序章 ムッシュ・ド・パリの子ども
貴方のお名前は?
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——死刑執行人代理がついに、罪人の処刑を行うらしい。
道行く人々がしていた内緒話。私と彼が出会って十年近い、彼は十六歳になっていた。学校から追い出され神父を家庭教師とした彼は、身体を悪くした父のために十五歳で代理になったのだ。私の肉体年齢にどんどん近づいてくる。
私は相変わらず人々から遠巻きに見られ、彼もまた、投げられる物が多くなっていた。いつも身体の何処かに傷を負っては、慈しんだ瞳で治療を乞う。
医者の家系であっても、貴重な医療道具を拝借するのは憚られたらしい。買い物リストに、包帯と傷薬が増えた。
タダで診てもらいに来るわけでもなく、お礼としてお菓子を持ってくるあたり可愛らしい子供だ。社会の底辺の地位にいながら、貴族のような暮らしのできる王党派であり平等主義。尤も彼が成長するにつれてそれほど裕福と言えなくなってきたらしいが、それでも周りの物乞いたちに比べれば雲泥の差だ。
処刑当日、広場には処刑人の初めての処刑を一目見ようという人間で溢れかえっていた。
彼は人混みの中心で青い顔のまま断頭台の上に立ち、首を刎ねるための剣を振り上げる。手は震え、軸がぶれていた。ただでさえ首を切り落とすことは難しいのに、あれでは失敗してしまう。
彼は柄を握りしめ、意を決したように振り下ろした。
——罪人の首は刎ねられなかった。うなじを削るのみで、まだ息がある。
途端に見物人が殺気立った。罪人を殺せと喚きながら、処刑に失敗すれば処刑人を糾弾する。所詮処刑は見世物で、民衆の娯楽だ。彼の役職は道化にも等しい。道化は嗤わせることに失敗した。民衆は石を投げ、処刑人と言う名の悪魔を殺せと叫んだ。
——忌子は、悪魔になったらしい。
魔女は悪魔を使役できるだろうか。もしくは悪魔は魔女を使役できるのだろうか。
それなら欲しい。あの子どもが欲しい。へたりと座り込む彼の手を取って、森の奥へと隠れ潜んで、彼が命を失うその一瞬まで共に生きたい。
けれどそれはできない。彼は悪魔ではない。処刑人としては優しすぎる心を持った、かわいそうな子どもなのだ。私が魔女と呼ばれるのは、この呪いと言える寿命の長さ。彼が悪魔と呼ばれるのは、人々が忌み嫌う職業の家系だから。
私の呪いは自業自得だが、彼の職業には非はない。そもそも、処刑を見世物として楽しんでいるのは彼を糾弾している民衆たちだ。彼らの方がよっぽど悪魔らしい。
結局私はそのまま何をすることもなく、ただぼんやり処刑台を見ていた。包帯と傷薬を買い足さなくては。そんなことを考えながら。
彼の年齢が二十歳を超えた頃、私との身長差はゆうに二十センチを超えた。
恒例のおしゃべりをするときも、頭一つ分高い位置にある。身体はがっしりとした西洋人らしいのだが、腰や腕が細いせいで若干まだ青年っぽさが残っている。大好きな薄氷の瞳は、年々濁っていた。
彼の処刑人としての仕事は、そう多くはない。処刑道具を組み立てるのにも時間はかかるし、死刑囚もそこまで多くない。何よりそこまで死刑囚を増やせば、フランスは一瞬で殺戮の国となる。拷問だって、決められた手続きが必要なのだ。
副業としての医者は、何とか軌道に乗っているらしい。お金のない平民からは治療の代金を取らない、と彼は言っていた。すなわちそれは、彼が手をかけた人数より、救った人数のほうが断然多いということ。
それでも彼は、手のひらの血が取れないのだと泣いていた。
