腐向け
貴方のお名前は?
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鏡の中の自分が、いつも他人のように、自信満々に笑っていた。その自分が肉体を持ち、衣装を変えて、目の前に立っていたら。ひいてはその人物が立っている部屋が、理解のできない言語を書いている紙がいたるところに散乱している部屋にだとすれば、普通の人間はどう言った反応をするだろうか。因みにそこは自分の全く知らない部屋であるとする。湿っぽい図書館の匂いと、ザラザラとした埃の感覚。加えてとてつもなく肌寒い。
しかし幸いなことに、彼の姿には見覚えがあった。俺と同じ顔をしながら、熱のこもりそうな厚いコートに、きっちりと締められたコルセット。かつて春組の仲間が生み出し、俺が演じた“ボイド”の姿がそこにはあった。しかし妙なのは、反対に覆われていたはずの左目がむき出しになっていること。もしかすると、これから怪我でもするのかもしれない。
呆然と床に座り込む俺に対して、ボイドは嬉しそうに笑っている。カツカツとブーツを鳴らしながら俺に近づき、手袋がはめられた右手で俺の顎を持ち上げては一層笑みを深くした。疲れなのか手入れの問題なのか、よく見れば髪は傷んで瞳は濁っているように感じた。ふわりと薬品の匂いが鼻をかすめる。グラグラと揺れる瞳をじっと見つめ返していれば、彼は突然声をあげて笑い出した。
「成功だ。まさかこんなにも綺麗な人形を作り出すことができるとはな」
「……人形?」
「そうだ。機械人形などではない。精密な、肉体を持った人形!」
恍惚とした表情をしたまま、彼は着ていたコートを俺に被せてきた。やけに寒いと思っていたら、どうやら俺は素っ裸のままこちらに呼び出されたらしい。振り向けば物々しい鉄の機械。床には魔法陣らしきものが描かれており、ああここから召喚をされたのだろうと理解する。彼は錬金術師であっらが、この世界においての錬金術とは如何様なものか。我らが脚本家様にもう少し詳しい設定を聞いておくべきだったか。
そんなことを考えつつ、膝をつきながら、かけられたコートの裾を握ってゆっくりと立ち上がる。広がった視界の中で、煤けた戸棚の中に薬品の瓶やら書物やらが無造作に転がっているのが見えた。掃除などロクにされていないのが丸わかりだ。
「ああ、そうだ。名前を言っていなかったな。私はボイド、お前のことはなんと呼ぶべきかな?」
「……至で」
「ほう、至か。ならばつづりは“I,t,a,l”……お前、知識はどれくらいある?」
「この世界については何も知らないし、多分文盲かな」
床に散らかる紙たちは、おそらく英語だろうが意味はわからない。日常会話やビジネス用語ならいざしれず、この時代、この世界でそれが通じるとはとても思えない。まずもって会話が成立していることに驚いているところだ。
「なら、まずは勉強させて……服を着せなければ」
こちらを置いてどんどん話を進めていく彼の腕を慌てて引いた。振り向いた彼はキョトンとこちらを見つめている。
「お前が俺を呼び出したのは、何のため?」
「人は誰もが一度こう思う。“自分と同じ人間がもう一人いたなのなら”と。お前が作り出されたのはそういうことだよ、イタル」
歩みを止めることなく廊下を進む彼は、こちらの言い分を聞く気はないようだ。引いた腕は振りほどかれ、代わりに幼子の手を引くように手袋を履いた左手が添えられた。厚い布越しでは体温が伝わらず、どちらが人形だと心の中で突っ込む。そもそもこいつは、人形(俺はれっきとした人間だが)を作って何がしたかったのだろう。かつて読んだ漫画の中で、ミルクと砂糖菓子と持ち主の愛情で育つ人形が出ていたのを思い出した。少女趣味なオムニバスではあったが、中々に殊勝な作品であったように思う。その中でも持ち主と同じ顔をした人形は何かしらの人災を引き起こすのが定石である。それでなくとも持ち主とそっくりな人形というのは、あらゆる意味でリスクが大きい。それをわからない彼ではないだろう。
