんだ」
「あ、ごめんね」
しまった、と慌てて避けようとした瞬間、簀の子に足を取られてバランスを崩した。が、昨日の電信柱の二の舞はごめんだ。ぐ、と踏みとどまれば、ぐきり、といやな音を立てる腰。
「ちょ……!!」
痛い。めちゃくちゃに痛い。私は四股を踏んだような体勢のまま動けなくなる。
「……どうしたの?」
振り返った幸村くんの唖然とした顔が、私の心を容赦なく抉っていく。ああ、どうしていつもこうなるんだ。
「あ、あのですね、転けそうになったから踏ん張ったら、腰が……軟弱な腰の野郎がですね」
「ぎっくり腰かい?」
「あえて避けたその言葉を使っちゃうのか、幸村くん」
中学三年生にして、すきなひとの前でぎっくり腰。そしてこのお相撲さんポーズ。もう立ち直れないかもしれない。じわりと涙がにじむ視界で、冷静な表情の幸村くんがす、と口元に手をやった。
「まだ、保健室開いてないよね。困ったな」
優雅な仕草が良く似合っていて、今日も幸村くんはうつくしい。その言葉を口にするのは、きっとこの場面では適切ではないので飲み込んでおいたけれど。
兎にも角にも、私はこの状況をなんとかして切り抜けなければならない。この間抜けなポーズのまま幸村くんの視界にいる状態から抜け出さなくては、精神的なダメージが著しい。
「幸村くん、部活あるんでしょ。早く行った方がいいよ。私は何とかするから」
『何とか』の具体的な内容はまだ思いつかないが、きっとどうにかなる。と、信じることにしよう。
「そうかい? それじゃあ行くね」
ごめんね、お大事に。
そう言って、あっさり私に背を向けた幸村くん。いや、心配してくれるとか期待したわけじゃないけど。私の望み通りの結果なわけだけれど。こうもあっさりだとちょっと傷つく。
それから、はた、と気付く。私は何のために早起きしたのだ。幸村くんに、告げるべき言葉があるからではないのか。このままでは早起き損、ぎっくり腰損だ。
「あの、幸村くんすきです!!」
少し遠くなってしまった彼に届くように大きな声でそう告げれば。
振り返った幸村くんは、急に吹き出して。
「ごめんね!」
よく通る透明な声が、笑いを含んだ謝罪を私に届ける。
またふられた、そしてまた笑われた。シュールな絵面であることは自覚しているから、泣いたりしない。
「な、泣いたりしないもん……」
***
痛む腰に耐えて数分後。
救世主は現れた。
「そこにおわすはジャッカル桑原くんではないか!」
「おわ、みょうじか。なにやってんだ、お前」
桑原くんとは去年、一昨年と二年間同じクラスだったから顔見知りだ。スキンヘッドに褐色の肌、目つきは鋭く、エキゾチックな風貌は話しかけ辛く見えるが、彼が口を開けばとってもいいやつであることはすでに知っている。とはいえ、たまに挨拶を交わす程度の仲なのだけれど。
「あのですね、実は色々あって腰をクラッシュしてしまったので、動けないわけでして」
「ぎっくり腰か?」
「ねえ、何でみんなあえてその言葉を選ぶの!」
「悪い悪い、保健室まで肩貸してやるから」
「保健室、開いてないって聞いたんだけど」
「保健室の前のベンチで待ってればいいんじゃないか」
「あ、そっか。よろしくお願いします」
上履きに履き替えた桑原くんが、私に肩を貸して歩き始める。桑原くんは背が高いから、私のために屈んで歩いてくれていた。ちょっと辛そうで、申し訳ない気持ちだ。久々にお話したというのに、それがこんな状況だなんて、ますます申し訳ない。
「そういえば、久しぶりだね」
「おう、久しぶり。ずいぶん朝早いんだな。どうしたんだ?」
「あ、うん。会いたい人がいて」
「へえ、会えたのか?」
「い、一応」
「良かったな」
くしゃりと頭を撫でてくれた桑原くんの手はまめだらけで、幸村くんの手を思い出させた。
そういえば、私がこの時間にいた理由、幸村くんは聞いてくれなかった。いや、聞かれたところで返事に困ってしまうし、幸村くんに聞いてほしいだなんて、図々しい考えだってことは分かっている。
だけど。
「ああ、前途多難」
「よくわかんねえけど、頑張れよ。ほら、保健室着いたぞ」
ふ、と笑いながらそう言って、桑原くんは私をベンチに座らせた。ああ、やっぱり彼は優しい人なのだ。
「ありがとう、桑原くん! この恩は一生忘れないよ! 君のことはエンジェル桑原と呼ぶね」
呼ばなくていい、むしろ呼ぶな、と力一杯否定しながら去って行く桑原くんを見送りながら。
「まだ、作戦は始まったばっかだもんね」
私は顔をあげる。まだ、負けを認めるには早すぎる。明日も同じ時間に来て、今度はちゃんと幸村くんにすきって言おう。そう決めて、私は腰をさすった。
窓からは、光が射し始めている。
心配しなくても、今日は晴れになりそうだよ、幸村くん。
06 やさしさは僕らをまわす