腐向け
貴方のお名前は?
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ある時から鼻が効かなくなった。
典型的なα家系に生まれ、健康診断でも生粋のαと診断された俺は、なんの変哲も無い人生スーパーイージーモードを歩んできた。そこに自分も周囲の人間も何も疑問を抱くことはなかったし、思春期初期あたりまでは、これからもずっとそうやって生きていくのだと思っていた。
しかしそうして出来上がった虚無感はやがて、自分の中に大きなしこりとして高校生活を大きく変えた。
鬱憤を晴らすために喧嘩に明け暮れる毎日の中、頻繁に訪れるΩの発情期にあてられ、無理やり事に及びそうになった時からだっただろうか。今まで違和感なく感じてきたΩのフェロモンも察せず、誰がβでΩなのか見当もつかなくなっていった。しかし運の良いことに、自分の価値観を変えた今の劇団に入って二人のΩに出会っても、特に不自由なく過ごすことができた。
途中参加の身ではあるものの、その劇団で春から冬組までの面子が揃い、第二公演がそれぞれの組で始まる頃には、他者のバースの区別がつかなくなって早二年という月日が経とうとしていた。
公演と公演の間にある、裏方組のための小休止の時期。その中でも華の金曜日と呼ばれる日の夕飯後は、学生やフリーター組を中心に賑わう談話室で、カンパニーのオカンこと秋組の伏見臣の作ったキッシュが振舞われていた。全員に行きわたるようにと切り分けられているにも関わらず、学生組を筆頭に我先にと奪い取っていく。
どれでも一緒だろうと思いつつ片手にスマホを持ち、至さんや太一と共闘プレイをしながら残って少しだけボロボロになったキッシュを齧っていると、バタバタとオレンジ色の髪を振り乱して談話室に天馬が駆け込んで来た。
顔を真っ赤にして汗を流すその様子から、おそらく何処かのΩのヒートにあてられたのだろうが、確か番のいるΩは誰も誘わないはずである。だがこのカンパニーでのΩ二人は、既に番がいることは誰もが知っている。
夏組の面々が周囲に集まり何やらざわざわと囁き合っている中、天馬と仲の良い太一もスマホを放り出してパタパタと駆け寄り、背中をさすってやっている。《gameover》の文字がスマホ画面に移し出され、至さんが舌打ちをしたのが聞こえた。
一体誰にあてられたのか。帰って来た時点の様子を思い出しても、何も問題はなかったように思える。つくづくこういう時に鼻が効かないと不便だ。
「天チャン、大丈夫? サックンも俺もまだヒートきてないっすけど……外出てたの?」
「……いや、違う。部屋の近くだから……多分冬組の誰かだ」
天馬の言葉に談話室が更にざわついた。
この劇団では特にバースによる差別はされず、若く発情期が来たばかりの咲也と太一は万が一の対策を練るために事前申告をし、番が見つかるまでは発情期には部屋の隔離などをしていた。Ωの発情期は個人差はあれど三ヶ月に一度。冬組メンバーが加入したのは一番最後だが、ここでの集団生活が始まってから既に数回二人の発情期を目にしている。ということは逆に、この二人以外の人間がΩであれば俺はともかくαも数名いるこの寮で誰も気がつかないなんてことはありえない。
兎にも角にも誰か様子を見に行かないといけないだろうという話に落ち着いたらしく、その代表として東さんが手を挙げた。丞さんと誉さんはαであるし、加えて二人とも今は客演だの出版社だので出かけていて不在の連絡があった。残るは紬さんと密さんだが、寮内にはいるのだろうが談話室に顔は見せていない。Ωがどちらかだとしても妥当な選択だ。
妥当ではあるが、一つの可能性として彼の姿を思い浮かべた時に何やら胸がじくじくと焼かれるような感覚がした。
Ωでリーダーとしても交流の深い咲也も念のため着いていくと宣言し、少しだけ早足で出て行った二人を見送った後も談話室の面々は暫くガヤガヤと騒がしかった。
