夏が翻る
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結局、柳くんと2人でルノワール展に行くことになったと話したら、丸井くんと我が親友はとても驚いていた。でも、一番驚いたのは私だと言うことを察してほしい。
翌日、連絡先を渡しに来た柳くん。楽しみにしている、なんて笑顔で言われた日には、やっぱり別々に行こうなんて言えなかった。
そして、あっという間にやってきてしまった日曜日。お気に入りの白いワンピースに、甘いブルーのカーディガン、それからキャメルのブーツ。マスカラとブラウンのシャドウを少しだけ、リップは控えめなピンクでグラデーションを作って、チークも軽めの方がいい。髪は毛先だけ巻いて軽めに見えるように。 予想外ではあったけれど、それでもせっかくのおでかけだ。精一杯着飾ってみた。
ちにみに、精一杯がこの程度なのは仕方のないことなので、ご容赦願いたい。
10時ごろ、駅前は休日の喧騒と秋の甘い日差しに彩られていた。
見渡してみると、背の高いすらりとしたシルエットがすぐに目につく。慌てて駆け寄れば、柳くんもこちらに気がついたようだった。
「おはよう、柳くん。待たせてごめん」
「いや、時間通りだ」
駅の時計を確認してみれば、10時1分。普通なら時間通り、だけど、柳くんならこの1分を把握していただろう。彼は何かとデータを収集するという悪癖、失礼な話、私には悪癖にしか思えないのだが、そう言った趣味を持っていることで有名だ。それなのに、1分の遅刻を言わなかったのは、彼の優しさだろうと思う。
「私服の方が大人っぽく見えるな。似合っている」
「あ、ありがとう」
さらりと言われた褒め言葉に、なんと返していいかわからずに私は顔を赤くした。こんな風に褒められる機会なんて、あまりないから。
「柳くんも、その、すごく似合ってる」
なぜか言わなくてはいけない気がして、そう言えば。
「ありがとう」
そう、彼は笑った。私と同じ台詞なのに、彼が言うとスマートに聞こえるのは何故なのだろう。
柳くんは白いシャツにジーンズと言う簡単な格好だけれど、それだけで様になって見えるのだ。柳くんのスタイルがいいせいだろうか。見上げなくてはいけないほど背の高い彼は、まるで雑誌の中のモデルみたい。
それでも、あまり緊張はしなかった。約束を取り付けられた時はなんと強引な人かとも思ったけれど、今日はなんとなく違う印象だ。どちらかというと優しくて、ゆったりしていて、落ち着く感じ。
それから、私たちは電車を乗って東京駅に向かった。
駅から美術館もそう遠くはなく、11時30分を回った辺りにはもう館内にいた。
大理石の床に、私のブーツのヒールが音を立てる。 静かでヒヤリとした空間に、少しドキドキした。深い森の木々のように静かに絵が立ち並ぶ中を、2人でゆっくり歩いて行くのは不思議な感覚。日常がどんどん遠くなっていくような、そんな。あまり絵画には明るくない私だけれど、美術館って面白いなと思える。
時折、柳くんが小さな声で絵について教えてくれるせいもあるだろう。彼の話は整頓されていてわかりやすく、ゆっくり低く囁く声は耳に心地いい。
と、一箇所だけ人の多い場所に気がつき、私も足を止めた。
「あ、イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」
幸村くんの言ってた絵。
「ルノワールの代表作の一つだな」
柳くんは私に一つ頷いて、絵に歩み寄る。
「私も知ってる、この絵。綺麗だね」
繊細な筆が、清楚な少女を柔らかに描き出している。触れれば、ふわりとした感触が返ってきそうな。暖かな体温まで、伝わってきそうな、そんな絵。
解説を期待して、柳くんを見上げれば、彼は苦笑を浮かべながらも、私を裏切ることはなかった。
「この絵はフランスの銀行家の伯爵の娘を描いたものだ。彼女は8歳だった」
「8歳かあ。大人っぽく見えるね」
「ああ、そうだな」
「背景は葉っぱだけど、外なのかな?」
「伯爵の家の庭で描かれたと聞いたことがある。季節は夏だったはずだ。日差しがよく表現されているだろう。特に、髪をよく見てみるといい」
「髪?」
少しだけ近寄って、絵を覗き込んでみる。
「彼女の髪は印象主義的技法とは少し違う。これはルノワール独特の筆触だな。輝いているように見えるだろう?」
「ほんとだ」
「もうひとつ、これは俺の個人的な見解だが。いや、その前に、一つ言っておきたい。俺の話を聞いてお前が叫ぶ確率は83パーセントだ。できれば聞いても静かにしていろ」
