腐向け
貴方のお名前は?
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雪山の向こうには炎が広がっている。
そんなことはわかってるのに、外は吹雪で真っ白になって、景色も何も見えない。だからもしかして人理焼却という事象が悪い夢なのかも、なんて期待が胸のうちに灯った。
カルデアの外がよく見える大きな窓に寄りかかりながら、何をするでもなく床に座り込んだ。
ガラスに額をぶつけると、じわじわと熱が奪われていく。熱があるかと聞かれれば、きっとあるのだろう。もっとも、その原因は風邪などではなく、ただの知恵熱だけれど。
ここに来るまで冷たい壁に頭を押し付けながら歩いてみても、工房から拝借した氷のうを額に当ててみても、ビックリするくらい何も変わらなかった。
数センチ離れてガラスに顔を映しながら、唇を緩慢に動かして言葉にもならない形を作ってみる。すると漏れ出す息はガラスを曇らせ、俺の辛気臭い顔を隠してくれた。
けれどやっぱり、外は吹雪のままだった。
事の発端は、定期的に行われていた健康診断にある。バイタルは至って良好、身長体重も変わりなく、いつもであれば速攻部屋に帰されるような数値だった筈だ。しかし医務室にいたDr.ロマンはカルテを見ながら難しい顔をして、少しだけ別室で話がしたいと言ってきた。
数値に出ないような異常があったのだろうか、と身構える俺を他所に、連れて行かれたのはダ・ヴィンチちゃんの工房。ドクターと一緒に入ってきた俺を見て、ダ・ヴィンチちゃんはらしくもない愛想笑いを浮かべた。
彼らはカルテを見合いながら何やらヒソヒソと話し合い、一息ついて二人同時にこちらを向いた。ダ・ヴィンチちゃんがすっかりいつもの調子で微笑んでいるのに対して、ドクターぼんやりと何かを考え入っているような沈んだ顔をしている。
そして何やら言いあぐねているドクターに、ダ・ヴィンチちゃんが大きく溜息を吐く。ビクリと肩を震わせたドクターからカルテを取り上げて、こちらを見ながら形の良い唇を開いた。
「立香くん……君、SubやDomって聞いたことあるかい?」
「そりゃあるよ、学校の保健体育で習ったから」
「それなら話は早い。つまるところ、君はSubだという診断が出た」
彼の言葉に、一瞬自分の耳を疑った。
Sub——世間一般の知識では、支配されたいという願望が強い性。性癖なんて生ぬるいものではなく、命令され、構われ、尽くすことを生きがいとする。
Domはその反対で、支配する願望の強い性。しかしどちらの性であろうと、その欲求が満たされなければ、いずれ体調不良を起こして鬱状態になってしまう。
それが、俺の性だと彼は言ったのだ。
勿論今までそんな自覚のないまま育ってきた俺は、馬鹿みたいに立ち尽くしかない。
彼はそんな俺を見てこうも続ける。
「問診のデータから見ても、君の周りへの尽くし方はSwitch(中庸)にしては偏りすぎている」
なんでも、その兆候は数ヶ月も前から出ていたらしい。しかし一度や二度の問診で決めるのは時期尚早ということで、判断を下すと予定していた日が今日だったというわけだ。
説明の終わりにウインクをして見せるダ・ヴィンチちゃんの横で、ドクターはとても心苦しそうだ。
けれど俺は首を傾げてしまう。そこまで言われてしまうほどに、普段の隷属願望は強かっただろうか。
「まあ、英雄にはDomもSubも多いからね。気をつけるにこしたことはないという話さ」
「気をつけるって?」
「同じSubが相手ならそこまで気を張る必要はないけれど、Domに滅茶苦茶な命令されて体調不良……まあぶっちゃけSub drop状態になってもらっては困るのさ」
「サブドロップかぁ」
口の中でその言葉を転がしながら、そう古くもない記憶を掘り返してみる。比較的お人好しと言われてきた人生の中で、多少無茶な頼みごとをされることは多かった。けれどもそこまで身体的にも精神的にも負担を感じたことはない。勿論快楽と感じたこともないが。
未だ頭の中がぐるぐるとしている俺を心配してか、とにかく今の話は他言無用とだけ言われこの話は切り上げられる。
ついでに二人はもう少し話があるらしく、俺は早々に工房から追い出されてしまった。
そして冒頭に至るわけである。
何か特別な思いがあってこの場所に来たわけではない。ただサーヴァントや職員の部屋から離れたここは、人通りが少なく考えを纏めるにはもってこいなだけ。
曇りの取れたガラスに映った俺の頬はよく見ると少し赤くて、青い瞳は充血しているように見えた。もう一度小さく息を吐いてみれば、その顔も外の景色と同じように真っ白に消える。
暫くそれを繰り返して、いつまでもここに居るわけにもいかないと、グッと伸びをしながら立ち上がる。すると後ろに、フードを被った鎧姿の青年がいることに気がついた。
ゆっくり振り向くと、そこに居たのはやはり蒼銀の騎士。つい先日、召喚に応じてくれたばかりのアーサー・ペンドラゴンだった。彼の身につけている白と黒のフードで目元は隠れているが、心なしか口角は下がっているように見える。
「こんな所にいては風邪をひいてしまうよ……顔も真っ赤じゃないか」
「あー、さー」
彼の名前を呼ぼうとして、思ったよりも小さく舌ったらずな声が出た。
何故彼がここにいるのだろう。
重い目蓋を擦りながら彼を上目で見つめていると、フードの中でクスリと笑った気配がした。そのまま彼は茶目っ気たっぷりに人差し指を唇に寄せて、十センチほど差のある顔を近づけてくる。
