腐向け
貴方のお名前は?
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次の日、屋敷に妹がやってきた。
僕はといえば未だ眠ったままのロビンを自分のベッドに横たわらせて、一睡もできないまま彼女を迎えていた。とても酷い顔をしていたのだろう。彼女は僕の顔を見るなり台所に直行した。
出てきたのは箱に入ったキッシュ・ロレーヌ。その香ばしい匂いが鼻をくすぐると、今まで機能を忘れていた腹の虫がクウと鳴った。
呆れ顔の彼女は綺麗に切り分けられたキッシュを一つ皿に盛って、一口食べるように促した。大人しく少し冷めたそれを手にとって齧り付くと、濃厚なチーズの味が舌に乗る。お菓子のような見た目の割にボリュームのあるキッシュは、あっという間に胃の中に収まると満腹感があった。
そしてお互い、一つため息。
「お兄ちゃん。ストーカーってそんな酷かったの?」
先に切り込んだのは妹だ。彼女には最近の家での出来事しか話していなかったため、この反応は当然だろう。しかし問題は別にあったので、大人しくかぶりを振っておいた。
それからポツリ、ポツリとロビンのことを語った。ミルクの時にしか顔を見せないこと、愛情のかけ方がわからないこと、倒れたこと全て。
それら全てを聞き遂げた後で、彼女はまた一つ大きなため息を吐いた。そして低い声で「お兄ちゃん」と言った後、佇まいを直した。僕もそれにつられて、背中をピンと伸ばす。
「お兄ちゃんは、あの子のことを何だと思ってる?」
「何……?」
数秒、問いかけの意味がわからなかった。しかし時間をかけるごとに、彼女の表情は険しいものになっていく。これは怒っているな、とそれでもどこか呑気な自分は考えてしまう。
「言ったよね、私たちにとって、あの娘は自分の子どもだって」
「あ、ああ……」
「私は、ただのお人形を貴方に紹介したわけじゃないよ」
「お人形」
「だってお兄ちゃん、あの子のことを話すとき、ずっと名前じゃなくて“アレ”って言うんだもん」
そこまで言われて漸く思い当たった。
自分と彼女では、アレらの存在に認識の齟齬がある。自分はあくまでロビンを人形として扱い、彼女は人間として扱うのだ。けれどやはり彼女の表情は険しいままで、僕は耳を傾けるしかない。
「それは別にいいの。人形を人形として扱うことは、何も悪じゃない」
「じゃあ、どうして」
「観用少女は愛情が必要なの。人間として扱うなら人間としてなりの、人形として扱うなら人形としてなりの、愛情のかけ方が違う。お兄ちゃんは口では……ううん、心の中でもあの子を人形として認識しているみたいだけど、扱いが人間のそれなの。それじゃあただのネグレクトだよ」
つまり、彼女の言いたいことはこうだ。
僕があの人形を人形として思い、そう扱ったならそれなりの愛情がある。人形として衣類を仕立て、指定の部屋から出ないよう言い聞かせ、決まった時間にミルクを与える。そうすれば人形もそれだけの愛情を感じることができる。しかし僕のやっていることといえば、人形に好き勝手動き回らせ、人間の子供のように振る舞う彼を容認し、それでいて声をかけることもなく放置する。
それを、ただのネグレクト、ある意味で人形への愛情のかけ方が歪なのだ、と彼女は断じた。
視界が歪む。ふつふつと煮えるような胃を抑え、彼女に向き直る。
「それでは僕は……何をすればいい?」
「今すぐ彼への感情の指針を決めて、その後眠ってる彼のところに行って」
感情への指針。つまり、彼を人形として扱うか、ヒトとして扱うか、二つに一つを決めろと言うのだ。彼女は机を指先でトントンと叩き、その決断を急いてくる。
僕は瞳を閉じた。そして一度だけ息を吸って、数回に分けてそれを吐き出した。次に目を開けた時、彼女はもう怒ってはいなかった。僕が何を思ったのか、全て分かっているような顔でいただけだ。