「うん? そんな衝撃的な話なの?」
「いや、ただ、彼女は少しお前に似ていると思っただけだ」
「えっ、はあ!?」
「だから、静かにしろと言っただろう」
ばっと、手で口を覆って、近くにいた人たちにごめんなさいと頭を下げた。
隣でくつくつと喉の奥だけで笑う柳くんは、まるで他人事である。けれど、私に大きな声を上げさせたのはあなたですよ、柳さんや。て言うか、絵の中の西洋人の幼い美少女と私なんて、似てもにつきませんけれど。そんな気持ちを込めて睨むも、柳くんは意に介した風もなく。
く、くそう。
心の中で地団駄を踏む私を見透かすような笑みに、私は何も言えない。
ああ、もう、柳くんって、変わった人だ。変わった人だけれど、からかわれているのかもしれないけれど、嫌な感じじゃなくて。ああ、だからこそ悔しい。
***
「で、俺たちは何をしているわけ?」
不機嫌を隠す気もないので、感情そのままの声音で言ってやれば。
「あれだよ、心配っつーか」
な、と丸井に同意を求められたところで、頷くはずもない。何故俺が貴重な休日をつぶして、柳とみょうじさんのデートを尾行なんてしなければならないのだ。
俺の一歩後ろを歩いているジャッカルも、あきれ顔だ。当たり前だ。こんな茶番に付き合わされる身にもなってほしい。
「帰る」
「待てって、幸村くん!みょうじのことは抜きにしても、柳が女とデート、気になるだろぃ。それより、もっと影に入れって。気付かれたらどうすんだよ」
俺を引っ張った丸井は、少し前を歩く2人から目を離さず言う。彼は本当に心配しているのだろうか。丸井のことだから面白がっているだけかもしれないが、どちらにしたってこれはやり過ぎなのではないか。
それからしばらくして、美術館に入っていく彼らを見送り、美術館の正面にあったカフェで2人が出てくるのを待つことになった。
「…… みょうじ、楽しそうだったな」
丸井がつまらなさそうにそう呟く。そうだね、と適当に応じると、それ以上返事が返ってくることはなかった。
丸井は友人を取られたような気持ちなのかもしれない。確かに、彼女は今まで見たことないような顔で笑っていた。安心したような、おだやかな。
カラン、とジャッカルのコーラの氷が、透明な音を立てる。
「みょうじは人見知りの気がなくもないけど、柳は話うまいしな。なんだかんだ、気が合うんじゃねえのか」
なだめるような声音で、ジャッカルがつぶやいた。
みょうじさんが、人見知り?
取り立てて社交的というほどではないけれど、誰にでも笑顔で応じていたようだったから、人見知りなんて言うイメージはなかった。
「あいつが人見知り? ピンと来ねえけど」
丸井も、俺と変わらない感想を抱いたらしい。オムライスをスプーンでつつきながら、首を傾げている。
「一年の時、初めて同じクラスになったんだけどよ、そん時に何話しかけても黙って笑ってさ。 初めは嫌わてんのかと思ったけど、後で聞いたら人見知りなんだよって言われたんだよ。 今じゃずいぶん初対面のやつとも話せるようになったみたいだけど」
当たり前のように語られたジャッカルと彼女のエピソードに、思わず眉をひそめた。もっと前に聞くべき話を後から教えられたような気分。 別に彼女のことをよく知っているわけでもないのに、どうしてそんな気分になるのだろうか。
表情を取り繕って、適当に話を続ける。
「そうなんだ。ジャッカルと彼女の仲がいいなんて知らなかったな」
「二年間クラスメートだったから、それなりにな」
「ふうん。 いつから人見知り治ったの?」
「さあな。気になるなら、本人に聞けよ」
苦笑いで返されて、俺は言葉に詰まった。
ジャッカルの言うことはもっともだ。けれど、俺には彼女のことを聞く権利などない。それどころか、彼女が話しかけてくれなければ、会話さえできないのだ。そうできない理由は、あまりにも傲慢な理由に思えて言葉にしようと思えないけれど。
もどかしくて、馬鹿馬鹿しい。
「あ、出てきた」
そんな丸井の声に促され、立ち上がる。視界の端に、いつもと違う服で、いつもと違う笑顔で笑うみょうじさんが映った。どうして、そんな風に別の人みたいに笑うんだ。どうして、俺は。
ああ、今すぐに帰ってしまいたい。
そう、思った。
***
結局、美術館を出たのは、1時30分近くだった。