それから東さんが戻ってくるまで十分もかからなかった。熱のこもった熱い息を吐いていることから、僅かながらあてられてしまったのだろう。ソファーに深く沈むように座り、額に汗を滲ませて眉を下げている姿は中々お目にかかれない姿だった。臣が心配そうにハンカチを差し出して落ち着くのを待っている。数十秒ほど経ってから夏組の面々が口を開く。
「咲也くんはどうしたんですか?」
「咲は看病のために置いてきたよ」
「そもそもどっちがΩだったのさ」
「紬だよ」
「……え、つむつむ?」
一成がそう漏らすと一瞬談話室が水を打ったように静まり返り、すぐにざわざわと困惑の声が上がり始めた。俺はただただ、先ほどの可能性が本物であったことの痛みを噛みしめている。早くあの人のもとへ行かなければ。そんな思考が頭の中を巡る。
冬組リーダー月岡紬といえば謙虚で大人しい、他の組とはまた違うタイプのまとめ役で、よく勉強のできない高校生たちに家庭教師としてよく目をかけているところを見かける。加えてαである丞さんが目立つこともあって、おそらくこの場の誰もが紬さんをβだと思っていたことだろう。
突然のことに未だ頭がついてこない学生組と、これからのことを話し合い始める大人たち。それらを尻目にゆっくりと談話室を出て行っても、最初から会議の輪に入っていなかった俺が気づかれることはなかった。
自室やこまめに入り浸る至さんの部屋が一階にあるため、普段稽古で第二レッスン室を使う時以外は使わない階段が、建てつけの悪さを象徴するような軋んだ音を立てる。一歩、また一歩と踏み出すたびに静まり返った冷たい廊下に反響して、俺の焼けた胸をノックする。彼の声で落ち着いてと言われているようだった。
ひどく遠くに見えた目的の部屋は、先ほどより幾分か冷えた脳になると案外あっさりと辿り着いてしまう。感情のまま強くしないよう配慮しながら扉を叩けば、音もなく扉を開けた咲也の双眼がこちらを見据えた。
純度の高いルビー色の瞳が、あてられるどころか匂いすら感じていない涼しい表情の俺を認識すると、暫し考え込む素振りを見せてから部屋の中へ引き入れてくる。咲也が学校でヒート状態になった時も平然と話していたことがあったため、安全だと判断されたらしい。
何しにきたのかと目線で訴える咲也に、俺が看るとジェスチャーで伝えれば、案外あっさりと頷かれた。拍子抜けするほどの対応に一種の警戒も滲ませ、同い年だというのに自分よりずっと背の低い咲也の耳元に唇を寄せる。
「いいのか……?」
「万里くんなら安心だから。あ、暫く人払いしておくから……労ってあげて」
心底穏やかな表情を浮かべながら小声でぽそぽそとそんな言葉を置いていくあたり、春組リーダーは周りが思っているよりもずっと強かだ。口をつぐんだ俺の肩を叩いて部屋の扉を抜けようとする背中は、ある意味俺なんかよりも大きいのだろう。
扉が閉まったのを確認して小さく息を吐くと、ロフトの方から布団が擦れる音がした。顔を向けても布団が盛り上がっていることくらいしかわからない。
梯子を軽く上がって見えた、布団から覗いたアホ毛を垂らした形の良い頭を撫ぜれば、亀のように首を伸ばした紬さんと目が合った。目の前の人間が誰か認識していない、そんな顔をしている。
混乱している時に下手に声をかけて逃げられるのも癪だと思い、自発的に気がつくまで放置をしていると、次第に焦点の合っていなかった瞳が俺の目をしっかりと捕らえた。
「万里くん……?」
「ちわー、紬さん。あ、薬は飲んだんすね」
「え、待って……万里くんαじゃ」
「大丈夫っすよ」
俺だと認識した瞬間怯えた表情に変わった紬さんの頭から少しだけ手を引く。そのまま顔に張り付く青みがかった艶やかな黒髪を耳にかけてやり、袖口で汗を拭えば南国の海のような瞳に涙の膜がゆらゆらと波を打っていた。白い肌は首元まで赤く染まり、熱い息を浅く吐き出している唇はじっとりと濡れている。
その様子は、確かに普通のαであれば先程の天馬のようにあてられてしまうか、最悪その場で組み敷かれてもおかしくはないほど色っぽい。