突然の事に仰け反った俺の腰を支え、蒼い瞳が俺を捕らえた。
「ここは広いからね、少々迷ってしまったんだ」
囁かれるように、しっとりとした声で紡がれた存外子どもっぽい言葉。思わずプッと噴き出せば、彼は顔を離して薄い唇を尖らせた。
「そんなに笑うところかい?」
「だって、一国の王が迷子って……」
「城でも何度か迷子になって、ベディヴィエール卿に連れ戻されたこともあるんだよ?」
「へえ、ベディが」
会話を続けながらも、彼は俺の左手側に立つ。距離は大体三センチ程度、身動きをすれば簡単に彼の鎧に触れてしまうだろう。
彼と話したお陰なのか、段々と思考も戻ってきた。キリのいいところで部屋に戻ろうかと一歩踏み出すと、そっと左腕が掴まれる。
自分で自分の行動に驚いたのか、パクパクと口を動かす彼が可愛らしくて、フードの下から顔を覗き込んでみる。彼は猫のように蒼い眼を大きくして、口元を緩めると俺の頭を撫でてきた。
籠手に覆われたその手は触り心地がいいとは言い難い。けれどとても満たされたような気分になったのは、気のせいなんかじゃないと思った。
***
いくら人理焼却がなされようと、それを解決する側が潰れてしまっては意味がない。そんな人間の精神衛生上の都合で、カルデア内にて設定された休日の午後。
シミュレーションルーム内の深緑の森の中を散歩していると、視界の端で蒼銀の騎士の姿を捉えた。彼は何をするでもなく、葉の無い大木の前で佇んでいる。
その木は虚像の森の中で一つだけ、決して枝に実も葉も付けない木だ。
意味があるのかはわからない。けれどその木の前で背筋を伸ばしながら、剣を地面に突き刺して立っているアーサーの様子は、とても美しいと感じた。例えフードを目深に被っていたとしてもだ。
こちらではカリスマスキル持ちではないのに、ピリピリと感じる気迫は王様だからなのか。
「やあ、散歩かい?」
ぼんやりと彼を見つめていると、彼がこちらを向かないまま口を開いた。キョロキョロと辺りを見回しても誰もいないことから、自分に話しかけているのだと確信する。
小走りで彼の隣に並んで、彼を見上げた。蒼い瞳は木の幹を見つめたままだ。お互いが立っていると、その顔も遠く感じる。十センチの差は大きいなあ、なんて思いながら顔を綻ばせた。
すると彼は剣の柄から手を離して、俺の頭を撫でてきた。相変わらず籠手は冷たいのに、胸の奥はポカポカと暖かい。
「眠そうだねマスター」
「さっきエミヤのご飯食べてきたから……」
擬似とはいえ太陽が当たって、自然の匂いに包まれたここは睡眠促進にはいい場所だ。微睡み始めた俺を見て、彼は剣を仕舞い大木にもたれかかりながら座る。
ぽんぽんと隣を叩かれれば、そこに腰を下ろさないという選択肢はない。彼の右手側にお邪魔して、背中をぴったりと木につけた。しかしゴツゴツとした木の幹は、あまり寝心地がいいとは言えない。
収まりが悪く身じろぎしていると、黒い腕が俺の身体を捉えた。そのまま緩く引っ張られて、彼の身体に寄りかかる形になる。けれどそこにあるはずの鎧の冷たさや硬さは、いつまでたっても襲ってこなかった。
彼を見るといつの間にかスーツ姿に変わっていて目を丸くする。黒いワイシャツに黒いベスト、黒いネクタイに黒いズボン。極め付けに黒い手袋。見事に真っ黒だ。
その分彼の白い肌が映えるのだけれど、若干浮いている気がしないでもない。サングラスでもかければまだマシだろうか。思い浮かべてはみたものの、何処のSPだと一人ツッコミをして首を振った。
気を取り直して彼に向き直る。よく見るとそれは、自分に支給されている魔術礼装の一着と似ていた。
「その服、俺の持ってる礼装に似てる」
「ああ、そうなのかい? お揃いだね」
「俺は着られてるって感じであまり好きじゃないんだけど……アーサーはさすがだね。普通に外歩けそう」
衣装のことに口を出してみたものの、個人的に一番気になったのは、いつもフードで隠されているその素顔だ。
柔らかい金の短髪、光の加減で緑にも見える蒼い瞳。その無駄に整った顔立ちが、アングロサクソン系なのかケルト系なのか、アジア人の俺には区別がつかない。
「そんなに素顔が気になる?」
「別に。再臨してもずうっとフードのままだったから、あっさり取ったのに驚いただけだよ」
正確には、再臨した直後はフードが取れていた。再臨後に衣装が変わるサーヴァントは珍しくもなく、何故か半裸になる奴らもいる。加えて変化した後の姿は自在に変更可能のようで、どういった格好で過ごすかは個人の好みに任せていた。
再臨後のレイシフトでアーサーと会った時にはフード姿だったので、てっきり素顔を見られたくないとばかり思っていた。
そう説明すれば彼は「特に意味はなかったんだけど、心配させちゃったんだね」と眉を下げた。そして間髪入れずに「体調は平気かい?」とも聞いて、スルリ、と彼の形の良い指が頬を撫でる。
自分でもペタペタと反対の頬を触ってみるが、特段不調らしいところは見つからない。伺うように見つめてくる彼の視線は真剣そのものだが、恥ずかしいことに長い睫毛が当たりそうなほど近い。
「体調悪そうに見えた?」
「今はそうでもないけど、最近ちょっと無理をしているように見えたから」
「そんなことないよ」
「バーサーカーたちのために、血を分けたりしてただろう」
「あれは、魔力が足りないって言うから」
「バーサーカーの必要魔力量をなめちゃいけない!」
こちらの言葉を遮るような、彼らしくない大声が鼓膜を揺らした。
