腐向け
貴方のお名前は?
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男女のような性別とは違い、第二性というのは他人には見えにくい。
一概にDomやSubと言ってもその欲求の種類は様々で、Domの世話をしたい欲求とSubの尽くしたい欲求の違いがわからない人もザラである。
自分はといえば、おそらくわかりやすいSubだと言える。見てもらいたくて、構ってほしくて、尽くしたい。褒められると身体が軽くなって、放っておかれると心が凍る。
生前はこの辺りが医学的にまだ詳しく解明されておらず、ただ西洋からの書物で「どむ」だの「さぶ」だのといった名称と「そういうものがある」という認識だけが広がっていた。偏見や迷信が流行り、SubもDomも等しく迫害の対象になった人物も少なくない。
僕も例に漏れず酷い目に遭った側だ。発現する年齢はまちまちで、自分自身、何歳ごろに第二性を獲得したかの記憶は無い。ただ周囲に比べて身体が小さかった自分は揶揄いの対象になることも多く、何の根拠もなく「あいつは"さぶ"なのでは」という噂がたった。
当時、組内で衆道が流行り出していたのも不運の一つだったのだろう。「"さぶ"というのは痛めつけられると喜ぶらしいぞ」と知った風な口を聞いた隊士に囲まれ組み伏せられそうになったところ、通りかかった副長に諸共吹っ飛ばされた。理不尽とも言えるが、自力での解決はどうやったって私闘禁止の局中法度に引っかかるため、その時ばかりは「本当に助かった」と胸を撫で下ろした。
その後も小さないざこざに巻き込まれつつも、稽古の時に不逞の輩は残らず一掃した。加えて新選組の隊長格として局長の下にいたことや、僕の性格を一番理解していた伊東先生の心遣いにより、幸い生涯を通して"落ちる"ことはなかった。
そのまま胸の内で燻る欲求をどうにかやりすごし、他の誰がどんな第二性を持っているかもわからぬまま油小路で最期を迎えた。
そして何の因果か、僕は第二の生を獲得することになる。
霊基の問題で生前より不安定になりやすい僕は、たびたび医務室の世話になっていた。真白の部屋で、黒衣の医師と向かい合い、様々な指導を受ける。嗅ぎ慣れない薬品の香りに囲まれながら、現代では第二性の偏見はだいぶ減ったことを知った。
「個人の特性を尊重する風潮と、プライバシーを守る意識が上手く合致した結果だね」
真白の髪を揺らし、そんなことを言いながら笑う医師は、土地は違えど比較的近い時代を生きたらしい。「僕の時は、Domが犯罪者予備軍のように扱われて大変だった」とDom特有の悩みも教えてくれた。
その後もマスターの下で戦うことだけでは満足できず、医務室に駆け込んで治療用のコマンドでケアをしてもらうこと十数回。ついでに廊下で倒れて他のサーヴァントに拾われること数回。偏見が無くなったというのは本当らしい。特に大きな怪我を負わされることなく、気がついたら自室の布団で寝かされていた。
そんな中、偶然にも生前縁の無かった伴侶を得た。
自分よりも二百年以上も昔に生き、自分と同じく第二性を理解せぬまま死んだ青年。カルデアに来てからもその自覚はなく、僕のせいで診断が降りてしまった。限りなくNeutralに近いDom。
初めて会話を交わした日のことは、今でも鮮明に覚えている。
無理を言って素材集めに連れ出してもらい、マスターに褒められたにもかかわらず、その言葉をうまく受け取れぬまま、部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた時だった。
胸の奥で、復讐者特有の、燃え上がるような憎悪がじわりと灯る気配を感じた。
この炎は、僕の第二性ときわめて相性が悪い。
見てほしいと求めながら、同時に相手を燃料にして焚べてしまいたいと願ってしまう——そんな矛盾を孕む性質だ。
けれどカルデアという場所も、そして何より自分の矜持も、その衝動を許すはずがない。
だから発作が起きた時は、廊下の隅で小さい身体を更に小さくなるように丸めて、ただ時が過ぎるのを待つしかない。そんな折、通りかかったのが鍛錬帰りの宮本伊織だった。
本来なら扱いの難しい状態の僕に対し、彼は自分の第二性をまだ自覚してさえいなかったにもかかわらず、必要な動作を理解し、迷いなく“プレイの真似事”をやり遂げた。
その的確さは、今思えば、あの青年が本質的に持つ資質の現れだったのだろう。
——「ついてこい」
他の人であれば、無理矢理抱き上げただろう場面で、彼は僕が立ち上がるのを待った。
——「こちらを見ろ」
連れ込まれた彼の自室で、ただひたすら、見つめ合い続けた。
——「そうだ、よく頑張った」
断片的に聞こえてくる指示を辿々しくもやり遂げて、褒められることのなんと心地よいことか。
ざらついた彼の手が頭を撫でる。それがあまりにも気持ちよくて、ついに我慢できなくなった僕は、その手を両手で掴み、頬へ擦り寄せた。羞恥も理性もとうに溶けていて、気づけば彼の膝の上で深く眠り込んでいた。
目を覚ましたとき、状況を理解した僕は、一瞬で血の気が引いた。
