夢番外
貴方のお名前は?
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今日のバイトは散々だった。酒を提供する店での接客業という職業柄、酔っ払いに絡まれる率というのが高いのは承知の上。それでも一応高級店であるから、あまり質の悪い客というのはいないものだ。いるとすれば余程の大物か、大馬鹿者だと思っている。
それが今日はどうだろうか。予約のあった宴会の中、大量の料理を運ぶたびに飛ぶ粘っこい「おねえさん」の声。その真っ赤な顔に少しだけ嫌な予感がしていたものの、店員の少ないこの店では自分以外に食事を持っていけるのは一人しかいない。
心をどこかにやってしまうのは、昔から得意だった。だから食事を両手に持って、次に持っていくべきものとマナーを頭の中で何千回と唱え、なるべく客の方を見ないようにしていたのだ。けれども、呼ばれたからには返事せざるをえない。
言われたことの半分はもう覚えてはいない。ただ体型について何か言われていたのは、頭の片隅にこびりついている。しかし問題はそこではない。その客はそれだけに飽き足らず、皿を置いた私の腕にするりと腕を絡ませてきた。思わずぞわりと鳥肌がたち、一瞬身を引きそうになる。それでもすんでのところで笑顔を作れたのは、果たして良いことだったのだろうか。
いつもであればタチの悪い客も、カウンターの応対をしている男の店員が見張っているせいかあまり際どいことはやってこない。けれど宴会というものは小上がり席でやるのが普通であって、そしてその席はカウンターからは死角になっている。
それを知ってか知らずか、その男はニヤニヤとした顔を隠しもせず下品な会話を続けていったのだ。思い出すたびに、かつていたセクハラ教師の顔と重なって刺し殺したくなる。
雪が降り続く空の下、黒いコートが段々と吹き溜まりによって白く染まる。ロマンチックさの欠片も無い帰り道は寒々しいことこの上ない。早くワンルームに戻って、あの優しい彼に会いたい。その一心で進む足は、時折氷にとられて体勢を崩した。
防犯のためにアパートの最上階の部屋を借りたは良いものの、こういった気温の低い時には階段を上ることすら億劫である。加えて気分がこの上なく沈んでいる時というのは、今すぐにでも布団に飛び込みたいものだ。
鍵のかかっていないドアノブをひねり、急いでブーツを脱ぐ。そして夕食を温め直していたらしい白いシャツに飛び込んでいった。彼——シャルル=アンリ・サンソンはその衝撃に少しも体勢を崩すことなく、何事もなかったかのように料理を運んでいった。
「ただいま……」
「おかえり。……ほら、雪まみれのまま抱きつくんじゃない」
フランスに「ただいま」や「おかえり」などを言う風習はない。それでもこちらも習慣に慣れようとしてくれているのか、私が「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる。その少しの心遣いに気がついたのは、この暮らしを始めて何ヶ月経った時だっただろう。そういうところがフランス男たる所以というか、モテる男は違うということなのだろう。
そんなことを考えながら、渋々雪まみれのコートを脱ぎハンガーにかける。小さな座卓の上には湯気の立ったビーフシチューが二つ並んでいた。
「……またご飯食べてなかったの?」
「僕一人で食べても味気ないからね」
私が席に着いたのを見て、彼は手を組む。敬虔なるキリスト教徒である彼は、どんな時でも神への祈りを忘れない。そして私もまた、彼に倣って手を合わせる。しかし神に祈ることなど殆ど無かった。
目を閉じて、一緒に食事をとってくれるという事実に少しだけ一瞬だけ気持ちを浮かせ、そしてまた沈めていく。期待をするな、と頭の中で響くのだ。どうせこの男は、サーヴァントだった時代の癖が抜けてないに違いない。受肉したての頃に食事を忘れて栄養失調で倒れたことは、医者の不養生として一生忘れないだろう。
じくりと針が刺さった心を無視して、彼の顔を見る。その表情は、無垢な少年そのものだ。
「いただきます」
「……いただきます」
彼の瞳が薄く開かれるのが、祈りの終わった合図。それに被せるようにして日本式の挨拶を述べれば、生真面目な彼はそれに倣ってくれる。
銀色のスプーンを手にとり、なるべく音を立てないようにしてシチューを掬う。私の好みに合わせて作られた、大きな具がゴロゴロと入ったソレは、口の中で優しく溶けていく。牛肉はあまり味が好みではなく、どちらかといえば豚肉の方が好んで食べる私ではある。しかしビーフシチューは別だった。何が違うのかは未だにわからない。
食に興味がない上に好き嫌いが多い私は、食事担当を買って出てくれた彼にとって厄介な存在だろう。しかしそれでも毎日の献立を考えて、主夫紛いのことをしてくれる彼には頭が上がらない。だからこそ、感謝の気持ちは伝えるようにしている。
「……美味しい」
「それは良かった」
心に染みる柔らかい声。薄氷の瞳を細めた緩い顔に、私は先ほどまで心に引っかかっていた棘を抜かれたような気分になる。そして傷口から吹き出すように、冷たい液体が零れ落ちた。
視界が段々と滲んでいき、咀嚼が上手くできない。スプーンを皿の上で放置し、袖口で目をこすろうとする私の手をとって、彼はもう一度私にスプーンを握らせる。
「さあ食べて。お腹がいっぱいになったら、今日はゆっくり眠ろう」
急かすことはせず、ただゆっくりと咀嚼する私のことを眺めて彼は言う。時折頭を撫でてくる大きな手は、無骨な男の手であった。それでも触れられることに嫌悪感はやって来ず、ただその行為を受け止めることができる。
