《第十四輪》
全てを包み込む暗闇の中で、全てを飲み込む静寂の中で、一陣の風が髪を撫でて するりと過ぎ去っていった。
視覚と聴覚が利かない。
ぼうっとそれを感じても、腫れた瞼が熱を帯びて、頭が逆上せて上手く伝達されなかった。
『‥っありがとう‥』
『俺も‥‥
“好き”‥‥だった‥よ‥っ‥』
無意味に流れる、一筋の涙。
「薫」
小さな声が背後からかかった。少し鈍った感覚が不器用に機能して 声の方向へ振り返る。
そこには風呂敷いっぱいの荷物を抱えたお祖母ちゃんが立っていた。
「‥準備はできた。舟の手筈も整った。──行くよ」
やっぱり機能が鈍った頭は上手く理解できなくて、その声に応えることなく 再び私は闇の方へと視線を戻した。
再び奪われる視覚。鈍る聴覚。
世界から色が消えた。音が消えた。
何も無い、と 思った。
何も無い、と。
何も残っていない、と。
──けど
けれど
──違った。
一陣の風が 髪を撫でて過ぎ去っていく。
「‥っ薫! 早くしないと‥っ!!」
微かに乗せられた、芳香。
ただ一つ機能した、嗅覚。
微かな、希望。
世界が全てを取り戻した気がした。
「‥っ ごめんなさい‥!!」
「薫!?」
神様お願い。
あと少しだけ。
少しだけ 時間を下さい。
行かなきゃ。
行かなきゃいけないんだ。
はじまりの場所へ。
芳香が私を呼んでいる
そこに行けば
全てを取り戻せるとか
未来が変わるとか
そんなことを夢見ていたわけではないけれど
風が運んだ微かな奇跡に
ただただ
突き動かされていた
開けた視界に映ったのは。
全てを包み込む闇に浮かび上がったのは。
曇り無い一点の“純白”。
希望の証、だった。
「‥っ‥なん、で‥‥」
どうして
どうして
何で“今”なの、と
何で“今更”なの、と
悔しい気持ちと苦しい気持ちがこの胸を掻き乱すのに
それなのに
「‥っ‥‥」
芳香と共に 浮かぶのは
貴方との幸せな記憶。
照れ隠しに笑って
貴方が差し出した花束
貴方の隣で見た
十色咲き乱れる“花畑”
貴方に手を引かれ走った
灯火灯る真夜中の道
貴方と手を繋ぎ見た
降り注ぐ満天の星
貴方の手のひら
貴方の瞳
貴方の笑顔
“ただいま”
幸せな記憶が
溢れては昇華する。
「‥‥“純”‥っ」
確かな芳香が溢れては昇華して──記憶を呼び起こす。
生命の力が 私の胸を打つ。
戻れぬ時が刻まれていく。
──あぁ、そうか 私
生きなくちゃ。
今、この瞬間を“生きて”いる貴方を──信じているから。
だから私は、生きなくちゃ。
「‥‥そう‥でしょう‥‥っ‥?」
ねぇ
貴方も決して
“生”を諦めた訳じゃ、ないよね
「‥そう‥だよね‥っ‥?」
ねぇ
だから私は生かされるんだよね
そうだよね──?
ねぇ、もう一度
瞳を見て
貴方の声で
言ってよ──
ねぇ──
「‥‥藤堂‥さ ん‥‥っ」
そっと口にした愛しい名。
言葉にすれば、もう抑えきれなくなって。何度も何度も、その名を呼んだ。
唱えた言葉は夜闇に 夜風に溶けて、切なる願いは白百合の芳香に解けた。
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