ここまで近づかなければ鼻も効かず発情期のΩを見ても風邪としか思えない俺が相手でもそう思ってしまうのだから、よくこの人は今まで無事だったと感心する。
だが、この人をどうにかしようという気はさらさら無い。せめて怖がらせないようにゆるゆる髪を梳いていると、震える手で俺の手に触れてきた。
それはまるで、目の前のものしか信じることのできない幼い子どもが、たとえ悪人相手であろうと縋ってしまうような姿。いい大人の姿をして、そんな仕草をするちぐはぐさのなんと可愛らしいことか。
「……なんで?」
「さぁ……紬さんだって、誘ってこないじゃないっすか」
「それは……ん」
気になったことをそのままぶつけてやれば、彼は眉をひそめて言葉を飲み込んでしまう。それに気がつかないフリをしながら、触れてきた手をそのまま両手で包み込んでやれば、庭作業で傷の多い細い指先がピクリと反応した。余計な刺激を与えないようにそれ以上動かすことはせず、ジッと目を合わせていれば少しだけ口角が上がったのが見える。苦しそうに眉を寄せたまま笑う姿はひどく扇情的だ。そこに先ほどまでの子どもらしさはない。
火照った顔をシーツに擦り付けてこぼれ落ちた涙。何の気なしに舐めとると、ふと彼のうなじが目に入った。風呂の時間も組で分けられてまじまじと見ることのないそこには、くっきりと番を象徴する歯型があった。冷めたはずの胸が、またじくりと熱を持つ。
「紬さん、番居たんすね」
発情期が来たばかりの咲也や太一よりずっと年上であるなら有り得ないことではないとわかっていても、つい吐き捨てるように洩らした言葉。それを耳に入れた瞬間、彼の顔から色が無くなった。
重ねたままの手の先がみるみる温度を失っていき、浅い息を繰り返していく。慌てて名前を呼びかけても、聞こえていないのか一点を見つめたまま髪を振り乱し俺の手ごと強く握りしめてくる。丸く切り揃えられた爪が食い込んでも大して痛くはないが、この様子は異常だ。
いよいよ困惑を極めた俺は、激しく胸を上下させる彼の肩を片方の手で支えながらもう片方の手で頭を撫で続けるしかない。
「紬さんこっち見て、大丈夫だから。大丈夫。なぁ落ち着けって」
「ち……ちが……じゃな……」
「あ?」
口を小さく開けて彼が必死に紡ぎだそうとする単語に耳を傾ける。やがて、顔を腕で隠したままポツポツと吐き出される「違う」「番」「いない」「無理矢理」「強制解除」まで聞いたところで自分の限界がきた。
瞳を隠した腕を力づくで退かし、吸い込むような形で口を塞いで言葉を飲み込んでやる。
目を白黒させる紬さんを無視して一度唇を離し、額から瞼、目尻、耳、頬に唇を落としていく。最後に歯型の横でワザとらしくリップ音を響かせてやれば、耳まで真っ赤に染まった顔が逸らされた。
肩は支えたままなので首が辛そうであるが、頬をつつけば身をよじられる。そっと頬に手を添えてこちらを向かせてみれば、彼は心底可笑しそうに破顔していた。しかしその表情も一瞬で作られた綺麗な笑みに変えられてしまう。
「紬さん、いままで発情期どうしてたんすか?」
「……周期だけは無駄にきっちりしてたのと、普通の人より期間が短かったから、薬で抑えるか外泊してた」
「今回は?」
「薬に身体が慣れてきちゃったのか、あまり効かなくて……」
気がついたら重めのヒートが来てしまい、外泊どころでは無くなったと自嘲的に笑う声は幾分ハッキリしていた。ゆっくりと手を離せば、血色も良くなりすっかりいつもの調子に戻った紬さんは俺の襟首を掴んで身体を起こす。
汗で張り付いた服を脱ぎ捨て白い肌を惜しげもなく晒す彼の様子は、発情期が終わったことを示していた。いつからだと記憶を辿っても思い当たる節はない。
訝しげな視線を投げる俺に気がついているのかいないのか、彼は傍らに置いてあったタオルで身体を拭いてしまうと、そのまま先程の俺がしたように、うなじあたりに唇を寄せてきた。無抵抗でいれば小さく噛まれたような痛みが走る。満足げに顔を離した彼は、流れるような、マイムによく似た綺麗な弧を描きながら人差し指を口元に持ってきた。
「……恥ずかしいから、内緒だよ?」