途端に指先すら動かせなくなり、心音が早くなる。怒らせてしまっただろうか、しかし何故? 唇も金魚のように開閉するだけで、言葉を紡いではくれない。
彼はすぐにハッとしたように、俺を抱き起こして背中をさすってくれた。呼吸に合わせたそれに段々と力が抜けて、心の奥に火が灯ったようになる。
「ごめんよ、マスター。まだ慣れないよね」
一定のリズムで俺の背中をさすったり叩いたりしながら、彼は静かな声でそう呟いた。言葉の意味はわからなかったけれど、彼の手袋ごしの体温がとても心地よいことだけは感じ取れる。
次第に意識がゆっくり落ちていき、目蓋が重くなる。目の前の景色は黒なのに、頭が真っ白になって、力がどんどん抜けていく。
この現象は授業で習ったことがある。
これはおそらく——Sub space。
SubがDomのコントロール下に置かれることで、多幸感に包まれて起こる一種のトリップ現象。
それが起こるということは、つまり。
「いい子、いい子。マスター」
彼が耳元で囁く。表情は既に伺えない。ただ歌うように、弾むように、それでいてどこか寂しげに。そんな声が聞こえたと同時に、俺の意識は身体の外へ取り残された。
***
重い頭のまま目蓋を上げた時、最初に視界に入ったのは自室の白い天井。寝返りをうてば白い壁と、白いシーツも認識できる。のそりと身体を起こして猫のような伸びをすると、枕元にあった黒いメモがカサリと鳴った。
そこには「起きたら工房に来るように」という走り書きと、右下のダ・ヴィンチちゃんのサインがある。緊急事態ではなさそうだが、朝ご飯前に寄った方がいいだろう。
そういえば、いつ布団に入ったんだったか。喉に溜まった唾を飲み込んで鏡を見ると、頬にシーツの痕が見える。随分長い時間寝ていたようだ。
備え付けの水道で顔を洗って、洗濯したての柔らかいタオルで拭く。それから寝巻き代わりに着ていた灰色のスウェットを脱ぎ、一度下着だけの姿になる。身体の傷の具合を見てから、黒いスラックスを履き、黒のタンクトップの上から白い制服を着れば準備は完了。
白い廊下を歩いて数分で彼の工房にたどり着く。ノックも無しにドアを開けたのに、彼は屈託のない笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、ダ・ヴィンチちゃん」
「おはよう、立香くん。まあその辺に座ってくれたまえ」
天才を自称する彼の工房には一般人にはわからないモノが多い。それは機械であったり、薬であったり、標本であったりと様々だが、それら全てが彼の自作なのだから、やはり彼は万能なのだと認識する。
そんな万能は、時として多大な災を招く。今までにも数回彼が原因の騒動があったが、彼は変わらずカラカラと笑っていた。そんな災を彼が招いた時には、決まって施設内放送が流れる。今回はそうではなく個人的な呼び出しだったのだから、きっと俺に関係が深い事項なのだろう。
彼は小さいコーヒカップ(デミタスというらしい)にエスプレッソを淹れて、俺の目の前に差し出した。あらかじめ砂糖をたっぷり入れてもらっているそれを、両手で受け取るとじんわり熱が伝わる。机の上には一口サイズのチョコレートが乗っていた。
透明な包装紙を摘んで、左右に引っ張る。コロンと手のひらに落ちてきたチョコを口の中で転がせば、ほの甘い味が舌に伝わり口元が緩む。
「さて、本題なんだけど。君、Subだってサーヴァントにバレたね?」
「え……」
チョコが溶けきった頃合いを見て、彼は向かい側の椅子に座ってそんなことを言い出した。
「まあ、あの王様なら悪いようにはしないだろうけどさ。昨日私のところへ君を運んだのも彼だし」
Subがバレた。サーヴァント。王様。悪いようにはしない。彼。一つ一つの言葉を頭の中で練り上げ形にする。
そうだ。昨日アーサーに会って、Sub spaceのような症状が出て。彼に寝かしつけられるままに意識を落とした。
「あ……」
「忘れていたのかい?」
ふうっと憂いを帯びた表情で彼は問う。
血の気が引いていくのが自分でもわかる。それは自分がSubだと知られてしまったことか、知られた相手がDomだったことか、あるいはその両方か。
「あ、アーサーは何て?」
「無意識とはいえGlareを発してしまったので謝りたいっていうのと、この件は誰にも言ってないから安心してほしいってさ」
Glare——Domが怒った時や、威嚇する時に使用する眼力。これを食らうとSubである俺は隷属衝動が抑えられなくなる。昨日アーサーの声に身体が硬直したのはそのせい。
けれども俺が聞きたいのは、そういうことではなかった。
「謝りたいってことは、また顔合わせるんだよね?」
「おや、嫌かい?」
「そうじゃなくて、嫌じゃないんだけど」
震える手で制服の胸のあたりを握りしめながら、机のチョコレートをじっと見つめた。頭の中で言葉を選んで、なるべく誤解のないようにと考えると逆に安直な言葉しか浮かばないのは何故なのか。
息を吸って、吐いて。
「怖い」
空の包装紙がそっと転がるような小さな声で呟いた。
DomにSub性を知られたことではない。Glareを食らったことでもない。彼に動かされることを是としてしまう、浅ましい自分の身体が怖い。
おそらく最初にSubだと自覚する前から、彼に対しては特別に“らしい”態度を取っていたのだろう。でなければ彼だけが俺の性を知覚するなんて無理だ。
