夏が翻る
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きっと、私の『好き』が伝わらないのは、私が幸村くんと正面から向き合っていないからに違いない。向き合わなくちゃ。彼のことを知らなくちゃ。
そんな自分勝手な決意が幸村くんに伝わるはずもなく、朝の会話は相変わらず言葉少なかった。
そこで、悩める私に友人が恵んで下さったのが、このルノワール展のチケットである。なんでもご近所さんからもらったらしい。曰く、私は絵画になんて興味ないし幸村と2人で行ってきたら、と。最高のタイミングだ。彼女のことは今日から女神と呼んで崇めようと思う。
そんなわけで、昼休みを迎えた私は、チケットを握りしめ屋上へ向かっている。緊張と期待で、足が震えてしまう。言ってみれば、幸村くんをデートに誘うわけで、万が一にでもうんと言ってくれたなら、二人でお出かけをすることになるのだ。
もちろん、幸村くんが頷いてくれるとは限らない。でも、私の手の中にあるのはルノワール展のチケットなのだ。私のことはどう思っていようと、ルノワールのことは好きなはずだ。美術館自体は東京だから少し遠いけど、ここからなら2時間はかからない。だから、可能性がないとは言えないじゃないか。
屋上に足を踏み入れれば、幸村くんはいつも通り花壇に向かっていた。華奢なようでいて、ちゃんと男の子らしい背中に心臓が跳ねる。
「こ、こんにちは、幸村くん」
「やあ、みょうじさん」
緊張で上擦ってしまった私の声にも、幸村くんは振り返って笑顔を返してくれた。今日も、幸村くんはまぶしい。
「あのさ、東京でルノワール展やってるの知ってる?」
「ああ、それなら先週行ってきたけど、とても良かったよ。イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像も来ていたし」
「が、がっでむ!」
出ばなをくじかれた。まさか既にチェック済みだったなんて、誰が予想できただろう。これでは、誘うに誘えない。
「奇声上げて、どうしたの?」
「奇声じゃないよ、魂の叫びだよ!」
「ふうん、別にどっちでもいいけど」
「……中々辛辣だね、幸村くん」
「そんなつもりはないけど」
「ないのか」
「ないよ」
何か文句あるか、とでも言わんばかりの威圧感に、私は黙った。仕方ない、ここは引き下がるしかないのか。
いや。
待てなまえ、まだあきらめるのは早いんじゃないか。幸村くんお気に入りのルノワール展だ。もう一度行きたいと思ってるかもしれないじゃないか。
「実はね」
「精市」
勇気を出した私を遮ったのは、低く落ち着いた声。ああもう。どうしてこうなっちゃうんだ。
「ああ、真田と柳か。どうかした?」
「顧問から、練習試合についての書類を預かってきたのだが」
そう言って、真田くんは幸村くんに書類を手渡して、何やらお話を始めてしまった。テニス部の、私にはわからないお話。きっと、大事な話なのだろう。
「それじゃあ私はもう行くよ」
「うん、じゃあね、みょうじさん」
いつも通りのあっさりな幸村くんにちょっと悲しい気持ちになるけれど、今、邪魔をするわけにもいかなくて、そっと屋上を抜け出す。ドアを閉じてから、足を止めた。
これ、どうしようかな。
ルノワール展、と華奢なロゴの入ったチケットを光に透かして息をつく。
瞬間。
ふわり。
浮遊感。
あると思った階段が、そこにはなくて。やばい、思って私は反射的に目をぎゅっと閉じた。
「みょうじ!」
切羽詰まった声。
思っていた衝撃が私を襲うことはなくかった。
私を支えてくれる腕と、転げ落ちていく上履き。
「怪我はないな?」
「う、ん、あの、ありがとう」
落ち着かない心臓を抑えながら振り返ると、すぐ近くに柳くんの顔がある。テニス部の、幸村くんの友達。彼も有名人で、朝礼で何度も表彰されていたから、よく知っていた。もちろん、一方的にだろうけれど。
彼は私を引っ張り上げてきちんと立たすと、つま先から頭までをさっと見渡した。多分、怪我がないか確認されたのだろう。階段を踏み外したところを見られた恥ずかしさと相まって、顔が熱い。
「気をつけろ。前はちゃんと見ることだ」
彼は階段の下まで行って、私の上履きを拾って。あまつさえ履かせてくれるものだから、申し訳なくなってしまう。
「ご、ごめんね」
「俺も謝らなければな。さっきはすまない。邪魔をしてしまったようだ」
そう言って申し訳なさそうに眉尻を下げる柳くん。別に柳くんと真田くんが悪いわけではないし、恨むつもりなど毛頭ない。誰が悪いという話ではないのだ。ただ、運の悪さに私の心が折れてしまったというだけで。
「いいんだよ、気にしないで。大事な話だったんでしょ? もういいの?」
「弦一郎に任せてきた」
「そっか」
「それは」
チケットに目を留めた柳くんに、なんだか気まずくてチケットをばっと背中に隠す。
「な、何でもないよ」
「精市を誘うつもりだったのか」
「幸村くんは、もう行ったって言ってた」
だから、もういいんだ。せっかくくれた友人には申し訳ないけれど。
「そうか、なら、俺に1枚くれないか。代金は払おう」
「え?」
唐突な申し出に、私は柳くんの顔を見るけれど。すっと筆で引いたような目元は涼しげで、彼の表情からは何も読み取れない。
「ルノワールの絵は見ておいて損はないと思うぞ。有名なものは初期の印象派的なもの似多いが、中期の古典的な表現も実に興味深いし、晩年の独特の画風にも名作は多い」
並び立てれた言葉にはぴんとこなかったけれど、つまりは柳くんはルノワールに興味があるということか。私に同情したとか、そういうわけではないのか。それなら、見られるルノワールの絵達も幸せというものだろう。
「じゃあ、はい、どうぞ。もらいものだから、お金はいいよ」
「そうか、ありがとう」
ふ、と薄く笑って、柳くんはチケットを受け取る。長い指は男の子と思えないほど綺麗だった。
「待ち合わせは駅前に10時くらいにするか。あまり遅いと混むだろうからな」
「うん、そうだね……ん?」
一緒に、行くのか。別にチケットは渡したんだし、別々に行ってももいいのでは。
「土曜は練習があるから、日曜になるが大丈夫か?」
「いや、うん、だいじょうぶだけど。私と柳くん、2人で行くの?」
「何か問題でも?」
「ない、けど」
本当に2人で行くんですか。ろくに話したこともない私と、柳くんが? むしろ、柳くんが私の名前を知っていたことにも驚くくらいの仲なのに。
「待ち合わせに必要だろうから、後で連絡先を渡そう」
「う、うん」
ではな、と有無を言わせず、柳くんは階段を下りて行った。おかしなことになってしまった、気がする。幸村くんに断られることは考えていたけれど、こんな展開は予想外だ。
柳くんて、なんだか変わってる。
1枚だけになったチケットを光に透かして、私はもういちど息をついた。
13 残されたかたっぽ