脱力感から深いため息を吐いて彼を小突けば、屈託無く笑われてしまった。
典型的なα家系に生まれ、健康診断でも生粋のαと診断された俺は、なんの変哲も無い人生スーパーイージーモードを歩んできた。そこに自分も周囲の人間も何も疑問を抱くことはなかったし、思春期初期あたりまでは、これからもずっとそうやって生きていくのだと思っていた。
しかしそうして出来上がった虚無感はやがて、自分の中に大きなしこりとして高校生活を大きく変えた。
鬱憤を晴らすために喧嘩に明け暮れる毎日の中、頻繁に訪れるΩの発情期にあてられ、無理やり事に及びそうになった時からだっただろうか。今まで違和感なく感じてきたΩのフェロモンも察せず、誰がβでΩなのか見当もつかなくなっていった。しかし運の良いことに、自分の価値観を変えた今の劇団に入って二人のΩに出会っても、特に不自由なく過ごすことができた。
途中参加の身ではあるものの、その劇団で春から冬組までの面子が揃い、第二公演がそれぞれの組で始まる頃には、他者のバースの区別がつかなくなって早二年という月日が経とうとしていた。
公演と公演の間にある、裏方組のための小休止の時期。その中でも華の金曜日と呼ばれる日の夕飯後は、学生やフリーター組を中心に賑わう談話室で、カンパニーのオカンこと秋組の伏見臣の作ったキッシュが振舞われていた。全員に行きわたるようにと切り分けられているにも関わらず、学生組を筆頭に我先にと奪い取っていく。
どれでも一緒だろうと思いつつ片手にスマホを持ち、至さんや太一と共闘プレイをしながら残って少しだけボロボロになったキッシュを齧っていると、バタバタとオレンジ色の髪を振り乱して談話室に天馬が駆け込んで来た。
顔を真っ赤にして汗を流すその様子から、おそらく何処かのΩのヒートにあてられたのだろうが、確か番のいるΩは誰も誘わないはずである。だがこのカンパニーでのΩ二人は、既に番がいることは誰もが知っている。
夏組の面々が周囲に集まり何やらざわざわと囁き合っている中、天馬と仲の良い太一もスマホを放り出してパタパタと駆け寄り、背中をさすってやっている。《gameover》の文字がスマホ画面に移し出され、至さんが舌打ちをしたのが聞こえた。
一体誰にあてられたのか。帰って来た時点の様子を思い出しても、何も問題はなかったように思える。つくづくこういう時に鼻が効かないと不便だ。
「天チャン、大丈夫? サックンも俺もまだヒートきてないっすけど……外出てたの?」
「……いや、違う。部屋の近くだから……多分冬組の誰かだ」
天馬の言葉に談話室が更にざわついた。
この劇団では特にバースによる差別はされず、若く発情期が来たばかりの咲也と太一は万が一の対策を練るために事前申告をし、番が見つかるまでは発情期には部屋の隔離などをしていた。Ωの発情期は個人差はあれど三ヶ月に一度。冬組メンバーが加入したのは一番最後だが、ここでの集団生活が始まってから既に数回二人の発情期を目にしている。ということは逆に、この二人以外の人間がΩであれば俺はともかくαも数名いるこの寮で誰も気がつかないなんてことはありえない。
兎にも角にも誰か様子を見に行かないといけないだろうという話に落ち着いたらしく、その代表として東さんが手を挙げた。丞さんと誉さんはαであるし、加えて二人とも今は客演だの出版社だので出かけていて不在の連絡があった。残るは紬さんと密さんだが、寮内にはいるのだろうが談話室に顔は見せていない。Ωがどちらかだとしても妥当な選択だ。
妥当ではあるが、一つの可能性として彼の姿を思い浮かべた時に何やら胸がじくじくと焼かれるような感覚がした。
Ωでリーダーとしても交流の深い咲也も念のため着いていくと宣言し、少しだけ早足で出て行った二人を見送った後も談話室の面々は暫くガヤガヤと騒がしかった。
それから東さんが戻ってくるまで十分もかからなかった。熱のこもった熱い息を吐いていることから、僅かながらあてられてしまったのだろう。ソファーに深く沈むように座り、額に汗を滲ませて眉を下げている姿は中々お目にかかれない姿だった。臣が心配そうにハンカチを差し出して落ち着くのを待っている。数十秒ほど経ってから夏組の面々が口を開く。
