夏が翻る
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「おはよう、幸村くん」
「おはよう、みょうじさん」
代わり映えのしない朝。人気の少ない早朝の昇降口で、私たちは挨拶を交わす。
「今日は、いつものやつは言ってくれないの?」
幸村くんはにこりと唇で綺麗な弧を描いて、私をじっと見つめている。あの日を境に少しだけ変わったことが、これだ。
「あ、あの、ね、好き、です」
「はい、よくできました」
どうしてか以前よりも上手に言えなくなってしまった『好き』という言葉。それでも、幸村くんは嬉しそうに笑ってくれるから、これでいいのかもしれない。
いや、よくはないか。私の心臓に負担がかかりすぎている。いや、幸村くんの笑顔で寿命が延びている気がするから、問題ないかもしれない。
「なに変な顔してるんだい?」
「へ、変な顔じゃなくて幸せな顔なんだけど」
「ふふ、変だったけど?」
「幸村くんの、いじめっ子め」
「好きな子はいじめたくなるタイプなんだ」
「す、すきな子って……」
そうやって平気な顔でいうんだから、なんて罪作りなんだろう。きっと彼は私の心臓を爆発させたいに違いない。真っ赤になった顔を見られなくて、手で顔を覆ってやり場のない衝動を堪えていると、ぐい、と手首を掴まれて、あっという間にハンズアップさせられた。
それから、唇に触れるだけのキス。
「好きだよ」
そうして、優しく笑う。
なにそれ。やっぱり、幸村くんは私を殺す気だ。
「ず、ずるい」
「なにが?」
「幸村くんの存在が」
「それは、俺が好きって意味だと思っていい?」
「そういうところがずるい」
「はいはい、ごめんね」
彼はくすくす笑って、ようやく私の手を離した。彼の息が、灰色の空を背景にしてわずかに白く滲む。
冬は、もうすぐそこ。
***
引退した3年は、部活には自由参加。義務というものは課せられていない。メニューも自由だし、好きなように休憩だって取れる。はずなのだが、それは悲しいかな、形式上の話であって、実際は真田や幸村くんの目が光っていて、部活をサボれば次の日には小言をもらうし、ダラダラ休憩していいなんてこともない。
だから、休憩の時間の合図をもらったと同時に、俺は全力で走って非常階段へ行く。これじゃあ休憩時間も練習しているようなもんだな、と内心で苦笑した。
「みょうじ」
目当ての姿を見つけて声をかければ、彼女は丸井くんだ、と相好を崩す。間抜けな笑い方が可愛いと思えるようになったのはいつ頃からなのか、もう思い出せない。
彼女は少し肌寒くなってきたからなのか、ひざ掛けをかけて、教科書を広げていた。
「最近、よく来るね?」
「いや、だって、お前さ、気づいてないわけ?」
「なにが?」
彼女と幸村くんが付き合い始めてからというもの、彼女とゆっくり話すことができないのだ。普通に話しているだけで、幸村くんの視線が痛い。不用意に彼女に触れようものなら、それはもう氷のような冷たい視線で射抜かれる。仮にも俺は二人の友達だというのに、ひどい話だ。
幸村くんのことだから、俺の気持ちを見抜いた上でそうなのかもしれないけれど。
「気づいてねえなら、その方がいいのかもな」
「え、気になる言い方やめてよ。なんかあるの?」
「いや、多分、お前にはないだろぃ。俺が殺されるだけで」
「すごい物騒なんだけど。頑張って生きて、丸井くん」
「おう、そうするわ」
言って笑えば、彼女も笑う。
みょうじはよく笑うやつだ。くだらないことにも、一緒に笑ってくれる。多分、そういうところが、好き。
違うか。もう、好きだったて言わなくちゃいけないのか。
「うまくいってんの?」
「え、あ、うん、多分」
なにが、って言わなくても、ちゃんと幸村くんとのことだと伝わったようで、彼女は照れたようにはにかんだ。
あの日、横浜観光に呼ばなければ、あの日、帰り際に引き止めてたら、いや、もっと前に、俺にしとけよって言っていたら。そうしたら、この笑顔は俺のものだっただろうか。後悔は、やっぱりある。たくさん、ある。
でも、先述の通り、俺は彼女と幸村くんの友達なのだ。いつか、二人の結婚式に出ることになったら、二人の恥ずかしいエピソード、つまりスケッチブックの告白やら、デートの後をつけていた時の幸村くんのものすごい形相だとか、そんな話をしてやろうかな、なんて気の早いことも考えている。そんないつかがあったらいいと思うくらいには、二人のことが大切だ。