もちろん俺は彼に取って代わろうという意思はない。俺と彼では文字通り住む世界が違うのだから、至俺がボイド彼になったところでメリットは全くない。作り上げたと彼は言っていた。しかしあの部屋の様子では、作り上げたというよりはむしろ召喚されたと言える。ただここで問題なのは、俺が知ってる限りこのぜんまいの世界は産業革命あたりのヨーロッパが主体であり、どこかの漫画にありそうなファンタジー要素は見受けられなかった。
自分と同じ顔を見つめていれば、突き当たりにはめ込まれていた大きい扉に着いた。どうやらここが目的地のようだ。
扉を開いて真っ先に視界に飛び込んできたのは、小さな綴--もとい幼少期のルークだった。
「あ、師匠……が二人?」
「やあルーク、すまないが私の着替えをここに持ってきてくれないか」
幼いルークはしばし同じ顔の俺たちを見比べて瞬きをしていたものの、ボイドがもう一度「ルーク」と声をかけると、後ろをすり抜ける形で着替えを取りに行った。来た道を戻るのであれば、真っ先にその着替えのある部屋に行けばよかったのではと申し出れば、この男は「世話は全てあの小僧に投げるつもりだから良いのだ」とのたまった。どの世界でもあの姿をした人間は苦労性らしい。
しばらくしてパタパタとした足音とともに、服を手に下げたルークが帰ってきた。それらをボイドに手渡そうとしたところで、ボイドは「後のことは任せた」とだけ言い残して去って行ってしまった。ルークは一瞬顔を曇らせたが、すぐに元気な返事をして見送っている。こんな師匠の顔を借りただけのコミュ障の大人と二人取り残されるとは、不憫極まりない。加えてこの子は確か人見知りだったはずで、同情心が芽生えてきた。
「えっと……し、師匠……?」
「違うよ、俺は至。君の師匠の……コピーかな」
「ホムンクルス?」
「……俺自身はれっきとした人間なんだけど、なんて言えばいいのかな。ねぇルーク。ここでは別世界から何かを召喚することってできる? 例えば魔法陣とかで」
なるべく人受けする笑みを作りながら、問いかけるも目の前の子どもは首を横に降るばかり。そっか、とため息を吐いても、彼がわざわざ「作り上げた」と言った理由がわからなかった。媒体が魔法陣にしろ機械にしろ、作ったというのはありえない、何故ならそこには俺の産まれついてからの記憶があるからだ。それを作り上げたとするならば、俺のこれまでの人生はハリボテになる。
それはきっと、とても寂しいことだ。
ボイドの家に住み着いてから、一週間ほど時がたった。
あれからというものの、ボイドは自室(ルーク曰く研究室)に篭りきりで出てくる気配がない。俺はその間ルークと二人で読み書きの勉強をしたり、簡単な家事を請け負っていた。最初こそは付かず離れずであったルークも、何もできない俺にしびれを切らしたのか、はたまた最愛の師匠と同じ顔をしているせいか積極的に世話を焼いてくれるまでになっている。
「さびしくはないの?」
「イタルは淋しいの?」
「寂しいよ」
ここの暮らしはいたって快適である。そりゃあ、ライフワークであったゲームもできなければ、何か読もうとすると慣れない言語で、普通の人間では一刻も早く帰りたいと思うだろう。勿論劇団のみんなにも会いたいし、監督さんや臣や綴の作る料理が恋しい時もある。今まで当たり前のように周りにあったものが、突如として消えてしまうことはこの上ないストレスだ。四六時中隣に居るのだって、綴の顔をした綴ではない人間。成長してからもかぶっていた機械仕掛けをモチーフにした帽子を、室内であるにも関わらず深く被り、翡翠の瞳をちらちらとこちらに向ける。年齢は幾つだろうか、身長は俺の胸ほどで、十歳前後といったところか。小さな身体で抱えている本たちは、大きさでも分量でも、およそ小学生には不釣り合いだろう。
「ルークは寂しくないの?」
「師匠は忙しいから」
俺は寂しいよルーク。こんなに近くに居るのに、話もできないなんて。