「咲也くんはどうしたんですか?」
「咲は看病のために置いてきたよ」
「そもそもどっちがΩだったのさ」
「紬だよ」
「……え、つむつむ?」
一成がそう漏らすと一瞬談話室が水を打ったように静まり返り、すぐにざわざわと困惑の声が上がり始めた。俺はただただ、先ほどの可能性が本物であったことの痛みを噛みしめている。早くあの人のもとへ行かなければ。そんな思考が頭の中を巡る。
冬組リーダー月岡紬といえば謙虚で大人しい、他の組とはまた違うタイプのまとめ役で、よく勉強のできない高校生たちに家庭教師としてよく目をかけているところを見かける。加えてαである丞さんが目立つこともあって、おそらくこの場の誰もが紬さんをβだと思っていたことだろう。
突然のことに未だ頭がついてこない学生組と、これからのことを話し合い始める大人たち。それらを尻目にゆっくりと談話室を出て行っても、最初から会議の輪に入っていなかった俺が気づかれることはなかった。
自室やこまめに入り浸る至さんの部屋が一階にあるため、普段稽古で第二レッスン室を使う時以外は使わない階段が、建てつけの悪さを象徴するような軋んだ音を立てる。一歩、また一歩と踏み出すたびに静まり返った冷たい廊下に反響して、俺の焼けた胸をノックする。彼の声で落ち着いてと言われているようだった。
ひどく遠くに見えた目的の部屋は、先ほどより幾分か冷えた脳になると案外あっさりと辿り着いてしまう。感情のまま強くしないよう配慮しながら扉を叩けば、音もなく扉を開けた咲也の双眼がこちらを見据えた。
純度の高いルビー色の瞳が、あてられるどころか匂いすら感じていない涼しい表情の俺を認識すると、暫し考え込む素振りを見せてから部屋の中へ引き入れてくる。咲也が学校でヒート状態になった時も平然と話していたことがあったため、安全だと判断されたらしい。
何しにきたのかと目線で訴える咲也に、俺が看るとジェスチャーで伝えれば、案外あっさりと頷かれた。拍子抜けするほどの対応に一種の警戒も滲ませ、同い年だというのに自分よりずっと背の低い咲也の耳元に唇を寄せる。
「いいのか……?」
「万里くんなら安心だから。あ、暫く人払いしておくから……労ってあげて」
心底穏やかな表情を浮かべながら小声でぽそぽそとそんな言葉を置いていくあたり、春組リーダーは周りが思っているよりもずっと強かだ。口をつぐんだ俺の肩を叩いて部屋の扉を抜けようとする背中は、ある意味俺なんかよりも大きいのだろう。
扉が閉まったのを確認して小さく息を吐くと、ロフトの方から布団が擦れる音がした。顔を向けても布団が盛り上がっていることくらいしかわからない。
梯子を軽く上がって見えた、布団から覗いたアホ毛を垂らした形の良い頭を撫ぜれば、亀のように首を伸ばした紬さんと目が合った。目の前の人間が誰か認識していない、そんな顔をしている。
混乱している時に下手に声をかけて逃げられるのも癪だと思い、自発的に気がつくまで放置をしていると、次第に焦点の合っていなかった瞳が俺の目をしっかりと捕らえた。
「万里くん……?」
「ちわー、紬さん。あ、薬は飲んだんすね」
「え、待って……万里くんαじゃ」
「大丈夫っすよ」
俺だと認識した瞬間怯えた表情に変わった紬さんの頭から少しだけ手を引く。そのまま顔に張り付く青みがかった艶やかな黒髪を耳にかけてやり、袖口で汗を拭えば南国の海のような瞳に涙の膜がゆらゆらと波を打っていた。白い肌は首元まで赤く染まり、熱い息を浅く吐き出している唇はじっとりと濡れている。
その様子は、確かに普通のαであれば先程の天馬のようにあてられてしまうか、最悪その場で組み敷かれてもおかしくはないほど色っぽい。
ここまで近づかなければ鼻も効かず発情期のΩを見ても風邪としか思えない俺が相手でもそう思ってしまうのだから、よくこの人は今まで無事だったと感心する。
