サウンズオブアース
貴方のお名前は?
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真夏の太陽の下、人気のない公園内の噴水の端に腰をかける。熱風が跳ねる水滴を身体に運び、買ったばかりの洋服にシミが広がるが、それでもアスファルトの照り返しがきつい炎天下の中で無防備にベンチに座るよりマシだと感じた。
暑さで頭が働かない中。手に持っていたピアノの楽譜が入ったレッスンバッグを噴水に投げ入れようとして、止める。振り上げたバッグをそのまま両腕で抱えて縮こまれば。頭に響くのは先ほどまでいたレッスン教室の先生の言葉だった。
——「練習をしていないの?」
——「何故いつまでも覚えないの」
——「あの子はもうあんなに弾けているのに」
今まで何度も言われてきた。両親が音楽で出会ったからと流れで通わされたピアノの稽古。リトミック教室までは楽しかったように思うが、本格的なピアノとなると話が変わった。
自分の身体を改めて見る。割れやすい爪、オクターブも届かない手の指、短くて絡まりやすい腕。リコーダーも満足に弾けず、歯痒い思いを何度もしてきた。かろうじて楽譜は未経験の子よりは読めるものの、読めたところで何一つとして役に立った試しはない。
「もう、辞めたいな」
腹の底から出た言葉も、噴水の音に掻き消される。あまりの情けなさに鼻の奥がつんとする。頭から被った水のせいで、今頬を伝っているのが何の水なのかも自分には判別がつかなかった。
音楽は嫌いではない。物心ついた時から楽器もCDも身近にあり、純粋にクラシックを楽しんで聴いていた時期もあった。ドレミの歌を耳で覚えて家の電子ピアノで弾けた時は、とても嬉しかったことも覚えている。
それでも、と頭を上げる。どれくらい俯いていただろう、あんなに自分を熱していたはずの太陽は傾きかけていた。濡れた肌が風で冷たくなるのを感じる。このままでは風邪をひいてレッスンどころではないだろう、かぶりを振って顔を上げると何処からかヴァイオリンの音色が聞こえた。メロディは聞き覚えがあるが、曲名までは浮かばない。大方父所有のクラシックCDの中にでもあったのだろうとあたりをつけ、音の鳴る方へと足を進める。
そこにいたのは今まで見たこともないくらい美しい女性だった。
楽器を触るために短く磨き上げられた爪、弦を何なく抑えられる細くも逞しい指、弦を難なく引くことができる長い腕。ウェーブのかかった赤褐色の髪をヴァイオリンとは反対方向に流し、薄く笑みをたたえて演奏する彼女。糊のきいた白シャツに、黒いフリルネクタイ。首元には彼女の瞳と同じ空色のブローチ。下はコンサートでよく見るワイドパンツではなく、スキニーな黒いパンツ。少なくともこんな人のいない寂れた公園には、決して似つかわしくないであろう姿。そこから目を離すことができない。
やがて傾いた太陽が彼女の背にかかり、逆光になって眩く滲む。私は気が抜けたように、目の前の女性は果たしてヒトなのだろうかと考え始める。もしかしてセイレーンが陸に上がってきたのかも、などということが浮かんでかぶりを振る。浴び続けた西日のせいかとうとう脳が茹ってきたらしい。
あまり近くにいても迷惑だろう。音が聞こえる範囲で座れる場所をぐるりと見渡し、この公園にベンチがないことに気がついた。結局濡れながらの鑑賞になっていそうだと思わず深いため息を吐いてしまった。
「……おや? この悲痛 な音 は……驚いた、いつからここに?」
まずい、と思った時には空色の瞳がこちらを向いていた。演奏の邪魔をしてしまったと血の気が引く。思わず一歩後退りすると、彼女はヴァイオリンを置いてこちらへ歩み寄り、慣れた手つきで身体を抱き寄せてきた。とはいえ腕を回してきただけで、ギリギリ触れてはいなかったが、いかんせん整った顔が近くにあると落ち着かない。
空色が、私の顔を映す。
「どうか逃げないで、シニョリーナ。私の演奏を聴きにきてくれたんだね。しかし可愛らしい瞳が陰っている……夕焼け のせいなのかな?」
口調が独特すぎて彼女が問うている言葉の意味がわからなかった。けれど怒られている訳ではないらしい。そんな油断から詰まっていた息と一緒に言葉が漏れた。
「…………貴女、綺麗ね」
すると目の前の彼女は頬を赤らめながら破顔する。それを見て、また「綺麗だ」と心臓が鳴った。ただの見てくれだけではない、一つ一つの仕草が、一音一音が、それを総合した彼女の演奏が、素晴らしく綺麗だと感じる。