一気に流し込んだエスプレッソが喉を焼く。彼は何故か黙って俺の口にチョコレートを押し込んだ。苦いエスプレッソと混ざって、チョコレートの甘さが後を引く。豊満な肉体を持つ美女に唇をなぞられると、変な気分になるのでやめてほしい。
「まあ、もう少しで彼も来るから、ゆっくり話すがいいさ」
「他人事だと思って……」
「他人事だからね」
勢いよく机に突っ伏した俺の頭をゴム毬のように叩いて、彼は空になったデミタスを片付ける。俺は軽やかな鼻歌と食器が擦れる音を耳で拾いながら、ゆっくりと目を閉じた。
暫く足を揺らしながら俯いていると、冷たい何かが頭を撫でるのを感じた。硬くて冷たい手のような感覚は、そう、最近よく触れる籠手だろうか。
ゆっくり目蓋を上げる。やはりそこには目下の悩みであるアーサーがいた。フードは取り払われていて、柔らかな金髪に目を細める。
「おはよう、マスター」
「おはよ……アーサー」
むくりと上半身を起こす。それだけだというのに、彼は優しく手を貸してくれた。辺りを見回してみてもダ・ヴィンチちゃんは見当たらない。
「ダ・ヴィンチ女史なら席を外してもらったよ。少し話いいかい?」
「……断れないって知ってるくせに」
「君の身体に負担をかけるような命令はしないよ。約束する」
こちらを安心させるためか、人のいい笑みを向けられた俺は思わず乾いた笑みを零す。そういう問題ではないと、彼は気づかないらしい。
基本的に、Domの命令にはSubは逆らえない。これがお互い信頼に足るパートナーであれば、Safe wordを設定したり段階を踏んだ上でことに及べるのだが、彼とはそんな関係にはなれない。
無意識にDomの言いなりになってしまうSubなんて、それこそ奴隷以下だ。そんなことに、一時の契約であるサーヴァントの彼を巻き込むわけにはいかなかった。
「それで、話って?」
「うん、率直に言えば、君とパートナー契約を結びたい」
ほうらきた。彼は全くもって滅私奉公の塊で、エミヤといい勝負だ。国のために、王の責務のために自己を殺し続けた彼のことだ、今はサーヴァントの責務とやらに苛まれているに違いない。
自分が彼のマスターである以上、そんなことはさせたくなかった。彼の顔をしっかりと見据え、その綺麗な蒼い瞳と目を合わせる。
「俺は、嫌だ」
「……やっぱり、Domは怖いかい?」
「Dom自体は怖くないけど、俺はアーサーのマスターだから。パートナー契約は結べない」
瞬間、ピリと肌を何かが焼いたような気がした。しかしGlareほどの強制力はなく、彼も寂しげに眉を下げただけだったので唇を噛んで耐える。
「あくまで、主従関係はひっくり返したくないってこと?」
「……俺はそうあるべきだと思って、マスターをやってる」
「そう、か」
マスターだからって、別に偉ぶりたいわけじゃなかった。けれどもサーヴァントシステムというものが一種の主従契約であるなら、それを一人だけ壊してしまうのは危険だ。俺はみんなを率いなければならない立場で、幸いにも俺のSub性はそこまで強いものではない。
そう言い切る俺に、アーサーはまるで痛ましい子どもを見るような顔をした。
それからまたいつものように、優しく頭を撫でてくれる。俺はこれに弱い。おそらくDomに褒められているかのポーズが、なけなしのSub性を刺激しているのだろう。
身体の芯がぼんやりとして、麻酔にかけられたような陶酔感に膝をつきそうになる。
「……マスターはもっと、自分の身体を心配した方がいい」
けれど彼がそれを口にした瞬間、胸の中が煮え返るように動転した。
それは誰が聞いても俺への気遣いで、心配りで、彼に落ち度なんて何もないはずなのに、ささくれ立った心を刺激したのだ。
バシン、と大きな音を立てながら彼の腕を振り払い、二、三歩後退して彼を睨みあげる。
「そんなの、アーサーに言われたくない!」
自分でもわかるほどの、ヒステリックな声が響く。興奮で胸が激しく波立つのを感じて、傍にあったチョコレートを引っ掴んで投げつけても、ちっとも気が収まらない。
あまりにも場違いな俺の憤りに、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「マスター?」
「主従関係を壊したくないのはそっちだろ? そうやって、マスターマスターって言うくせに。自分のこと心配しないのはそっちのくせに。人理が修復されれば消えちゃうくせに。一緒になんか居られないくせに。何がパートナー契約だ、そんなの全然対等じゃない!」
もう自分が何を言っているのかもわからない。ただ反論なんてさせない子どものように喚く俺を、彼がひどく凪いだ瞳で見つめていた。情けないやら恥ずかしいやらで、眼球の上をうっすら涙が覆う。
「もういいよ。俺なんかに無理して構わなくていいから、あっち行って……いいや、俺が出てく」
重い足を引きずりながら工房を出て行っても、彼は何も言わなかった。何もしなかった。足に鎖を繋がれたまま、這い上がることが出来ない谷底にでも落とされた気分だ。
工房から自室は割と距離があるはずなのに、廊下では誰とも会わないままベッドに倒れこむ。シーツの波に身体を預けていると、脳に溜まった血液が一気に身体中に巡り、先程自分で言った言葉が反響した。
「一緒になんか、居られないくせに」
なんて女々しい言葉だろう。それでもこれは、俺の気持ちの全てだった。
パートナーになっても、いずれ彼は消えてしまう。それ以前に、義務感でパートナー契約なんてまっぴらだ。それができるほど、彼への恋心を割り切れていない。
——恋?
