夏が翻る
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「おはようすきです幸村くん!」
「おはようみょうじさんごめんね」
そう言って、今日も幸村くんはやさしく笑う。すると、私の心臓は勝手に跳ね上がる。
風邪が治って、いつも通りの朝が戻ってきた。素直に嬉しいと、そう思える。
「あ、あのね、丸井くんから、今日は練習試合だって聞いたの。行ってもいいかな」
「うん」
下駄箱と向き合った幸村くんは、こちらを振り向いてさえくれない。別にいいのだ。いつものことだから、こんなことではめげたりしない。私もずいぶんと耐性がついたものだ。
「あのね、幸村くん」
「何?」
ほら、話しかければ返事がないわけじゃない。
「応援してるから」
だから、頑張ってか、無理しないでか、それとも。迷っているうちに、私より先に幸村くんが口を開いた。
「みょうじさんも、テニス楽しんで」
ふわりと笑った幸村くんは、やさしくてきれいで。今まで、見たことがなかった表情。それだけで足下までふわふわ浮き立つ感覚に教われる私は、なんて単純なんだろう。
言葉が出なくなってしまった私は、こくこくと壊れた人形みたいに頷くことしかできなかった。
***
私は校舎の階段を駆け下りながら、前髪を抑えた。やばい、髪の毛がぐしゃぐしゃになる。しかし、足を止めるわけには行かない。そろそろテニスコートでは練習試合が始まるころだろう。早くしなければ、間に合わないかもしれない。
男子が掃除をさぼったりしなければ、こんな時間にはならなかったのに。今更恨み言を言ったって時間は戻ってこないけれど。
「うおおお!」
おおよそ、女子らしくないかけ声で私は廊下をターンした。この際、そんなことは気にしていられない。
「うわっ!」
「ぎゃ!」
衝撃でぐらりと重心が揺れて。その瞬間、ぐい、と腕を引き戻されて、私は尻餅をつくことを免れた。
「おい、気ぃつけろや」
「ご、ごめんなさい」
私を支えてくれた男の子は、不機嫌そうにこちらをにらんでいた。日の光が当たると深い緑色に輝く髪の毛が、きれいだったけれど。
「チッ、これだから女はいややねん」
低い声でそう呟いて私の腕を放す。慣れないイントネーションは、関西弁だろうか。見たことないジャージだし、もしかしたら他校の人なのかもしれない。
なにこれ、こわい。
「それじゃあ私もう行くね、ほんとにごめんなさい!」
「ちょお待ちや。テニスコートってどっちや?」
「て、テニスコートですか?」
「そう言うとるやろ。時間ないねん、さっさと言い」
な、何か絡まれてるぞ。怖い迷子さんに絡まれてるぞ。ただ道を聞かれているだけなのに、かつあげでもされている気分になるのは何故なのだ。正直、逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、行き先が同じでは逃げることさえできないではないか。
「あ、あの、そこをまっすぐ行って、突き当たりを右、校舎出たら花壇にそって左の方へ行くと体育倉庫があるんで」
「……おん」
「そ、そしたら……」
迷子さんのいらいらが伝わってくるようで、私は手のひらに汗が滲むのを感じた。なんでこんな思いをしなくちゃいけないのだ。そもそも、私は初対面のひとと話すのが得意ではない。もういっそ手っ取り早く一緒にテニスコートまで案内していこうか。私にだって時間はないわけだし。
ちらりと彼の顔を伺えば、鋭い視線が私を射抜いた。怖い、けど、このまま話し続けるのも怖い。
どっちにしろ怖いなら、効率のいい方がいいに決まってる。
「あ、あの! 説明長くなりそうだから、その、テニスコート私も向かうところなんで、よかったら、一緒に」
「ほなそうさせてもらうわ」
あっさりと頷いた迷子さんに息をついて、私は早足で歩き出した。
それからテニスコートまでの時間はいやに長く感じた。無言で付いてくる気配を感じながら、私はできるだけ早く足を動かすことに集中する。今なら競歩の選手になれそう。
やっとテニスコートに着けば、コートの中で大きく手を振る丸井くんが見えた。私も大きく手を振り返す。上機嫌で気合いを入れているらしい丸井くん。喜んでもらえてるのなら、間に合って良かった。
「着きましたよ」
やっと解放されると安心しながらそう告げるけれど。迷子さんはやっぱりにらむような視線でこちらを見ていて思わずびくりとしてしまう。
そして唐突に彼が、視界から消えた。
いや、吹っ飛んだ。かなり派手に吹っ飛んだ。フェンスにぶつかってすごい音がした。いきなりの展開過ぎて、何がなんだか分からない。