「行ってくる」
「わかった。私はもう帰るけど、良い報告を期待してるね」
急いで部屋に飛び出そうとした僕の背に言葉が投げられて、一瞬だけ振り返る。タイミングよく綺麗にウインクをした妹に、きっと僕は一生勝てないだろう。
--
重い扉を開けると、彼はまだ眠っていた。ボロボロの身なりはそのままで、柔らかな布に身体を預けている。人形に呼吸という概念が無いせいか、胸の上下も見受けられない。
——それはまるで、生きている(死んでいる)ような。
「……やめてくれ」
不意によぎった考えを振り払うべく頭を振って、彼の傍に膝をつく。青ざめた彼の頬に触れた時、自分の手も同じくらい真っ白なことに気がついた。そのまま輪郭をなぞっても、彼の体温は暖かくも冷たくもない。それほどまでに、自分の指先が冷え切っているのだ。
堪らずベッドシーツに埋もれていた彼の腕を取って、縋るような形で顔を埋める。鼻の奥がツンと痛んだ。目頭がじわじわと熱をもって、それを冷まそうと水滴が頬を流れ落ちる。
「すまない……」
何の謝罪かは、自分にもわからない。ただひたすらに赦しを得たかった。目を開けて、詰ってほしかった。彼は自分の気持ちをまだ僕に見せていない。僕が嫌なら嫌でいい。精一杯拒絶の意思を示してくれれば、あの店に返す踏ん切りがつく。
いや、本当はそうではないことぐらい、頭ではわかっていた。
彼が僕の前で目を覚ました時点で、それはあり得ないことなのだ。観用少女は好きではない人間では決して目を覚まさない。近づいてきたりなど、しない。
なるべく物音を立てないようにして、彼の腕をそっと元の位置に戻す。それから傷んでしまった髪を撫で、頬にキスを落とした。昔、熱を出して寝込んでいた妹にもよくやっていたことだ。
——ミルクを作らなければ。
小走りで台所に向かう。目覚めるのか確証はないものの、何も用意しないよりはずっといい。いつも通り沸騰させたミルクを、カップに注いで運ぶ。冷たいカップと時間によって、全てが終わる頃には人肌程度になっているはずだ。そんな願望と一緒にミルクを運ぶ。
ゆっくりと部屋に戻ると、小さな人影があった。彼はベッドから上半身を起こして、ぼんやりとした顔で空を見つめている。だらりと腕を投げ出したまま、こちらに気がついている様子はなく、逃げる素振りもない。
念の為部屋に鍵をかけて、ミルクを零さないようにベッドボードに置く。カチャン、と音がして彼の瞳がこちらを向いた。少しだけ虚ろな、けれど森の木々のように爽やかな草色。彼は事態が飲み込めていないようで、パチリと瞬きを繰り返す。そして数十秒たった頃にようやく青ざめた顔で身を引いた。
その態度がどうしようもなく心を軋ませて、思わず肩を掴んでしまった。身体が思うように動かないのか、彼がベッドから降りる様子はない。ただ駄々っ子のように首を振って、シーツを手繰り寄せるだけ。それでもすぐにハッとして手を離してしまうのだが、視線はウロウロと僕の顔から外そうと一生懸命になっている。
「逃げないで、どうか僕の話を聞いてほしい」
言いながら一度だけ手を離した。無理やり近づくことはせず、ベッドの傍にあった小さな椅子に腰掛ける。古い椅子が体重でギイと鳴った瞬間、また彼の身体がピクリと震えた。
「……今からいくつか質問をしたい。いいかい?」
観用少女は喋れない。だからこそ態度で、表情で、その感情を示すのだ。彼の表情はとても雄弁で、怯えているのがとてもよくわかる。それでも俯いたままコクリと頷くのだから、とても強い子なのだろう。
「ありがとう、それじゃあ一つ目。君は、元いた店に戻りたいと思うかい?」
彼の顔が驚愕の色に染まった。絶望と表現してもいいかもしれない。
瞳を大きく見開いて、眉をキュッと寄せ、口を小さく開閉させている。それだけで、この提案が全くの的外れだったことがわかって安心した。
