短編
Name Setting
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
私はよく知っている。駆け引きというやつは、難しい上に無意味だ。押して引いて、そんなことをしている暇があるなら、一言でも多く愛を伝えたほうがいい。私の人生という限られた時間の中でどれだけ先輩と言葉を交わせるというのか。気持ちの重さと比べればあまりにも少ない時間を、無駄な、心にもない言葉で浪費することにどんな意味があるというのか。
だから、私は今日も彼に言うのだ。
「白石先輩、すき。だいすき」
先輩は言葉を聞いた途端、困ったように眉を寄せる。いいの。いつものこと。
放課後の新聞部は忙しなく、先輩たちが明日発行する校内新聞の最終確認を取っているところだった。3面、誤字あるぞ。差し替えろって言ってた写真、どれだっけ。そんな言葉が私たちの頭の上を飛び交っている。
「私のこと好きになってくれなくてもいいから、えっちしよ」
初めてこの台詞を口にしたときは半ば冗談だったけれど、この台詞だけは白石先輩を動揺させることができると知ってからは私のお気に入りだった。
今日だって、ほら、勢いよくそらされる視線。ねえ、先輩。ちょっと赤くなって、可愛いね。本当は、私だって先輩とおんなじ部屋にいるだけで心臓がバーンって爆発しそうなくらいなの、わかってないでしょ。わかんなくたっていいけど。
「みょうじ」
「なに?」
「あんな、今、校正中やねん」
「うん」
「せやからな、あとで話そか」
「もう終わったくせに?」
「もっかい確認するところやねん」
ゆっくり言い聞かせるように紡がれた言葉。優しい声が好き。豆だらけの大きな手も好き。きれいに一部の隙もなく整った顔も好き。柔らかな髪も好き。真面目で完璧主義なところも、そうやって自分にばっかり厳しいところも、笑いの才能あんまりないところも、全部好き。半年前に転入してきてから、私はずっと白石先輩に夢中だった。
「じゃあ、早く終わらせて、そしたら構ってね」
「みょうじは仕事ないん?」
「私は写真のデータ渡したら、やることなくなっちゃった」
「ほな、プリンターのインクと紙、先に確認しといてや」
「やだ」
「あんなあ」
「白石先輩と一緒がいい。ただでさえ、テニス部贔屓の先輩がこっちにいてくれる時間少ないのに」
「贔屓って」
先輩は眉を下げたまま笑って、私の頭を撫でた。そうやって、ごまかそうとしている。テニス部の部長で、みんなに頼りにされてて、何よりテニスが大好きな白石先輩が新聞部よりテニス部を優先するのは仕方のないことだ。わかっている。でも、私が、私だけじゃなくて新聞部のみんなだって白石先輩のことが好きなのも、わかってほしい。それだって、先輩のテニスに対する思いと同じように、仕方のないことなのだから。
「ごめんな」
優しい視線。透明できれいな瞳に私が写っている。それだけで、私は先輩を許してしまうのだから、ああ、私ってちょろいし、先輩ってずるい。
「いいよ。先輩のことだいすきだから許してあげる」
彼の指が髪を撫でてくれるゆるやかな感触に目を閉じだ。
おい、連載小説のデータ、早く! そんな部長の怒号も子守唄みたい。白石先輩は、すぐ出すから待っとって、なんて焦った声で答えていたけれど。
「ねえ、先輩。えっちしよ」
先輩の袖を引っ張ってそういえば、先輩はなんとも言えない表情で口をひき結んで、ぺしりと緩く私の頭を叩いた。
「痛い」
「悪いこにはお仕置きや」
「いい子なのに」
ああもう、と先輩が息をつく。険しい表情もかっこいいから、私は溶けちゃいそう。先輩のばか。もう少し変な顔でもしてよ。そうしたら、私、こんなに一生懸命にならずに済むのに。
「先輩のばか、だいすき」
「さっきも聞いたで」
***
東京から転校してきたと言う彼女は、目を見張るほどの美人というわけではなかったが、垢抜けた雰囲気で周囲の視線を惹きつけていた。少し浮いた存在には違いなかったけれど、素直な物言いと無邪気な性格のせいなのか、誰も彼もがついつい世話を焼きたくなってしまうような、そんな不思議な魅力が彼女にはあって、彼女のことを悪くいう人間は少ないように思える。有り体にいえば、人気の転校生と言ったところなのだろう。