それでも彼は、国王のためにその手を血で染めた。
そこにお菓子を持ってきて微笑んでいた彼の面影はなく、ただ苦悩する青年の姿があった。そんな彼との交友はまだ続いている。
誰も来ない森の狩猟小屋で、何かと怪我の絶えない私の治療をしてくれる。
「……また魔女といるって怖がられるよ」
「そんなの、いまさらだ」
丁寧に私の腕に包帯を巻いていく彼の手は、武骨とは言わないまでも筋の入った男の手だ。色は白く、癖で念入りに洗ってしまうせいかところどころ擦れていて赤い。声もすっかり低くなり、心地よいテノールが耳を通る。
「昨日も社交界に行ってたんだって?」
「ああ、そうだ」
「身分が知れて貴族の女性に訴えられたって聞いたけど」
「それは……」
成長した彼は、しばしば社交界に赴いていた。背も高く、顔の良いプレイボーイな彼は、身分さえ明かさなければ女性人気は大変高い。しかしそれが仇となり、身分を隠しながら一晩食事をしたところ、貴族の女性に訴えられたのだという。笑い話のようだが本人いとってはちっとも笑えない話だ。
加えて処刑人を弁護する物好きもおらず、結局彼は自分で自分を弁護するという暴挙に出た。結果は勝訴。恐ろしい限りである。
「女性を口説くコツって何かあるの?」
「口説かなくとも、向こうから言い寄ってくるから」
「ふーん、私も言い寄ったほうがいい?」
「友人である君に言い寄られるのは困ってしまうな」
半分冗談で放った言葉に、彼は照れくさそうに頬をかく。私は二の句が継げなかった。倒れた木に腰をおろし、膝に肘をつきながら思わず乾いた笑いまで出てしまった。
「そんなことはしないから、安心してよ」
その言葉に、彼は今日一番の笑顔を見せてくれた。
二十五歳を超えると、身体の成長は止まり、表情もだいぶ大人びてくる。私と並ぶと、少女趣味のように見えてしまうと言われた。
それなら離れるかと意地の悪いことを言って、それは嫌だという言葉を引き出す。けれども段々と彼は、狩猟小屋に来なくなっていた。
代わりに私が街に降りて彼を探すのだが、見つかるのはいつも処刑広場の中だった。
「久しぶり」
「お久しぶり。もう来ないかと思ってた」
「まさか、そんなことは」
前回会った時から一ヶ月ほど間が空いて、彼は狩猟小屋にやってきた。
副業が忙しいのかと聞けば、歯切れの悪い言葉。また愛人でも作ったのだろう。何度か痛い目を見ているというのに、懲りないことだ。
「……なんにせよ、危ない橋は渡らないようにね」
「もちろん」
古びた小屋の中。存外しっかりとした窓では足りず、寒さをしのぐための毛布に包まる。少しだけ質の良い布を使ったそれを、二人でくっつきながら使って何年になるか。
部屋の隅に置かれたトランクを見つめて、私が旅立つのはいつになるかと思いを馳せる。
処刑人という立場でありながら、彼は非常に女性に好かれた。愛人の話を聞いたことは数知れず、その時どんな表情を浮かべていたのか自分でもよくわからなかった。
二十五歳ということは、もう結婚も考えないといけないだろう。処刑人の家系同士でなければ彼は結婚を許されない。どんな女性が彼の隣に立つのか。胸のあたりがジクリと痛む。
毛布を軽く引っ張って、彼の意識をこちらに持って来させる。
「シャルロはさ、私のことどう思ってる?」
「君のこと……?」
十数年一緒にいて、友人と呼ばれながら期待を未練たらしく持っているのは嫌だった。いっそのこと、声高に告白でもして玉砕すれば、ここを離れる踏ん切りがつくというもの。