「二つ目、僕が家に居ない間、家事をやってくれたのは君かい?」
今度の質問には、思ったほどの驚きはなかったようだ。間を置かずに頷かれる。ただ神妙な顔つきは変わっていないので、これから怒られるとでも思っているのだろう。
奇妙な気の引き方だと、思った。
観用少女は持ち主の愛情が無くなれば枯れてしまう。だからこそ、それこそ子どものように持ち主の気を引きたがるのだと、いつかマリーたちは言っていた。悪戯好きで困ってしまう、なんて笑いながら。
彼もそうだったのだ。そもそも物盗りやストーカーの仕業であれば、世にも珍しいこの人形に手を出さないはずはない。それが無傷で家に残っていたということは、自然と犯人は限られてくる。
身を硬くして、次の質問を待つ子ども。幼くて、愛情のわかりにくい彼は、きっと前の家でも同じようなことをしたのかもしれない。……ああ、なんて愛おしいのだろう。
ゆっくり怖がらせないように頭を撫でて、小さな身体を両腕で抱きしめて仕舞えば、彼はペシンと僕の腕を叩いた。それでも踠いて抜けようとしないあたり、素直ではない。
「ありがとう。こんな不甲斐ない僕のところに来てくれて。……愛想を尽かさないで、いてくれて」
何度も何度も繰り返し感謝の言葉を言いながら、腕の力を強くする。彼はしばらく固まったままだったが、やがて僕の腕をキュッと控えめに掴んだ。覗き込んだ顔はひどく真っ赤で、白い肌のせいかよく目立つ。これ以上同じ言葉を繰り返せばまた叩かれてしまうなと思い、そっと腕の力を抜いていく。
草色の瞳がこちらを見た。倒れた直後よりずっと顔色もいい。未だ離してくれそうにない手をそのままに、ベッドボードへと腕を伸ばした。カップからはまだ暖かな空気が流れている。よかったと一つ安堵して、彼の目の前まで持ってきた。
「これを、飲んでくれないか? どうか僕の前で」
彼は要領を得ないようで、パチリと瞬くだけだ。それでも必死に目を合わせて差し出せば、そうっとカップが彼の手に渡った。零さないようにゆっくりと、けれど一気に嚥下する。カップから口を離して数秒、彼は屈託のない目を細くして、満足そうに、得意そうに、罪もなく無邪気に微笑んだ。それは確かに、極上の笑みと言えるだろう。
気がついた時には、もう一度力一杯彼を抱き込んでいた。空のカップが床に転がるのも気にせずに、すっかり元気そうな彼がジタバタと抜け出そうとするのも押さえつけて。
「どうか僕に、贖罪の機会をおくれ……ロビン」
声に出して初めて気がつく。僕は彼の名前すら、呼んであげられていなかった。行儀の悪い足が僕のお腹を蹴るのも可愛らしく思えて、一つ頬に軽いキスを送る。すぐさま駒鳥に返されたバードキスは勢いがありすぎて、互いに「痛い」と笑う羽目になった。
--
食べ物の香りが漂う台所に、二つ影が落ちている。危なっかしい手つきで包丁を持つロビンを見守りながら、こちらもフライパンを小さく揺すった。
あの時、二人で決めた約束。家事は二人でやること。その代わりに僕は病院での無駄な時間をなるべく無くし、家にいる時間を増やした。勿論急患がいればすぐに行かなければならないのだが、病院自体はさほど遠くないので苦ではない。それに本人に言えば確実に殴られてしまうが、電話が来た時の彼の拗ねたような顔は、何とも言い難い優越感にかられるものだ。
小さな器にニソワーズを盛り付けてもらい、こちらは彼と新しく選んだ平皿にロティを飾っていく。彼が盛り付けに苦戦している間にミルクを温め、砂糖菓子の入った瓶を机の上に置いたら大体の準備は終わる。最後に得意げな顔で自分の盛り付けた料理を見せてくる彼の頭を撫でて、食卓について祈りを捧げる。
彼はどんどん成長する。元々の家で人の食事をしていたらしく、周りの観用少女より大きかったのはそのせいだ。ここまで彼を育ててくれた老夫婦には感謝するしかない。
そのおかげで今こうして、二人でフォークとナイフを持つことができるのだから。