跳ね起きるようにして謝罪し、ほとんど反射的に土下座してしまったのを今でも覚えている。
けれど彼は、驚くことも咎めることもせず、ただ静かに薄く笑って——また僕の頭に手を置き、優しく撫でてくれた。
「本来ならば医務室に連れて行くべきところを、自分の欲に負けてしまった。寧ろ申し訳ないことをした」
そんなことを言って頭を下げてくるものだから、僕は思わず慌ててしまった。責められるどころか謝られて、胸の奥がざわつく。気がつけば、自分の第二性についても正直に打ち明けていた。
彼はそれを聞いて笑うでもなく、蔑むわけでもなく、ただ「そういうモノもあるのか」と受け入れてくれた。
そのまま一緒に怒られるために着いてきてくれた医務室で、彼がDomだと診断されたのだ。同時に、今までケアを受けても紙のようだった僕の顔色が嘘のように良くなっていると言われ、パートナー契約をその場で結ぶ運びとなった。
それがつい、二ヶ月前の話。
何やら相性が良いと判明した僕たちは、たびたび互いの部屋に入り込んでは欲求を満たしている。とはいえ彼の欲はさほど大きくないようで、主に僕の我儘に付き合ってもらっているだけなのだが。
それでも小さいお願いをポツポツとするだけで、普段は綺麗に引き結ばれた口が少し弛むのだから、癖になってしまう。
今日もそう。彼の自室で僕はなるべく這うような姿勢で、彼を見上げる。少し身体は痛むが、この身は生身ではないし、目線が下の方が落ち着くので致し方ない。行儀が悪いのも承知の上である。
時折彼の膝に手をかけて、パタパタと脚を動かせば、深い翡翠の瞳がこちらを向く。軽く叱るように右足の裏を叩かれて、その後甘やかすように髪をいじられるのが好きだ。
どうやら彼は僕の柔らかい癖っ毛を甚く気に入ったらしく、彼の前では羽織の姿で居るように言われている。髪紐を解いて、櫛を通して、また結んで。元々柔らかすぎて結い上げにくいのに、更に椿油まで塗るのだから、結んだ髪紐はすぐにスルスルと解けていく。おかげでずっと下ろしっぱなしだ。
「お前の髪は気持ちがいいな」
旋毛に口付けられながら、そんなことを言われることも多い。指の先で白縹の毛を弄ばれ、唇は旋毛から額の疵、目尻、頬ときて最後に口を吸われて終わる。淡白に見えるのに、彼からの触れ合いはいつだって肌の接触が多かった。
されるがままの僕の身体は、それを受け入れるたびに泥のように重くなる。床に倒れ伏して、息が上がる。そうこうしているうちに使い物にならなくなった義肢が丁重に外され、膝に抱えられるのだ。
全てを委ねるために物理的に手足をもぎ取ってほしいと言った時の、彼の表情といったら。普段冷静な彼が動揺したところを見られただけでも儲け物なのに、外し方を聞いて実行してくれるのだから律儀な男である。
ああでも、おそらく髪を触りやすようにと抱えられたこの体勢だけはいただけない。
「ん、ん……」
「どうした?」
緩慢な動きで身じろぐと、目ざとい彼はすぐに気がつく。せめて目線の高さだけでも差をつけたくて、頭を落とそうとしても大きな手がガッチリと僕の首を支えているので動けない。
「平助、へいすけ、こちらを見ろ」
「ん……」
「よし良い子だ。何をして欲しいか言えるか?」
「……あたま、さげたい……です」
「頭」
せっかく抱えてもらったのに、また我儘を言ってしまった。薄ら芽生えた罪悪感で目蓋を無理矢理伏せると「そうか、わかった。言えて偉いぞ」と一つ一つ丁寧な言葉が降ってきて、コロンと仰向けで彼の膝に頭を乗せるカタチになる。目の前には、月夜の浪人ただ一人。
「これでどうだ?」
「絶景です……」
「そうか」
「伊織さん」
「なんだ?」
「もっと見て」
こんな命令じみた言葉でも、彼は怒らないで聞いてくれる。「ああ、見ている」と端的な言葉を返して、僕の欠けた身体を慈しむように撫でてくれる。
多分僕は世の中のSubの中でも、いっとう甘やかされている部類だ。生前のアレコレを彼に話したことはないものの、第二性を理由に痛みを与えられる事を嫌悪しているのは察されているのだろう。躾で限界を試すような命令をされたこともなく、粗相をした際の仕置きも痛みの無いように軽く小突くだけ。それも僕が望めばきっと、重いものに変えてくれるという信頼がある。
Dom特有の威嚇だって、彼がしているところは見たことがない。Dom性が薄いことと、関わりが下手であることは必ずしも一致しないということを身をもって教えられた。
多幸感に塗れながらそんなことを考えていると、ふと何か思い立ったように彼は視線を外した。
「平助は……すぐに頭を垂れようとするんだな」
「……お嫌でしたか?」
目線が外されたことも嫌で軽く彼の手を握りながらそう問えば、落ち着いた声で否定される。
「俺はさぶ、を平助しか見たことがないから、そういう特性があるのか知りたいだけだ」
「ん……人にもよると思いますが、僕は目線の高さが下だと安心します」
「なるほど……では、椅子を買うか」
「え?」