多分ルークも寂しいんだよ。口には出しはしないのだけれど、そっと帽子を奪ってやった。師匠に貰ったのだと楽しそうに話していた煤けた帽子。俺の周りには、ボイドの作り出したものしかなかった。
久しぶりに姿を見せたボイドは、随分と衰弱していた。元々白かった顔はさらに血色が悪くなり、ロクに食べていないのか頬が痩けていた。何より目立つのは手袋をしていた右手がきれいに失くなっていること。ただ思っていたよりも動揺していないのは、切れ味のいい刃ですっぱりと切られたような切り口であり、血が一滴も流れていないからだ。
当たり前だが隣にいたルークは真っ青で、早く医者に見せなければと騒いでいる。そんな様子を見てボイドは困ったように笑っている。そして手袋をはめた左手で、ルークと俺の頭を撫でたのだ。そのまま俺の手を取り、何かを叫ぶルークを置いたまま俺が最初にこの世界に呼び出された時の部屋に連れ込まれた。
「可愛い弟子を置いてっていいの?」
「いつでも話せるからな」
淡々とした喋り口で立たされたのは、いつぞやの魔法陣ではなく物々しい機械の前。ゴツゴツとした扉を開けて、その中に放り投げられる。どういうつもりだと視線を送っても、彼は笑顔を崩そうとはしない。この笑い方は知っている。自分が鏡の中で見る、外行き用の顔だ。
「可愛い可愛い私の人形。私のためにその身体を捧げろ」
瞬間、機械から蒸気が吹き出し、床に散らばった紙が一枚こちらに飛んできた。拾い上げたのは、未だに解読のできなかった紙。今ならわかる。
《Space-time transfer apparatus》
《時空転移装置》
この家で、何冊も資料を見つけた。そこに挟まっていた幾つもの紙の切れ端。
彼もまた、淋しかったのだろう。無意識のうちに、理解を求めるほどに。
ゆっくりと目を開けていると、見慣れた天井が目に入った。夢ではない。だが、元の世界に戻ってきたのは確実だろう。
「身体を貰うんじゃなかったのか……」
まず間違いなく、俺はあの時死を覚悟していた。文字通り子どもの人形として、腕をもがれ、遊び道具として打ち捨てられるものだと思っていたのに。左手を人差し指から中指、薬指、小指、そして親指まで握ってから、力を抜いて緩く手を開いてみる。そしてまた握って開いて、何も障害もなく動く左手に、何故だか泣きたくなった。
「……至さん?」
「る……綴?」
いつの間に入ってきたのだろう。隣には成長したルーク、もとい綴が枕元に腰掛けていた。
「大丈夫っすか? 体調悪い?」
「ねぇ、綴。ぜんまいの話って、前日談とか、なんでこのキャラがこういう格好してるかって設定ある?」
「なんすか、急に? 前日談は特に考えていませんし、衣装は幸に任せっきりなんで」
「……そう」
それではあの二人は、自分の妄想が作り出した産物と言うことだ。俺が望んだルークは幼い子どもであり、ボイドは孤独な錬金術師。当代無双の錬金術師は、誰にも理解されないものだ。行き過ぎた才は、やがてその人物を孤独にするということは、物語の王道である。
何よりも淋しいのは、彼自身にその自覚がなかったこと。悔しいのは、俺がその気持ちを埋めるまでの位置に居られなかったこと。心の中でポロポロと泣く彼は、俺であるのに俺ではない。久しぶりに触った携帯の真っ黒なディスプレイに映る自分の顔は、どこか崩れてしまっていた。
それからというものの、俺は鏡を見る機会が増えた。鏡に限らずとも、少しずつ、だが確かに携帯の画面をぼんやりと見つめてみたり、ガラス窓をじっと覗いてみたり。団員たちは、俺のそのアンニュイな雰囲気に難色を示したが、他にこれといった弊害が無かったせいか深く突っ込んでくる人間は誰もいなかった。ただゲーム中に呆けてしまうことから万里には怒られ、意外と鋭いところがある咲也にも心配そうに声をかけられ、実際に泣いているところを見られた綴は何も言わずにそばにいてくれた。
何日も何日も何日も、まるでとり憑かれているように鏡を見る。映る顔は日に日に悲しげに歪んでいって、とうとう左目が崩れ落ちた。