「……グラッツィエ! なんて情熱 の籠った愛をくれるんだ! ……どうかな? このまま私と共に自由 なセッションと洒落込むのは」
「え……いや、私は」
「その楽譜 はピアノだろう? 君の音楽 がどんなものか、私は聴きたい」
「ピアノのスコア……?」
言われて下を向けば、綺麗に抱えていたはずのレッスンバッグが捲れて中身が見えていた。瞬間耳が熱くなる。彼女の弾いていたヴァイオリンに比べれば、初歩も初歩で止まっているものだ。ピアノ伴奏の練習などしたことがないし、絶対に釣り合わない。
体温が急激に下がり、そのまま目線も床に落ちた。グッと奥歯を噛み締め、拳を握る。爪は定期的に切っているので食い込むことは無いが、それでも惨めだった。このまま消えてしまいたいくらいには悔しくて、視界がどんどん滲んでいく。
不意に、自分の頬に彼女の両手が添えられる。暖かくて柔らかくて、でも力のあるその手は首に負担がかからないように、私の視点を持ち上げた。
「……悲しくなるほどに音 が落ちているね。怖がらなくていいんだ、抱えきれない思いがあるのなら旋律 にすればいい」
そう言うと、スルリと彼女の身体が離れていく。ほとんど触れてはいなかったはずなのに、人肌の体温が無くなっていくようで少し寂しく思った。彼女は何やら懐を探ると、目的のものを見つけたのかこちらに差し出してくる。
「え?」
彼女が取り出したのは、真っ赤なマラカス。思ってもみない光景に時が止まる。差し出された拍子に鳴った軽い音が、直前までの甘ドロい空気を吹き飛ばす風のようで少し口元が緩んだ。どうやら美しいだけではなく、愉快な御仁でもあるらしい。
「……私、パーカッションの経験は無いんだけど」
だから受け取れない、と首を振るも彼女は力強く私にマラカスを握らせてくる。仕方なしに受け取れば、また軽い、間抜けとも思えるような音が手の中で鳴った。
それを満足そうに見た彼女は、腕を高らかに上げる。そしてそのまま詩でも吟じるように続けた。
「ノン・ファ・エニンテ! 私がリードするから、難しいことは考えなくて良いよ。君はただ、思うままに演奏してくれればいい……」
彼女はヴァイオリンを構える。一曲付き合うまで返さない、という姿勢のようだ。私はもう一度深く息を吐いて、周囲に人がいないかどうか見回した。流石にぶっつけでストリート音楽ができるほど肝は据わっていない。
そんな様子がおかしいのか彼女はクスリと笑った。
「大丈夫、置いて行ったりなんかしないから。……ウーノ・ドゥーエ・トレ・クワトロ!」
カウントの直後、細指に包まれた弓が弦をなぞる。andante 。確実に私に合わせたテンポで始まったその音を聞きながら、兎にも角にもマラカスを鳴らす。聞かせる相手はいない。指導をするヒトもいない。それでも玄人の前で楽器に触れているという事実で震えそうになる手を誤魔化しながら、ひたすら彼女の音に耳を傾けた。
そして振ってみてわかったが、マラカスは意外と難しい。彼女が選曲したのはテレビでよく流れているポップスだったため、リズムは自分にもわかるが、適当に腕を振っていると音が流れてしまって聴き心地が悪く、マラカスを腕を細かく動かすと体力が徐々に持っていかれる。角度をつける意識をすれば、余計に彼女においていかれそうになる。
しかし先ほどの「置いていかない」宣言の通り、彼女はずっと私に合わせてくれた。cantabile 。私に技術なんて持ち合わせてはいない。かつて一度だけ褒められた「歌」を頭の中で流しながら、夢中で腕を振る。
浅く息を吐きながら彼女を横目で盗み見ると、恍惚とした表情でヴァイオリンを弾いていた。観客もいない中、こんな素人の拙いパーカスでよくもまあそんな顔ができるものだ。鳩尾の奥に溜まっていた泥のようなものが、少しだけ流れていく。
そして残った泥が囁くのだ。
——きっと彼女は音楽の神様に愛されているのだろう。
***
公園に建てられた古い時計の短針が少しズレた頃、どちらともなく緩やかに合奏は終わった。ピアノを弾く時とはまた違う腕の筋肉を使ったのか、疲労感でいっぱいだ。一度気を抜いてしまったので、二度は上がらないだろうという確信がある。
彼女もうっすら汗をかいているのか、首筋を拭っている。そのままこちらを向いた瞳は、水色ではなかった。
