想い
もう誰も残っていないと思っていた執務室に長十郎が足を踏み入れると、机に突っ伏したかぐらが小さな寝息をたてていた。
書類が広げられ、右手は緩くペンを握っている。きっと、意図せず眠り込んでしまったのだろう。
秋のはじまりとはいえ、夜になればそれなりに気温は下がる。
起こすべきか。
いや、それよりもう遅い。寝室に運んだ方が良さそうだ。
長十郎はかぐらを抱きかかえようと、そっと椅子を引いた。
「……長十郎さま?」
僅かな震動であったが、年若い側近は目を覚ます。
「ああ、起こしてしまいましたか」
「すみません。いつの間にか眠ってしまって」
かぐらは慌てて姿勢を正し、乱れてしまった机の用紙を整えた。そして再びペンを握り直す。
「まだ続けるのですか?」
「はい」
「もう遅い時間ですよ」
ゆくゆくは自分の後継者へ。
愛刀ヒラメカレイ。そして水影の座。
長十郎はそう考えている。
決して恵まれた環境ではなかったかぐらの幼少期。
はじめて出会った頃は、空っぽな瞳をしていた。何をも映し出さない瞳。
だが、太刀筋は目を見張るものがあった。
心無い者から危害を加えられ、自分の身を守るために剣を構えたかぐらは、大の大人を打ち負かす。
誰からも剣術の教えを受けていないのであれば、流石は四代目水影の孫と言ったところか。
そんなかぐらを周りの反対を押し切り、長十郎はアカデミーに迎え入れた。
「今夜はこれぐらいにしておきなさい」
「でも、あと少し。せめて切りの良いところまで」
「頑張るのは良い事ですが、根を詰め過ぎてはいけません」
忍びになるという道を選び、人一倍努力をしてきたかぐら。
優れた成績でアカデミーを卒業しても、祖父の呪縛から逃れられず、いまだ迷いがあるのを知っている。
それが彼を臆病にしている事も。
「でも、早く長十郎さまのお役に立てるようになりたいんです」
「ボクの?」
「はい。尊敬する貴方の力になりたい」
嬉しい事を言ってくれる、と長十郎は頬が緩んだ。
だが、こうも思う。
一歩下がらず、もっと自ら前に出て欲しいのに。
もっと、自分の想いを素直に出して欲しいのに。
長十郎の胸の内を知るや知らずや、かぐらは書類に目を落とし、真面目な顔付きでペンを走らせた。
優等生ぶりに少々意地悪をしたくなる。
「ボクの役に立つと言うのなら……」
長十郎は机に手を付き、覗き込むようにして顔を寄せた。そしてかぐらの唇に軽く押し当てる。
何が起こったのか分からず、キョトンと長十郎を見上げるかぐら。その顔が可愛くて、長十郎はもう一度唇に触れた。
今度は長く。
元々大きな薄い紅梅色の瞳を更に大きくさせ、かぐらは白い頬を赤く染めた。
「あ、あの」
「さあ、もう戻りなさい。明日の業務に支障が出ては、元も子もありませんよ」
これ以上虐めてしまっては流石に嫌われてしまうだろう。
長十郎はかぐらを解放してやる。
「では、失礼致します」
いくつかの書類を胸に抱え、かぐらは長十郎の横を急ぎ足で通り過ぎた。
「長十郎さま……」
扉の前で、かぐらは何か言いたげに振り返る。
「おやすみ、かぐら」
「……はい。おやすみなさい」
かぐらは頭を下げ、静かに扉を閉めた。
かぐらの座っていた椅子に長十郎は腰掛ける。机には、しまう事を忘れられたペンが転がっていた。
よっぽど慌てていたのだろう。長十郎はくすりと笑いそれを拾い上げた。
かぐらの成長を見守りたい。かぐらを大切に育てたい。
息子と言ってよい程年が離れている。
そう、これは親心のはずだ。
そうでなければならない。
自分の想いを素直に出して欲しい、とかぐらに願っておきながら、己には説き伏せていた。
やるせなさに苦笑する。
今頃かぐらは困惑して、眠れなくなってしまっただろうか?