私のお腹が盛大な音を立てたので、手軽に近くのファーストフード店に入ることにした。せっかくだからゆっくりできるカフェを探すのもよかったけれど、私がまだ今年は季節限定のメニューを食べていないと言ったら、ならば、と柳くんも賛同してくれた。
「みょうじは本当においしそうに食べるな」
「うん、結構好きだよ。ジャンクフードってたまに食べるとすごく美味しく感じたりしない?」
「そうだな。しかし、たまに、と言うことは、みょうじはあまりよく来るわけではないのか。新しいデータだ」
「いやあのさ、そのデータに意味はあるの?」
「データは情報、あるいは資料のことだ。特に推論の根拠になり得るものを指すことが多い」
唐突に始まった講義に、私は瞬きをするしかできない。
「つまり、データと呼んだ時点で、俺の推論の根拠になりうる必要な情報という意味になる」
「ええと、難しいけど、とにかく柳くんにとっては必要ってことで合ってる?」
「ああ、要約するならそんなところだ。みょうじは飲み込みが早いな」
言って、柳くんは優しく微笑む。まるで、妹を褒める兄のようだ。
少し動揺して、指に付けてしまったソースをなめ取る。
柳くんはと言うと、そんなお行儀の悪いこともせず、私と同じものを食べているとは思えない完璧さでハンバーガーを食べていた。
「柳くんはきれいに食べるよね。ソースこぼしたことある?」
「ない、と言えば嘘になるな」
静かに口の端を持ち上げた柳くんからは、ソースをこぼしながらハンバーガーを食べる姿が想像できないが。しかし。
「ちょっと、安心する光景かもしれない」
「どういう意味だ?」
「うん、柳くんが意外とこの店になじんでたから、タメなんだなあと実感した」
「俺とて良く来るぞ」
ふっと、笑って柳くんは視線私から外した。
「さて、精市とファーストフードの取り合わせはどうか、ぜひお前の意見も聞いてみたいが」
「え?」
柳くんの視線を辿れば、そこには、幸村くんと、丸井くんと、桑原くん。丸井くんの前には大量のハンバーガーが積まれていた。
「え、うそ。3人とも、なにしてるの?」
「あれだよ、あー、その、ジャッカルがえーと、ハンバーガー食べたいって」
「それで東京まで来るバカはいねーだろ! そうじゃなくて、あー……なんか、あれだ、遊びに?」
「お、おう、スカイツリー見に来たんだよな、俺たち!」
「そうなんだ、スカイツリーかっこいいもんね! と言うとでも思ったか!」
テンパっているのを差し引いても、ひど言い訳である。
「悪い」
「わりぃ、つい」
しおらしく視線を下げた桑原くんと丸井くん。この様子だと、朝からつけていたのかもしれない。待ち合わせの時間と場所は、丸井くんにも私が話していたわけだし、別に不可能なことではないだろう。しかし、こんなことだったら、始めからみんなで行けばよかったのでは。
と、それまで黙っていた幸村くんが唐突に立ち上がった。
「邪魔して悪かったね」
声は、いつになく堅い。横顔には表情がなくて。決してこっちを見てくれることはなくて。ゆるく流れる髪に縁取られたそれはやっぱり綺麗だったけれど、張りつめた空気に私はかける言葉を失ってしまう。
「精市」
柳くんが静止するように声をかけるけれど、彼は振り向かず。
「行くよ」
短くかけられた声に、丸井くんと桑原くんは顔を見合わせてから立ち上がった。
「みょうじ、後で連絡しろよ!」
「う、うん!」
ばたばたと店を出て行く丸井くんに、叫ぶように返事をする。
「ははっ、精市も随分余裕がないな」
みんなを見送った柳くんは楽しそうに笑っていたけれど、私はこの状況がよくわからなくて立ち尽くすしかできなかった。
「柳くん、それってどういう意味?」
「自分で考えてみるといい。それより、早く座れ」
促されてしぶしぶ席に戻るが、頭の中は幸村くんでいっぱいだ。
彼はなぜあんな態度だったのだろう。やっぱり避けられている? 目も合わせたくないくらい? だったら、なんで尾行に加わったりしたのだ。
もしかして。
もしかすると。
都合のいい考えが浮かびそうになって、私は頭を振った。
「ねえ、柳くん。正解、教えてよ」
「正解など、存在しないかもしれないぞ」
「存在しない?」
「人の気持ちなど、言葉にした途端無意味になる、と言う意味だ」
「難しいね」
「さあな。少なくとも、みょうじが思うよりは簡単な話だと思うが」
彼は、意味ありげな言葉に意味ありげな笑み。美しいとさえ思える指が緩く私の髪を絡め取っていく。
彼が言いたいのはつまり。いや、そんなはずはない。幸村くんが私に嫉妬、だなんて、都合のいい妄想に違いない。
14 横顔に揺らされる