短編
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俺は、最善の選択を探している。
今までだって似たような状況があったにはあった。その度になんとか切り抜けてきたし、信頼は揺らぐことがないのだと盲信していた。そうだ。盲信だったのだ。今となっては、どんな言葉を口にしたらいいのかわからない。どんな言葉が今直面しているこの事態を解決してくれるというのだろう。
世界で一番大切なひとが、自分の布団をバスルームに持ち込んで篭城しているという事態を。
「いい加減、出て来いって」
「やだ」
「ほーら、なまえの好きなプリンだぞ」
磨りガラス越しに、プリンを掲げてみせるけれど。
「食べ物なんかじゃ釣られません」
「じゃあ俺が食うぞ、文句ねえよな?」
「……置いといて、後で食べる」
「今すぐ出てこないと、食っちまうぞ」
「わかった、もういいよ。勝手に食べれば?」
「ああ、もう、そうじゃねえだろ。なにが不満なんだよ、言ってくれって」
朝から3度目の問い。
「自分の胸に聞いてみてよ」
そうは言われても、何度考えたって彼女の機嫌を損ねた原因はわからなかった。会った時は上機嫌だったし、部屋で映画を見ているときはいい雰囲気だったと思う。どこから、どうしてそうなったのか、一つも心当たりがない。
原因が分からないなりにあの手この手でおびき出そうともしているのだけれど、なまえは一向に出てくる気配もない。どうするべきか。この押し問答をいつまで続ければいいというのか。
仕方ない、最後の手段だ。俺は、そっとバスルームの扉に手をかける。バスルームは鍵がかかっているが、扉を無理矢理はがすことなど容易い。始めからそれを実行しなかったのは、両親にあとでこっぴどく言われることが想像できるからだが、今はそれどころじゃなかった。
がこん。
彼女を刺激しないように、出来るだけ静かにドアを外したつもりだったのに、結局は派手な音が当たりに響く。
まあいい。これで彼女と俺を隔てるのは安物の羽毛布団一枚だ。あとは、それだけ。
「聞いてみたけど、わかんねえんだよ」
タイル張りの小さな部屋に、ぼんやりと声が滲んだ。
「ちゃんと考えて」
「もう考えたんだって」
「だめ、考えて」
いつになく頑な彼女に、考える。普段より、100倍は考える。どうすれば、彼女を引きずり出せるのか。テニスの試合で追い詰められた時だって、こんなに考えたりしなかったのに。
「なまえー、なまえちゃんー」
「可愛い声出したって、騙されないんだからね」
ああ、全く。こんなに近くにいるのに、顔さえ見せてもらえないなんてひどい話だ。本当なら今頃、部屋で彼女を抱きしめていたはずだったのに。
俺はバスタブに踏み込んで、布団ごと彼女を抱きしめてみた。いつもの柔らかな体温はそこにはなくて、羽毛布団の何とも頼りない感触しか返ってこなかったけれど。
「俺が悪かったって、な?」
「何で謝るの? 私がどうして怒ってるかちゃんと分かってる?」
「わかんねえよ。でも、俺のせいなんだろ」
「そうだよ、桃のせいだよ」
「で、なんで?」
「だから、自分で考えてよ」
「わかんねえんだって」
うまくいかないもどかしさに、思わず布団を抱きしめる腕に力が入る。慌てて力を緩めれば、彼女はちらりと布団の隙間から顔をのぞかせた。
怒っているかと思えば、そうではなくて、今にも泣きそうな、表情。大きな瞳は潤み、長い睫毛は少しだけ濡れていた。もしかしたら、もう涙を流した後なのかもしれない。
自分のせいで彼女が泣いていると思ったら、自分を責める気持ちが半分、嬉しいと思う気持ちが半分。傷つけないように傷つかないように、大切に大切にしたいと思うのに、自分のために泣く彼女に支配欲を満たされる。
純粋だったはずの恋は、いつからこんな黒いものを覚えるようになったのか。けれど、そんな感情は知られたくなくて。
ただ、一言だけ呟いた。
「わりい」
「桃が……、杏ちゃんとテニスした、とか、後輩の女の子の話とか、するからだよ……」
もそり。ふとんの中でなまえが身動きする。俺は彼女を逃すまいと、今度は自分の意志で腕に力を込めた。彼女を壊したりしないように、少しだけ。
「どうせ、子供みたいって思ってるんでしょ。分かってるけど、私だって嫉妬くらいするんだよ」
「なまえ」
名前を呼んで、そっと布団を引く。抵抗はなかった。
なまえは乱れた髪を直そうともせず、うつむく。睫毛が日差しできらきら光ってとてもきれいだった。
彼女の跳ねた髪を梳く。柔らかくて細いそれは、するりと指の間を逃げて行った。
「嫉妬、って、嘘じゃないよな?」
「この状況でそれを聞きますか」
「信じられないくらい嬉しい、って言ったら笑うか?」
「……それは、笑うよ」
やっと顔を上げたなまえは、まだ少し涙をにじませて。それでも、幸せそうに笑う。
「悪かったって。何でもないと思ってるから、お前に話しちまったんだよ。わかるだろ」
たまらなくなってぎゅっと抱きしめると、今度はちゃんと体温が返ってきた。布団の中は少し暑かったのだろう。少しだけ汗ばんだ肌に、上気した頬に、本能を揺り起こされて、思うがままに白い首筋に噛み付けば、甘い悲鳴が上がる。
「もも」
舌ったらずに呼ばれる名前が、脳髄を溶かして。
丁度いいところにふとんがあったものだと俺は偶然に感謝した。抵抗する間をあたえないように、体重をかけて押し倒す。このまま深く口づけて、彼女の全部に触れて、全部全部奪い尽くしてしまいたかった。
けれど上から冷たい雨が降ってきて、雫は俺の背中を、髪を、濡らしていく。どうやら、倒れた拍子に彼女の足がシャワーのバルブに当たったようだった。
ちょうど、俺の体によってシャワーから守られている彼女はといえば、いたずらっぽい笑みを唇に乗せていた。
「わざとかよ」
「そうだよ、怒った? でも、これで仲直り」
「じゃあ、もうキスしてもいいんだよな?」
答えを聞く前に、彼女の唇を塞ぐ。答えなんて、聞かなくても分かってしまう。
罰であるはずの冷たいシャワーは、10秒もしないうちに柔らかに温かくなったのだから。
バスルーム・サクラメント
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