「ごめんな、うちのアホな相方が。まったく、ユウくんどこまでトイレ行っとんたん?」
迷惑かけたらあかんで、と可愛らしく腰に手を当てて眉根を寄せる眼鏡の男の子。彼こそが迷子さんを吹っ飛ばした張本人である。華麗なとび蹴りによって。
同じジャージだし、親しげに名前を呼んでいるから、迷子さんの知り合いなんだろうか。
きっと彼、無事ではないと思うが、放置で大丈夫か。そしてトイレ迷子だったのか。これからはトイレ迷子さんと呼ぼう。
「こ、小春うううう!」
あ、復活した。こはる、さんとやらに抱きつこうとしたものの、さっと躱され地面につっぷす。痛そうだ。
「みんな待っとったんやで! トイレ行くんも迷子になるんもしゃあないけど、こんなとこで女の子口説くんは許さへん」
「く、口説いてなんておらへんわ! 俺は浮気なんかせえへん!」
小春一筋や、と泥だらけの顔面で自信満々に言い放つも、こはるさんは聞く耳を持つ様子もなく。
「早よせんと試合始まるで」
あっさりとそう告げただけだった。それからこっちに視線を合わせると、にこりととびきりの笑顔を向けてきた。あ、なんかちょっとだけトイレ迷子さんの気持ちがわかってしまう。初対面なのに、怖くない、お話して見たいって思ってしまう。
「べっぴんさん、堪忍なあ」
「い、いえ、私は別に」
「そうや、こいつには道案内頼んだだけや! 誤解や!」
ちょっと泣きそうになっているトイレ迷子さんがかわいそうになってきたので、うんうんと頷いて援護してあげる。よくわからないけど、トイレ迷子さんはこはるさんがだいすきだで、こはるさんにはあっさりあしらわれている、つまりトイレ迷子さんの片思いなのだろう。男の子同士だけど、きっとそういうことなのだろう。
「そうだったん? ほな、ちゃんとお礼はいわなあかんよ、ユウくん」
こはるさんはといえば、まるでお母さんみたいな言い方である。全く相手にされていない様子を見ていると、自分と重なって見えて何だか物悲しい。がんばれトイレ迷子さん。心の中でそっと応援しておこう。
「今、言おうとしたとこやってんで」
「私もテニスコート行くところだったし、お礼なんていいよ」
「おおきにな」
ぽん、あたまに軽く手を乗せられて。見上げたトイレ迷子さんの顔はやっぱり怖い顔だったけれど、さっきのこはるさんとのやりとりを見てからだと、ちょっとかわいく見えてしまう。
「どういたしまして」
言って笑った私の顔はへにゃりとしてかわいくないにちがいなかったけど、釣られたようにトイレ迷子さんも少し口の端を上げた。おや、君も笑えるんじゃないか。そう思って、ちょっと嬉しくなる。
口にしたらまた睨まれそうだから言ったりはしないけれど。
「あらあら、珍しい」
うふふ、こはるさんが嬉しそうに笑った。
それと同時に、きゃあ、とギャラリーから黄色い声が上がる。見やれば、幸村くんがコートを出てこちらへくるところだった。彼はいつものように芥子色のユニフォームに、肩からゆるくジャージをかけいる。もしかしたら、ユニフォーム姿の幸村くんをこんなに近くで見るのは初めてかもしれない。
そうだ、急いでここまで来たから髪の毛がぐしゃぐしゃのままだった。慌てて手櫛で直そうとするけれど、あまり上手くいった気はしない。
幸村くんの後ろからは、ミルクティーブラウンの髪の見慣れない男の子が続いてコートを出てきた。トイレ迷子さんやこはるさんと一緒のジャージだ。彼らが今日の練習試合の相手なのだと、さすがの私にも理解できる。彼は私の隣の二人を認めると、慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
「ユウジ、何しとったん! もう始まってしまうで」
二人の前までやってくると、彼はふうと息をつく。どちらかといえば、安心したようなため息。トイレ迷子さんはいい友達に恵まれているらしい。
「白石、あれや、この学校が広すぎやねん」
「俺も1年のときはよく迷ったよ」
くすくす笑って、幸村くんが小さく首を傾げる。しらいし、と呼ばれた彼は、あんまり甘やかさんといてな、とお父さんのようなことを口にしていた。
幸村くんと目が合ったのは、一瞬だけ。挨拶もなく、私以外の三人と一言二言かわしては私に背を向ける。
「ほんなら、またな」
「あたしたちのことも応援してな!」
振り返って私に手を振ってくれたのはトイレ迷子さんと、こはるさんだけ。私は手を振り返して、二人を見送った。
そして、幸村くんの後ろ姿を目で追いかける。ひらりと翻る鮮やかな芥子色。藍色の髪とコントラストを作って、とてもきれいだった。
空は高く晴れ渡っていた。
18 かたおもいっていうやつは