夏が翻る
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どうして。一番最初に思ったことは、それだった。
日も傾いたレンガ街のベンチで、寄り添う二人。彼女は、泣いていた。
俺の記憶の中にあるのは、涙をこらえる彼女の顔だけ。いつだって彼女は我慢してばかりで泣き顔を見せたりしなかったのに。どんなに拒絶したって、涙をこらえて、それでその次の日には笑って俺に好きだと、そう言ってくれた。
それなのに今、目の前で子供のように声をあげてしゃくりあげて泣いているのだ。
そして、彼女の隣にいるのは俺ではなくて、一氏だ。だから、どうして、と思ってしまう。どうして、そいつの前では泣くの。どうして、そいつは当たり前のように君に触れるの。どうして、そいつが君の隣にいるの。
君が好きなのは、俺だったはずなのに。
動けない俺の横をすり抜けて、丸井がみょうじさんに駆け寄る。どうしたんだよ、大丈夫か、どっか痛いのか、一氏にいじめられたのか。丸井の言葉に全部首を振って、彼女はただ大丈夫、とそれだけを繰り返す。
金色がハンカチを濡らして持ってきて、彼女の目に当ててやっていた。彼女が大げさだよ、なんて涙を溜めたままの目で笑う。それから、誰かが何かを言うたびに、ありがとう、大丈夫と繰り返す。
俺は、少し離れたところでそれを見ていた。
ただ、それだけだった。
***
「いやあの、ただの情緒不安定ですすみませんでした」
昨日出会ったばっかりのユウくんたちの前で泣いてしまうなんて、不覚も不覚である。私が落ち着くのを待って、四天のみんなを見送るため駅に来たのだけれど、私は取る物も取り敢えず、頭を下げた。
「本当に大丈夫なん?」
小春ちゃんが心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「うん、大丈夫。心配かけてごめんね」
笑って見せると、みんなの間にほっとしたような空気が流れた。半分は昨日会ったばかりの人なのに、みんなとても優しい。それが嬉しくて、私はまた笑う。
「目、真っ赤になってんで」
謙也くんからは、からかうような言葉。
「そ、そうかな」
慌てて目元に手をやれば、ユウくんが私の手を掴んで静止した。
「やめとき、腫れたら救いようのない顔になってまう」
「それどういう意味なの」
黙っとき一氏、と割り込んできた小春ちゃんは、ぎゅっと私の手を握る。
「なまえちゃん、絶対連絡してしてな! してくれへんかったら、あたし拗ねてまうで!」
「うん、絶対する!」
私もぎゅっと握り返すと、今度はユウくんが割って入ってきた。
「小春は渡さへんで、みょうじ!」
「うん、小春ちゃんと仲良くね。ユウくんにも連絡するからね」
「お前、話聞かん奴やな……」
「ちゃんと聞いてるよ」
大丈夫、と応じれば、嘘付け、と軽いチョップを頂いた。
「お前ら、いつの間にそんなに仲良くなったんだよ」
呆れたような丸井くんの言葉に、いいでしょ、と応じれば、ユウくんは仲ようなんかなってへんわ、と低い声。流石にもう怖いなんて思えなくてニヤニヤしていたら、ユウくんが腕を振り上げる。あ、またチョップされる。そう思ったのに。
「そろそろ、電車の時間なんじゃない?」
ユウくんの手を止めたのは、幸村くんだった。 にこりと綺麗に微笑んでいたけれど、 ユウくんはそれに眉を寄せる。ユウくんは何か言おうと口を開きかけたけれど、白石くんがほんまや、そろそろやな、と言って足元に置いていた荷物を肩にかけたので、何も言わずに白石くんに倣った。
「それじゃあ、気をつけて。またおいでよ、試合しよう」
幸村くんの言葉に、ああ本当にもう四天宝寺のみんなは帰ってしまうんだなあとさみしくなりながら、私も手を振った。遠山くんは最後まで帰りたくないとだだをこねていたけど、白石くんがどくしゅ、という言葉を出せばしぶしぶ従ったようだった。
どくしゅってなんだろう。
***
みんなを見送ってから、私たちも帰路に着いた。丸井くんにからかわれたり、切原くんにゲームの話を熱弁されたりしながら電車に揺られて、あっという間に最寄駅。
「今日は楽しかったよ、ありがとう」
言えば、一斉に返事が返ってきて、聞き取れずに思わず笑ってしまった。
と、幸村くんが私の眼の前にやってきて、そして私を追い越して数歩。そこでピタリと止まると、こちらを振り返った。
「行くよ」
「え?」
「だから、帰るよ」
それだけ言い放つと、彼はまた颯爽と歩き出してしまう。どうしよう、どういうことだろう。驚いて瞬きだけを繰り返していると、後ろから、とん、と背中を押された。
「ほら、早く行けよい。幸村くん行っちまうぞ」
見上げた丸井くんは何だか少し寂しそうに笑っている。どうしてそんな顔するの。聞きたくても聞けなくて。
「う、うん」