でもそれはできない。それは、数年前の「言い寄らない」約束を破ることになるから。——いや、自分がこの関係を壊したくない言い訳を彼に押し付けているだけだ。
「君は、大切な友人だ」
「うん……そうだよね、知ってた」
「……?」
友人の少ない彼は、距離感がおかしいのだ。普通は男女で毛布を分けたりしない。身を寄せ合って、談笑なんかしない。私だって、ただの友人に髪を無闇に触らせたりしない。腰まで伸びた黒い髪を、毟るように梳く癖はいつからのものだったろう。
私が運命と呼ぶ彼は、私が幸せにすることはできる。けれどもそれは、友人という立場で精神の支柱になればの話。そう考えると淋しくて、寒くて、身体を縮こませた。
慌てて頭を撫でる手が、今だけは淋しさを募らせていった。
ほどなくして、彼は結婚した。
処刑人の家系ではなく、一般の家の女性だった。恋愛結婚だったという。
シャルルより幾分年上の彼女は、素朴で、優しそうで、魔女と呼ばれた私とも普通に接してくれた。彼女の名は、マリー・アンヌ・ジュジェ。シャルルも相当数いるが、フランス人にはマリーさんが多い。
彼の敬愛する国王ルイ十六世の奥様も、マリーという名前だったはずだ。
結婚以来彼が狩猟小屋に来ることはなくなり、代わりに私が彼らの家に呼ばれることが多くなった。子どもがあんな場所で暮らすのは、と心配もされてしまった。その度に私は子どもではないことを主張するのだが、あまり効果はない。
一時期は見た目的にも随分年上だった私に対して、シャルロまでもあまりにも子ども扱いが過ぎるので、意地悪で語り口調を敬語にしてやった。彼はいたく狼狽し、トドメの「せんせ」呼びに小一時間落ち込んでいた。
その落ち込みようがなんだか面白かったので、今でもそのまま続けている。彼は何か言いたそうだったが、良い話ではなさそうだったので黙殺した。
「そういえば昔、君の故郷の話を聞いたな」
「まあ、そうなの。私も是非聞きたいわ」
そんな呼び方にも慣れるくらい付き合いが長くなった頃。仲睦まじい彼らは、私にお菓子を振舞いながら、よく今までの人生の話を聞きたがった。
「それはつまり、私が何故死なないかとか、そういう話でしょうか」
「医術的には興味がある。身体はただの人で、病気や怪我はするのに老化はないなんて」
確かに医者としては気になるところだろう。解剖でもすればわかるのかもしれないが、それでは私が死んでしまう。
私の身体は歳をとらない。ただし手を切れば出血するし、不衛生にすれば化膿する。出血が長く続けば死に至る。寒暖差で風邪はひくし、悪化でもすればこれまた命に関わるのだ。
「けれど、その辺りの話は言いたくないんでしょう? だったら、ただ故郷の話が聞きたいの」
「私が日本に居たのって、それこそ今から百年近く前なんですけど……」
「それでも良いんだよ。君がどんな環境で育ったのかが聞きたいんだから」
笑顔で詰め寄る彼らに、私は勝てなかった。
項垂れたまま、口を開く。正直あまり覚えていないが、土地や親がどんなものだったかくらいは思い出せる。
「生まれたのは、日本という国の北東の方。都からは離れた、田舎の土地」
山に囲まれ、海に添い、様々な動物がいた。気候も植物も都とは違うため、何の共通点もない。人種がそもそも違うので、ほぼ別の国扱いだ。
脳内整理をしながら、ポツリポツリと情報を吐き出す。彼らが真剣に聞いてくれたことが、何より嬉しかった。
けれど不思議なのは、その他には何も思い出せないこと。この土地には無いテクノロジーが頭をかすめても、全く用途がわからないこと。私は果たして、本当に百年前のその土地で生まれ育ったのだろうか?
