《第十一輪》




──どんどん どんどん

 まるで他人事のように、戸を叩く音が聞こえる。

 声を出すことができなかった。


(「お菊さん‥っ」)


 すると、すぐそこから聞こえてくる足音。きっと、彼女の帰りを待っていたのだろう。


「かお‥っ!!」


 俺の姿と、腕の中の薫ちゃんの姿を捉えて お菊さんの瞳が見開かれる。


 ごめん。
 唇は言葉を紡ぐけれど、声にはならない。

 とにかく薫ちゃんに降り注ぐ雨を避ける為に店の敷居を跨ぐと──思い切り頬に衝撃が走った。


「‥っこの‥馬鹿もん‥っ!!」


 その瞳には、涙。それが何の涙なのかは、分かり得ない。でも、不謹慎かな、それはすごく綺麗な涙で、優しく思えた。

 もう一度唇だけが謝罪の言葉を紡いで、俺は彼女を抱え直し 奥へ寝かした。



(俺は、人を泣かせてばかりだ)



 守りたいのに。ただ、守りたいのに。


 濡れた君の頬を拭って、眉根を下げる。君に触れる度この胸を貫く痛みが、どうしてだろう、愛おしかった。
 二年以上もの間、この痛みを感じることすら許されなかったから。



「‥っ‥‥」



 駄目だ。
 駄目だ。

 空っぽの心に、染み入るモノ。

 駄目だ。



 俺なんかが
 俺だけが、こんな想いを。



「‥ねぇ‥‥薫、ちゃん」



 告白する。

 俺は君が居てくれさえすれば、幸せになれるよ。
 俺は、幸せになれる。
 君の存在が、俺を幸せにする。



 けれど、



「俺は‥っ」



 君を、幸せにできない。






 思って、片手で顔を覆った。

(駄目だ。許されない。)

 込み上げてくるモノは、最大の罪。──でも、抑えきれなくて。隠すように顔を押さえる。

 溢れる。溢れてしまう。


「“好きだよ”」


 唇だけ、言葉を紡ぐ。

 出してはいけない、出すことは許されない、から。

(でも、抑えきれないんだ。消せるような気持ちじゃないんだ。
 だから、たったの一節を 唇に乗せる)



 とうとう堪えきれなくて、俺は君に背を向け走り出す───はずだった。


「‥‥っ‥」


 小さな、華奢な手が、俺の袖を握り締める。君の手が、優しく。


「薫、ちゃ‥っ」


 華奢な君の手。振り解くことはきっとあまりにも容易で。──だからこそ、出来なかった。


「薫ちゃん‥っ、かお‥っ‥」


 君の名を呼ぶ。
 一生分、君の名を呼ぶ。
 でも、足りない。


「薫ちゃん‥っ、“好き”だよ‥っ」


 一生分、君にこの一言を伝えたい。──言葉にする事は許されないけれど。それでも、伝え続ける。



「“好き”だよ‥っ」




 でも、君を幸せにすることは出来ないから。

 せめても、君を不幸にしないために。






 サヨナラ。






 最後まで君の手を振り解くことができなかった俺は、片袖を残して 君の元を発った。






――――
彼女の幸せも、自分が傍に居てあげることだと 気付くことができなかった。──あまりにも不器用な、彼。
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