隠れ家お宿 円鏡亭
表通りは人々で賑わい、そこから一本入った裏通りも、人々で賑わっていた。
そこからさらに一本入った通りを抜けると坂に出て、
その坂を上リ切ルと、すぐに坂があり、
その坂を下リ切ルと、表通りに出た。
坂を下ラズ、そのまま行くと、
碁盤の目にしては不規則で、あみだにしては規則的な、交差のある通りに出る。
そこが、大門の前にいる金の獅子を左右どちらかに迂回して入る高級宿から、宮殿を模した宿、椰子の木の植わった異国情緒漂う宿、水が壁を伝う都会的な宿や、『二』なのか『三』なのか、時間表の『一』が消えかかった簡易宿まで、愛の宿が軒を連ねる通りだ。
『満室』
『満室』
『満室』…
の、札、札、札、…に、三白眼の目を吊り上げ、
『なんでやねん!?真っ昼間やで!?』
と、不機嫌になりそうになる翼宿の横で、
「なんでよッ!?まだ昼間よっ!?」
と、柳宿は、もっと不機嫌そうに、タレ目がちな目を吊り上げていた。
「…しゃーないやろ」
翼宿は言った。
「花の天井画を見上げながら、シたかったのに」
柳宿は言った。
「真珠貝の寝台の上で、シたかったのに」
また言う。
「回転木馬のある部屋で、シたかったのに」
まだ言って、「ハァ」と、声に近いため息を[[rb:吐 > つ]]いた。
…その息より声に近いため息は、薔薇の棘より牙のように、
見えなくてもある白い月の[[rb:現 > うつつ]]の[[rb:縁 > ふち]]を噛み、
翼宿に、白昼の夢を見せた。
…─────その白昼の夢は、[[rb:空 > から]]だと思って弄んでいた落花生の殻に残っていた一粒が、机の上を転がり、小鉢をよけ、大皿をさけ、取り皿の縁に、コツン、と、当たり、止まるところから、はじまる。
先に、転がってきたそれに、柳宿が気づき、
「あ」
と、言い、
「ん?」
と、翼宿が見た、視線の先にあったものを、柳宿は、ひょいっと、摘みあげると、
「生き別れの双子」
と、言って、
「きゃははは!」
と、笑った。
『ワケ、分からん』
と、ワケも意味も、何が可笑しいのかも、
よく分からないそれにツッコもうとして、
ワケも意味も、なにが可笑しいのかも、
よく分からないのに、なにかが可笑しく、
「ぎゃはははは!!」
と、翼宿も笑った。
「笑ってンじゃないわよ。生き別れてるンだから。不謹慎ねェ」
「お前や。全部」
「あんたも笑ったじゃない」
柳宿は、褐色の皮を剥き、それを、ぱくん、と、小さな口の中に放った。
「酒のせいや」
翼宿は、ぱきん、と、新しい落花生の殻を割った。
「なあなあ!?落花生、宙に放って、どっちが多く、口ん中に入れれるか競う[[rb:遊戯 > ゲーム]]、しようや!負けた方が、白酒と老酒と紹興酒の割合、2対2対5な!?せーの…!」
「いい。やらない」
それから、全ての夢がそうなように、表層的な無秩序と深層的な無秩序を、秩序的に交互に見て、やがて、秘めやかが先か、鮮やかが後か、初体験の話になった。
「───妓楼で、なんや、脱がされるまま、服脱いで、言われるがまま、横んなって、されるがまま、上ンなったり下ンなったり、しとるうちに終わっとったわ。あっちゅー間で、顔も名前も、覚えてへん」
「それはいつもでしょ」
ネチネチと聞きたい柳宿には、『覚えてへん』が、不服だったらしい。
「もっとなんかないの?付いてくれた女のコが、あんなコトしてくれたとか、こんなコトしてくれたとか、誰々似だったとかぁ!」
「スる前とシた後に出されたお茶に、花が浮いとったな」
「どうでもいいわよ。いつ出されたお茶に、花が浮いてようと沈んでようと」
柳宿は、どうでもよさそうに、花の浮かんでいない酒に口を付けた。
どうでもいいのは、翼宿だった。
妓楼だった。
それだけのことで、自分の初体験は、どうでもよかった。
「──お前は、そういう経験、あるんか」
柳宿は、まだ酒に口を付けていたので間が悪く、翼宿は、続けた。
「お前、後宮に一年おったとか言うとったな」
「うん」
「なんや、後宮のえっちぃネイチャンたちに一年中囲まれとったら、ムラムラして、男になったりしとったりしとったんとちゃうか~?」
「なんない。あたしが一番、可愛くて美人でイイ女だったから」
柳宿は、本気の目で、「冗談よ」と、言った。
「それがねェ!女だらけのとこにいると、ムラムラするどころかドロドロしてきて、男になるどころか、心も体も女になっていくからフシギよね!」