促されるままに、幸村くんの背中を追う。すると、あとで連絡しろよ、と丸井くんの声が追いかけてくるから、私は振り返って手を振った。私に手を振り返す彼は、いつもみたいに明るい笑顔。だから、さっきの表情は気のせいだったのかもしれない。
とにかく、私は小走りで幸村くんの一歩後ろまで歩を進める。横に並ぶ勇気はなかった。何となく気まずい。今日、ろくに会話をしていないせいだろうか。
それとも少し幸村くんが不機嫌そうに見えるからかもしれない。
そう言えば、幸村くんの家は私と同じ方向なのだろうか。どの辺りまで一緒なのかな。聞いてみてもいい世間話なのに、 なぜか喉につかえて、言葉一つも出てこない。
「みょうじさん」
不意に呼びかけられて、私はうん、とだけ返事を返す。
それからちょっとの沈黙。一本向こうの大通りの車の音と遠くの波の音がやけに大きく聞こえた。斜め後ろからは、彼の表情をうかがい知ることはできない。
「みょうじさんは、何で泣いてたの?」
「さっきも言ったけど、別になんでもないよ。ただちょっと情緒不安定なんだよ」
無理矢理笑ってみせて、誤摩化す。この話題はこれ以上引っ張りたくなかった。情けないところは見せたくなかったし、私のぐちゃぐちゃな心の中を彼にさらけ出すことなんてできるはずもない。
「俺はみょうじさんのそう言うところが嫌いだよ」
きらい。
はっきり言われた言葉に頭を殴られた心地がした。そうか、嫌い、なのか。
「ごめん」
反射的に口をついた謝罪に、振り返った幸村くんは眉を寄せた。
「ほら、そうやって本心も言わずに謝る。何でそうなんだい? 言いたいことがあるなら言えばいいだろ。泣きたいことがあったなら泣けばいいのに」
「う、うん、ごめんね」
捲し立てられる言葉が上手く飲み込めなくて私はただおろおろするしかできない。
「いますぐ泣いて」
「え?」
「俺の前では泣けない?」
「いや、あの、幸村くん何かあったの?」
明らかに様子がおかしい。言ってることがめちゃくちゃだ。
「だって、こんなのおかしいだろ」
「おかしいけど」
「俺がおかしいって言いたいの? みょうじさんも中々言うようになったね」
「え、あの、ちょっと落ち着こう幸村くん」
何だこれ、さっきから理不尽だ。幸村くんがいつもにまして理不尽だ。
「みょうじさんが泣いてるの見て、俺がどんな気持ちになったかわからないだろ? それなのに、結局みょうじさんは四天のやつと楽しそうにしてるし、訳も話そうとさえしてくれないし、毎日好きだっていってたくせに、昨日会ったやつより信頼されてないなんて」
おかしいよ、絶対。
まるで子供がだだをこねるみたいに、そう連ねる幸村くん。
私はもらった言葉をゆっくり反芻してみる。
それは。それはつまり、幸村くんは私に信頼してほしいってこと? 信頼してほしいってことは、つまり、つまり、どういうこと?
「幸村くん、私、」
だめだ、何を言ったらいいのかわからない。かすれた声は綺麗になんて響かなくて。
「もうこれ以上、幸村くんに迷惑かけたら駄目だって思って」
だから。
ぐい、と引き寄せられて、それ以上続けることはできなかった。私の額と彼の肩がくっついて、彼の腕が私をゆるく拘束する。
嘘だ。
頭の下の冷静な部分が、そう言った。こんなことが起こるはずない、と。けれど、見上げてみれば幸村くんの顔がそこにある。あたりは藍色に染まっているけれど、街灯の光が彼を煌々と照らしていた。
顔が熱い。いや、全身が熱い。殺したはずの気持ちは、いとも簡単に息を吹き返してしまう。いや、初めから殺せてなんかなかったんだ。ただ、目をそらしただけだった。
「馬鹿だろ。迷惑って、今更何言ってるの」
はあ、と吐き出された息は面倒だと言わんばかり。
「俺がみょうじさんに泣いてほしい理由、わからない?」
理由。
幸村くんが私に、泣いてほしい、信頼されたい、理由。
きっと、選択肢は一つだ。だって、今までで一番近くから響く透明な声も。柔らかに伝わる体温も。少し早い心臓の音も。もう、全部、そのまま答えのようなものだから。
「な、なんで、私なんかのこと……」
「そんなの知らないよ。理由がなくちゃダメかな? それとも、もう遅いって怒るつもりかい?」
そんなことないって言いたいのにうまく言えなくて、私はただ首を横に振った。頭の中も心臓も、もう言うことなんか聞いてくれなくなってしまう。ぼろぼろこぼれ出す涙を止める方法もわからない。幸村くんの前では泣いたりしたくないのに。
きっと酷い顔をしているだろうから、見られたくなくて私は彼の肩に顔を埋める。けれど、幸村くんは私の頬を両手で包んで、上を向かせてしまった。
「やっと泣いた」
不意に近づいた距離にぎゅっと目をつむれば、額に柔らかい感触。ふふ、と彼が口の中で笑うから、私の心臓はぎゅうと握りつぶされてしまいそうだ。
「明日も、明後日も、ちゃんと俺に好きですって言わなきゃダメだよ。いいね?」
親指で私の涙を拭って、彼は優しく溶けるように笑った。
あの日の『すきです』が、ようやく伝わったのだと、そう思った。
22 すきです