突拍子も無い提案に、思わず素っ頓狂な声を上げる。すると彼は先ほどまで目を通していた書物をペラペラと捲り、とある一頁をこちらに向けてきた。そこには第二性を発現した者が行う命令の一覧が、絵付きで載っている。
「この、"にーる"……おすわり? の命令の説明には、いつも洋椅子が描かれているから気にはなっていた。なるほど目線の高さか」
「え、設置するんですか? この和室に??」
言ってはなんだが、彼の生前住んでいた長屋を模したこの部屋は、僕の時代から見ても些か作りが古い。そのため、洋風の足の長い椅子は置いてあるだけで浮くだろう。畳も傷みそうだ。
それに僕らの関係性を知っているのは、今のところ医療班とマスターだけ。来客があったらどう説明する気なんだこの人は、とため息が漏れる。
本を二人で眺めていると、やはりというか部屋の想定がそもそも洋室だった。第二性が発見されて詳しく解析されたのが、近代の西洋医学のため致し方ないとも言える。
「うわ、ストリップとプレゼントの注釈と絵が細かい。あ、伊織さん、僕コーナーだけは嫌です」
「委細承知。そういえばこの本には、せーふわーどというのもあったが」
「あぁ、ありますね」
「あとは特定の装飾品を渡したり、契約書を書いたり……そういうものはやらなくていいのか?」
元々真似事から始まったプレイ。彼の知識の乏しさもあり、コマンドとして命令を受けたことがない。全て会話を通して、それらしいことをしていたに過ぎない。それでもお互い欲求不満で医務室の世話になることもなかったので、すっかり忘れていた。
折角の良い体勢だったが一度向き合う必要があるなと身体を起こそうとして、義肢を外していることを思い出した。もう一度付け直すのも面倒なので、彼の肩を借りて背中をどうにか壁につける。
とりあえず軽く安定したことを確認して、少しだけ近くなった顔を眺めた。
「とりあえず段階を踏みましょうか。契約書……は、僕もよく知らないな。どの辺に書いてありました?」
片手が使えないので彼に問うと、すぐに該当箇所を開いてくれた。そこには『パートナー契約を結ぶ際に作るもの。好きな事、苦手な事、NG行為等を纏め、躾方・お仕置きの仕方・褒め方などを書き、双方が署名する』とある。なるほど書面に残すという発想は良い。
ただ問題となるのは、彼自身の嗜好が不明なところ。もう一度コマンドの記述がある場所に戻ってもらい、トンと目次に指を置いた。
「伊織さんは、このコマンド一覧で貴方が好きそうなものってわかります?」
「ふむ……"見ろ"はよく言っている気がする」
「主に僕が要求するからですね」
「"言え"も言うな」
「僕が言い淀むことが多いからですね」
「"仰向けに"……は、さっきのとは違うのか」
「まあ言葉に出すまでもなく、義肢外してるとその体勢になりがちなので」
「ううむ……」
好きそうなものを、と聞いているはずなのに、何故か僕の反応をチラチラと見てくる。これを素でやっているのだから、本当に欲の少ない人だ。
「一応ドムの場合も、欲求が解消されない場合は体調に異常が出るんですが……今までそういったことは?」
「無いな」
「ええ……」
即答である。
そんな人が最初に僕を拾った時「自分の欲に負けた」と言った。その事実をキラキラと宝物みたいに心にしまい込んで、時々貯金を崩すように自分の欲求解消に使っている。
一体彼の欲求とは何だったのだろうか。少し悩んでから、まあやっていくうちにわかるものもあるかと一旦横に置くことにした。
「こまんど、と今までの会話では何が変わる?」
「強制力と拒否した場合の具合が変わります」
「具体的には」
「例えば伊織さんが『言えるか?』と聞いて僕が答えなかったとしても、心に負担は少ないです」
こくん、と頷きながら、彼はじっと僕の話を聞いてくれる。本当のところ断った時など無いのだから、実体験としては語れない。でも強制力をあまり感じないのは本当だ。
「もしこれが『言え』とコマンドを発した場合、拒絶することに強い拒否反応が出ます」
「それは……やらない方がいいのでは?」
その時に必要なのがセーフワードである。しかし、ちゃんとしたコマンドを受けたのは医療行為としてだけ。なので、その時に説明されたことを思い浮かべながら説明を行うしかない。
「逆にコマンドとして命令されないと、相手の言うことを聞いたという実感が湧かないので、体調を崩す場合があるらしいです」
「……平助は、生前どうしていた?」
「コマンド自体が浸透していなかったので、新選組隊士として動くことで発散してましたよ…………ただ、一度だけ、それらしいことを無理にされた記憶があります。が、色々あって流れました。その時は確か……熱が出て……」
忘却などできない。胸の奥に沈んでいた古い痛みが、ひどく鮮明に蘇った。
薄暗い部屋の隅。埃だらけの不潔な畳の上。自分より体格の良い男たちによる囲い。「跪け」「舐めろ」と、まるで犬に向けられるような声。
拒めば拒むほど笑われ、体の芯が熱くなり、息が上手く吸えなくなった。
あの夜のあと、布団から出られず、吐くものがなくなるまで胃が痙攣した。
復讐者としての火が、記憶にある羽織の色に反応し、ごうごうと燃やしていく。
