〔六〕春雨の向こうに見えたもの
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支度をするからと言って一旦部屋へ戻った彼女が再び姿を見せた時に手に持っていたのは、一本の蛇の目傘だった。
「こんなに晴れているのに、傘ですか?」
春らしくうっすらと雲があるものの、大抵の人は「青空」と呼ぶであろうその晴れた空を指差してそう訊ねると、春華さんは悪戯っぽく笑って答えた。
「私、こういう勘は良いんです」
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そんなことを思い返していると、彼女に名前を呼ばれた。どうやら少しの間ぼうっとしていたようだ。
「沖田さん、今日は付き合って下さってありがとうございました」
本っ当に助かりました!と、全身で表す彼女が眩しくて、私は目を細めた。
「いいえ、丁度私も屯所で燻っていたくないなと思っていたところだったので」
貴女と行けて良かったです、と答えれば、春華さんは仄かに頬を染めた。
可愛らしい反応に、やっぱり自然と笑みが零れる。
──擽ったくて、心地良いこの感覚
噛みしめる度、胸の奥が温かくなる。
こんな感覚、初めてだった。
「──えっと、この薬問屋で最後です、沖田さん」
覚え書きを確認しながらそう言うと、彼女は軒下へと入って行った。
彼女に続こうとして、暖簾に手をかけふと視線を外した先──見えたものに、思わず声が漏れる。
「‥‥あ」
そんな暖簾の前で立ち止まった私に気付いた彼女は振り返り、私の視線を追う。すると、満足したようににっこりと笑った。
「やっぱり降りましたね」
いつの間にか青色一色だった空がうっすらと白く染まり、そこから光が反射してキラキラと舞い降りてくるもの。──雨だ。
「えっと、こういうのって日本では何て言うんでしたっけ‥」
静かに、温かな空気をしとしとと濡らしていく。穏やかな雨。
「──春雨、ですね」
そう私がぽつりと言うと、あぁ、と呟いて彼女は納得して満足そうに頷いた。
空を仰いでぼうっと見とれる。お天気雨に近いその光景は、春らしく柔らかで、穏やかで、キラキラと輝いていて──“何か”に似ていた。
「‥‥あっ」
私が思案していると、不意に隣りで春華さんが声を上げた。何だろう、と遅れてその視線を追うと、一人の男の子が地面に顔から転び込んだ瞬間だった。
きっと、突然雨が降ってきたから慌てて家へ戻ろうとしたのだろう。一瞬間を置いて、弾けるように辺りに泣き声が響き渡る。
子どもらしいその仕草に、思わず笑みが零れる。子どもたちが見せるこういった可愛らしい、愛おしい姿が私は好きだ。
親御らしき人物も見受けられないので、そっと歩み寄ろうとする。けれど、私より先に隣りの彼女が一歩踏み出した。
「坊や、転んじゃったの?」
そう言って、少年の上に傘を広げる。いつもに増して優しいその声色に、心臓が跳ねた。
「わっ、膝擦りむいちゃったね。立てる?」
子どもに向ける柔らかな笑顔。
穏やかに浴びせる優しい声。
惜しみ無く捧げられる温かさ。
──そうか、彼女は“春”なんだ。
求めていた答えがストンと胸に降りてくる感覚。
「──うん、大丈夫。強い強い」
笑顔は春の日溜まりのようで
降り注ぐ慈しみの心は春雨のようで
『自分自身を、守らなくてはね』
傘をさしてくれるのは、貴女の優しさだ。
胸いっぱいに、体中を巡るように広がる、温かいもの。初めて知ったその感情に名前を付けると──あまりにも擽ったくて、笑みが零れた。
「──春華さん」
少年を抱き上げようとしていた彼女の手からヒョイと少年を受け取り抱え上げる。
「彼方の軒下で手当てしましょう」
そう笑顔を添えて声をかけると、やっぱり彼女は柔らかく笑んだ。
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