「ぁ……」
一瞬過ぎった感情が信じられずにきつく目を閉じて、湛えていた大粒の涙が頬を伝った。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもう堰を切ったように流れ続けるだけ。
喘ぐような声を抑えるためにシーツを噛んでいれば、唾液と涙ですっかりぐちゃぐちゃになってしまった。
そんなことはわかってるのに、外は吹雪で真っ白になって、景色も何も見えない。だからもしかして人理焼却という事象が悪い夢なのかも、なんて期待が胸のうちに灯った。
カルデアの外がよく見える大きな窓に寄りかかりながら、何をするでもなく床に座り込んだ。
ガラスに額をぶつけると、じわじわと熱が奪われていく。熱があるかと聞かれれば、きっとあるのだろう。もっとも、その原因は風邪などではなく、ただの知恵熱だけれど。
ここに来るまで冷たい壁に頭を押し付けながら歩いてみても、工房から拝借した氷のうを額に当ててみても、ビックリするくらい何も変わらなかった。
数センチ離れてガラスに顔を映しながら、唇を緩慢に動かして言葉にもならない形を作ってみる。すると漏れ出す息はガラスを曇らせ、俺の辛気臭い顔を隠してくれた。
けれどやっぱり、外は吹雪のままだった。
事の発端は、定期的に行われていた健康診断にある。バイタルは至って良好、身長体重も変わりなく、いつもであれば速攻部屋に帰されるような数値だった筈だ。しかし医務室にいたDr.ロマンはカルテを見ながら難しい顔をして、少しだけ別室で話がしたいと言ってきた。
数値に出ないような異常があったのだろうか、と身構える俺を他所に、連れて行かれたのはダ・ヴィンチちゃんの工房。ドクターと一緒に入ってきた俺を見て、ダ・ヴィンチちゃんはらしくもない愛想笑いを浮かべた。
彼らはカルテを見合いながら何やらヒソヒソと話し合い、一息ついて二人同時にこちらを向いた。ダ・ヴィンチちゃんがすっかりいつもの調子で微笑んでいるのに対して、ドクターぼんやりと何かを考え入っているような沈んだ顔をしている。
そして何やら言いあぐねているドクターに、ダ・ヴィンチちゃんが大きく溜息を吐く。ビクリと肩を震わせたドクターからカルテを取り上げて、こちらを見ながら形の良い唇を開いた。
「立香くん……君、SubやDomって聞いたことあるかい?」
「そりゃあるよ、学校の保健体育で習ったから」
「それなら話は早い。つまるところ、君はSubだという診断が出た」
彼の言葉に、一瞬自分の耳を疑った。
Sub——世間一般の知識では、支配されたいという願望が強い性。性癖なんて生ぬるいものではなく、命令され、構われ、尽くすことを生きがいとする。
Domはその反対で、支配する願望の強い性。しかしどちらの性であろうと、その欲求が満たされなければ、いずれ体調不良を起こして鬱状態になってしまう。
それが、俺の性だと彼は言ったのだ。
勿論今までそんな自覚のないまま育ってきた俺は、馬鹿みたいに立ち尽くしかない。
彼はそんな俺を見てこうも続ける。
「問診のデータから見ても、君の周りへの尽くし方はSwitch(中庸)にしては偏りすぎている」
なんでも、その兆候は数ヶ月も前から出ていたらしい。しかし一度や二度の問診で決めるのは時期尚早ということで、判断を下すと予定していた日が今日だったというわけだ。
説明の終わりにウインクをして見せるダ・ヴィンチちゃんの横で、ドクターはとても心苦しそうだ。
けれど俺は首を傾げてしまう。そこまで言われてしまうほどに、普段の隷属願望は強かっただろうか。
「まあ、英雄にはDomもSubも多いからね。気をつけるにこしたことはないという話さ」
「気をつけるって?」
「同じSubが相手ならそこまで気を張る必要はないけれど、Domに滅茶苦茶な命令されて体調不良……まあぶっちゃけSub drop状態になってもらっては困るのさ」
「サブドロップかぁ」
口の中でその言葉を転がしながら、そう古くもない記憶を掘り返してみる。比較的お人好しと言われてきた人生の中で、多少無茶な頼みごとをされることは多かった。けれどもそこまで身体的にも精神的にも負担を感じたことはない。勿論快楽と感じたこともないが。
未だ頭の中がぐるぐるとしている俺を心配してか、とにかく今の話は他言無用とだけ言われこの話は切り上げられる。
ついでに二人はもう少し話があるらしく、俺は早々に工房から追い出されてしまった。
そして冒頭に至るわけである。
何か特別な思いがあってこの場所に来たわけではない。ただサーヴァントや職員の部屋から離れたここは、人通りが少なく考えを纏めるにはもってこいなだけ。
曇りの取れたガラスに映った俺の頬はよく見ると少し赤くて、青い瞳は充血しているように見えた。もう一度小さく息を吐いてみれば、その顔も外の景色と同じように真っ白に消える。
暫くそれを繰り返して、いつまでもここに居るわけにもいかないと、グッと伸びをしながら立ち上がる。すると後ろに、フードを被った鎧姿の青年がいることに気がついた。
ゆっくり振り向くと、そこに居たのはやはり蒼銀の騎士。つい先日、召喚に応じてくれたばかりのアーサー・ペンドラゴンだった。彼の身につけている白と黒のフードで目元は隠れているが、心なしか口角は下がっているように見える。
「こんな所にいては風邪をひいてしまうよ……顔も真っ赤じゃないか」
「あー、さー」
彼の名前を呼ぼうとして、思ったよりも小さく舌ったらずな声が出た。
何故彼がここにいるのだろう。
重い目蓋を擦りながら彼を上目で見つめていると、フードの中でクスリと笑った気配がした。そのまま彼は茶目っ気たっぷりに人差し指を唇に寄せて、十センチほど差のある顔を近づけてくる。