——ああ、憎い。
浅葱の羽織も、誠の旗も——すべてが胸のなかでじりじりと焦げ付く。
——何もかも、焼け落ちてしまえ。
その念だけが、今の自分を形づくっているようだった。
「——すけ、へいすけ」
どこか遠くから声がする。
けれど炎のなかに沈んでいた意識は応えず、ただ燃え盛る景色に身を晒す。
「平助、"見ろ"」
「……ぁ」
落ちかけていた思考が無理やり手首を掴まれ、現実へ引き戻される。干上がった喉がかすかに震え、炎ばかりだった視界に月夜が浮かんだ。
「ん、見たな。"偉い"ぞ」
落ち着いた声が、鼓膜を静かに揺らす。
「あ……ぼ、僕……なに……」
ようやく自分の手元に視線を落とす。
腕には、いつの間にか黒い布が何重にも巻きつけられていた。再臨が変わっている。
その手には愛刀が握られ、布を巻いただけのむき出しの刃が——。
彼の首に向かっていた。
自分がしていたことを理解した瞬間、全身から血の気が引く。
片方しか無い膝が勝手に震え、体の芯に冷たさが刺さる。
「……僕……、こんな……」
喉の奥から掠れた声が漏れる。
燃え上がっていた復讐の炎は、跡形もなく吹き消されていた。
慌てて腕を引こうとして、欠けた身体が傾く。その勢いのまま彼は素早く刀を僕の手から抜き取り、畳を滑らせるように遠くへ放る。刀が引っ張られたことで胴体は彼の方へ倒れ、ぎゅうと腕の中に閉じ込められる。剥き出しになったうなじにそっと指がかかり、木屑の香りが鼻をくすぐった。
ドクドクと心臓の音が鳴り止まない。謝りたいのに、口を開いた瞬間醜い言い訳が溢れ出てきそうで唇を噛む。
そんな僕の様子を見た彼は、ただ一言「すまない」とこぼした。思わず頭突きをしてしまう勢いで顔を上げると、凪いだ瞳と視線がぶつかる。
彼は、何も言えずに震える僕の手を、自身の首筋に添えさせた。
「大丈夫だ。俺は怪我一つしていない」
「でも、でも……刀を」
「俺が藪を突いたせいだ。お前は悪くない」
「悪く、悪くないです……ごめんなさい……」
互いに謝罪を繰り返しながら、彼の着物が崩れるのも構わずに縋りつく。涙はどうしたって出なかったけれど、頬のひび割れをまるで涙を拭うようになぞられた。
「痛いか?」
「痛くは、ないですが……醜いでしょう」
「そんなことはない。金継ぎのようで美しいと俺は思う」
襤褸を纏った身体は、まるで古い磁器のようにヒビだらけで、触れれば崩れてしまうほど脆い。それでも彼は、ひとつひとつの疵に唇を寄せるような手つきで触れ、慈しむように撫でるのだ。
その優しさが、どうしようもなく恥ずかしくて、甘くて、耐えきれずに顔を胸へ押し隠した。
胸板越しに伝わる規則正しい心音が、荒れていた心の柔らかい部分をゆっくりと解いていく。抱き合うほどに体の重さが抜け、張りつめていた思考にも少しだけ余白が戻ってきた。
「……一つ、お願いが」
「聞こう」
低く落ち着いた声が、すぐ耳元で揺れる。顔を近づけすぎているせいで、息遣いの温度までわかるのが気恥ずかしい。
「装飾品、貰えるなら首輪がいいです」
言葉にした瞬間、自分でも胸が妙に熱くなった。くすぐったい期待と、微かな怖さが混じる
「……いいのか?」
ためらいを含む声に、ちらりと彼の顔を覗く。翡翠色の瞳がこちらに向けられていて、驚きと気遣いが同時に浮かんでいた。
「貴方は、僕を犬のようにはしないでしょう?」
笑って告げると、彼はまた困ったように眉を寄せる。その表情が、胸の奥の柔らかい部分をきゅうと掴んだ。
本当は、犬のように扱われても構わないくらいには心を許しているというのに。この心優しい青年には、その発想すら湧かないのだろう。
深く息を吸い、自分の姿を浅葱の羽織へと戻す。布の質感が肌に馴染んでいくと、自然と気持ちもいつもの自分に切り替わる。すぐさま髪紐も解いてしまえば、いつもの僕の完成だ。
「あと買うのであれば洋椅子ではなく、少し高さのある座椅子にしましょう」
「ん、それでは高さが稼げないのではないか」
「この部屋に合わない物を置くよりマシです」
部屋を見渡す。質素だが清潔で、余計なものが一切ない空間。
彼はもともと衣食住に頓着しない。だからこそ、任せきりにすると周囲がアレコレと世話を焼いて見繕ってしまう。それは嫌だ。尽くすのであれば自分がいい。
「そういうものか」
納得しきれない返事をしながらも、彼は素直に頷く。その様子が可笑しくて、ふんと鼻を鳴らし、翡翠の瞳を覗き込んだ。
「僕の要求は大体言いました。伊織さんはいいんですか? 僕に言う事きかせなくて」
問いかけると、彼はほんの僅かだけ目を伏せた。静かで、優しくて、けれど芯のある沈黙が落ちる。
「……世間のどむがどういうものかは俺は知らん。ただ、そうだな……お前に贈る首輪だけは、俺に選ばせてくれないか」
その言葉は、まるで抱きしめられたかのように胸に落ちた。
「ふふ、へんなひと」
抑えた独占欲をほんの少し覗かせるだけで、どうしてこんなにも可愛らしいのか。
その顔をもっと揺らしたくて、たまらず頬に唇を落とす。触れた瞬間、彼の指が肩を掴み、次の瞬間には首筋へ歯が立てられていた。
