短編
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ベッドの中で寝返りを打とうとした途端、隣の男に腕がぶつかった。ついでにぎしりとベッドが鳴くから、彼を起こしてしまったのではないかと私は不安定なまま動きを止める。
いや、大丈夫だ。
彼はゆっくり深い呼吸を繰り返していた。私は寝返りを諦めて、狭いベッドから抜け出す。
時計は午前6時半を指していた。大学の授業は1限から入っているけれどそれにしたって起きるには少し早いだろうか。とは言え、またベッドに戻るのも何だかきまりがわるい。もう起きてしまおう。一歩踏み出したところで、爪先に硬いものがぶつかる。彼のメガネだった。中学の頃から変わらない、四角い黒縁メガネ。拾い上げて覗き込んでみると、分厚いガラスの向こうの壁に書かれたボーアの量子条件式がぐにゃりと歪んだ。変なの。こんなもので彼の世界は綺麗になるのか。
メガネを畳んで、枕元に置く。それから、彼の肩に布団をかけ直し、今度こそベッドを離れた。下着を身につけた後、きちんと着込むのも億劫になってタンスから彼のシャツを拝借する。そうしたって、彼は何も言わない。服には無頓着なたちだ。服だけじゃない、彼は多くのことに無頓着だ。この部屋にだって物が少ないし、賃貸だと言うのに壁には彼が思うがまま書きつけた数式でいっぱいだ。そして、私にも無頓着。干渉も少なくて、執着も少ない。
初めて会った中学の頃は、それこそ友達と言うにふさわしい関係だった。それが長く続いて、まるで惰性のように恋人という関係になだれ込んだ、と言う表現は少し皮肉が過ぎるだろうか。別に、今の関係が嫌なわけではない。気に入っているとさえ言える。けれど、少し不安なのだ。私が女だから、彼が男だから。すぐそばにいたから。楽だから。そんな道端の錆びた空缶みたいな理由だけが、私たちの関係を支えているような気がして。
彼のシャツは私には大きすぎて、余った袖は爪まで隠してしまう。萌え袖なんて言葉もあるけれど、これじゃあそれを通り越しておばけ袖だ。そのままの自分の手に顔を埋めると、ほんのり柔軟剤の匂いがした。私がいつも使うのより落ち着いた、森の中みたいな匂い。
「かしてごらん」
不意に手を引かれた。貞治がシャツも着ないままスラックス一枚で私のそばに膝をついている。メガネは、枕元に置かれっぱなしだった。彼は袖を折り畳んで、私の手首が見えるようにしていく。同じように、もう片方の手も。私はされるがままにその光景を眺めていた。
「貞治」
「何?」
彼が顔をあげることはない。ただ、綺麗に、丁寧に袖を折っていく。そうやって私の世話を焼いて、そうやって私を許して、そうやって私に触れるけれど。彼という当たり前の存在を手に入れた過程は茫洋としていて、彼がまた茫洋とした過程で私の隣からいなくなったとして、私は気づきすらしないかもしれない。それは、とても怖いことだ。飼い殺しにしたはずの不安は、こうしてたまに私に牙を向く。
「キスしたい」
「後でね」
おはよう、とか、ありがとう、とか。そんな言葉をすっ飛ばしてしまったことに、彼は何も言わなかった。
「貞治」
「できたよ」
私の手は揃えて私の膝の上に置かれ、ぽんと軽く叩かれる。きっちり折り畳まれた袖は、しばらく落ちてくることもないだろう。
「もうキスしていい?」
「どうぞ」
首に手を回して、引き寄せる。触れた唇は少し乾いていた。多分、夜に暖房を付けっぱなしにしていたせいだ。2、3度くっついて離れるだけの温度の低いキス。でも、きっと中学の頃の私が知ったら死ぬほど驚くだろうし、もしかしたら顔をしかめるかもしれない。不思議なものだ。
「乾」
あの頃みたいに呼んでみると、彼はピタリと動きを止めて、じっと私を見つめた。大抵は彼のメガネのレンスが私たちを隔てているので、こうして彼の目に自分がいるのを見る機会は少ない。
「何かあった?」
「ううん、何もない」
「そうだろうね」
「じゃあ何で聞いたの」
「念のためさ、みょうじ」
『みょうじ』。そうだ。中学の頃は、彼も私を『みょうじ』と呼んでいた。
「変な感じ」
「そうだな、なまえ」
「そうだね、貞治」
彼が口の中でふふ、と笑うのを聴きながら、目を閉じた。彼の肩に顔を埋めると、額に肌の熱を感じる。私の漠然とした不安を宥めるように、彼の手が私の髪を梳いていった。
***
顔を洗って少し早い朝ごはんを終えると、私はもう大学に行く時間。貞治は今日は2限からだからとまだスラックス姿のまま。コンビニに行くついでに見送るよ、と言われ、二人で彼の部屋を出ることになった。
彼が鍵をかけるのを見るともなく見て、あれ、キーホルダー変わったな、よく分かんない数式書かれてる、変なの見つけてきたな、なんてどうでもいいことに気がついて。そう、どうでもいいことのような気がしていたのだ。けれど。
彼は鍵をしまうことなく、それを私に差し出した。
「はい」
「え、何?」
「合鍵を作ったんだ」
「私に?」
空は、曇り。肌寒くて、空気は重い色。すぐ近くで、近所の人が談笑している声が聞こえている。旦那さんの悪口で盛り上がっていた。彼の羽織ったジャケットの袖口のリブには毛玉がくっついている。
まるっきりありふれた日常の、なんてことはない数秒の出来事だった。それでも、私には変なキーホルダーにぶら下がった金属の塊がキラキラ光って見える。
「いらない?」
「いる」
慌てて手を出して、落ちてきた鍵を握った。彼の体温を移して少しだけ緩くなっている。とりあえずポケットに突っ込んだけれど、手は離さなかった。だって、だって、なくさないようにしなくちゃ。
「いらないって言われたらどうしようかと思ったよ」
「言わないよ」
「なまえが意地を張る確率は10パーセントほどあったけどね」
「何で。私、嬉しいよ」
「それなら、杞憂だったな」
彼は少し笑って、それから、少しだけ屈んで私の目尻の辺りにキスを落としていく。やっぱり唇は少し乾いていた。
「貞治、すきだよ」
ぼんやりした曖昧なものを、少しでも形にしたくて、私はそう口にする。
「知ってるよ」
返ってきたのは、傲慢にさえ聞こえるセリフだった。でも、私にはわかる。彼は本当に知っているのだ。何せ、彼は『乾貞治』なのだから。データからあらゆることを予測するすごい人。私を、私の不安を飼いならす猛獣使い。
「なまえだって俺がどう思っているか、知ってるだろう?」
「うん、知ってる、かも」
自然に繋がった手に体温を溶かし合いながら、私たちはマンション背に駅の方へと。道すがら、私はポケットの中の鍵を何度も確かめた。何度も、何度も。
後で、キーホルダーに書かれた数式の正体を突き止めてみようか。貞治に聞けばすぐに返事が返ってくるだろうけれど、これは私が自分で見つけたい。それから、したり顔で彼に報告してやろう。きっと彼のことだから、調べると思ったよ、なんて言って笑うでしょう。早くそんな顔が見たい。
楽しい未来を想像しながら隣を見上げれば、貞治が照れたように目を伏せた。
ああ、ねえ、分かっちゃった。わたしってとっても愛されてる。不安になってたのがばかみたい。あなたってすごい人だけど、猛獣使いだけど、本当の本当は、ただの。
わたしの恋人
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