「ボイド、ボイド。そっちに行きたい」
——どうか連れていって。この身なんて、いくらでもあげるから。
それを口にした瞬間、触れていた指先が鏡に軽く沈んだ。
「あぁ、連れていこう。お前が望むならば」
反響した声は高く、最期にみた彼の顔はこの上なく幸福な色を浮かべていた。
しかし幸いなことに、彼の姿には見覚えがあった。俺と同じ顔をしながら、熱のこもりそうな厚いコートに、きっちりと締められたコルセット。かつて春組の仲間が生み出し、俺が演じた“ボイド”の姿がそこにはあった。しかし妙なのは、反対に覆われていたはずの左目がむき出しになっていること。もしかすると、これから怪我でもするのかもしれない。
呆然と床に座り込む俺に対して、ボイドは嬉しそうに笑っている。カツカツとブーツを鳴らしながら俺に近づき、手袋がはめられた右手で俺の顎を持ち上げては一層笑みを深くした。疲れなのか手入れの問題なのか、よく見れば髪は傷んで瞳は濁っているように感じた。ふわりと薬品の匂いが鼻をかすめる。グラグラと揺れる瞳をじっと見つめ返していれば、彼は突然声をあげて笑い出した。
「成功だ。まさかこんなにも綺麗な人形を作り出すことができるとはな」
「……人形?」
「そうだ。機械人形などではない。精密な、肉体を持った人形!」
恍惚とした表情をしたまま、彼は着ていたコートを俺に被せてきた。やけに寒いと思っていたら、どうやら俺は素っ裸のままこちらに呼び出されたらしい。振り向けば物々しい鉄の機械。床には魔法陣らしきものが描かれており、ああここから召喚をされたのだろうと理解する。彼は錬金術師であっらが、この世界においての錬金術とは如何様なものか。我らが脚本家様にもう少し詳しい設定を聞いておくべきだったか。
そんなことを考えつつ、膝をつきながら、かけられたコートの裾を握ってゆっくりと立ち上がる。広がった視界の中で、煤けた戸棚の中に薬品の瓶やら書物やらが無造作に転がっているのが見えた。掃除などロクにされていないのが丸わかりだ。
「ああ、そうだ。名前を言っていなかったな。私はボイド、お前のことはなんと呼ぶべきかな?」
「……至で」
「ほう、至か。ならばつづりは“I,t,a,l”……お前、知識はどれくらいある?」
「この世界については何も知らないし、多分文盲かな」
床に散らかる紙たちは、おそらく英語だろうが意味はわからない。日常会話やビジネス用語ならいざしれず、この時代、この世界でそれが通じるとはとても思えない。まずもって会話が成立していることに驚いているところだ。
「なら、まずは勉強させて……服を着せなければ」
こちらを置いてどんどん話を進めていく彼の腕を慌てて引いた。振り向いた彼はキョトンとこちらを見つめている。
「お前が俺を呼び出したのは、何のため?」
「人は誰もが一度こう思う。“自分と同じ人間がもう一人いたなのなら”と。お前が作り出されたのはそういうことだよ、イタル」
歩みを止めることなく廊下を進む彼は、こちらの言い分を聞く気はないようだ。引いた腕は振りほどかれ、代わりに幼子の手を引くように手袋を履いた左手が添えられた。厚い布越しでは体温が伝わらず、どちらが人形だと心の中で突っ込む。そもそもこいつは、人形(俺はれっきとした人間だが)を作って何がしたかったのだろう。かつて読んだ漫画の中で、ミルクと砂糖菓子と持ち主の愛情で育つ人形が出ていたのを思い出した。少女趣味なオムニバスではあったが、中々に殊勝な作品であったように思う。その中でも持ち主と同じ顔をした人形は何かしらの人災を引き起こすのが定石である。それでなくとも持ち主とそっくりな人形というのは、あらゆる意味でリスクが大きい。それをわからない彼ではないだろう。
もちろん俺は彼に取って代わろうという意思はない。俺と彼では文字通り住む世界が違うのだから、至俺がボイド彼になったところでメリットは全くない。作り上げたと彼は言っていた。しかしあの部屋の様子では、作り上げたというよりはむしろ召喚されたと言える。ただここで問題なのは、俺が知ってる限りこのぜんまいの世界は産業革命あたりのヨーロッパが主体であり、どこかの漫画にありそうなファンタジー要素は見受けられなかった。