後日、深い翠色のチョーカーを巻いた僕が、新選組のメンバーから取り囲まれるのはまた別の話。
一概にDomやSubと言ってもその欲求の種類は様々で、Domの世話をしたい欲求とSubの尽くしたい欲求の違いがわからない人もザラである。
自分はといえば、おそらくわかりやすいSubだと言える。見てもらいたくて、構ってほしくて、尽くしたい。褒められると身体が軽くなって、放っておかれると心が凍る。
生前はこの辺りが医学的にまだ詳しく解明されておらず、ただ西洋からの書物で「どむ」だの「さぶ」だのといった名称と「そういうものがある」という認識だけが広がっていた。偏見や迷信が流行り、SubもDomも等しく迫害の対象になった人物も少なくない。
僕も例に漏れず酷い目に遭った側だ。発現する年齢はまちまちで、自分自身、何歳ごろに第二性を獲得したかの記憶は無い。ただ周囲に比べて身体が小さかった自分は揶揄いの対象になることも多く、何の根拠もなく「あいつは"さぶ"なのでは」という噂がたった。
当時、組内で衆道が流行り出していたのも不運の一つだったのだろう。「"さぶ"というのは痛めつけられると喜ぶらしいぞ」と知った風な口を聞いた隊士に囲まれ組み伏せられそうになったところ、通りかかった副長に諸共吹っ飛ばされた。理不尽とも言えるが、自力での解決はどうやったって私闘禁止の局中法度に引っかかるため、その時ばかりは「本当に助かった」と胸を撫で下ろした。
その後も小さないざこざに巻き込まれつつも、稽古の時に不逞の輩は残らず一掃した。加えて新選組の隊長格として局長の下にいたことや、僕の性格を一番理解していた伊東先生の心遣いにより、幸い生涯を通して"落ちる"ことはなかった。
そのまま胸の内で燻る欲求をどうにかやりすごし、他の誰がどんな第二性を持っているかもわからぬまま油小路で最期を迎えた。
そして何の因果か、僕は第二の生を獲得することになる。
霊基の問題で生前より不安定になりやすい僕は、たびたび医務室の世話になっていた。真白の部屋で、黒衣の医師と向かい合い、様々な指導を受ける。嗅ぎ慣れない薬品の香りに囲まれながら、現代では第二性の偏見はだいぶ減ったことを知った。
「個人の特性を尊重する風潮と、プライバシーを守る意識が上手く合致した結果だね」
真白の髪を揺らし、そんなことを言いながら笑う医師は、土地は違えど比較的近い時代を生きたらしい。「僕の時は、Domが犯罪者予備軍のように扱われて大変だった」とDom特有の悩みも教えてくれた。
その後もマスターの下で戦うことだけでは満足できず、医務室に駆け込んで治療用のコマンドでケアをしてもらうこと十数回。ついでに廊下で倒れて他のサーヴァントに拾われること数回。偏見が無くなったというのは本当らしい。特に大きな怪我を負わされることなく、気がついたら自室の布団で寝かされていた。
そんな中、偶然にも生前縁の無かった伴侶を得た。
自分よりも二百年以上も昔に生き、自分と同じく第二性を理解せぬまま死んだ青年。カルデアに来てからもその自覚はなく、僕のせいで診断が降りてしまった。限りなくNeutralに近いDom。
初めて会話を交わした日のことは、今でも鮮明に覚えている。
無理を言って素材集めに連れ出してもらい、マスターに褒められたにもかかわらず、その言葉をうまく受け取れぬまま、部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた時だった。
胸の奥で、復讐者特有の、燃え上がるような憎悪がじわりと灯る気配を感じた。
この炎は、僕の第二性ときわめて相性が悪い。
見てほしいと求めながら、同時に相手を燃料にして焚べてしまいたいと願ってしまう——そんな矛盾を孕む性質だ。
けれどカルデアという場所も、そして何より自分の矜持も、その衝動を許すはずがない。
だから発作が起きた時は、廊下の隅で小さい身体を更に小さくなるように丸めて、ただ時が過ぎるのを待つしかない。そんな折、通りかかったのが鍛錬帰りの宮本伊織だった。
本来なら扱いの難しい状態の僕に対し、彼は自分の第二性をまだ自覚してさえいなかったにもかかわらず、必要な動作を理解し、迷いなく“プレイの真似事”をやり遂げた。
その的確さは、今思えば、あの青年が本質的に持つ資質の現れだったのだろう。
——「ついてこい」
他の人であれば、無理矢理抱き上げただろう場面で、彼は僕が立ち上がるのを待った。
——「こちらを見ろ」
連れ込まれた彼の自室で、ただひたすら、見つめ合い続けた。
——「そうだ、よく頑張った」
断片的に聞こえてくる指示を辿々しくもやり遂げて、褒められることのなんと心地よいことか。
ざらついた彼の手が頭を撫でる。それがあまりにも気持ちよくて、ついに我慢できなくなった僕は、その手を両手で掴み、頬へ擦り寄せた。羞恥も理性もとうに溶けていて、気づけば彼の膝の上で深く眠り込んでいた。
目を覚ましたとき、状況を理解した僕は、一瞬で血の気が引いた。
跳ね起きるようにして謝罪し、ほとんど反射的に土下座してしまったのを今でも覚えている。
