短編
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多くの人がそうであるように、私の人生もまた恥が多く、ささやかな秘密を体の奥底に埋めたまま足掻いてきた。そのことに不満はなかった。私は平凡でありふれた毎日に緩やかに飼いならされていたのだろう。それが褒められた生き方だったかどうかはわからないが、無害ではあった。そうだ。私は無害な羊の群れの中の一頭だった。
それなのに、なんということだろう。想い人を縛り上げて部屋に監禁しようだなんて、私はどうかしてしまったのだろうか。そんな大それたことが、どうして私にできてしまったのだろう。
私のベッドの上に横たわる彼をじっと見つめる。サラサラの髪の毛とか。少し開いた薄い唇とか。服の上から何と無くわかる肩のラインとか。ずっと遠くから見てきたものがすぐ近くにある。膝の上で握った手はすでに汗でびっしょりだった。だって、こんなこと犯罪以外の何でもない。言い訳のしようがない。
ああ。起きたらどうしよう。ああ。私。どうしよう。焦りと興奮で頭の中はぐちゃぐちゃだ。やっぱりこんなことやめた方がいいだろうか。彼が目を覚ます前なら、まだ。
と、彼の瞼がゆっくりと持ち上がった。彼の瞳の焦点がゆっくりと私に合う。それから、彼は身を起こそうとしたのだろう。身じろきしたと思ったら、途端に表情が驚きに染まる。
ごめんなさい。びっくりするよね。ごめんなさい。手首と足首痛くないかな。ごめんなさい。思うことは色々あるのに、うまく言葉にできない。
「……、これは? どう言うことだ?」
「あなたを、捕まえたんです」
「は?」
彼はパチリと一度瞬きした。足も手もきっちり縛られた彼にできることは、そのくらいだからだろう。
私が彼の寝そべるベッドに近づけば、彼の体が強張るのがわかる。怖がられているだろうか。私は彼に危害を加えるつもりはないけれど。
「俺は、君に誘拐されたと言う認識でいいのだろうか」
「はい、多分間違ってはいません」
「流石に、これは予想外だったな。どうしてこんなことを?」
理由なんて、一つしかない。
「好き、だから」
どうして、と彼の喉からかすれた声が聞こえた。それに対する答えを、私は持っていない。
繋がりらしい繋がりもなく、私にとって彼は『バーでよく見かける人』くらいのものだった。流れ聞こえてくる会話の中には共通の趣味がありそうというわけでもなく、彼は美しいといって差し支えない人ではあるが、特別タイプかと聞かれればそうでもない。でも。なんとなく。どうしてか。私は彼のことを好きになった。彼のことが知りたかった。彼の関心を引きたかった。すれ違うたびに心臓がいうことを聞かなくなってしまった。
だからと言って、初めからこんなことをしようと思っていたわけではない。飲みすぎたのかうちの近くで倒れている彼を見かけた時に爪が割れるのもかまわず引きずって帰ったのは、ただの親切心だったのだ。それから、知り合いになれればいいなって小さな下心。それだけのつもりだったのに。
「好きなの。だから」
ふと、頭をよぎってしまった。こうすれば、彼は私のものになるかもしれないって。ばかな、幼稚な考えだ。でも、思いついてしまった考えは私の頭から出て行ってはくれなかった。
「だからといって、こういう行為に安易に及ぶべきではないと思うが」
「ご、ごめんなさい」
「手を自由にしてくれないか、みょうじなまえ」
「私の、名前……!」
「ああ、知っている」
「どうして」
「どうしてだろうな」
挑戦的に細められた瞳に、私はびくりと肩を震わせるしかなかった。どう言うことなのだろう。私がこんなことに及んだのも、偶然が重なっただけだ。本来なら、私と彼はお互いを振り返ることもないはずの、赤の他人だ。それなのに、どうして。
「とにかく、話はこれを外してからだ」
じっと見つめられ、私はまさに蛇に睨まれた蛙だ。背を汗が伝っていく。けれど。それでも、でも。
「いや」
「ほう、思ったより強情だな。ならば君はベッドの上に芋虫みたいに俺を転がしておくだけで満足か?」
不思議なほど冷静な彼の言葉に、私は口ごもるしかない。
「君は、俺をどうしたいんだ?」
正直、よく考え行動したわけじゃない。ただの衝動だった。どうしたいかなんて、具体的なこと何も思いつかない。
「縛り上げておいて俺とチェスがしたいと言うわけではないだろう? ならば、取引と行こう」
「取引、ですか?」
「そうだ。今日だけ、君のしたいことにある程度なら付き合ってやろう。その代わり、満足するか、今日が終わったらこれほどいてくれ」
「解いたら、警察行かない?」
「行かないとは明言できないな。暴力を振るわれたら警察に行くつもりだ」
「そんなことしない」
「ならば、警察には行かない。ほら、好きにしてみろ」
彼が笑った。遠くから見ていた静かな優しい笑顔じゃなくて。口の端がすうと上がる、意地悪な笑い方。ぞくりと背筋を何かが駆け抜けて行く。ああ。とんでもないわ。とんでもない人を部屋に招き入れてしまった。
ほら。そうやってもう一度促されて、私は恐る恐る彼の頬に触れて見た。私より少し低い体温。唇に指を滑らせれば彼がまた少し笑みを深くした。
「何がしたい?」
ささやかれた声は、私の首筋を撫でていくようだった。触れてもいいって、早く触れてみろって急かされてるみたい。
そっと唇を押し付けてみると、不意に舌が私の唇を舐めあげる。嫌じゃないのかな。そう思えば、少し安心できた。彼の舌をそのまま甘く唇で食んで、口腔へ招き入れる。舌を絡めて、ざらついた表面を確かめるようにぎゅっと押し付けて。ああ。こんないやらしいキス、久々だ。
ゆっくりと唇と離せば、少し息を浅くした彼がじっと私を見つめていた。もしかしたらキスの間ずっと彼は目を閉じていなかったのかも。そう思うと羞恥が一気にこみ上げてくる。
「これで満足か?」
彼はそう言って目を細めた。全てを知っているとでも言う彼の表情に、私は考える。彼はどうしてこんな風に私に私を挑発するのか。彼はどうして私の名前を知っているのか。彼はどうして目を覚ました時から冷静だったのか。彼はどうして昨日あそこに倒れていたのか。これは、もしかして罠なのだろうか。
だとしたら。
だとしたら、何だっていうんだ。
いや、理性ではもうこの辺りで引き下がるのが正解だとわかっている。彼を怒らせる前に彼を解放して謝ってしまえばいい。わかっているくせに不正解を選ぼうとしてしまう私は、なんてだらしない女なのだろう。
「もうちょっと、だけ」
そう、もうちょっとだけ。彼のシャツをめくりあげて、その心臓に触れてみた。小さな収縮を繰り返すのは、彼の生きる証。ああ。ああ。きっと私はこれを私のものにするまで満足できない違いない。欲しがりの私を、彼は許してくれるだろうか。
盗み見た彼の目もなんだか物欲しそうだったから、ねえ、私の心臓もあげてしまおうか。
君のための罠
汚辱を結ぶ(R-18)に続きます。
※続きはには性描写があります。ご注意ください。
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