自分と同じ顔を見つめていれば、突き当たりにはめ込まれていた大きい扉に着いた。どうやらここが目的地のようだ。
扉を開いて真っ先に視界に飛び込んできたのは、小さな綴--もとい幼少期のルークだった。
「あ、師匠……が二人?」
「やあルーク、すまないが私の着替えをここに持ってきてくれないか」
幼いルークはしばし同じ顔の俺たちを見比べて瞬きをしていたものの、ボイドがもう一度「ルーク」と声をかけると、後ろをすり抜ける形で着替えを取りに行った。来た道を戻るのであれば、真っ先にその着替えのある部屋に行けばよかったのではと申し出れば、この男は「世話は全てあの小僧に投げるつもりだから良いのだ」とのたまった。どの世界でもあの姿をした人間は苦労性らしい。
しばらくしてパタパタとした足音とともに、服を手に下げたルークが帰ってきた。それらをボイドに手渡そうとしたところで、ボイドは「後のことは任せた」とだけ言い残して去って行ってしまった。ルークは一瞬顔を曇らせたが、すぐに元気な返事をして見送っている。こんな師匠の顔を借りただけのコミュ障の大人と二人取り残されるとは、不憫極まりない。加えてこの子は確か人見知りだったはずで、同情心が芽生えてきた。
「えっと……し、師匠……?」
「違うよ、俺は至。君の師匠の……コピーかな」
「ホムンクルス?」
「……俺自身はれっきとした人間なんだけど、なんて言えばいいのかな。ねぇルーク。ここでは別世界から何かを召喚することってできる? 例えば魔法陣とかで」
なるべく人受けする笑みを作りながら、問いかけるも目の前の子どもは首を横に降るばかり。そっか、とため息を吐いても、彼がわざわざ「作り上げた」と言った理由がわからなかった。媒体が魔法陣にしろ機械にしろ、作ったというのはありえない、何故ならそこには俺の産まれついてからの記憶があるからだ。それを作り上げたとするならば、俺のこれまでの人生はハリボテになる。
それはきっと、とても寂しいことだ。
ボイドの家に住み着いてから、一週間ほど時がたった。
あれからというものの、ボイドは自室(ルーク曰く研究室)に篭りきりで出てくる気配がない。俺はその間ルークと二人で読み書きの勉強をしたり、簡単な家事を請け負っていた。最初こそは付かず離れずであったルークも、何もできない俺にしびれを切らしたのか、はたまた最愛の師匠と同じ顔をしているせいか積極的に世話を焼いてくれるまでになっている。
「さびしくはないの?」
「イタルは淋しいの?」
「寂しいよ」
ここの暮らしはいたって快適である。そりゃあ、ライフワークであったゲームもできなければ、何か読もうとすると慣れない言語で、普通の人間では一刻も早く帰りたいと思うだろう。勿論劇団のみんなにも会いたいし、監督さんや臣や綴の作る料理が恋しい時もある。今まで当たり前のように周りにあったものが、突如として消えてしまうことはこの上ないストレスだ。四六時中隣に居るのだって、綴の顔をした綴ではない人間。成長してからもかぶっていた機械仕掛けをモチーフにした帽子を、室内であるにも関わらず深く被り、翡翠の瞳をちらちらとこちらに向ける。年齢は幾つだろうか、身長は俺の胸ほどで、十歳前後といったところか。小さな身体で抱えている本たちは、大きさでも分量でも、およそ小学生には不釣り合いだろう。
「ルークは寂しくないの?」
「師匠は忙しいから」
俺は寂しいよルーク。こんなに近くに居るのに、話もできないなんて。
多分ルークも寂しいんだよ。口には出しはしないのだけれど、そっと帽子を奪ってやった。師匠に貰ったのだと楽しそうに話していた煤けた帽子。俺の周りには、ボイドの作り出したものしかなかった。