けれど彼は、驚くことも咎めることもせず、ただ静かに薄く笑って——また僕の頭に手を置き、優しく撫でてくれた。
「本来ならば医務室に連れて行くべきところを、自分の欲に負けてしまった。寧ろ申し訳ないことをした」
そんなことを言って頭を下げてくるものだから、僕は思わず慌ててしまった。責められるどころか謝られて、胸の奥がざわつく。気がつけば、自分の第二性についても正直に打ち明けていた。
彼はそれを聞いて笑うでもなく、蔑むわけでもなく、ただ「そういうモノもあるのか」と受け入れてくれた。
そのまま一緒に怒られるために着いてきてくれた医務室で、彼がDomだと診断されたのだ。同時に、今までケアを受けても紙のようだった僕の顔色が嘘のように良くなっていると言われ、パートナー契約をその場で結ぶ運びとなった。
それがつい、二ヶ月前の話。
何やら相性が良いと判明した僕たちは、たびたび互いの部屋に入り込んでは欲求を満たしている。とはいえ彼の欲はさほど大きくないようで、主に僕の我儘に付き合ってもらっているだけなのだが。
それでも小さいお願いをポツポツとするだけで、普段は綺麗に引き結ばれた口が少し弛むのだから、癖になってしまう。
今日もそう。彼の自室で僕はなるべく這うような姿勢で、彼を見上げる。少し身体は痛むが、この身は生身ではないし、目線が下の方が落ち着くので致し方ない。行儀が悪いのも承知の上である。
時折彼の膝に手をかけて、パタパタと脚を動かせば、深い翡翠の瞳がこちらを向く。軽く叱るように右足の裏を叩かれて、その後甘やかすように髪をいじられるのが好きだ。
どうやら彼は僕の柔らかい癖っ毛を甚く気に入ったらしく、彼の前では羽織の姿で居るように言われている。髪紐を解いて、櫛を通して、また結んで。元々柔らかすぎて結い上げにくいのに、更に椿油まで塗るのだから、結んだ髪紐はすぐにスルスルと解けていく。おかげでずっと下ろしっぱなしだ。
「お前の髪は気持ちがいいな」
旋毛に口付けられながら、そんなことを言われることも多い。指の先で白縹の毛を弄ばれ、唇は旋毛から額の疵、目尻、頬ときて最後に口を吸われて終わる。淡白に見えるのに、彼からの触れ合いはいつだって肌の接触が多かった。
されるがままの僕の身体は、それを受け入れるたびに泥のように重くなる。床に倒れ伏して、息が上がる。そうこうしているうちに使い物にならなくなった義肢が丁重に外され、膝に抱えられるのだ。
全てを委ねるために物理的に手足をもぎ取ってほしいと言った時の、彼の表情といったら。普段冷静な彼が動揺したところを見られただけでも儲け物なのに、外し方を聞いて実行してくれるのだから律儀な男である。
ああでも、おそらく髪を触りやすようにと抱えられたこの体勢だけはいただけない。
「ん、ん……」
「どうした?」
緩慢な動きで身じろぐと、目ざとい彼はすぐに気がつく。せめて目線の高さだけでも差をつけたくて、頭を落とそうとしても大きな手がガッチリと僕の首を支えているので動けない。
「平助、へいすけ、こちらを見ろ」
「ん……」
「よし良い子だ。何をして欲しいか言えるか?」
「……あたま、さげたい……です」
「頭」
せっかく抱えてもらったのに、また我儘を言ってしまった。薄ら芽生えた罪悪感で目蓋を無理矢理伏せると「そうか、わかった。言えて偉いぞ」と一つ一つ丁寧な言葉が降ってきて、コロンと仰向けで彼の膝に頭を乗せるカタチになる。目の前には、月夜の浪人ただ一人。
「これでどうだ?」
「絶景です……」
「そうか」
「伊織さん」
「なんだ?」
「もっと見て」
こんな命令じみた言葉でも、彼は怒らないで聞いてくれる。「ああ、見ている」と端的な言葉を返して、僕の欠けた身体を慈しむように撫でてくれる。
多分僕は世の中のSubの中でも、いっとう甘やかされている部類だ。生前のアレコレを彼に話したことはないものの、第二性を理由に痛みを与えられる事を嫌悪しているのは察されているのだろう。躾で限界を試すような命令をされたこともなく、粗相をした際の仕置きも痛みの無いように軽く小突くだけ。それも僕が望めばきっと、重いものに変えてくれるという信頼がある。
Dom特有の威嚇だって、彼がしているところは見たことがない。Dom性が薄いことと、関わりが下手であることは必ずしも一致しないということを身をもって教えられた。
多幸感に塗れながらそんなことを考えていると、ふと何か思い立ったように彼は視線を外した。
「平助は……すぐに頭を垂れようとするんだな」
「……お嫌でしたか?」
目線が外されたことも嫌で軽く彼の手を握りながらそう問えば、落ち着いた声で否定される。
「俺はさぶ、を平助しか見たことがないから、そういう特性があるのか知りたいだけだ」
「ん……人にもよると思いますが、僕は目線の高さが下だと安心します」
「なるほど……では、椅子を買うか」
「え?」
突拍子も無い提案に、思わず素っ頓狂な声を上げる。すると彼は先ほどまで目を通していた書物をペラペラと捲り、とある一頁をこちらに向けてきた。そこには第二性を発現した者が行う命令の一覧が、絵付きで載っている。