突然の事に仰け反った俺の腰を支え、蒼い瞳が俺を捕らえた。
「ここは広いからね、少々迷ってしまったんだ」
囁かれるように、しっとりとした声で紡がれた存外子どもっぽい言葉。思わずプッと噴き出せば、彼は顔を離して薄い唇を尖らせた。
「そんなに笑うところかい?」
「だって、一国の王が迷子って……」
「城でも何度か迷子になって、ベディヴィエール卿に連れ戻されたこともあるんだよ?」
「へえ、ベディが」
会話を続けながらも、彼は俺の左手側に立つ。距離は大体三センチ程度、身動きをすれば簡単に彼の鎧に触れてしまうだろう。
彼と話したお陰なのか、段々と思考も戻ってきた。キリのいいところで部屋に戻ろうかと一歩踏み出すと、そっと左腕が掴まれる。
自分で自分の行動に驚いたのか、パクパクと口を動かす彼が可愛らしくて、フードの下から顔を覗き込んでみる。彼は猫のように蒼い眼を大きくして、口元を緩めると俺の頭を撫でてきた。
籠手に覆われたその手は触り心地がいいとは言い難い。けれどとても満たされたような気分になったのは、気のせいなんかじゃないと思った。
***
いくら人理焼却がなされようと、それを解決する側が潰れてしまっては意味がない。そんな人間の精神衛生上の都合で、カルデア内にて設定された休日の午後。
シミュレーションルーム内の深緑の森の中を散歩していると、視界の端で蒼銀の騎士の姿を捉えた。彼は何をするでもなく、葉の無い大木の前で佇んでいる。
その木は虚像の森の中で一つだけ、決して枝に実も葉も付けない木だ。
意味があるのかはわからない。けれどその木の前で背筋を伸ばしながら、剣を地面に突き刺して立っているアーサーの様子は、とても美しいと感じた。例えフードを目深に被っていたとしてもだ。
こちらではカリスマスキル持ちではないのに、ピリピリと感じる気迫は王様だからなのか。
「やあ、散歩かい?」
ぼんやりと彼を見つめていると、彼がこちらを向かないまま口を開いた。キョロキョロと辺りを見回しても誰もいないことから、自分に話しかけているのだと確信する。
小走りで彼の隣に並んで、彼を見上げた。蒼い瞳は木の幹を見つめたままだ。お互いが立っていると、その顔も遠く感じる。十センチの差は大きいなあ、なんて思いながら顔を綻ばせた。
すると彼は剣の柄から手を離して、俺の頭を撫でてきた。相変わらず籠手は冷たいのに、胸の奥はポカポカと暖かい。
「眠そうだねマスター」
「さっきエミヤのご飯食べてきたから……」
擬似とはいえ太陽が当たって、自然の匂いに包まれたここは睡眠促進にはいい場所だ。微睡み始めた俺を見て、彼は剣を仕舞い大木にもたれかかりながら座る。
ぽんぽんと隣を叩かれれば、そこに腰を下ろさないという選択肢はない。彼の右手側にお邪魔して、背中をぴったりと木につけた。しかしゴツゴツとした木の幹は、あまり寝心地がいいとは言えない。
収まりが悪く身じろぎしていると、黒い腕が俺の身体を捉えた。そのまま緩く引っ張られて、彼の身体に寄りかかる形になる。けれどそこにあるはずの鎧の冷たさや硬さは、いつまでたっても襲ってこなかった。
彼を見るといつの間にかスーツ姿に変わっていて目を丸くする。黒いワイシャツに黒いベスト、黒いネクタイに黒いズボン。極め付けに黒い手袋。見事に真っ黒だ。
その分彼の白い肌が映えるのだけれど、若干浮いている気がしないでもない。サングラスでもかければまだマシだろうか。思い浮かべてはみたものの、何処のSPだと一人ツッコミをして首を振った。
気を取り直して彼に向き直る。よく見るとそれは、自分に支給されている魔術礼装の一着と似ていた。
「その服、俺の持ってる礼装に似てる」
「ああ、そうなのかい? お揃いだね」
「俺は着られてるって感じであまり好きじゃないんだけど……アーサーはさすがだね。普通に外歩けそう」
衣装のことに口を出してみたものの、個人的に一番気になったのは、いつもフードで隠されているその素顔だ。
柔らかい金の短髪、光の加減で緑にも見える蒼い瞳。その無駄に整った顔立ちが、アングロサクソン系なのかケルト系なのか、アジア人の俺には区別がつかない。
「そんなに素顔が気になる?」
「別に。再臨してもずうっとフードのままだったから、あっさり取ったのに驚いただけだよ」
正確には、再臨した直後はフードが取れていた。再臨後に衣装が変わるサーヴァントは珍しくもなく、何故か半裸になる奴らもいる。加えて変化した後の姿は自在に変更可能のようで、どういった格好で過ごすかは個人の好みに任せていた。
再臨後のレイシフトでアーサーと会った時にはフード姿だったので、てっきり素顔を見られたくないとばかり思っていた。
そう説明すれば彼は「特に意味はなかったんだけど、心配させちゃったんだね」と眉を下げた。そして間髪入れずに「体調は平気かい?」とも聞いて、スルリ、と彼の形の良い指が頬を撫でる。
自分でもペタペタと反対の頬を触ってみるが、特段不調らしいところは見つからない。伺うように見つめてくる彼の視線は真剣そのものだが、恥ずかしいことに長い睫毛が当たりそうなほど近い。
「体調悪そうに見えた?」
「今はそうでもないけど、最近ちょっと無理をしているように見えたから」
「そんなことないよ」
「バーサーカーたちのために、血を分けたりしてただろう」
「あれは、魔力が足りないって言うから」
「バーサーカーの必要魔力量をなめちゃいけない!」
こちらの言葉を遮るような、彼らしくない大声が鼓膜を揺らした。
途端に指先すら動かせなくなり、心音が早くなる。怒らせてしまっただろうか、しかし何故? 唇も金魚のように開閉するだけで、言葉を紡いではくれない。