向かい側の皿は、とっくにカラになっていた。
それが今日はどうだろうか。予約のあった宴会の中、大量の料理を運ぶたびに飛ぶ粘っこい「おねえさん」の声。その真っ赤な顔に少しだけ嫌な予感がしていたものの、店員の少ないこの店では自分以外に食事を持っていけるのは一人しかいない。
心をどこかにやってしまうのは、昔から得意だった。だから食事を両手に持って、次に持っていくべきものとマナーを頭の中で何千回と唱え、なるべく客の方を見ないようにしていたのだ。けれども、呼ばれたからには返事せざるをえない。
言われたことの半分はもう覚えてはいない。ただ体型について何か言われていたのは、頭の片隅にこびりついている。しかし問題はそこではない。その客はそれだけに飽き足らず、皿を置いた私の腕にするりと腕を絡ませてきた。思わずぞわりと鳥肌がたち、一瞬身を引きそうになる。それでもすんでのところで笑顔を作れたのは、果たして良いことだったのだろうか。
いつもであればタチの悪い客も、カウンターの応対をしている男の店員が見張っているせいかあまり際どいことはやってこない。けれど宴会というものは小上がり席でやるのが普通であって、そしてその席はカウンターからは死角になっている。
それを知ってか知らずか、その男はニヤニヤとした顔を隠しもせず下品な会話を続けていったのだ。思い出すたびに、かつていたセクハラ教師の顔と重なって刺し殺したくなる。
雪が降り続く空の下、黒いコートが段々と吹き溜まりによって白く染まる。ロマンチックさの欠片も無い帰り道は寒々しいことこの上ない。早くワンルームに戻って、あの優しい彼に会いたい。その一心で進む足は、時折氷にとられて体勢を崩した。
防犯のためにアパートの最上階の部屋を借りたは良いものの、こういった気温の低い時には階段を上ることすら億劫である。加えて気分がこの上なく沈んでいる時というのは、今すぐにでも布団に飛び込みたいものだ。
鍵のかかっていないドアノブをひねり、急いでブーツを脱ぐ。そして夕食を温め直していたらしい白いシャツに飛び込んでいった。彼——シャルル=アンリ・サンソンはその衝撃に少しも体勢を崩すことなく、何事もなかったかのように料理を運んでいった。
「ただいま……」
「おかえり。……ほら、雪まみれのまま抱きつくんじゃない」
フランスに「ただいま」や「おかえり」などを言う風習はない。それでもこちらも習慣に慣れようとしてくれているのか、私が「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる。その少しの心遣いに気がついたのは、この暮らしを始めて何ヶ月経った時だっただろう。そういうところがフランス男たる所以というか、モテる男は違うということなのだろう。
そんなことを考えながら、渋々雪まみれのコートを脱ぎハンガーにかける。小さな座卓の上には湯気の立ったビーフシチューが二つ並んでいた。
「……またご飯食べてなかったの?」
「僕一人で食べても味気ないからね」
私が席に着いたのを見て、彼は手を組む。敬虔なるキリスト教徒である彼は、どんな時でも神への祈りを忘れない。そして私もまた、彼に倣って手を合わせる。しかし神に祈ることなど殆ど無かった。
目を閉じて、一緒に食事をとってくれるという事実に少しだけ一瞬だけ気持ちを浮かせ、そしてまた沈めていく。期待をするな、と頭の中で響くのだ。どうせこの男は、サーヴァントだった時代の癖が抜けてないに違いない。受肉したての頃に食事を忘れて栄養失調で倒れたことは、医者の不養生として一生忘れないだろう。
じくりと針が刺さった心を無視して、彼の顔を見る。その表情は、無垢な少年そのものだ。
「いただきます」
「……いただきます」
彼の瞳が薄く開かれるのが、祈りの終わった合図。それに被せるようにして日本式の挨拶を述べれば、生真面目な彼はそれに倣ってくれる。
銀色のスプーンを手にとり、なるべく音を立てないようにしてシチューを掬う。私の好みに合わせて作られた、大きな具がゴロゴロと入ったソレは、口の中で優しく溶けていく。牛肉はあまり味が好みではなく、どちらかといえば豚肉の方が好んで食べる私ではある。しかしビーフシチューは別だった。何が違うのかは未だにわからない。
食に興味がない上に好き嫌いが多い私は、食事担当を買って出てくれた彼にとって厄介な存在だろう。しかしそれでも毎日の献立を考えて、主夫紛いのことをしてくれる彼には頭が上がらない。だからこそ、感謝の気持ちは伝えるようにしている。
「……美味しい」
「それは良かった」
心に染みる柔らかい声。薄氷の瞳を細めた緩い顔に、私は先ほどまで心に引っかかっていた棘を抜かれたような気分になる。そして傷口から吹き出すように、冷たい液体が零れ落ちた。
視界が段々と滲んでいき、咀嚼が上手くできない。スプーンを皿の上で放置し、袖口で目をこすろうとする私の手をとって、彼はもう一度私にスプーンを握らせる。
「さあ食べて。お腹がいっぱいになったら、今日はゆっくり眠ろう」
急かすことはせず、ただゆっくりと咀嚼する私のことを眺めて彼は言う。時折頭を撫でてくる大きな手は、無骨な男の手であった。それでも触れられることに嫌悪感はやって来ず、ただその行為を受け止めることができる。
向かい側の皿は、とっくにカラになっていた。
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