ジクリ、ジクリと痛む胸。一人きりの狩猟小屋で目覚めると、何とも言えない焦燥感に襲われる。頬を流れる涙は、夢のせいだろう。
ドクドクと鳴る心臓はこの際無視だ。身体にかけられた毛布で乱暴に目元を擦り、頭まで被って再び眠りについた。
彼らの間に子どもが生まれたらしい。
安楽椅子に座るマリーさんの大きなお腹を触らせてもらい、声かけをした私にその報せが来たのは生まれた次の日の朝だった。
「可愛らしいでしょ?」
「あー、小さい。真っ赤で可愛い。せんせに似て可愛い」
「ちょっと待て。それはどういう意味だ」
元来子どもが好きな私が赤ん坊に頬ずりしていると、私の言葉にせんせが頭を叩いてきた。力の加減はされているので、あまり痛くはない。
私にとってはこの赤ん坊も、マリーさんも、せんせも等しく全員子どもだ。そして子どもは可愛いものだ。つまりせんせは可愛いのだ。
そういった論理を口に出しても、彼は不服そうに眉をしかめるだけ。マリーさんはそんなせんせを見て笑っている。
この問答は今まで何度もしていて、お互いに譲ったことはないため長くやるだけ不毛だ。気にせず赤ん坊に向き合い、涎のついた口元を拭ってやる。
「名前何になったんです?」
「……アンリよ。アンリ・サンソン」
「ほう、よろしくアンリ」
まろい肌をつつくと、アンリは「ぁ」と声を上げた。彼譲りの薄氷の瞳がこちらをじいっと見つめ、指を差し出すと反射的に握られた。
首も座っていない、柔らかくて弱い人間。優しい母と、優しい父。幸せのうちに生まれた子どもは、将来彼のようになると思うと少しだけ顔が曇る。
——どうかこの優しい両親の下で、愛情深く育ってほしい。
育児については多少アドバイスできるとして、問題はこの一家を取り巻く環境だ。子どもは労働力であり、守られるべきものではないのは充分わかっている。子どもに権利の主張などできはしない。それでも、せめて私だけは慈しみを持ちたかった。
眠りにつくアンリを抱いて、マリーさんは別室に移動する。残されたのは、私とせんせ。
「……大好きな人が増えちゃったなあ」
「何で残念そうなんだ」
椅子に凭れながら、小声で呟いた言葉に彼が反応する。いつからか表情が変わらなくなったとはいえ、声音で不思議そうなのは伝わってくる。
「だって大切な人を作ったら、いなくなった時に淋しくなるでしょう」
「誰でもそういうことはある。まあ、君はそれを他人より多く経験してきたのだろうけど」
隣の椅子に座った彼が、ぽんぽんと私の頭を撫でる。それは慈しみをもった、父親の手だった。何百年も生きた怪物のくせに、子ども扱いが心地よいなんて。たとえ彼が死んでも言ってやるものか。
道行く人々がしていた内緒話。私と彼が出会って十年近い、彼は十六歳になっていた。学校から追い出され神父を家庭教師とした彼は、身体を悪くした父のために十五歳で代理になったのだ。私の肉体年齢にどんどん近づいてくる。
私は相変わらず人々から遠巻きに見られ、彼もまた、投げられる物が多くなっていた。いつも身体の何処かに傷を負っては、慈しんだ瞳で治療を乞う。
医者の家系であっても、貴重な医療道具を拝借するのは憚られたらしい。買い物リストに、包帯と傷薬が増えた。
タダで診てもらいに来るわけでもなく、お礼としてお菓子を持ってくるあたり可愛らしい子供だ。社会の底辺の地位にいながら、貴族のような暮らしのできる王党派であり平等主義。尤も彼が成長するにつれてそれほど裕福と言えなくなってきたらしいが、それでも周りの物乞いたちに比べれば雲泥の差だ。
処刑当日、広場には処刑人の初めての処刑を一目見ようという人間で溢れかえっていた。
彼は人混みの中心で青い顔のまま断頭台の上に立ち、首を刎ねるための剣を振り上げる。手は震え、軸がぶれていた。ただでさえ首を切り落とすことは難しいのに、あれでは失敗してしまう。
彼は柄を握りしめ、意を決したように振り下ろした。
——罪人の首は刎ねられなかった。うなじを削るのみで、まだ息がある。
途端に見物人が殺気立った。罪人を殺せと喚きながら、処刑に失敗すれば処刑人を糾弾する。所詮処刑は見世物で、民衆の娯楽だ。彼の役職は道化にも等しい。道化は嗤わせることに失敗した。民衆は石を投げ、処刑人と言う名の悪魔を殺せと叫んだ。
——忌子は、悪魔になったらしい。
魔女は悪魔を使役できるだろうか。もしくは悪魔は魔女を使役できるのだろうか。