彼はすぐにハッとしたように、俺を抱き起こして背中をさすってくれた。呼吸に合わせたそれに段々と力が抜けて、心の奥に火が灯ったようになる。
「ごめんよ、マスター。まだ慣れないよね」
一定のリズムで俺の背中をさすったり叩いたりしながら、彼は静かな声でそう呟いた。言葉の意味はわからなかったけれど、彼の手袋ごしの体温がとても心地よいことだけは感じ取れる。
次第に意識がゆっくり落ちていき、目蓋が重くなる。目の前の景色は黒なのに、頭が真っ白になって、力がどんどん抜けていく。
この現象は授業で習ったことがある。
これはおそらく——Sub space。
SubがDomのコントロール下に置かれることで、多幸感に包まれて起こる一種のトリップ現象。
それが起こるということは、つまり。
「いい子、いい子。マスター」
彼が耳元で囁く。表情は既に伺えない。ただ歌うように、弾むように、それでいてどこか寂しげに。そんな声が聞こえたと同時に、俺の意識は身体の外へ取り残された。
***
重い頭のまま目蓋を上げた時、最初に視界に入ったのは自室の白い天井。寝返りをうてば白い壁と、白いシーツも認識できる。のそりと身体を起こして猫のような伸びをすると、枕元にあった黒いメモがカサリと鳴った。
そこには「起きたら工房に来るように」という走り書きと、右下のダ・ヴィンチちゃんのサインがある。緊急事態ではなさそうだが、朝ご飯前に寄った方がいいだろう。
そういえば、いつ布団に入ったんだったか。喉に溜まった唾を飲み込んで鏡を見ると、頬にシーツの痕が見える。随分長い時間寝ていたようだ。
備え付けの水道で顔を洗って、洗濯したての柔らかいタオルで拭く。それから寝巻き代わりに着ていた灰色のスウェットを脱ぎ、一度下着だけの姿になる。身体の傷の具合を見てから、黒いスラックスを履き、黒のタンクトップの上から白い制服を着れば準備は完了。
白い廊下を歩いて数分で彼の工房にたどり着く。ノックも無しにドアを開けたのに、彼は屈託のない笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、ダ・ヴィンチちゃん」
「おはよう、立香くん。まあその辺に座ってくれたまえ」
天才を自称する彼の工房には一般人にはわからないモノが多い。それは機械であったり、薬であったり、標本であったりと様々だが、それら全てが彼の自作なのだから、やはり彼は万能なのだと認識する。
そんな万能は、時として多大な災を招く。今までにも数回彼が原因の騒動があったが、彼は変わらずカラカラと笑っていた。そんな災を彼が招いた時には、決まって施設内放送が流れる。今回はそうではなく個人的な呼び出しだったのだから、きっと俺に関係が深い事項なのだろう。
彼は小さいコーヒカップ(デミタスというらしい)にエスプレッソを淹れて、俺の目の前に差し出した。あらかじめ砂糖をたっぷり入れてもらっているそれを、両手で受け取るとじんわり熱が伝わる。机の上には一口サイズのチョコレートが乗っていた。
透明な包装紙を摘んで、左右に引っ張る。コロンと手のひらに落ちてきたチョコを口の中で転がせば、ほの甘い味が舌に伝わり口元が緩む。
「さて、本題なんだけど。君、Subだってサーヴァントにバレたね?」
「え……」
チョコが溶けきった頃合いを見て、彼は向かい側の椅子に座ってそんなことを言い出した。
「まあ、あの王様なら悪いようにはしないだろうけどさ。昨日私のところへ君を運んだのも彼だし」
Subがバレた。サーヴァント。王様。悪いようにはしない。彼。一つ一つの言葉を頭の中で練り上げ形にする。
そうだ。昨日アーサーに会って、Sub spaceのような症状が出て。彼に寝かしつけられるままに意識を落とした。
「あ……」
「忘れていたのかい?」
ふうっと憂いを帯びた表情で彼は問う。
血の気が引いていくのが自分でもわかる。それは自分がSubだと知られてしまったことか、知られた相手がDomだったことか、あるいはその両方か。
「あ、アーサーは何て?」
「無意識とはいえGlareを発してしまったので謝りたいっていうのと、この件は誰にも言ってないから安心してほしいってさ」
Glare——Domが怒った時や、威嚇する時に使用する眼力。これを食らうとSubである俺は隷属衝動が抑えられなくなる。昨日アーサーの声に身体が硬直したのはそのせい。
けれども俺が聞きたいのは、そういうことではなかった。
「謝りたいってことは、また顔合わせるんだよね?」
「おや、嫌かい?」
「そうじゃなくて、嫌じゃないんだけど」
震える手で制服の胸のあたりを握りしめながら、机のチョコレートをじっと見つめた。頭の中で言葉を選んで、なるべく誤解のないようにと考えると逆に安直な言葉しか浮かばないのは何故なのか。
息を吸って、吐いて。
「怖い」
空の包装紙がそっと転がるような小さな声で呟いた。
DomにSub性を知られたことではない。Glareを食らったことでもない。彼に動かされることを是としてしまう、浅ましい自分の身体が怖い。
おそらく最初にSubだと自覚する前から、彼に対しては特別に“らしい”態度を取っていたのだろう。でなければ彼だけが俺の性を知覚するなんて無理だ。
一気に流し込んだエスプレッソが喉を焼く。彼は何故か黙って俺の口にチョコレートを押し込んだ。苦いエスプレッソと混ざって、チョコレートの甘さが後を引く。豊満な肉体を持つ美女に唇をなぞられると、変な気分になるのでやめてほしい。
「まあ、もう少しで彼も来るから、ゆっくり話すがいいさ」
