《第四輪》
隊服を脱ぎ忘れた。
それに気付いたのは、もう大通りに差し迫ってから。それだけ今の俺には余裕が無いってこと。
(それだけ今の俺は 彼女に夢中だってこと)
隊服を脱いで、右腕に抱えると、逸る気持ちを原動力にして 俺は川沿いを走っていった。
人通りの少なくなった川沿いの道を行くと、一本の橋が見える。その手前に広がるのが‥ 目的地。
土手に辿り着くと、彼女の姿を捉え、息を調える余裕もなく、逸った口が彼女の名を呼んだ。
「薫ちゃん!」
顔を上げた薫ちゃんは、逆光が眩しかったのか 少しの間此方を見たまま動かなかった。
「藤堂さん?」
やはりよく見えないらしい。そう悟って、俺は土手を急いで下った。
「うん。ごめんね!遅くなって」
「いえ、私もさっき来たところで‥」
なんだか待ち合わせ定番の会話みたいなのが繰り広げられようとした時、彼女が突然言葉を切った。
眩しさから逃れた彼女の瞳は、見開かれていた。
視線の先は、俺の右腕。
───浅葱の羽織り
「あ‥‥」
まずった。と、思考が及ぶには時間がかかった。
山南さんと知り合いだったから、油断してた。京の住民にとっては、俺達は“壬生狼”なのに。
ましてや、ついこの間池田屋の一件があったばかりだ。
この後続くであろう、彼女の拒絶を恐れて、全ての感覚が自ずと麻痺を起こした。
存在を否定される時ってこんな感じなんだ、と思った。
(体中がビリビリ痛くて、──怖かった)
何か言わなきゃ、と言い淀んでいると、不意に彼女の瞳が俺の瞳を捉えた。
勇気をもって正視すると、その瞳は、いつもの彼女のそれに戻っていた。
(あ れ‥?)
とても柔らかな焦げ茶色の瞳は、俺の姿を真っ直ぐに捉えている。
「ごめんなさい。少し驚いちゃいました」
「え‥、それだけ?」
もっと、拒絶だとか 非難だとか‥。
自分の置かれている状況が把握できず、混乱した俺の頭は、回避できた事態を掘り返す。
「えっ、あ!すみません! いつも京の見回りご苦労様です!」
「へっ? いや、そうじゃなくて!」
キョトンとした彼女の瞳。嘘偽りが無いことは、目に見えている。
すると、何か感づいたのか、少しだけ眉尻を下げて薫ちゃんは躊躇い気味に口を開いた。
「あぁ‥、あの。本当に、驚いただけなんです。新撰組の方だって知らなかったから。ただ、驚いただけなんです」
それ以外の事は無いのだ、と 暗に言う彼女が、あまりにも愛おしくて。嬉しくて。気付いたら彼女を抱きしめていた。
「薫ちゃんっ!」
「わわっ! と、藤堂さん、ちょっ‥恥ずかし‥っ」
頬を真っ赤に染める彼女は、あまりにも可愛くて、誰にも見せないように 俺の腕の中に収めてしまった。
(なんという独占欲)
呆れながらも、抑えられない感情に 少し笑いを零した。
好きだ。
臆病な俺には、まだ口に出せない言葉。でも いつか、いつか必ず 君に伝えよう。
「そ、そうだ、藤堂さん、コレ‥」
堪えきれなくなったのか、腕の中でもぞもぞと動き始めた薫ちゃんを解放すると、彼女は手にしていた麻の袋を前に差し出した。
「百合の球根! 戴いてきたので、埋めましょう」
麻の袋を広げると、なる程 球根が幾つか入っているのが見えた。
「‥って、なんで杓文字?」
場に似つかわしくない古びた台所用品に、苦笑を漏らした。
「あー‥、掘るものがなかったので。鍬なんて持ってくる訳にもいかないでしょう?」
照れ気味に笑う薫ちゃんも、めちゃくちゃ可愛くて。あぁ、俺もう一生分の幸せ使っちゃってるんじゃないかって思った。
「えっ‥ちょっ‥呆れました!? 丁度良いもの無かったんだから仕方ないじゃないですか!」
「あ、ごめんごめん。ちょっと見とれてた」
「? 何にですか?」
「薫ちゃんに」
そう言って満足げに笑うと、薫ちゃんは一瞬間を置いて、それから一気に顔を赤らめた。
「薫ちゃんかーわーいぃーっ!」
「からかわないで下さいよ!もうっ」
顔が真っ赤だよ、と報告すると、夕陽のせいです、と 君は顔を隠した。
夕陽に照らされる君の横顔を見て、いつか必ず、伝えようと思った。
好きだよ。
二人で植えたこの百合が、いつか花開いたら。君に伝えよう。
臆病な俺の、精一杯の気持ち。今はまだ、伝える勇気が足りないから。それでも大切な気持ちだから。
百合の花を力添えに
必ず君に伝えるよ。
―――
等身大の彼で、いて欲しい。
―――