それなら欲しい。あの子どもが欲しい。へたりと座り込む彼の手を取って、森の奥へと隠れ潜んで、彼が命を失うその一瞬まで共に生きたい。
けれどそれはできない。彼は悪魔ではない。処刑人としては優しすぎる心を持った、かわいそうな子どもなのだ。私が魔女と呼ばれるのは、この呪いと言える寿命の長さ。彼が悪魔と呼ばれるのは、人々が忌み嫌う職業の家系だから。
私の呪いは自業自得だが、彼の職業には非はない。そもそも、処刑を見世物として楽しんでいるのは彼を糾弾している民衆たちだ。彼らの方がよっぽど悪魔らしい。
結局私はそのまま何をすることもなく、ただぼんやり処刑台を見ていた。包帯と傷薬を買い足さなくては。そんなことを考えながら。
彼の年齢が二十歳を超えた頃、私との身長差はゆうに二十センチを超えた。
恒例のおしゃべりをするときも、頭一つ分高い位置にある。身体はがっしりとした西洋人らしいのだが、腰や腕が細いせいで若干まだ青年っぽさが残っている。大好きな薄氷の瞳は、年々濁っていた。
彼の処刑人としての仕事は、そう多くはない。処刑道具を組み立てるのにも時間はかかるし、死刑囚もそこまで多くない。何よりそこまで死刑囚を増やせば、フランスは一瞬で殺戮の国となる。拷問だって、決められた手続きが必要なのだ。
副業としての医者は、何とか軌道に乗っているらしい。お金のない平民からは治療の代金を取らない、と彼は言っていた。すなわちそれは、彼が手をかけた人数より、救った人数のほうが断然多いということ。
それでも彼は、手のひらの血が取れないのだと泣いていた。
それでも彼は、国王のためにその手を血で染めた。
そこにお菓子を持ってきて微笑んでいた彼の面影はなく、ただ苦悩する青年の姿があった。そんな彼との交友はまだ続いている。
誰も来ない森の狩猟小屋で、何かと怪我の絶えない私の治療をしてくれる。
「……また魔女といるって怖がられるよ」
「そんなの、いまさらだ」
丁寧に私の腕に包帯を巻いていく彼の手は、武骨とは言わないまでも筋の入った男の手だ。色は白く、癖で念入りに洗ってしまうせいかところどころ擦れていて赤い。声もすっかり低くなり、心地よいテノールが耳を通る。
「昨日も社交界に行ってたんだって?」
「ああ、そうだ」
「身分が知れて貴族の女性に訴えられたって聞いたけど」
「それは……」
成長した彼は、しばしば社交界に赴いていた。背も高く、顔の良いプレイボーイな彼は、身分さえ明かさなければ女性人気は大変高い。しかしそれが仇となり、身分を隠しながら一晩食事をしたところ、貴族の女性に訴えられたのだという。笑い話のようだが本人いとってはちっとも笑えない話だ。
加えて処刑人を弁護する物好きもおらず、結局彼は自分で自分を弁護するという暴挙に出た。結果は勝訴。恐ろしい限りである。
「女性を口説くコツって何かあるの?」
「口説かなくとも、向こうから言い寄ってくるから」
「ふーん、私も言い寄ったほうがいい?」
「友人である君に言い寄られるのは困ってしまうな」
半分冗談で放った言葉に、彼は照れくさそうに頬をかく。私は二の句が継げなかった。倒れた木に腰をおろし、膝に肘をつきながら思わず乾いた笑いまで出てしまった。
「そんなことはしないから、安心してよ」
その言葉に、彼は今日一番の笑顔を見せてくれた。
二十五歳を超えると、身体の成長は止まり、表情もだいぶ大人びてくる。私と並ぶと、少女趣味のように見えてしまうと言われた。
それなら離れるかと意地の悪いことを言って、それは嫌だという言葉を引き出す。けれども段々と彼は、狩猟小屋に来なくなっていた。
代わりに私が街に降りて彼を探すのだが、見つかるのはいつも処刑広場の中だった。
「久しぶり」
「お久しぶり。もう来ないかと思ってた」
「まさか、そんなことは」
前回会った時から一ヶ月ほど間が空いて、彼は狩猟小屋にやってきた。
副業が忙しいのかと聞けば、歯切れの悪い言葉。また愛人でも作ったのだろう。何度か痛い目を見ているというのに、懲りないことだ。
「……なんにせよ、危ない橋は渡らないようにね」
「もちろん」
古びた小屋の中。存外しっかりとした窓では足りず、寒さをしのぐための毛布に包まる。少しだけ質の良い布を使ったそれを、二人でくっつきながら使って何年になるか。
部屋の隅に置かれたトランクを見つめて、私が旅立つのはいつになるかと思いを馳せる。
