☆口紅遊戯☆
どれだけ泣いたかしれない。
泣き止んでいるのは、
寝ている時だけだったかもしれない。
もしかしたら、寝ている時も、
泣いていたのかもしれない。
目覚めると、泣きボクロの横に、
涙の跡がある時もあったから。
家は裕福で、両親と兄と、ひとつ年下の妹の5人家族。
やわらかな春の日差しを少しだけ待たずして産声を上げた時、
男の子だったが、その恵まれた容姿に、
美しい女性の態を表す「娟」と、
宿命的な「柳」を取って、名を付けた。
兄妹思いで、しっかり者で、機転が利いて、口達者。
そして、その華やかな器量と、
細腕に見合わぬ特別な力は、
栄陽の都でも、ひと際目を惹いた。
なに不自由ない日々は、
いつまでも暮れない夏の日そのもののようだった。
まだどこか、粗野というかスキだらけな所作も、
不思議な魅力となって、またそそり、
誰がどう見ても、美しいその少女の姿は、
その日、「なにが」あったのか、
なにも知らぬ者の目も十分に惹いたが、
まだどこか、「少女慣れ」していないその姿は、
その日、「なにが」あったのかの、
一部始終を知る者の目も、同時に惹いた。
「康琳」と、同じ年頃の娘を持つ母親たちは、
「ウチの娘より、娘らしいわ~♡」
と、同情半分、本気半分で言い、
「康琳」と、同じ年頃の息子を持つ父親たちは、
「まァ、可愛い顔のコでよかったじゃないか、、」
と、同情半分、本気半分で言い、
そう言われた両親も、
「それはそうなんだけれども」
と、そこは否定せず、冗談半分、気丈半分で、
常連客に振舞うほかなかった。
兄の呂候は、突然、「妹」になった「弟」に、
「ねェ、どっちが似合うと思う?」
と、赤い色の衣装と青い色の衣装を見せられ、
「ど、どっちも、似合うと思うよ、こ、康琳なら」
と、気を遣って答えたつもりが、
「不正解」
と、言われ、
「あ─────………」
「あ─────?」
「………─────お?」
「不正解」
と、二度の不正解に、涙目になるしかなかった。
タレ目がちの大きな瞳。
通った鼻筋。品のいい小鼻。
形の良い唇。白い肌。
左目下には、泣きボクロ。
女性物の赤い衣装に身を包み、
肩まである伸ばしかけの髪を、
上半分はお団子にし、
下半分はおろし
右耳の上に花の髪飾りを挿し、
トコトコと、ひとり、
街をゆく、康琳は、ぴたり、と、
その歩みを止めた。
(ん?喧嘩??)
なにやら、女性が二人、言い争う声。
康琳は、こそっ、と、物陰にその身をひそめる。
「あんたッ!!?ウチの亭主に、手ェ、出したでしょう!?
ウチのが、全部吐いたのよッ!!」
「なーによ!アンタの亭主が、手ェ、出してきのよッ!
『奥様によろしく♡』って言ったのを、真に受けちゃうなんて、
可愛いらしいご亭主じゃない♡ 内面もアソコも」
「なんですってぇ~~~!!」
(うわっ、こっわ~~~)
康琳は、事の次第を見守る。
そんな、康琳の肩を、ぽん、と叩き、
少年のひとりが、声をかける。
「柳娟」
「康琳よ」
「アイツ、イケナイことしてる、女の人なんだって」
「ウチのかーちゃんも、あのオンナには関わるなって」
「男をたぶらかして生きてるらしぞ!たぶらかすってなんだ?!」
「ふーん」
「お前も、あの女に近づくなよ」
なんか、カチン、ときた。
近くにいた牛を持ち上げる。
「なんで、お前が怒るんだよっ!?」
「心配しただけだろ!」
「なんで、いっつも牛なんだよッ!?」
牛を持ち上げられたら、
散り散りになって逃げてゆくしかない、
康琳と、同世代の少年たち。
ふう、と、牛を下ろし、
引き続き、事の次第を見守る。
「このッ、アバズレッ!!女狐!!泥棒猫ッ!!」
詰め合わせのような悪口を吐き、
パンッ、と、その頬をしたたかに、はる女。
きゃっ、と、小さな悲鳴をあげ、
どさり、と、その場にしりもちをつく、
頬をしたたかにはられた女。
その拍子に、手にしていた鞄の留め具が外れ、
中の物が、砂っぽい地面上に、
なんの躊躇もなく、ばらまかれる。
口紅が、一本、ころころと、転がってきて、
康琳の、小さな靴の先に、
こつん、と、当たって、止まった。
頬をはられた女が、その頬に手をやり、覆う。
(うわっ、いったそー……)
康琳も、思わず自分の頬に手をやり、覆う。
怒りに身を任せている、今にも泣き出しそうな女と、
頬を覆いながらも、不敵に微笑んでいる、女。
(─────まるで、負けを認めてるみたい)
「とっとと、この街から出ていきなッ!!
ココにも、ドコにだって、
アンタのよーなオンナに、居場所なんてないんだからねッ!!」
決め台詞と捨て台詞の合いの子のような台詞を残し、
去ってゆく女。
台詞と共に残された女は、自力で立ちあがると、
ぱんぱん、と、衣装の汚れた箇所をはたき、
それから、散らばった化粧品を、
ひとつひとつ、拾い集めてゆく。
物陰から姿を現した康琳は、
それを拾い上げ、
女に近づいていった。
「はいこれ」
「あら、ありがとー」
少し驚いた様子で、でも、すぐに商売的な笑顔を見せ、
女はそれを受け取った。
「その口紅。謝音瑠の444番」
「よく知ってるわねー」
全て揃った鞄の中から、
今一度、パクトを取り出して、開き、
はたかれた頬の状態を見つつ、女は口を開く。
「オネイサンと、遊んでくれるの?」
頬はやはり、赤く腫れあがっていたが、
口の端が切れていないことに、
ほっとした、ようだった。
傷は、しばらく痕になる。
ぱちん、と、パクトを閉じ、鞄にしまう女。
「高いわよ」
容易に近づくモノじゃないことを、
暗に態度で示しても、
明らかにイイトコの育ちであるとこの、
質の良い衣装に身を包んでいる、
この美少女は立ち去らない。
オトコを見る目はさておいて、オンナを見る目、
特に、天性の色目や色気や色香と言った、
色を持つ女を、見る目は確かなはずだった。
が─────。
(このコ、女の子??)
「あ!やだッ!留め具が壊れちゃってる!
この鞄<クラッチ>、気に入ってたのにぃ!」
女はしばらくなんとかはめようと、
留め具を、カチャカチャ、やっていたが、
ついに諦めたようだった。
「まあ、いいわ。
この顔じゃあ、どうせ今日はもう、店じまいだし」
女は閉じない鞄から煙管を取りだし、火を点けて、
ふぅ、と、紫煙を吐き出すと、
石造りの階段の一段目に腰を下ろし、
隣に座るように康琳を手招きした。
続
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