「体はなっていかんやろ」
翼宿は、酒に口を付けてから、言った。
「じゃ、お前、経験ないんか」
「あたしは永遠の処女だもん」
柳宿は、酒の器を机の端に置き、箸や箸置きも少し奥に追いやって、組んだ両腕を机に乗せ、やや身を乗り出すと、顔が近づき、
「あたしは永遠の処女だもん」
と、もう一度、言った。
翼宿も、酒の器を端に置くと、一本転がっていた箸と箸置きを奥に追いやり、組んだ両腕を机に乗せ、身を乗り出すようにすると、もっと顔が近づき、それにツッコむのも面倒くさく、その特徴的な前髪のあたりに、フッ、っと、息を吹きかけた。
「きゃはは!くすぐったーい!」
柳宿は、袖をまくった。
「見て」
翼宿は、なにを見たらよいのか分からなかったが、見た。
「ね?」
酒場の、黒光りする机の上に置かれた腕は、雪のように白く見えた。
「鳥肌」
「ああ」
と、翼宿は言い、
「鳥肌やな」
と、言ったが、(鳥肌か??)とも、思った。
「触って」
翼宿は、触った。
「ね?鳥肌でしょ?」
「ああ」
柳宿が腕を引っ込めなかったので、翼宿は触っていたが、
翼宿が腕を触っていたので、柳宿は腕を引っ込めなかった。
「お前、誰かと寝たいと、思わんのか?」
「思うわよ?あんたは?あたしと、シたい?」
「シ」
たい、と、言い掛け、
「シぃ…───」
で、留まり、
「シぃぃぃ~~……」
で、留まったままでいると、奇跡的に、『シたい』と、言うと、『サセてもらえない』、この世の真理みたいなものが、光のように降りてきて、その光が降りてくるのに空いた穴に、逆に、その後が、吸い込まれていった。
「……」
「……」
翼宿は、こういう引っ掛け問題みたいなものは好きではなかったが、これで、『「シ」たい』か、『「シ」たない』か、謎のままになったと、思った。
柳宿は、答えがひとつしかないものの答えを、いつまでも待つような、じれったいことは好きではなかった。なので、質問を変えた。
「翼宿、美朱より、あたしの方が好き?」
「比べるもんと、ちゃうやろ」
「そおね」
「むっちゃウマい肉多めの回鍋肉とな、むっちゃウマいご飯大盛無料の回鍋肉、迷うヤツおらんやろ」
「どっちがどっちよ」
翼宿が触ったままでいて、柳宿は触らせたままでいた。
料理はほとんど食べ終わっていて、大皿に乗った魚の煮付けは、お頭付きの骨だけをきれいに残していた。
酒瓶が二本。一本は、まだ残っていて、一本は、空いていた。
酒場は、騒がしかったが、周りの声は聞こえず、顔が近いこともあってか、相手の声だけが聞こえた。
「翼宿、あたしと同室でうれしかったこと、ある?」
「──ある」
「夜、寝る前、あたしの事、考えたこと、ある?」
「──ある」
「あたしの事、考えて、一晩中、眠れなかったこと、ある?」
「──ない」
翼宿は、正直に答え、柳宿は、ふっ、と、笑った。
「でも、朝起きてすぐ、考えたことなら、ある」
柳宿は、酒では変えない顔色を、少し赤らめた。
「─────なぁ、ええやろ?」
翼宿は、もっと顔を赤くして、言った。
柳宿は、─────ため息を、ついた。
「ハァ」
「──なんや」
「別に」
(別に、ええけど)
と、柳宿は腕を引っ込め、
(やっぱ、嫌)
と、袖を下ろした。
「なんでやッ!?」
翼宿は、大声を出し、バンッ、と、机を叩き、大声は酒場の賑わいにかき消されたが、煮付けの煮汁は少し飛び散り、机を汚した。
「一度きりかもしれないじゃない」
と、柳宿。
「一度きりか、二度シてみな、分からんやろ」
と、翼宿。
柳宿は、まだ底に残っていた酒瓶の酒を、翼宿の器に注ぎ、自分の器で注ぎ切ると、それを、くいっ、と、飲み干し、
「お酒のせいかも、しれないじゃない」
と、言って、ごちそうさま、と、席を立った。
翼宿は、
(酒に、花が浮いとらんのがアカンかったんか─────)
と、思った。
女なら、(危ない)と、追う必要があったが、女でも、非力でもないモンを、追う必要はないはずだった。しかし、翼宿は、追った。
現に、三つ編みを弾ませるその後ろ姿を、なにも知らない客たちの視線は追い、本人は、ごちそうさま~♡と、店員に愛想を振りまいていた。(危ない)と、翼宿は思った。
酒があり、顔を近づけ、肌に触れ、翼宿には、なぜ、あの夜、最後までデキなかったのか、分からなかった。
続
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