空色だった瞳は、黄昏に焦がされていた。それはいつかの戯曲で読んだ緑の目 の怪物にも思えて、上がったはずの体温がまた下がる。まるで自分の心のうちを見透かされているようで据わりが悪い。
「モレンド……君の影 は思いのほか濃いと見える」
彼女は肩をすくめ、眉尻を下げてしまった。演奏中はあんなにも楽しげに見えたのに、私の勘違いだったのだろうか。少しだけ感じていた自惚れで耳が赤くなるの髪の毛で隠しながら、これ以上何も言われないように深々と頭を下げた。
「ありがとう、おかげで少しスッキリしたと思う」
「お礼を言われるようなことは何もしていないよ。結局君の嘆き な音 を晴らすことはできなかった」
思っていたのとは違う返答に彼女の顔を改めて見る。頭の上にあるト音記号がペタンと倒れるのが視界に入り、思わず声にならない声が出た。一歩下がって全身を確認すれば、彼女の髪と同じ色をした尻尾が背後で揺れている。どれだけ視野が狭くなっていたのか、と一気に頭を抱えた。何がセイレーンだ。
「どうりで美人なわけだ……」
「おやおや、今度はロッソからビアンコへ。百面相だなんてアミーカは面白いね」
「面白い女性なのは貴女もでしょうに……」
最初から疑問ではあったのだが、彼女からラテン系の血を感じるのは留学生か何かなのだろうか。口に手の甲を置いてクツクツと笑う彼女の発する言葉は、やはり私には理解ができない。ただ彼女が親切心で私の葛藤に付き合ってくれたことだけはわかる。そしておそらく、私の奥底にある汚い部分も感じ取られているのだろう。中々に感受性が強い。
それでも気晴らしによって視界は開けた。そしてふと古ぼけた時計が目に止まる。針が指し示していたのは、いつもの帰宅時間を大幅にすぎている時間。
「もうこんな時間!」
陽もすっかり落ちてしまった公園内で、自分の声が響くのもお構いなしに声をあげる。冷静になってみれば随分と長い時間をこの公園で過ごしてしまっていた。特段門限があるような厳しい家でもないが、習い事の帰りがあまりにも遅ければ親に心配をかけてしまう。
「もう一度言わせて、今日はありがとう。ちょっと気分が滅入っていたから、貴女みたいな美しいウマ娘のヴァイオリンが聴けて本当によかった」
矢継ぎ早にそう捲し立て、マラカスを彼女に押し付ける。あとは彼女が受け取ってさえしてくれれば脱兎の如く立ち去るだけなのだが、何故か差し出した両手を包むように重ねられた。そしてそのまま耳元に唇が寄せられる。
「君の助けになれたのなら嬉しいよ……そういえば、名前を言っていなかったね」
「ひえ……そうですね……?」
急に近づいた距離に思わず彼女の胸を押してしまうが、びくともしない。様々な情報が入ってきて脳の処理が追いついてこない私をよそに、彼女恭しく頭を下げてこう言った。
「私の名はサウンズオブアース。君の心を晴らすムジカを届けるものさ」
暑さで頭が働かない中。手に持っていたピアノの楽譜が入ったレッスンバッグを噴水に投げ入れようとして、止める。振り上げたバッグをそのまま両腕で抱えて縮こまれば。頭に響くのは先ほどまでいたレッスン教室の先生の言葉だった。
——「練習をしていないの?」
——「何故いつまでも覚えないの」
——「あの子はもうあんなに弾けているのに」
今まで何度も言われてきた。両親が音楽で出会ったからと流れで通わされたピアノの稽古。リトミック教室までは楽しかったように思うが、本格的なピアノとなると話が変わった。
自分の身体を改めて見る。割れやすい爪、オクターブも届かない手の指、短くて絡まりやすい腕。リコーダーも満足に弾けず、歯痒い思いを何度もしてきた。かろうじて楽譜は未経験の子よりは読めるものの、読めたところで何一つとして役に立った試しはない。
「もう、辞めたいな」
腹の底から出た言葉も、噴水の音に掻き消される。あまりの情けなさに鼻の奥がつんとする。頭から被った水のせいで、今頬を伝っているのが何の水なのかも自分には判別がつかなかった。
音楽は嫌いではない。物心ついた時から楽器もCDも身近にあり、純粋にクラシックを楽しんで聴いていた時期もあった。ドレミの歌を耳で覚えて家の電子ピアノで弾けた時は、とても嬉しかったことも覚えている。