僕はといえば未だ眠ったままのロビンを自分のベッドに横たわらせて、一睡もできないまま彼女を迎えていた。とても酷い顔をしていたのだろう。彼女は僕の顔を見るなり台所に直行した。
出てきたのは箱に入ったキッシュ・ロレーヌ。その香ばしい匂いが鼻をくすぐると、今まで機能を忘れていた腹の虫がクウと鳴った。
呆れ顔の彼女は綺麗に切り分けられたキッシュを一つ皿に盛って、一口食べるように促した。大人しく少し冷めたそれを手にとって齧り付くと、濃厚なチーズの味が舌に乗る。お菓子のような見た目の割にボリュームのあるキッシュは、あっという間に胃の中に収まると満腹感があった。
そしてお互い、一つため息。
「お兄ちゃん。ストーカーってそんな酷かったの?」
先に切り込んだのは妹だ。彼女には最近の家での出来事しか話していなかったため、この反応は当然だろう。しかし問題は別にあったので、大人しくかぶりを振っておいた。
それからポツリ、ポツリとロビンのことを語った。ミルクの時にしか顔を見せないこと、愛情のかけ方がわからないこと、倒れたこと全て。
それら全てを聞き遂げた後で、彼女はまた一つ大きなため息を吐いた。そして低い声で「お兄ちゃん」と言った後、佇まいを直した。僕もそれにつられて、背中をピンと伸ばす。
「お兄ちゃんは、あの子のことを何だと思ってる?」
「何……?」
数秒、問いかけの意味がわからなかった。しかし時間をかけるごとに、彼女の表情は険しいものになっていく。これは怒っているな、とそれでもどこか呑気な自分は考えてしまう。
「言ったよね、私たちにとって、あの娘は自分の子どもだって」
「あ、ああ……」
「私は、ただのお人形を貴方に紹介したわけじゃないよ」
「お人形」
「だってお兄ちゃん、あの子のことを話すとき、ずっと名前じゃなくて“アレ”って言うんだもん」
そこまで言われて漸く思い当たった。
自分と彼女では、アレらの存在に認識の齟齬がある。自分はあくまでロビンを人形として扱い、彼女は人間として扱うのだ。けれどやはり彼女の表情は険しいままで、僕は耳を傾けるしかない。
「それは別にいいの。人形を人形として扱うことは、何も悪じゃない」
「じゃあ、どうして」
「観用少女は愛情が必要なの。人間として扱うなら人間としてなりの、人形として扱うなら人形としてなりの、愛情のかけ方が違う。お兄ちゃんは口では……ううん、心の中でもあの子を人形として認識しているみたいだけど、扱いが人間のそれなの。それじゃあただのネグレクトだよ」
つまり、彼女の言いたいことはこうだ。
僕があの人形を人形として思い、そう扱ったならそれなりの愛情がある。人形として衣類を仕立て、指定の部屋から出ないよう言い聞かせ、決まった時間にミルクを与える。そうすれば人形もそれだけの愛情を感じることができる。しかし僕のやっていることといえば、人形に好き勝手動き回らせ、人間の子供のように振る舞う彼を容認し、それでいて声をかけることもなく放置する。
それを、ただのネグレクト、ある意味で人形への愛情のかけ方が歪なのだ、と彼女は断じた。
視界が歪む。ふつふつと煮えるような胃を抑え、彼女に向き直る。
「それでは僕は……何をすればいい?」
「今すぐ彼への感情の指針を決めて、その後眠ってる彼のところに行って」
感情への指針。つまり、彼を人形として扱うか、ヒトとして扱うか、二つに一つを決めろと言うのだ。彼女は机を指先でトントンと叩き、その決断を急いてくる。
僕は瞳を閉じた。そして一度だけ息を吸って、数回に分けてそれを吐き出した。次に目を開けた時、彼女はもう怒ってはいなかった。僕が何を思ったのか、全て分かっているような顔でいただけだ。
「行ってくる」
「わかった。私はもう帰るけど、良い報告を期待してるね」