「他人事だと思って……」
「他人事だからね」
勢いよく机に突っ伏した俺の頭をゴム毬のように叩いて、彼は空になったデミタスを片付ける。俺は軽やかな鼻歌と食器が擦れる音を耳で拾いながら、ゆっくりと目を閉じた。
暫く足を揺らしながら俯いていると、冷たい何かが頭を撫でるのを感じた。硬くて冷たい手のような感覚は、そう、最近よく触れる籠手だろうか。
ゆっくり目蓋を上げる。やはりそこには目下の悩みであるアーサーがいた。フードは取り払われていて、柔らかな金髪に目を細める。
「おはよう、マスター」
「おはよ……アーサー」
むくりと上半身を起こす。それだけだというのに、彼は優しく手を貸してくれた。辺りを見回してみてもダ・ヴィンチちゃんは見当たらない。
「ダ・ヴィンチ女史なら席を外してもらったよ。少し話いいかい?」
「……断れないって知ってるくせに」
「君の身体に負担をかけるような命令はしないよ。約束する」
こちらを安心させるためか、人のいい笑みを向けられた俺は思わず乾いた笑みを零す。そういう問題ではないと、彼は気づかないらしい。
基本的に、Domの命令にはSubは逆らえない。これがお互い信頼に足るパートナーであれば、Safe wordを設定したり段階を踏んだ上でことに及べるのだが、彼とはそんな関係にはなれない。
無意識にDomの言いなりになってしまうSubなんて、それこそ奴隷以下だ。そんなことに、一時の契約であるサーヴァントの彼を巻き込むわけにはいかなかった。
「それで、話って?」
「うん、率直に言えば、君とパートナー契約を結びたい」
ほうらきた。彼は全くもって滅私奉公の塊で、エミヤといい勝負だ。国のために、王の責務のために自己を殺し続けた彼のことだ、今はサーヴァントの責務とやらに苛まれているに違いない。
自分が彼のマスターである以上、そんなことはさせたくなかった。彼の顔をしっかりと見据え、その綺麗な蒼い瞳と目を合わせる。
「俺は、嫌だ」
「……やっぱり、Domは怖いかい?」
「Dom自体は怖くないけど、俺はアーサーのマスターだから。パートナー契約は結べない」
瞬間、ピリと肌を何かが焼いたような気がした。しかしGlareほどの強制力はなく、彼も寂しげに眉を下げただけだったので唇を噛んで耐える。
「あくまで、主従関係はひっくり返したくないってこと?」
「……俺はそうあるべきだと思って、マスターをやってる」
「そう、か」
マスターだからって、別に偉ぶりたいわけじゃなかった。けれどもサーヴァントシステムというものが一種の主従契約であるなら、それを一人だけ壊してしまうのは危険だ。俺はみんなを率いなければならない立場で、幸いにも俺のSub性はそこまで強いものではない。
そう言い切る俺に、アーサーはまるで痛ましい子どもを見るような顔をした。
それからまたいつものように、優しく頭を撫でてくれる。俺はこれに弱い。おそらくDomに褒められているかのポーズが、なけなしのSub性を刺激しているのだろう。
身体の芯がぼんやりとして、麻酔にかけられたような陶酔感に膝をつきそうになる。
「……マスターはもっと、自分の身体を心配した方がいい」
けれど彼がそれを口にした瞬間、胸の中が煮え返るように動転した。
それは誰が聞いても俺への気遣いで、心配りで、彼に落ち度なんて何もないはずなのに、ささくれ立った心を刺激したのだ。
バシン、と大きな音を立てながら彼の腕を振り払い、二、三歩後退して彼を睨みあげる。
「そんなの、アーサーに言われたくない!」
自分でもわかるほどの、ヒステリックな声が響く。興奮で胸が激しく波立つのを感じて、傍にあったチョコレートを引っ掴んで投げつけても、ちっとも気が収まらない。
あまりにも場違いな俺の憤りに、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「マスター?」
「主従関係を壊したくないのはそっちだろ? そうやって、マスターマスターって言うくせに。自分のこと心配しないのはそっちのくせに。人理が修復されれば消えちゃうくせに。一緒になんか居られないくせに。何がパートナー契約だ、そんなの全然対等じゃない!」
もう自分が何を言っているのかもわからない。ただ反論なんてさせない子どものように喚く俺を、彼がひどく凪いだ瞳で見つめていた。情けないやら恥ずかしいやらで、眼球の上をうっすら涙が覆う。
「もういいよ。俺なんかに無理して構わなくていいから、あっち行って……いいや、俺が出てく」
重い足を引きずりながら工房を出て行っても、彼は何も言わなかった。何もしなかった。足に鎖を繋がれたまま、這い上がることが出来ない谷底にでも落とされた気分だ。
工房から自室は割と距離があるはずなのに、廊下では誰とも会わないままベッドに倒れこむ。シーツの波に身体を預けていると、脳に溜まった血液が一気に身体中に巡り、先程自分で言った言葉が反響した。
「一緒になんか、居られないくせに」
なんて女々しい言葉だろう。それでもこれは、俺の気持ちの全てだった。
パートナーになっても、いずれ彼は消えてしまう。それ以前に、義務感でパートナー契約なんてまっぴらだ。それができるほど、彼への恋心を割り切れていない。
——恋?
「ぁ……」
一瞬過ぎった感情が信じられずにきつく目を閉じて、湛えていた大粒の涙が頬を伝った。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもう堰を切ったように流れ続けるだけ。
喘ぐような声を抑えるためにシーツを噛んでいれば、唾液と涙ですっかりぐちゃぐちゃになってしまった。