それでも、と頭を上げる。どれくらい俯いていただろう、あんなに自分を熱していたはずの太陽は傾きかけていた。濡れた肌が風で冷たくなるのを感じる。このままでは風邪をひいてレッスンどころではないだろう、かぶりを振って顔を上げると何処からかヴァイオリンの音色が聞こえた。メロディは聞き覚えがあるが、曲名までは浮かばない。大方父所有のクラシックCDの中にでもあったのだろうとあたりをつけ、音の鳴る方へと足を進める。
そこにいたのは今まで見たこともないくらい美しい女性だった。
楽器を触るために短く磨き上げられた爪、弦を何なく抑えられる細くも逞しい指、弦を難なく引くことができる長い腕。ウェーブのかかった赤褐色の髪をヴァイオリンとは反対方向に流し、薄く笑みをたたえて演奏する彼女。糊のきいた白シャツに、黒いフリルネクタイ。首元には彼女の瞳と同じ空色のブローチ。下はコンサートでよく見るワイドパンツではなく、スキニーな黒いパンツ。少なくともこんな人のいない寂れた公園には、決して似つかわしくないであろう姿。そこから目を離すことができない。
やがて傾いた太陽が彼女の背にかかり、逆光になって眩く滲む。私は気が抜けたように、目の前の女性は果たしてヒトなのだろうかと考え始める。もしかしてセイレーンが陸に上がってきたのかも、などということが浮かんでかぶりを振る。浴び続けた西日のせいかとうとう脳が茹ってきたらしい。
あまり近くにいても迷惑だろう。音が聞こえる範囲で座れる場所をぐるりと見渡し、この公園にベンチがないことに気がついた。結局濡れながらの鑑賞になっていそうだと思わず深いため息を吐いてしまった。
「……おや? この
まずい、と思った時には空色の瞳がこちらを向いていた。演奏の邪魔をしてしまったと血の気が引く。思わず一歩後退りすると、彼女はヴァイオリンを置いてこちらへ歩み寄り、慣れた手つきで身体を抱き寄せてきた。とはいえ腕を回してきただけで、ギリギリ触れてはいなかったが、いかんせん整った顔が近くにあると落ち着かない。
空色が、私の顔を映す。
「どうか逃げないで、シニョリーナ。私の演奏を聴きにきてくれたんだね。しかし可愛らしい瞳が陰っている……
口調が独特すぎて彼女が問うている言葉の意味がわからなかった。けれど怒られている訳ではないらしい。そんな油断から詰まっていた息と一緒に言葉が漏れた。
「…………貴女、綺麗ね」
すると目の前の彼女は頬を赤らめながら破顔する。それを見て、また「綺麗だ」と心臓が鳴った。ただの見てくれだけではない、一つ一つの仕草が、一音一音が、それを総合した彼女の演奏が、素晴らしく綺麗だと感じる。
「……グラッツィエ! なんて
「え……いや、私は」
「その
「ピアノのスコア……?」
言われて下を向けば、綺麗に抱えていたはずのレッスンバッグが捲れて中身が見えていた。瞬間耳が熱くなる。彼女の弾いていたヴァイオリンに比べれば、初歩も初歩で止まっているものだ。ピアノ伴奏の練習などしたことがないし、絶対に釣り合わない。
体温が急激に下がり、そのまま目線も床に落ちた。グッと奥歯を噛み締め、拳を握る。爪は定期的に切っているので食い込むことは無いが、それでも惨めだった。このまま消えてしまいたいくらいには悔しくて、視界がどんどん滲んでいく。
不意に、自分の頬に彼女の両手が添えられる。暖かくて柔らかくて、でも力のあるその手は首に負担がかからないように、私の視点を持ち上げた。
「……悲しくなるほどに
そう言うと、スルリと彼女の身体が離れていく。ほとんど触れてはいなかったはずなのに、人肌の体温が無くなっていくようで少し寂しく思った。彼女は何やら懐を探ると、目的のものを見つけたのかこちらに差し出してくる。
「え?」
彼女が取り出したのは、真っ赤なマラカス。思ってもみない光景に時が止まる。差し出された拍子に鳴った軽い音が、直前までの甘ドロい空気を吹き飛ばす風のようで少し口元が緩んだ。どうやら美しいだけではなく、愉快な御仁でもあるらしい。
「……私、パーカッションの経験は無いんだけど」
だから受け取れない、と首を振るも彼女は力強く私にマラカスを握らせてくる。仕方なしに受け取れば、また軽い、間抜けとも思えるような音が手の中で鳴った。
それを満足そうに見た彼女は、腕を高らかに上げる。そしてそのまま詩でも吟じるように続けた。
「ノン・ファ・エニンテ! 私がリードするから、難しいことは考えなくて良いよ。君はただ、思うままに演奏してくれればいい……」
