《最終輪》




「おーい、“とっておき”のヤツ持ってきて!」


 傍にある暖簾を避けて奥に向かってそう叫ぶと、鈴のような可愛らしい声が返ってくる。客はそれを聞いて柔らかく笑んだ。


「今の奥さん?」

「あぁ」

「綺麗な奥さんだろう?」


 それは質問ではなくて、確信。客は悪戯っぽくニヤニヤと笑っている。
 すると男は照れたり誤魔化したりするどころか、負けじと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「よく分かるね、お客さん千里眼でも持ってるの? そうだよ、俺の奥さんは日本一の別嬪さんだ」

「ノロケかい」


 それからくつくつと笑い合っていると、奥からパタパタと駆けてくる音がする。
 男が気付いて暖簾を分ければ、その奥から姿を現したのは声と違わず可愛らしい女性だった。
 奥さんは手にしていた盆を引っくり返さないように丁寧にカウンターに置くと、マスターである男に目配せをして軽く笑んだ。
 男の頬が一瞬にして弛んだことで、その惚れっぷりが手に取るように感じられる。


「いらっしゃいま‥‥っ!?」


 客に気付いて挨拶をしようとした奥さんは、客の方を向くと──挨拶の言葉を飲み込んだ。
 客と合った瞳を逸らさずに、ただただ、目を丸くした。それからゆっくりと視線を外してマスターの方を見やる、と、男は柔らかく笑った。奥さんは目を瞬かせた。


「どうかしました?」

「あっ‥いいえ」


 一挙一動を見守っていた客が軽く笑いながら尋ねると、奥さんはぎこちないながらに笑って 盆から湯呑みを取り上げ客の前に置いた。


「いいえ、ただ‥立派な出で立ちなのに──小さいお侍さんだなぁと」

「一言余計!」


 カウンターを叩いて抗議の意を示す客が可笑しくて、男と奥さんは顔を見合わせて笑った。
 しかし、明らかに失礼なその態度に気分を害した様子もなく、客は席にもう一度腰を落ち着かせると 湯気の昇り立つ湯呑みに手をかけて、それをゆっくりと口に運んだ。
 口に広がるその特有な苦味が、妙にすっと体に溶けていった。


「‥美味しい」

「自慢の、茶ですから」


 ゆったりと笑うと、奥さんは盆を抱き締めて男に目配せをした。
 男が笑顔で返すと、そこに出来上がったのは見ている方が呆れてしまうような万年新婚夫婦の像。──呆れるほど幸せそうな、二人の姿。
 客は呆れか安堵か幸福か──色んな思いの溢れた息を吐いた。




「──ねぇ、小さなお侍さん」

「‥‥何?」


 小さい、には敢えて突っ込まず、客は真っ直ぐに奥さんの瞳を見返した。


「きっと、私達の知らないようなお話を色々知っているんでしょうね。──聞かせて下さいませんか」


 朗らかな──それでいてどこか切なげな笑顔で、言う。客はそんな奥さんの笑顔を真っ直ぐに捉えて、少しだけ目を細めた。
 それから手にしていた湯呑みをゆっくりと下ろすと、客は顎の下で手を組んだ。


「いいよ。何がいいかな。──ヘタレな友人の遊郭初訪問の話でもしようか」

「それ却下」


 男が即答すると、客は声をあげて短く笑った。つられて奥さんも笑いはじめ、居たたまれなくなった男はバツが悪そうに──また、拗ねたように──口を尖らせた。
 キッと客を睨むと、客はニヤリと不敵に笑い返してくる。──と、ふと客の視界に飛び込んできた、小さな鉢植え。
 すると自然と頬が緩む。言いようのない幸福感。込み上げてくる達成感のようなもの。客はさっきまでの意地悪そうな笑みとは違う、柔らかい穏やかな笑みを浮かべた。


「‥そうだね、じゃあ」


 鉢植えからゆっくりと目を二人の方へと移し、目を細める。



「百合にまつわる、とある夢の話をしようか」









「なぁ、──平助」







 客の不敵な笑みに、男は少しだけ星霜を重ねた口元を上げて、少年のように笑った。








「──ありがとう
    新八っつぁん」








花、時々キミ 最終輪
『とある夢の終着駅』[END]
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