久しぶりに姿を見せたボイドは、随分と衰弱していた。元々白かった顔はさらに血色が悪くなり、ロクに食べていないのか頬が痩けていた。何より目立つのは手袋をしていた右手がきれいに失くなっていること。ただ思っていたよりも動揺していないのは、切れ味のいい刃ですっぱりと切られたような切り口であり、血が一滴も流れていないからだ。
当たり前だが隣にいたルークは真っ青で、早く医者に見せなければと騒いでいる。そんな様子を見てボイドは困ったように笑っている。そして手袋をはめた左手で、ルークと俺の頭を撫でたのだ。そのまま俺の手を取り、何かを叫ぶルークを置いたまま俺が最初にこの世界に呼び出された時の部屋に連れ込まれた。
「可愛い弟子を置いてっていいの?」
「いつでも話せるからな」
淡々とした喋り口で立たされたのは、いつぞやの魔法陣ではなく物々しい機械の前。ゴツゴツとした扉を開けて、その中に放り投げられる。どういうつもりだと視線を送っても、彼は笑顔を崩そうとはしない。この笑い方は知っている。自分が鏡の中で見る、外行き用の顔だ。
「可愛い可愛い私の人形。私のためにその身体を捧げろ」
瞬間、機械から蒸気が吹き出し、床に散らばった紙が一枚こちらに飛んできた。拾い上げたのは、未だに解読のできなかった紙。今ならわかる。
《Space-time transfer apparatus》
《時空転移装置》
この家で、何冊も資料を見つけた。そこに挟まっていた幾つもの紙の切れ端。
彼もまた、淋しかったのだろう。無意識のうちに、理解を求めるほどに。
ゆっくりと目を開けていると、見慣れた天井が目に入った。夢ではない。だが、元の世界に戻ってきたのは確実だろう。
「身体を貰うんじゃなかったのか……」
まず間違いなく、俺はあの時死を覚悟していた。文字通り子どもの人形として、腕をもがれ、遊び道具として打ち捨てられるものだと思っていたのに。左手を人差し指から中指、薬指、小指、そして親指まで握ってから、力を抜いて緩く手を開いてみる。そしてまた握って開いて、何も障害もなく動く左手に、何故だか泣きたくなった。
「……至さん?」
「る……綴?」
いつの間に入ってきたのだろう。隣には成長したルーク、もとい綴が枕元に腰掛けていた。
「大丈夫っすか? 体調悪い?」
「ねぇ、綴。ぜんまいの話って、前日談とか、なんでこのキャラがこういう格好してるかって設定ある?」
「なんすか、急に? 前日談は特に考えていませんし、衣装は幸に任せっきりなんで」
「……そう」
それではあの二人は、自分の妄想が作り出した産物と言うことだ。俺が望んだルークは幼い子どもであり、ボイドは孤独な錬金術師。当代無双の錬金術師は、誰にも理解されないものだ。行き過ぎた才は、やがてその人物を孤独にするということは、物語の王道である。
何よりも淋しいのは、彼自身にその自覚がなかったこと。悔しいのは、俺がその気持ちを埋めるまでの位置に居られなかったこと。心の中でポロポロと泣く彼は、俺であるのに俺ではない。久しぶりに触った携帯の真っ黒なディスプレイに映る自分の顔は、どこか崩れてしまっていた。
それからというものの、俺は鏡を見る機会が増えた。鏡に限らずとも、少しずつ、だが確かに携帯の画面をぼんやりと見つめてみたり、ガラス窓をじっと覗いてみたり。団員たちは、俺のそのアンニュイな雰囲気に難色を示したが、他にこれといった弊害が無かったせいか深く突っ込んでくる人間は誰もいなかった。ただゲーム中に呆けてしまうことから万里には怒られ、意外と鋭いところがある咲也にも心配そうに声をかけられ、実際に泣いているところを見られた綴は何も言わずにそばにいてくれた。
何日も何日も何日も、まるでとり憑かれているように鏡を見る。映る顔は日に日に悲しげに歪んでいって、とうとう左目が崩れ落ちた。
「ボイド、ボイド。そっちに行きたい」
——どうか連れていって。この身なんて、いくらでもあげるから。
それを口にした瞬間、触れていた指先が鏡に軽く沈んだ。
「あぁ、連れていこう。お前が望むならば」
反響した声は高く、最期にみた彼の顔はこの上なく幸福な色を浮かべていた。