夏が翻る
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試合は、どれも凄まじいものだった。練習試合とはいえ、手を抜く人はいないらしい。皆、真剣な目で、けれど楽しそうにボールを追いかけていた。
切原くんは、トイレ迷子さんの友達、確かしらいしくん、という人との試合。惜しいところで負けを喫してしまったようだった。
丸井くんと桑原くんは、トイレ迷子さんとこはるさんと。ヅラだとかモノマネだとか、反則じゃないのか不思議なくらいの試合だった。それでもみんなの実力は確かのようでずいぶんと長い試合になったけど、丸井くん達が競り勝った。
仁王くんはスキンヘッドの大きな人と。何が何だか分からない展開に驚いているうちに試合は進んで、結局、仁王くんは負けてしまったようだが、最後には笑っていたからいい試合だったんだろうと思う。
幸村くんの相手は遠山金太郎くんという一年生の小さな男の子だった。彼は、その小さな体をものともしない迫力のあるボールを打っていたけれど、幸村くんはそれを軽々と打ち返し、涼しい顔をして笑っていた。
幸村くんの笑顔には、絶対の自負、揺るがない自信がある。なんて、かっこいいんだろう。私もあんな風に笑えればな、なんて。逆立ちしたってできないだろうけれど。
全ての試合が終わって、ギャラリーの生徒達が帰って行く中、まだコートに残る人影が一つだけ。幸村くんだった。彼はフェンス越しに2人組の女の子と少し言葉を交わし、やがて手を振る。女の子達は嬉しそうに笑い合いながらコートを後にしていった。ああやってみんなの話に応じていたから、遅くなってしまったのだろうか。
不意に、緊張に襲われる。毎朝ちゃんと挨拶できているはずなのに、何でなんだろう。私は過剰に反応する心臓を叱咤して、フェンスのすぐ近くまで歩み寄る。
「えっと、お疲れさま」
「うん、ありがとう」
ああ、気の利いた台詞の一つも言えない自分の頭が恨めしい。
「試合、すごかったよ」
「楽しんでもらえたかな?」
「うん、おもしろかった」
それから、会話が途切れて。何を話せばいいんだろう。私はいつも幸村くんと何を話していたんだっけ。考えれば考えるほど分からなくなって行く気がする。
もやもやする気持ちでフェンスを掴めば、かしゃりと金属のこすれる音。
「あ、みょうじさん」
「なに、ぃっ!」
顔を上げようと瞬間、髪の毛を引っ張られた。フェンスに髪が絡まってしまったのだと気付くけれど、わりと根元に近い部分でからまっていてちょっと動く度にとても痛い。痛くて泣きそう。どうしてこうなった。
「今、動かない方がいいよって言おうと思ったんだけど、遅かったかな」
「う、うん。でも、このくらいどうってことないよ」
幸村くんには、格好を付けてそう言ってみたものの。不自然な角度に固定せざるを得ない頭では、懸命にほどこうとしても中々上手くいかない。幸村くんの前での私は、どうしてこんなアクシデントばかり起こすのか。ああ、泣きたい。
「みょうじさんは、いちいち反応に可愛らしさがないよね」
「い、今の一言ものすごく私の心を抉ったよ!」
「だって、事実だろ。たまには素直に言ってみなよ」
「言うって、何を!? あれか、きゃっ、絡まちゃった! とか?」
フェンスと戦いながらも、私の中での最大級の可愛らしさを追求してひねり出した台詞を、幸村くんはあっさりと鼻で笑った。
「それ可愛いかな?」
「か、可愛くない!?」
「可愛くないよ。こう言う時は、助けて、だろ」
「助けてって……。そうか、 きゃっ、絡まっちゃった! 助けて、幸村くん! が正解なのか」
「そこはどうしても入れないと気が済まないんだ?」
「あ、取れた」
努力の甲斐あって、フェンスから解放された私の頭。危ない。あのままでいたら、筋違いになるところだった。
「みょうじさんて」
「うん? あ、意外と器用でしょ」
「馬鹿だなあ」
「せっかくひとりで頑張ったというのに、そんな仕打ちなのか、幸村くん」
がくりと地面にへたり込んだ私と、視線を合わせるようにしゃがんだ彼。夕焼けで伸びた彼の影が、私を覆う。茜色の日を透かす彼の髪も肌も爪先までが、なんて綺麗なんだろうと思う。ただ彼を見上げていれば、フェンスの向こうから伸びてきた指先が、私の髪を攫っていった。
途端に、身体中が沸騰するような感覚。
「みょうじさんが助けてって言わなくちゃ、俺には助ける権利がないのに」
「権利って、そんなの」
「俺には、ないよ」
いつもの柔らかな幸村くんの笑顔が、曇って見えるのはどうしてなんだろう。そんな顔をさせているのは私なんだろうか。権利ってどういう意味なんだろう。私は、幸村くんからもらうもの全てが嬉しいのに。助けてくれると言うなら、喜んでその手を取るのに。
私は、幸村くんの指先に触れてみる。思ったよりずっと冷たいそれが、私を拒むことはなかった。私の体温で彼の指先がぬるくなって行く感覚に、心拍数が上がって行くのを感じる。
「私、この間丸井くんにラケットで殴られて、馬鹿になったみたいなので」
「ああ、それは致命的だね」
「馬鹿にしてるでしょ」
「ごめん、冗談」
「知ってる。でも、幸村くんがなに考えてるかは、分かんない。教えてほしい、知りたい、っていうのは、わがままかな」
仁王くんは分からなくていいことはあると言ったけれど、確かに、彼のことが分からなくたって、彼を好きな理由がわからなくたって、私は彼を好きなはずだけれど。知りたいと思ってしまう、知らない自分が不安になる。彼の見ている私も、学校も、空も、きっと私とは違う色だから。
「ごめんね」
す、と離れて行く指先。いつも通りの、拒絶の言葉。
でも、いつもと少し違う。
私は、好きって言ったんじゃない。彼の世界に踏み込みたいと言った。でも、それは許されないことだと言われたのだ。私が幸村くんの中に残せるものなど何もないと言う意味。
ああ。
ダメなんだ。
私では、ダメなんだ。私は幸村くんの世界の、脇役にもなれないのだ。覚えていてくれた私の名前も、あの日の告白も、きっとすぐに消えて無くなる。そう、思った。
私を覆っていたはずの影が消えて、西日から私を守るものはもうなくなってしまった。幸村くんが去って行くのを見送ることさえできない私は、ただ地面をみつめて涙をこらえる。
もしも、ここで泣いて彼を引き止めることができるような可愛げが私にあったら。
そんなことを思って、自分を笑った。
19 解く指先