処刑人という立場でありながら、彼は非常に女性に好かれた。愛人の話を聞いたことは数知れず、その時どんな表情を浮かべていたのか自分でもよくわからなかった。
二十五歳ということは、もう結婚も考えないといけないだろう。処刑人の家系同士でなければ彼は結婚を許されない。どんな女性が彼の隣に立つのか。胸のあたりがジクリと痛む。
毛布を軽く引っ張って、彼の意識をこちらに持って来させる。
「シャルロはさ、私のことどう思ってる?」
「君のこと……?」
十数年一緒にいて、友人と呼ばれながら期待を未練たらしく持っているのは嫌だった。いっそのこと、声高に告白でもして玉砕すれば、ここを離れる踏ん切りがつくというもの。
でもそれはできない。それは、数年前の「言い寄らない」約束を破ることになるから。——いや、自分がこの関係を壊したくない言い訳を彼に押し付けているだけだ。
「君は、大切な友人だ」
「うん……そうだよね、知ってた」
「……?」
友人の少ない彼は、距離感がおかしいのだ。普通は男女で毛布を分けたりしない。身を寄せ合って、談笑なんかしない。私だって、ただの友人に髪を無闇に触らせたりしない。腰まで伸びた黒い髪を、毟るように梳く癖はいつからのものだったろう。
私が運命と呼ぶ彼は、私が幸せにすることはできる。けれどもそれは、友人という立場で精神の支柱になればの話。そう考えると淋しくて、寒くて、身体を縮こませた。
慌てて頭を撫でる手が、今だけは淋しさを募らせていった。
ほどなくして、彼は結婚した。
処刑人の家系ではなく、一般の家の女性だった。恋愛結婚だったという。
シャルルより幾分年上の彼女は、素朴で、優しそうで、魔女と呼ばれた私とも普通に接してくれた。彼女の名は、マリー・アンヌ・ジュジェ。シャルルも相当数いるが、フランス人にはマリーさんが多い。
彼の敬愛する国王ルイ十六世の奥様も、マリーという名前だったはずだ。
結婚以来彼が狩猟小屋に来ることはなくなり、代わりに私が彼らの家に呼ばれることが多くなった。子どもがあんな場所で暮らすのは、と心配もされてしまった。その度に私は子どもではないことを主張するのだが、あまり効果はない。
一時期は見た目的にも随分年上だった私に対して、シャルロまでもあまりにも子ども扱いが過ぎるので、意地悪で語り口調を敬語にしてやった。彼はいたく狼狽し、トドメの「せんせ」呼びに小一時間落ち込んでいた。
その落ち込みようがなんだか面白かったので、今でもそのまま続けている。彼は何か言いたそうだったが、良い話ではなさそうだったので黙殺した。
「そういえば昔、君の故郷の話を聞いたな」
「まあ、そうなの。私も是非聞きたいわ」
そんな呼び方にも慣れるくらい付き合いが長くなった頃。仲睦まじい彼らは、私にお菓子を振舞いながら、よく今までの人生の話を聞きたがった。
「それはつまり、私が何故死なないかとか、そういう話でしょうか」
「医術的には興味がある。身体はただの人で、病気や怪我はするのに老化はないなんて」
確かに医者としては気になるところだろう。解剖でもすればわかるのかもしれないが、それでは私が死んでしまう。
私の身体は歳をとらない。ただし手を切れば出血するし、不衛生にすれば化膿する。出血が長く続けば死に至る。寒暖差で風邪はひくし、悪化でもすればこれまた命に関わるのだ。
「けれど、その辺りの話は言いたくないんでしょう? だったら、ただ故郷の話が聞きたいの」
「私が日本に居たのって、それこそ今から百年近く前なんですけど……」
「それでも良いんだよ。君がどんな環境で育ったのかが聞きたいんだから」
笑顔で詰め寄る彼らに、私は勝てなかった。
項垂れたまま、口を開く。正直あまり覚えていないが、土地や親がどんなものだったかくらいは思い出せる。
「生まれたのは、日本という国の北東の方。都からは離れた、田舎の土地」
山に囲まれ、海に添い、様々な動物がいた。気候も植物も都とは違うため、何の共通点もない。人種がそもそも違うので、ほぼ別の国扱いだ。
脳内整理をしながら、ポツリポツリと情報を吐き出す。彼らが真剣に聞いてくれたことが、何より嬉しかった。
けれど不思議なのは、その他には何も思い出せないこと。この土地には無いテクノロジーが頭をかすめても、全く用途がわからないこと。私は果たして、本当に百年前のその土地で生まれ育ったのだろうか?