全く、損な役回りだ。
「みょうじ、浮かれんのもいいけど、友達も大事にしろよ」
「お、丸井くんは私に構って欲しいのか。可愛いやつだな」
「ニヤニヤすんな」
「はいはい、照れ隠し。しょうがないから大事にしてあげるよ」
あはは、と笑って、彼女はポケットからキャラメルを取り出して、俺のポケットに突っ込んだ。以前よりずっと遠慮なくなった距離感。心を揺らされる、そんな距離。片思いってこんな感じなんだなって、初めて知る。そして、気持ちを殺す方法を、探している。
「キャラメル、もう一個」
少しだけ息苦しくなって八つ当たり紛れにそうねだれば、彼女は太るよ、だなんて笑いながら、俺の手の中にキャラメルを落とした。もう一つと言ったら、彼女はまたもう一つくれるのだろうか。そんなバカな考えを飲み込んで、俺は目を閉じる。
冷たい風が、心地よかった。
***
部活が終わって非常階段へと向かうと、彼女は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
人が急いで支度をしてきたというのに、呑気なものだ。
少し悔しくて、けれど彼女らしく、愛おしくも思える。
「なまえ」
名前を呼ぶと、彼女がゆっくりと瞼を押し上げた。
「なまえ、そんなところで寝ていると風邪を引くよ。帰ろう」
「ゆ、きむら、くん?」
彼女に手を差し伸べれば、目をこすっていた手を止めて、俺の手に素直に重ねてくる。彼女を立たせてやって、はらりと落ちた膝掛けとカバンを拾い、はい、と渡した。
すると、やっと目が覚めたのだろう。彼女はパチリと瞬きをし、目を見開いてこちらを見つめ、カバンも膝掛けも目に入っていないようだった。
「どうしたの?」
「あ、えっと、もしかしたら、寝ぼけて聞きまちがえただけかもしれないけど……、その、さっき私の名前、呼んだ?」
「うん」
素直に頷けば、え、と言葉に詰まる彼女。
「ゆ、幸村くん、私の名前知ってたのか」
「当たり前だろ」
少しムッとして言えば、なにが面白かったのか、ふふ、と彼女はいたずらっぽく笑った。かと思えば、ハッとして俺の手からカバンと膝掛けを奪う。
「ごめん、ありがと」
「いいよ。ところで、なまえは俺の名前知らないなんて言わないよね?」
「知ってるよ」
「言ってみてよ」
「だ、だめ」
少し困ったように、けれども断固とした意志を持って断られた俺は、驚いて彼女を見やる。だって、予想外の返事だったのだ。恋人らしい会話が続くものだと思っていたのに。
「なんで?」
「だって、急に色々変えちゃうのは、その、少し勿体無いかなって。最近、幸せなことが多いから、一個ずつかみしめたいんだよ」
だから、もうちょっと待っててね。
そう言って、彼女は綺麗に微笑みながら、非常階段の扉を開いた。揺れた彼女の髪が夕日を反射して、キラキラと光る。まるで、鉱石の糸みたいに。綺麗だと思った。この瞬間を小さなガラスのケースに閉じ込めて飾っておけたら、どんなにいいだろうかと思う。
「幸村くん?」
動けずにいた俺を不審に思ったのか、彼女がきょとんとした表情で振り返った。俺は繕うように笑って、彼女に続く。
「なまえって、いつもそうだよね」
「なにが?」
「いつも、俺の想像と違うことをする」
「え、なんかごめん」
「謝ることじゃないよ」
こうして彼女の行動に驚いたり、喜んだり、笑ったり、今みたいに二人で廊下を歩きながら、手をつなぐタイミングを考えたり。
もしも、夏の終わりのあの日、俺が彼女の告白に頷いていたら、もっと早くこんな日々を送れていたのだろうか。だとしたら、あの時の自分を蹴っ飛ばしてやりたい。いや、あの時ごめんと言ったからこそ今があるのだとわかってはいる。だから、この先を大切にできればそれでいいのだと思う。
「でも、手をつなぐのは許してくれるよね?」
返事を聞かずに手を彼女の手をとれば、返事の代わりにゆるく握り返される。そうされるだけで、好きだよ、と言いたくなって、けれど言葉にはせずにぎゅっと彼女の手を握った。きっと伝わっているから、好きは、また明日にしよう。俺も、一つず噛み締めていこう。
淡く染まった彼女の頬を見下ろしながら、そう思った。
エピローグ、あるいは翻る夏
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