夏が翻る
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今朝、彼女のすきです、に俺はいつも通りのごめんねを返せていただろうか。
ああ、なんだかおかしい。ほとんど知らない子から好きだって言われて、断って、食い下がられて、期待されないように関わらないようにして。それだけの話。だった、のに。
「おかしい」
苛立ちを言葉にしてみても、収まるどころかますます積もっていくばかりだった。ベンチに座って目の前で飛び交うボールを目で追うでもなく眺めてみるけれど、気分は落ち着かない。練習のためにコートに来たのに、切り替えが効かないなんて、こんなこと今まであっただろうか。
「何がだ?」
後ろから、少し笑いを含んだ声。俺が不機嫌な時にこんな口をきくのは、ひとりだけだ。
振り返れば予想通り柳が立っていた。彼のしたり顔が神経を逆撫でしていく。きっと、わざとやっている。わかっていて乗せられるのは癪だから、悪態をぐっと飲み込んで視線をコートへ戻した。
「別に」
「みょうじのことだろう」
「わかってるなら聞くなよ」
「確認しただけだ」
まったく、大した男だ。急降下する俺の機嫌に気付いているだろうに、柳は上機嫌な様子で俺の隣に腰掛けた。
「早くしないと、横から誰かにかっさらわれても文句は言えないぞ。俺は身をもって示してやったつもりだったが」
「ひっかきまわして面白がってただけだろ」
「確かに、面白くはあったな」
「やっぱり」
しかし、と急に下がる声のトーン。ボールが跳ねる音が、いやに耳につく。
「彼女は永遠にお前を好きでいるわけでもないし、ずっとこのままだなんて都合のいいことは有り得ないぞ。わかっているのだろう」
「わかってるよ」
そうだ。わかっている。言われなくたって、わかっているのだ。
自分の中に迷いがあることも、彼女との距離を測りかねていることも。
でも、彼女の告白を断ったのは俺だ。今更何をどうしろというのだ。やっぱり、俺も好きですとでも言えばいいのか。こんな曖昧な独占欲にも似た気持ちで、ずっと想い続けてくれる彼女をしばりつけろとでも言うのか。そんなことが許されるはずはない。俺には彼女を引き止める権利なんてありはしないのだ。ただ極力彼女と関わらないように、彼女を傷つけないようにそっと時間が過ぎるのを待つしかない。
柳はふと非常階段を見上げる。そこに、誰の姿を探しているかなんて、わかりきっていた。
「精市、彼女は魅力的だな」
「だから?」
柳は答えない。ただ、その整った顔に笑みをにじませる。俺もそれ以上追求しようとは思わなかった。
奥に澱が溜まっていくような感覚に、ただ、息をつく。
***
私のすきです、に笑顔でごめんね、と応じた幸村くんは、いつも通り過ぎるほどいつも通りだった。
「やっぱり、嫉妬してくれたなんて私の妄想だった……」
放課後の非常階段から、いつものようにテニス部の練習を眺める私。幸村くんの姿がいつもより遠く見えるのは気のせいだろうか。
「馬鹿、こんな所でめげてんなよ」
かつん。
私の頭に軽く振り下ろされたのは、テニスラケットで。
「痛い! 痛いよばか!」
誰が馬鹿だ、と仁王立ちしているのは、丸井くんだった。いつもの芥子色のユニフォームを着ている。部活はまだ終わる時間ではないから、たぶん休憩時間中なのだろう。
「馬鹿はお前だろぃ」
彼はストンと私の隣に座り込む。肩が少し触れる距離。丸井くんと並んで座るのにも、いつの間にか慣れてしまった気がする。
「むしろ、丸井くんに殴られたから馬鹿になりました」
「こんなことで弱音吐くお前が悪い。押して押して押しまくる作戦は続行中なんだからな。ジャッカルもお前のこと応援するって言ってたし」
「な、なんで桑原くんが!? あれ、そういや昨日も桑原くんいたよね!?」