そんな彼女の心を射止めたのが俺、というのが表面上の話。
実際のところはもう少し複雑で、俺はもう右にも左にも動けなくなってしまった。
「は? モテ自慢か?」
俺の話に親友は盛大に顔をしかめた。どこをどう聞いたらそうなるというのだ。そうじゃない。モテているかどうかはこの際問題ではない。
「あんな、俺は本気で困ってんねんで」
とうとう部誌と向き合う気力もなくして、俺はペンを放り出す。すると謙也はペンを拾い上げて、後ろから空白の欄に『今日もスピードスターが最高だった』などと適当に書き殴った。流石にもっと何か書くことがあったのではないのか。いや、テニス部の部誌なんていつもこんなものか。
「それで、可愛い後輩ちゃんに迫られてて何が不満なんや。とっとと俺も好きやーって言えばええやろ。あーあ、羨ましい」
「ちゃうねんて。俺が好き言うたらそこでお終いやねん」
みょうじの『白石先輩だいすき』は、つまり何を言っても安全で完璧な紳士である彼女の理想の『白石先輩』に向けた言葉なのだ。『えっちしよ』の言葉に毎日あらぬ想像をかき立てられ、思い悩む生身の中学生男子、白石蔵ノ介に向けられた言葉ではない。そこを間違えれば、大惨事になりかねない。
「俺は、完璧な『白石先輩』を演じきらなあかん」
「誰もそこまで求めてへんやろ」
「みょうじのキラキラした純粋な瞳に見つめられたことがないからそんなことが言えるんや、お前は。いや、そんな事態になったら俺は謙也をぶん殴ってしまうと思うけど」
「なんちゅー理不尽や」
大袈裟に頭を振って、謙也は近くの椅子を引いて腰掛けた。半目で俺を見てため息をつく。
言いたいことはわかる。俺が勝手に話をややこしくしているように見えるのだろう。多少の自覚はある。しかし、だからと言ってうまく立ち回る方法もわからない。今まで好きになった女の子とは明らかに違うあの子に、俺はどうしていいのかわからない。ただただ『白石先輩』でいるしかできない。
「銀と一緒に滝行したらええんかな」
「急に何言い出すん?」
「俺は煩悩を捨て去らなあかんねん。『白石先輩』は煩悩なんか一個も持ってないはずや」
「行きたければ行ってもええんと違うか、多分」
「よし、次の週末やな」
「まじで行くんか」
「行かなあかん。もう俺は耐えられん」
「いや、だから素直に付き合ったら解決するんとちゃうん?」
「だから、ちゃうねんて! 付き合うなんて多分向こうは一個も考えとらんし、たとえ付き合っても指一本触れられへんねんで!? 謙也はそれで耐えられるん?」
「いや、付き合ったんなら触ればええやん! お前、相当拗らせてんなあ!」
俺と一緒に頭を抱えてくれる親友があまりにいい奴に思えたので、ありがとうな、と言うとものすごく嫌な顔をされた。理由はよくわからないが、特に気にもならない。
と、突然ノックが響く。謙也が真っ先にドアへ向かって、ノックの主を招き入れた。
「白石先輩、まだ残っててよかった。あのね、部長から。はい、これ」
新聞部の部長からであろうプリントを受け取って、彼女の表情を伺う。多分、いつも通り。さっきの話を聞かれていたなんてことはなさそうだ。
「わざわざありがとうな」
「ううん、いいの。じゃあ、白石先輩、忍足先輩もまたね」
くるりと踵を返した彼女は、ドアの前でふと足を止めた。
「ね、白石先輩」
ふにゃりといつもみたいに甘い笑顔を作って、彼女は言う。
「触ってもいいよ?」
え。あれ。それは、一体。
俺が何かを口にする前に、ドアはバタンと大きな音を立てて俺と彼女を隔てた。
聞かれていた。どこから。何を。どういう。
「……なあ、謙也。俺はどうしたらいいと思う?」
「付き合ったらええんとちゃう?」
親友の呆れた声に、俺は勢いよく机に突っ伏した。ぐしゃりと部誌が音を立てたが、顔をあげる気にはならなかった。付き合えばいいなんて、そんなに簡単に行くものか。俺は冷静になって考えなければならない。そうだ。まずは考えよう。
次の週末は滝行に行くべきか、彼女を映画にでも誘うべきか。
それが問題だ。
僕のオフィーリアは罪深い
5/20ページ