「この、"にーる"……おすわり? の命令の説明には、いつも洋椅子が描かれているから気にはなっていた。なるほど目線の高さか」
「え、設置するんですか? この和室に??」
言ってはなんだが、彼の生前住んでいた長屋を模したこの部屋は、僕の時代から見ても些か作りが古い。そのため、洋風の足の長い椅子は置いてあるだけで浮くだろう。畳も傷みそうだ。
それに僕らの関係性を知っているのは、今のところ医療班とマスターだけ。来客があったらどう説明する気なんだこの人は、とため息が漏れる。
本を二人で眺めていると、やはりというか部屋の想定がそもそも洋室だった。第二性が発見されて詳しく解析されたのが、近代の西洋医学のため致し方ないとも言える。
「うわ、ストリップとプレゼントの注釈と絵が細かい。あ、伊織さん、僕コーナーだけは嫌です」
「委細承知。そういえばこの本には、せーふわーどというのもあったが」
「あぁ、ありますね」
「あとは特定の装飾品を渡したり、契約書を書いたり……そういうものはやらなくていいのか?」
元々真似事から始まったプレイ。彼の知識の乏しさもあり、コマンドとして命令を受けたことがない。全て会話を通して、それらしいことをしていたに過ぎない。それでもお互い欲求不満で医務室の世話になることもなかったので、すっかり忘れていた。
折角の良い体勢だったが一度向き合う必要があるなと身体を起こそうとして、義肢を外していることを思い出した。もう一度付け直すのも面倒なので、彼の肩を借りて背中をどうにか壁につける。
とりあえず軽く安定したことを確認して、少しだけ近くなった顔を眺めた。
「とりあえず段階を踏みましょうか。契約書……は、僕もよく知らないな。どの辺に書いてありました?」
片手が使えないので彼に問うと、すぐに該当箇所を開いてくれた。そこには『パートナー契約を結ぶ際に作るもの。好きな事、苦手な事、NG行為等を纏め、躾方・お仕置きの仕方・褒め方などを書き、双方が署名する』とある。なるほど書面に残すという発想は良い。
ただ問題となるのは、彼自身の嗜好が不明なところ。もう一度コマンドの記述がある場所に戻ってもらい、トンと目次に指を置いた。
「伊織さんは、このコマンド一覧で貴方が好きそうなものってわかります?」
「ふむ……"見ろ"はよく言っている気がする」
「主に僕が要求するからですね」
「"言え"も言うな」
「僕が言い淀むことが多いからですね」
「"仰向けに"……は、さっきのとは違うのか」
「まあ言葉に出すまでもなく、義肢外してるとその体勢になりがちなので」
「ううむ……」
好きそうなものを、と聞いているはずなのに、何故か僕の反応をチラチラと見てくる。これを素でやっているのだから、本当に欲の少ない人だ。
「一応ドムの場合も、欲求が解消されない場合は体調に異常が出るんですが……今までそういったことは?」
「無いな」
「ええ……」
即答である。
そんな人が最初に僕を拾った時「自分の欲に負けた」と言った。その事実をキラキラと宝物みたいに心にしまい込んで、時々貯金を崩すように自分の欲求解消に使っている。
一体彼の欲求とは何だったのだろうか。少し悩んでから、まあやっていくうちにわかるものもあるかと一旦横に置くことにした。
「こまんど、と今までの会話では何が変わる?」
「強制力と拒否した場合の具合が変わります」
「具体的には」
「例えば伊織さんが『言えるか?』と聞いて僕が答えなかったとしても、心に負担は少ないです」
こくん、と頷きながら、彼はじっと僕の話を聞いてくれる。本当のところ断った時など無いのだから、実体験としては語れない。でも強制力をあまり感じないのは本当だ。
「もしこれが『言え』とコマンドを発した場合、拒絶することに強い拒否反応が出ます」
「それは……やらない方がいいのでは?」
その時に必要なのがセーフワードである。しかし、ちゃんとしたコマンドを受けたのは医療行為としてだけ。なので、その時に説明されたことを思い浮かべながら説明を行うしかない。
「逆にコマンドとして命令されないと、相手の言うことを聞いたという実感が湧かないので、体調を崩す場合があるらしいです」
「……平助は、生前どうしていた?」
「コマンド自体が浸透していなかったので、新選組隊士として動くことで発散してましたよ…………ただ、一度だけ、それらしいことを無理にされた記憶があります。が、色々あって流れました。その時は確か……熱が出て……」
忘却などできない。胸の奥に沈んでいた古い痛みが、ひどく鮮明に蘇った。
薄暗い部屋の隅。埃だらけの不潔な畳の上。自分より体格の良い男たちによる囲い。「跪け」「舐めろ」と、まるで犬に向けられるような声。
拒めば拒むほど笑われ、体の芯が熱くなり、息が上手く吸えなくなった。
あの夜のあと、布団から出られず、吐くものがなくなるまで胃が痙攣した。
復讐者としての火が、記憶にある羽織の色に反応し、ごうごうと燃やしていく。
——ああ、憎い。
浅葱の羽織も、誠の旗も——すべてが胸のなかでじりじりと焦げ付く。