彼女はヴァイオリンを構える。一曲付き合うまで返さない、という姿勢のようだ。私はもう一度深く息を吐いて、周囲に人がいないかどうか見回した。流石にぶっつけでストリート音楽ができるほど肝は据わっていない。
そんな様子がおかしいのか彼女はクスリと笑った。
「大丈夫、置いて行ったりなんかしないから。……ウーノ・ドゥーエ・トレ・クワトロ!」
カウントの直後、細指に包まれた弓が弦をなぞる。
そして振ってみてわかったが、マラカスは意外と難しい。彼女が選曲したのはテレビでよく流れているポップスだったため、リズムは自分にもわかるが、適当に腕を振っていると音が流れてしまって聴き心地が悪く、マラカスを腕を細かく動かすと体力が徐々に持っていかれる。角度をつける意識をすれば、余計に彼女においていかれそうになる。
しかし先ほどの「置いていかない」宣言の通り、彼女はずっと私に合わせてくれた。
浅く息を吐きながら彼女を横目で盗み見ると、恍惚とした表情でヴァイオリンを弾いていた。観客もいない中、こんな素人の拙いパーカスでよくもまあそんな顔ができるものだ。鳩尾の奥に溜まっていた泥のようなものが、少しだけ流れていく。
そして残った泥が囁くのだ。
——きっと彼女は音楽の神様に愛されているのだろう。
***
公園に建てられた古い時計の短針が少しズレた頃、どちらともなく緩やかに合奏は終わった。ピアノを弾く時とはまた違う腕の筋肉を使ったのか、疲労感でいっぱいだ。一度気を抜いてしまったので、二度は上がらないだろうという確信がある。
彼女もうっすら汗をかいているのか、首筋を拭っている。そのままこちらを向いた瞳は、水色ではなかった。
空色だった瞳は、黄昏に焦がされていた。それはいつかの戯曲で読んだ
「モレンド……君の
彼女は肩をすくめ、眉尻を下げてしまった。演奏中はあんなにも楽しげに見えたのに、私の勘違いだったのだろうか。少しだけ感じていた自惚れで耳が赤くなるの髪の毛で隠しながら、これ以上何も言われないように深々と頭を下げた。
「ありがとう、おかげで少しスッキリしたと思う」
「お礼を言われるようなことは何もしていないよ。結局君の
思っていたのとは違う返答に彼女の顔を改めて見る。頭の上にあるト音記号がペタンと倒れるのが視界に入り、思わず声にならない声が出た。一歩下がって全身を確認すれば、彼女の髪と同じ色をした尻尾が背後で揺れている。どれだけ視野が狭くなっていたのか、と一気に頭を抱えた。何がセイレーンだ。
「どうりで美人なわけだ……」
「おやおや、今度はロッソからビアンコへ。百面相だなんてアミーカは面白いね」
「面白い女性なのは貴女もでしょうに……」
最初から疑問ではあったのだが、彼女からラテン系の血を感じるのは留学生か何かなのだろうか。口に手の甲を置いてクツクツと笑う彼女の発する言葉は、やはり私には理解ができない。ただ彼女が親切心で私の葛藤に付き合ってくれたことだけはわかる。そしておそらく、私の奥底にある汚い部分も感じ取られているのだろう。中々に感受性が強い。
それでも気晴らしによって視界は開けた。そしてふと古ぼけた時計が目に止まる。針が指し示していたのは、いつもの帰宅時間を大幅にすぎている時間。
「もうこんな時間!」
陽もすっかり落ちてしまった公園内で、自分の声が響くのもお構いなしに声をあげる。冷静になってみれば随分と長い時間をこの公園で過ごしてしまっていた。特段門限があるような厳しい家でもないが、習い事の帰りがあまりにも遅ければ親に心配をかけてしまう。
「もう一度言わせて、今日はありがとう。ちょっと気分が滅入っていたから、貴女みたいな美しいウマ娘のヴァイオリンが聴けて本当によかった」
矢継ぎ早にそう捲し立て、マラカスを彼女に押し付ける。あとは彼女が受け取ってさえしてくれれば脱兎の如く立ち去るだけなのだが、何故か差し出した両手を包むように重ねられた。そしてそのまま耳元に唇が寄せられる。
「君の助けになれたのなら嬉しいよ……そういえば、名前を言っていなかったね」
「ひえ……そうですね……?」
急に近づいた距離に思わず彼女の胸を押してしまうが、びくともしない。様々な情報が入ってきて脳の処理が追いついてこない私をよそに、彼女恭しく頭を下げてこう言った。
「私の名はサウンズオブアース。君の心を晴らすムジカを届けるものさ」
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