だが、この人をどうにかしようという気はさらさら無い。せめて怖がらせないようにゆるゆる髪を梳いていると、震える手で俺の手に触れてきた。
それはまるで、目の前のものしか信じることのできない幼い子どもが、たとえ悪人相手であろうと縋ってしまうような姿。いい大人の姿をして、そんな仕草をするちぐはぐさのなんと可愛らしいことか。
「……なんで?」
「さぁ……紬さんだって、誘ってこないじゃないっすか」
「それは……ん」
気になったことをそのままぶつけてやれば、彼は眉をひそめて言葉を飲み込んでしまう。それに気がつかないフリをしながら、触れてきた手をそのまま両手で包み込んでやれば、庭作業で傷の多い細い指先がピクリと反応した。余計な刺激を与えないようにそれ以上動かすことはせず、ジッと目を合わせていれば少しだけ口角が上がったのが見える。苦しそうに眉を寄せたまま笑う姿はひどく扇情的だ。そこに先ほどまでの子どもらしさはない。
火照った顔をシーツに擦り付けてこぼれ落ちた涙。何の気なしに舐めとると、ふと彼のうなじが目に入った。風呂の時間も組で分けられてまじまじと見ることのないそこには、くっきりと番を象徴する歯型があった。冷めたはずの胸が、またじくりと熱を持つ。
「紬さん、番居たんすね」
発情期が来たばかりの咲也や太一よりずっと年上であるなら有り得ないことではないとわかっていても、つい吐き捨てるように洩らした言葉。それを耳に入れた瞬間、彼の顔から色が無くなった。
重ねたままの手の先がみるみる温度を失っていき、浅い息を繰り返していく。慌てて名前を呼びかけても、聞こえていないのか一点を見つめたまま髪を振り乱し俺の手ごと強く握りしめてくる。丸く切り揃えられた爪が食い込んでも大して痛くはないが、この様子は異常だ。
いよいよ困惑を極めた俺は、激しく胸を上下させる彼の肩を片方の手で支えながらもう片方の手で頭を撫で続けるしかない。
「紬さんこっち見て、大丈夫だから。大丈夫。なぁ落ち着けって」
「ち……ちが……じゃな……」
「あ?」
口を小さく開けて彼が必死に紡ぎだそうとする単語に耳を傾ける。やがて、顔を腕で隠したままポツポツと吐き出される「違う」「番」「いない」「無理矢理」「強制解除」まで聞いたところで自分の限界がきた。
瞳を隠した腕を力づくで退かし、吸い込むような形で口を塞いで言葉を飲み込んでやる。
目を白黒させる紬さんを無視して一度唇を離し、額から瞼、目尻、耳、頬に唇を落としていく。最後に歯型の横でワザとらしくリップ音を響かせてやれば、耳まで真っ赤に染まった顔が逸らされた。
肩は支えたままなので首が辛そうであるが、頬をつつけば身をよじられる。そっと頬に手を添えてこちらを向かせてみれば、彼は心底可笑しそうに破顔していた。しかしその表情も一瞬で作られた綺麗な笑みに変えられてしまう。
「紬さん、いままで発情期どうしてたんすか?」
「……周期だけは無駄にきっちりしてたのと、普通の人より期間が短かったから、薬で抑えるか外泊してた」
「今回は?」
「薬に身体が慣れてきちゃったのか、あまり効かなくて……」
気がついたら重めのヒートが来てしまい、外泊どころでは無くなったと自嘲的に笑う声は幾分ハッキリしていた。ゆっくりと手を離せば、血色も良くなりすっかりいつもの調子に戻った紬さんは俺の襟首を掴んで身体を起こす。
汗で張り付いた服を脱ぎ捨て白い肌を惜しげもなく晒す彼の様子は、発情期が終わったことを示していた。いつからだと記憶を辿っても思い当たる節はない。
訝しげな視線を投げる俺に気がついているのかいないのか、彼は傍らに置いてあったタオルで身体を拭いてしまうと、そのまま先程の俺がしたように、うなじあたりに唇を寄せてきた。無抵抗でいれば小さく噛まれたような痛みが走る。満足げに顔を離した彼は、流れるような、マイムによく似た綺麗な弧を描きながら人差し指を口元に持ってきた。
「……恥ずかしいから、内緒だよ?」
脱力感から深いため息を吐いて彼を小突けば、屈託無く笑われてしまった。