ジクリ、ジクリと痛む胸。一人きりの狩猟小屋で目覚めると、何とも言えない焦燥感に襲われる。頬を流れる涙は、夢のせいだろう。
ドクドクと鳴る心臓はこの際無視だ。身体にかけられた毛布で乱暴に目元を擦り、頭まで被って再び眠りについた。
彼らの間に子どもが生まれたらしい。
安楽椅子に座るマリーさんの大きなお腹を触らせてもらい、声かけをした私にその報せが来たのは生まれた次の日の朝だった。
「可愛らしいでしょ?」
「あー、小さい。真っ赤で可愛い。せんせに似て可愛い」
「ちょっと待て。それはどういう意味だ」
元来子どもが好きな私が赤ん坊に頬ずりしていると、私の言葉にせんせが頭を叩いてきた。力の加減はされているので、あまり痛くはない。
私にとってはこの赤ん坊も、マリーさんも、せんせも等しく全員子どもだ。そして子どもは可愛いものだ。つまりせんせは可愛いのだ。
そういった論理を口に出しても、彼は不服そうに眉をしかめるだけ。マリーさんはそんなせんせを見て笑っている。
この問答は今まで何度もしていて、お互いに譲ったことはないため長くやるだけ不毛だ。気にせず赤ん坊に向き合い、涎のついた口元を拭ってやる。
「名前何になったんです?」
「……アンリよ。アンリ・サンソン」
「ほう、よろしくアンリ」
まろい肌をつつくと、アンリは「ぁ」と声を上げた。彼譲りの薄氷の瞳がこちらをじいっと見つめ、指を差し出すと反射的に握られた。
首も座っていない、柔らかくて弱い人間。優しい母と、優しい父。幸せのうちに生まれた子どもは、将来彼のようになると思うと少しだけ顔が曇る。
——どうかこの優しい両親の下で、愛情深く育ってほしい。
育児については多少アドバイスできるとして、問題はこの一家を取り巻く環境だ。子どもは労働力であり、守られるべきものではないのは充分わかっている。子どもに権利の主張などできはしない。それでも、せめて私だけは慈しみを持ちたかった。
眠りにつくアンリを抱いて、マリーさんは別室に移動する。残されたのは、私とせんせ。
「……大好きな人が増えちゃったなあ」
「何で残念そうなんだ」
椅子に凭れながら、小声で呟いた言葉に彼が反応する。いつからか表情が変わらなくなったとはいえ、声音で不思議そうなのは伝わってくる。
「だって大切な人を作ったら、いなくなった時に淋しくなるでしょう」
「誰でもそういうことはある。まあ、君はそれを他人より多く経験してきたのだろうけど」
隣の椅子に座った彼が、ぽんぽんと私の頭を撫でる。それは慈しみをもった、父親の手だった。何百年も生きた怪物のくせに、子ども扱いが心地よいなんて。たとえ彼が死んでも言ってやるものか。