それなら、今夜は一晩中お互いの事を想いながら過ごせたらいいな。
手にしたペンを長十郎は愛おしそうに見つめ、そっと胸のポケットにしまった。
終わり
書類が広げられ、右手は緩くペンを握っている。きっと、意図せず眠り込んでしまったのだろう。
秋のはじまりとはいえ、夜になればそれなりに気温は下がる。
起こすべきか。
いや、それよりもう遅い。寝室に運んだ方が良さそうだ。
長十郎はかぐらを抱きかかえようと、そっと椅子を引いた。
「……長十郎さま?」
僅かな震動であったが、年若い側近は目を覚ます。
「ああ、起こしてしまいましたか」
「すみません。いつの間にか眠ってしまって」
かぐらは慌てて姿勢を正し、乱れてしまった机の用紙を整えた。そして再びペンを握り直す。
「まだ続けるのですか?」
「はい」
「もう遅い時間ですよ」
ゆくゆくは自分の後継者へ。
愛刀ヒラメカレイ。そして水影の座。
長十郎はそう考えている。
決して恵まれた環境ではなかったかぐらの幼少期。
はじめて出会った頃は、空っぽな瞳をしていた。何をも映し出さない瞳。
だが、太刀筋は目を見張るものがあった。
心無い者から危害を加えられ、自分の身を守るために剣を構えたかぐらは、大の大人を打ち負かす。
誰からも剣術の教えを受けていないのであれば、流石は四代目水影の孫と言ったところか。
そんなかぐらを周りの反対を押し切り、長十郎はアカデミーに迎え入れた。
「今夜はこれぐらいにしておきなさい」
「でも、あと少し。せめて切りの良いところまで」
「頑張るのは良い事ですが、根を詰め過ぎてはいけません」
忍びになるという道を選び、人一倍努力をしてきたかぐら。
優れた成績でアカデミーを卒業しても、祖父の呪縛から逃れられず、いまだ迷いがあるのを知っている。
それが彼を臆病にしている事も。
「でも、早く長十郎さまのお役に立てるようになりたいんです」
「ボクの?」
「はい。尊敬する貴方の力になりたい」
嬉しい事を言ってくれる、と長十郎は頬が緩んだ。
だが、こうも思う。
一歩下がらず、もっと自ら前に出て欲しいのに。
もっと、自分の想いを素直に出して欲しいのに。
長十郎の胸の内を知るや知らずや、かぐらは書類に目を落とし、真面目な顔付きでペンを走らせた。
優等生ぶりに少々意地悪をしたくなる。
「ボクの役に立つと言うのなら……」
長十郎は机に手を付き、覗き込むようにして顔を寄せた。そしてかぐらの唇に軽く押し当てる。
何が起こったのか分からず、キョトンと長十郎を見上げるかぐら。その顔が可愛くて、長十郎はもう一度唇に触れた。
今度は長く。
元々大きな薄い紅梅色の瞳を更に大きくさせ、かぐらは白い頬を赤く染めた。
「あ、あの」
「さあ、もう戻りなさい。明日の業務に支障が出ては、元も子もありませんよ」
これ以上虐めてしまっては流石に嫌われてしまうだろう。
長十郎はかぐらを解放してやる。
「では、失礼致します」
いくつかの書類を胸に抱え、かぐらは長十郎の横を急ぎ足で通り過ぎた。
「長十郎さま……」
扉の前で、かぐらは何か言いたげに振り返る。
「おやすみ、かぐら」
「……はい。おやすみなさい」
かぐらは頭を下げ、静かに扉を閉めた。
かぐらの座っていた椅子に長十郎は腰掛ける。机には、しまう事を忘れられたペンが転がっていた。
よっぽど慌てていたのだろう。長十郎はくすりと笑いそれを拾い上げた。
かぐらの成長を見守りたい。かぐらを大切に育てたい。
息子と言ってよい程年が離れている。
そう、これは親心のはずだ。
そうでなければならない。
自分の想いを素直に出して欲しい、とかぐらに願っておきながら、己には説き伏せていた。
やるせなさに苦笑する。
今頃かぐらは困惑して、眠れなくなってしまっただろうか?
それなら、今夜は一晩中お互いの事を想いながら過ごせたらいいな。
手にしたペンを長十郎は愛おしそうに見つめ、そっと胸のポケットにしまった。
終わり
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