急いで部屋に飛び出そうとした僕の背に言葉が投げられて、一瞬だけ振り返る。タイミングよく綺麗にウインクをした妹に、きっと僕は一生勝てないだろう。
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重い扉を開けると、彼はまだ眠っていた。ボロボロの身なりはそのままで、柔らかな布に身体を預けている。人形に呼吸という概念が無いせいか、胸の上下も見受けられない。
——それはまるで、生きている(死んでいる)ような。
「……やめてくれ」
不意によぎった考えを振り払うべく頭を振って、彼の傍に膝をつく。青ざめた彼の頬に触れた時、自分の手も同じくらい真っ白なことに気がついた。そのまま輪郭をなぞっても、彼の体温は暖かくも冷たくもない。それほどまでに、自分の指先が冷え切っているのだ。
堪らずベッドシーツに埋もれていた彼の腕を取って、縋るような形で顔を埋める。鼻の奥がツンと痛んだ。目頭がじわじわと熱をもって、それを冷まそうと水滴が頬を流れ落ちる。
「すまない……」
何の謝罪かは、自分にもわからない。ただひたすらに赦しを得たかった。目を開けて、詰ってほしかった。彼は自分の気持ちをまだ僕に見せていない。僕が嫌なら嫌でいい。精一杯拒絶の意思を示してくれれば、あの店に返す踏ん切りがつく。
いや、本当はそうではないことぐらい、頭ではわかっていた。
彼が僕の前で目を覚ました時点で、それはあり得ないことなのだ。観用少女は好きではない人間では決して目を覚まさない。近づいてきたりなど、しない。
なるべく物音を立てないようにして、彼の腕をそっと元の位置に戻す。それから傷んでしまった髪を撫で、頬にキスを落とした。昔、熱を出して寝込んでいた妹にもよくやっていたことだ。
——ミルクを作らなければ。
小走りで台所に向かう。目覚めるのか確証はないものの、何も用意しないよりはずっといい。いつも通り沸騰させたミルクを、カップに注いで運ぶ。冷たいカップと時間によって、全てが終わる頃には人肌程度になっているはずだ。そんな願望と一緒にミルクを運ぶ。
ゆっくりと部屋に戻ると、小さな人影があった。彼はベッドから上半身を起こして、ぼんやりとした顔で空を見つめている。だらりと腕を投げ出したまま、こちらに気がついている様子はなく、逃げる素振りもない。
念の為部屋に鍵をかけて、ミルクを零さないようにベッドボードに置く。カチャン、と音がして彼の瞳がこちらを向いた。少しだけ虚ろな、けれど森の木々のように爽やかな草色。彼は事態が飲み込めていないようで、パチリと瞬きを繰り返す。そして数十秒たった頃にようやく青ざめた顔で身を引いた。
その態度がどうしようもなく心を軋ませて、思わず肩を掴んでしまった。身体が思うように動かないのか、彼がベッドから降りる様子はない。ただ駄々っ子のように首を振って、シーツを手繰り寄せるだけ。それでもすぐにハッとして手を離してしまうのだが、視線はウロウロと僕の顔から外そうと一生懸命になっている。
「逃げないで、どうか僕の話を聞いてほしい」
言いながら一度だけ手を離した。無理やり近づくことはせず、ベッドの傍にあった小さな椅子に腰掛ける。古い椅子が体重でギイと鳴った瞬間、また彼の身体がピクリと震えた。
「……今からいくつか質問をしたい。いいかい?」
観用少女は喋れない。だからこそ態度で、表情で、その感情を示すのだ。彼の表情はとても雄弁で、怯えているのがとてもよくわかる。それでも俯いたままコクリと頷くのだから、とても強い子なのだろう。
「ありがとう、それじゃあ一つ目。君は、元いた店に戻りたいと思うかい?」
彼の顔が驚愕の色に染まった。絶望と表現してもいいかもしれない。
瞳を大きく見開いて、眉をキュッと寄せ、口を小さく開閉させている。それだけで、この提案が全くの的外れだったことがわかって安心した。
「二つ目、僕が家に居ない間、家事をやってくれたのは君かい?」