——何もかも、焼け落ちてしまえ。
その念だけが、今の自分を形づくっているようだった。
「——すけ、へいすけ」
どこか遠くから声がする。
けれど炎のなかに沈んでいた意識は応えず、ただ燃え盛る景色に身を晒す。
「平助、"見ろ"」
「……ぁ」
落ちかけていた思考が無理やり手首を掴まれ、現実へ引き戻される。干上がった喉がかすかに震え、炎ばかりだった視界に月夜が浮かんだ。
「ん、見たな。"偉い"ぞ」
落ち着いた声が、鼓膜を静かに揺らす。
「あ……ぼ、僕……なに……」
ようやく自分の手元に視線を落とす。
腕には、いつの間にか黒い布が何重にも巻きつけられていた。再臨が変わっている。
その手には愛刀が握られ、布を巻いただけのむき出しの刃が——。
彼の首に向かっていた。
自分がしていたことを理解した瞬間、全身から血の気が引く。
片方しか無い膝が勝手に震え、体の芯に冷たさが刺さる。
「……僕……、こんな……」
喉の奥から掠れた声が漏れる。
燃え上がっていた復讐の炎は、跡形もなく吹き消されていた。
慌てて腕を引こうとして、欠けた身体が傾く。その勢いのまま彼は素早く刀を僕の手から抜き取り、畳を滑らせるように遠くへ放る。刀が引っ張られたことで胴体は彼の方へ倒れ、ぎゅうと腕の中に閉じ込められる。剥き出しになったうなじにそっと指がかかり、木屑の香りが鼻をくすぐった。
ドクドクと心臓の音が鳴り止まない。謝りたいのに、口を開いた瞬間醜い言い訳が溢れ出てきそうで唇を噛む。
そんな僕の様子を見た彼は、ただ一言「すまない」とこぼした。思わず頭突きをしてしまう勢いで顔を上げると、凪いだ瞳と視線がぶつかる。
彼は、何も言えずに震える僕の手を、自身の首筋に添えさせた。
「大丈夫だ。俺は怪我一つしていない」
「でも、でも……刀を」
「俺が藪を突いたせいだ。お前は悪くない」
「悪く、悪くないです……ごめんなさい……」
互いに謝罪を繰り返しながら、彼の着物が崩れるのも構わずに縋りつく。涙はどうしたって出なかったけれど、頬のひび割れをまるで涙を拭うようになぞられた。
「痛いか?」
「痛くは、ないですが……醜いでしょう」
「そんなことはない。金継ぎのようで美しいと俺は思う」
襤褸を纏った身体は、まるで古い磁器のようにヒビだらけで、触れれば崩れてしまうほど脆い。それでも彼は、ひとつひとつの疵に唇を寄せるような手つきで触れ、慈しむように撫でるのだ。
その優しさが、どうしようもなく恥ずかしくて、甘くて、耐えきれずに顔を胸へ押し隠した。
胸板越しに伝わる規則正しい心音が、荒れていた心の柔らかい部分をゆっくりと解いていく。抱き合うほどに体の重さが抜け、張りつめていた思考にも少しだけ余白が戻ってきた。
「……一つ、お願いが」
「聞こう」
低く落ち着いた声が、すぐ耳元で揺れる。顔を近づけすぎているせいで、息遣いの温度までわかるのが気恥ずかしい。
「装飾品、貰えるなら首輪がいいです」
言葉にした瞬間、自分でも胸が妙に熱くなった。くすぐったい期待と、微かな怖さが混じる
「……いいのか?」
ためらいを含む声に、ちらりと彼の顔を覗く。翡翠色の瞳がこちらに向けられていて、驚きと気遣いが同時に浮かんでいた。
「貴方は、僕を犬のようにはしないでしょう?」
笑って告げると、彼はまた困ったように眉を寄せる。その表情が、胸の奥の柔らかい部分をきゅうと掴んだ。
本当は、犬のように扱われても構わないくらいには心を許しているというのに。この心優しい青年には、その発想すら湧かないのだろう。
深く息を吸い、自分の姿を浅葱の羽織へと戻す。布の質感が肌に馴染んでいくと、自然と気持ちもいつもの自分に切り替わる。すぐさま髪紐も解いてしまえば、いつもの僕の完成だ。
「あと買うのであれば洋椅子ではなく、少し高さのある座椅子にしましょう」
「ん、それでは高さが稼げないのではないか」
「この部屋に合わない物を置くよりマシです」
部屋を見渡す。質素だが清潔で、余計なものが一切ない空間。
彼はもともと衣食住に頓着しない。だからこそ、任せきりにすると周囲がアレコレと世話を焼いて見繕ってしまう。それは嫌だ。尽くすのであれば自分がいい。
「そういうものか」
納得しきれない返事をしながらも、彼は素直に頷く。その様子が可笑しくて、ふんと鼻を鳴らし、翡翠の瞳を覗き込んだ。
「僕の要求は大体言いました。伊織さんはいいんですか? 僕に言う事きかせなくて」
問いかけると、彼はほんの僅かだけ目を伏せた。静かで、優しくて、けれど芯のある沈黙が落ちる。
「……世間のどむがどういうものかは俺は知らん。ただ、そうだな……お前に贈る首輪だけは、俺に選ばせてくれないか」
その言葉は、まるで抱きしめられたかのように胸に落ちた。
「ふふ、へんなひと」
抑えた独占欲をほんの少し覗かせるだけで、どうしてこんなにも可愛らしいのか。
その顔をもっと揺らしたくて、たまらず頬に唇を落とす。触れた瞬間、彼の指が肩を掴み、次の瞬間には首筋へ歯が立てられていた。
後日、深い翠色のチョーカーを巻いた僕が、新選組のメンバーから取り囲まれるのはまた別の話。