「スケッチブックのあれで、もうテニス部中にお前のこと知れ渡ってんだって」
「なんてこった。一応、幸村くんだけに伝えるってコンセプトだったのにめちゃくちゃ失敗してたんだね。穴があったら入りたい」
「んなことしてる暇があったら、もっと気合い入れろよ。金曜、練習試合あるし」
「見に行ってもいいって意味?」
「こっからじゃなくて、ちゃんとコートの前で応援するならな」
ポンと頭に乗せられた手に顔を上げると、笑顔の丸井くんがそこにいた。励ましてくれてるのが、優しさが嬉しくて、うっかり涙がこみ上げて来る。泣いたら困らせるに違いないから、ぐっとこらえた。
「うん、行くよ。ありがとう。もちろん丸井くんのことも応援するからね」
笑って見せれば、よし、と笑い返してくれる彼。
今思えば、丸井くんと話すようになったのはおかしなきっかけだった。ケーキをおごってあげたとは言え、こんな風に協力を続けてくれるなんて、思いもしなかったな。丸井くんも、たいがい面倒見がいいと言おうか、お人好しと言おうか。違うか、いいやつなんだ。丸井くんは、友達思いのとってもいいやつ。
「何、ニヤニヤしてんだよ」
「丸井くんと友達になれて良かったなって思って」
「お前、たまにそういう恥ずかしいこと言うよな」
「はじめに俺たち友達!って言ったの丸井くんの方じゃん」
「そうだっけ?」
「忘れてるとか! 私泣きそう!」
「あーはいはい、あん時のカフェででそんなこともあったな」
「え?」
まさか、本当に覚えてくれていたとは思わなくて、驚いて丸井くんの顔を覗き込めば、視線が合う前に顔をそらされてしまう。
あ、耳がちょっと赤い。照れ隠し、だ。
「……なんだよぃ」
「丸井くん、かわいいな」
「嬉しくねえ」
「最大級の褒め言葉なのに。幸村くんにも言ったことないのに」
「お前、ほんと幸村君のこと好きな」
あきれたような声に、私は笑って応じる。
「うん、すき。でも、私、丸井くんのこともすきだよ」
あ、変な意味じゃなくね、と慌てて付け足すも、知ってる、と言って彼は私の頭をぐしゃぐしゃにかきまぜた。容赦のない撫で方である。気にするほど、髪に気をつかっていはいないけれど。
「みょうじさ」
「うん」
「もう、幸村君のこと」
「うん?」
「なんでも、ねえ」
珍しく眉を寄せた丸井くんは、はあ、と盛大にため息をついて。
「なあ、俺と柳だったらどっちが好き?」
そんな、よくわからない質問を投げかけて来る。
「なにそれ?」
「いいから、答えろよぃ」
「いいからって、そんな横暴な」
「どっち?」
くそう、自由人め。話を聞く気がないらしい丸井くんに、私は仕方なく口を開いた。
「柳くんのことはまだよく知らないし、丸井くん、かな」
絶対に選べと言われればこうだ。でも、こういうのは比べるものではないような気がする。だって、きっと私は幸村くんと丸井くんとか、家族と丸井くんという2択を迫られたとして、きっとどっちも選べないに違いないのだ。順番をつけることに、意味なんてないのだと思う。
「ん、ならいいや」
いいや、と言ったわりに、丸井くんの笑顔は少し寂しそう。
「なにがいいの?」
「まだ教えねえ」
それでも、丸井くんが笑っていてくれていることに、私は安心する。
「じゃあ、聞かないでおく」
踏み込まないでおこう、そう思った。そのかわり、丸井くんが話したくなったらいつでも聞く用意だけはしておこう。私のちょっとうるさくて、照れ屋で、可愛い友人のためなら、そのくらいお易いご用である。
それから、鱗雲の空に丸井くんを呼ぶ真田くんの怒声が響いて、休憩時間がとっくに終わっていたことに気付いて。私まで一緒に真田くんのお説教を食らったのは、もう生涯思い返さないと誓ったできごとだ。
15 遠くと隣と