今度の質問には、思ったほどの驚きはなかったようだ。間を置かずに頷かれる。ただ神妙な顔つきは変わっていないので、これから怒られるとでも思っているのだろう。
奇妙な気の引き方だと、思った。
観用少女は持ち主の愛情が無くなれば枯れてしまう。だからこそ、それこそ子どものように持ち主の気を引きたがるのだと、いつかマリーたちは言っていた。悪戯好きで困ってしまう、なんて笑いながら。
彼もそうだったのだ。そもそも物盗りやストーカーの仕業であれば、世にも珍しいこの人形に手を出さないはずはない。それが無傷で家に残っていたということは、自然と犯人は限られてくる。
身を硬くして、次の質問を待つ子ども。幼くて、愛情のわかりにくい彼は、きっと前の家でも同じようなことをしたのかもしれない。……ああ、なんて愛おしいのだろう。
ゆっくり怖がらせないように頭を撫でて、小さな身体を両腕で抱きしめて仕舞えば、彼はペシンと僕の腕を叩いた。それでも踠いて抜けようとしないあたり、素直ではない。
「ありがとう。こんな不甲斐ない僕のところに来てくれて。……愛想を尽かさないで、いてくれて」
何度も何度も繰り返し感謝の言葉を言いながら、腕の力を強くする。彼はしばらく固まったままだったが、やがて僕の腕をキュッと控えめに掴んだ。覗き込んだ顔はひどく真っ赤で、白い肌のせいかよく目立つ。これ以上同じ言葉を繰り返せばまた叩かれてしまうなと思い、そっと腕の力を抜いていく。
草色の瞳がこちらを見た。倒れた直後よりずっと顔色もいい。未だ離してくれそうにない手をそのままに、ベッドボードへと腕を伸ばした。カップからはまだ暖かな空気が流れている。よかったと一つ安堵して、彼の目の前まで持ってきた。
「これを、飲んでくれないか? どうか僕の前で」
彼は要領を得ないようで、パチリと瞬くだけだ。それでも必死に目を合わせて差し出せば、そうっとカップが彼の手に渡った。零さないようにゆっくりと、けれど一気に嚥下する。カップから口を離して数秒、彼は屈託のない目を細くして、満足そうに、得意そうに、罪もなく無邪気に微笑んだ。それは確かに、極上の笑みと言えるだろう。
気がついた時には、もう一度力一杯彼を抱き込んでいた。空のカップが床に転がるのも気にせずに、すっかり元気そうな彼がジタバタと抜け出そうとするのも押さえつけて。
「どうか僕に、贖罪の機会をおくれ……ロビン」
声に出して初めて気がつく。僕は彼の名前すら、呼んであげられていなかった。行儀の悪い足が僕のお腹を蹴るのも可愛らしく思えて、一つ頬に軽いキスを送る。すぐさま駒鳥に返されたバードキスは勢いがありすぎて、互いに「痛い」と笑う羽目になった。
--
食べ物の香りが漂う台所に、二つ影が落ちている。危なっかしい手つきで包丁を持つロビンを見守りながら、こちらもフライパンを小さく揺すった。
あの時、二人で決めた約束。家事は二人でやること。その代わりに僕は病院での無駄な時間をなるべく無くし、家にいる時間を増やした。勿論急患がいればすぐに行かなければならないのだが、病院自体はさほど遠くないので苦ではない。それに本人に言えば確実に殴られてしまうが、電話が来た時の彼の拗ねたような顔は、何とも言い難い優越感にかられるものだ。
小さな器にニソワーズを盛り付けてもらい、こちらは彼と新しく選んだ平皿にロティを飾っていく。彼が盛り付けに苦戦している間にミルクを温め、砂糖菓子の入った瓶を机の上に置いたら大体の準備は終わる。最後に得意げな顔で自分の盛り付けた料理を見せてくる彼の頭を撫でて、食卓について祈りを捧げる。
彼はどんどん成長する。元々の家で人の食事をしていたらしく、周りの観用少女より大きかったのはそのせいだ。ここまで彼を育ててくれた老夫婦には感謝するしかない。
そのおかげで今こうして、二人でフォークとナイフを持つことができるのだから。