短編
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仁王雅治という男は、なんというかあれだ。あれというのはつまり一言で説明ができないというような意味合いで、掴みどころもなければ足元もないし、ともすれば実在さえも疑いたくなるような浮世離れした存在感がある。そんな男との付き合いといえば、なんというかあれだ。あれというのつまり前述と同じことで、彼に出会うまで常識の範囲内に綺麗に収まって生きてきた私には少々あれではある。
「そう、あれ。『朝ごはんはトーストにビールです』くらいの感覚」
きっと、そのくらい。咎められるいわれはないけどなんだか後ろめたくなるような、でもちょっとはみ出してやったぞって笑いたくなるような、そのくらい。
「なんじゃ、何それは」
背中越しに振り返った彼が眠そうな目でこちらを見ていた。小さく呟いたつもりだったのに、起こしてしまったようだ。目の前の背中がぐるりと布団を巻き込みながら回転して、眠そうな瞳が私を覗き込む。部屋は真っ暗だったけれど、私の小さなベッド上では離れている方が難しい。じっとりと少し不機嫌そうな視線がはっきりと見えてしまう。
「雅治はビールだなあって」
答えを求められていないことはわかっていた。ただ、何となくで返事をしただけ。目を閉じて息をついて、この話はここでおしまい。明日、カーテンの向こうが明るく、少し騒がしくなるころには誰も覚えていないとりとめない話。
だったはずなのに。
「じゃあお前がトーストか?」
的外れの言葉とともにぐいと腰を引き寄せられ私は再びまぶたを引き上げた。こうして一緒のベッドで眠るようになってもうしばらく経つというのに、鼻がぶつかりそうな距離に心臓は勝手に反応してしまう。私ばっかりいつまでもいつまでも下がらない熱を持て余しているみたい。少し悔しくて、けれど心地いい。そう思えるほど、私は彼に絆されている。
「食べる、人、がいなくなんじゃん」
好き勝手に飛び跳ねる心臓を叱咤して、気まずさをごまかすようにどうでもいい会話を無理矢理につなぐ。
「俺がトースト食べるから、お前がビール飲めばいいじゃろ。 あ、待って俺のビールのがいい」
「朝食に? 私はトーストのがいい」
「じゃあ交換」
「私が私食べるの? もうわけわかんない」
「初めにわけのわからないことを言い出したのはどっちだったかのう?」
にやりと人の悪い笑みを浮かべた彼の手が、するりと背骨をなぞっていく。ぞわりと駆け抜けた本能に思わず体を引けば、逃がさないとでもいうように彼の足が私の足を絡め取った。もう逃げ場はない。くそ。一枚上手なのは出会った頃からずっと変わらなかった。
「会話ぐちゃぐちゃにしたのそっちじゃん」
負け惜しみのように言ってドンと胸を叩けば、彼はどうしてだか嬉しそうに口元を緩ませる。なんでここで甘ったるい顔するかな。わかんない。
「そう言うなら、仕方ない。俺がトーストを食ってやろう」
いただきます。そう小学生のようにいい子のごあいさつをひとつ。それから、がぶりと噛みつくようなキス。簡単に生ぬるい舌が侵入してきて、上顎から舌の裏側まで好き勝手になぶっていく。思いやりのない自分勝手なやり方に腹が立って、けれど同時にぎゅっと抱きしめられれば愛されて求められている感覚に満たされてしまう。ああ。絆されてるって言うより、毒されてるって感じかな。もしくは、酔わされている、か。
長いキスが終わって、ようやく解放された唇に息をついた。同時に小さく鳴くベッドのスプリング。今日に限って生々しく響くから嫌になる。
「ほんと、雅治はビールだね」
ああ。もう笑っちゃう。なんでこんなに夢中なのか。
「おまんはハニートーストって感じじゃな。甘ったるくてくせになるやつ」
「ふうん」
私がそんな可愛いものだとは思えないけれど。
満足そうに笑う彼の真意を探ろうとじっと見つめていれば、彼の表情はにわかに拗ねたような色に取って代わっていく。
「今の、口説き文句なの、わかっとるんか?」
ふにふにと頬を突かれ、なあと甘えたような声でリアクションを要求される。少し可愛く思えてしまって、私の口からはちょっと意地悪な言葉がこぼれ落ちた。
「おや、口のうまい雅治くんにしてはいまいちな口説き文句ですね?」
「にやにや笑うんはやめんしゃい」
「で、もう口説いてくれないの?」
「……好きだから、もう一回戦しよ」
「面倒になってんじゃん」
「なっとらん。でも、早く触りたい」
言うなり、彼は私を抱きしめる腕にぎゅっと力を込める。無邪気な触れ方に思わず笑いが漏れて、すると彼もつられたように笑う感覚が、全身で感じられた。薄いシャツ越しに、心臓の音まで聞こえてきそう。
「なあ、ビール、好きじゃろ」
「どうかなあ」
「冷蔵庫にいつも3本置いてるくせに」
ふ、と楽しそうに彼が目を細めて、また唇が近づいた。舌で感じた彼の唇は、少し苦くて甘い。
ああ、ああ。
次の休日の朝には、きっとビールが飲みたくなるだろうと思った。
ブレックファースト・ジャンキー
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