序章 ムッシュ・ド・パリの子ども
貴方のお名前は?
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彼と出会って一年経った。
子供の成長は早いもので、就学のできる年齢になった彼は頭半分ほど背が高くなった。そしていつものようにお喋りを楽しんでいた私に、自分は学校へ行くのだと言った。……彼の手は震えていた。
「学校、行きたくないの?」
「行きたいけれど……やはり処刑人の子どもはパリでは学べない。だから、遠くへ行かなければ」
「そうか、ならしばらく会えなくなるね」
彼には友人と呼べる人間がいなかった。周りの大人たちに遠巻きにされる彼は、その子どもにまで避けられる。幼く無垢な心はひどく傷つき、ますます語ることのできる私に懐いた。
しかし、そのままではいけないのは火を見るより明らかだ。
私は俯く彼の手を取り、膝をついて下から目を合わせた。彼を刺激しないように、なるべくゆっくり声を出す。
「シャルロ」
「……」
「シャルロ、一生会えないわけじゃない。学校はいいものだ。友人ができる、知識がつく……そうすれば、見下す大人たちを見返してやれる」
瞳が揺れた。少し太めの眉は下がり、眼球には水の膜が薄っすらと張られていく。腰を上げて頬にキスしてやれば、ほろりと小さな涙が頬を伝った。薄氷色の瞳のせいで、氷が溶けたみたいだ。
「私を想ってくれて嬉しいよ。私もシャルロに会えないと寂しいよ。でも、今生の別れじゃない……わかるね」
彼はぎゅっと口をひき結んだまま、コクリと頷いた。
小さな身体を抱きしめて、お互いの体温を分け与える。魔女だろうと忌子であろうと、血が通っている以上は温度がある。子どもの肌は柔らかく、体温は高い。暖かな眠りにつけそうなその身体を、数分抱きしめて背中をさする。
名残惜しくてなるべくゆっくり身体を離すと、彼の涙はすっかり止まっていた。けれど目は充血して、頬はベタベタだ。袖で頬を優しく拭って、ツンと刺激が通った鼻を無視して頭を撫でてやる。
「帰ってきたら、学校で学んだことを教えて」
「……だったら絶対、この土地から離れないでください」
「離れるもんか」
私は彼のためにここにいるのだ。離れるなんてありえない。
それでも心配そうに瞳を揺らす彼に私が小指を差し出すと、不思議そうな顔で返された。小さな手を取り、小指を絡ませる。彼はこちらをじっと見ていた。
「これは、指切りっていうおまじない」
「指、切り?」
「実際に切るわけじゃないけど、まあ聴いてなって」
〽︎指切りげんまん嘘ついたら針千本のます
「指切った」
そんな掛け声と一緒に、小指をこちらから離した。
「約束を破ったら、針千本飲ませてげんこつ一万回なんだよ」
「物騒ですね」
「わかる。でも故郷の人間なら誰でも知ってるおまじないだから」
「それなら、僕が帰ってきたら君の故郷の話が聞きたいです」
それはいいね、と今度は自然と笑えた気がした。
シャルロと別れた後、買い込んだ食料を床に置いて壁に凭れた。
彼が知識を得るのは好ましい。彼が友人を作るのは喜ばしい。彼が人々に愛されれば誇らしい。
彼が行った学校はルーアンにある。正直自力で行けない距離ではないのだが、彼の成長の邪魔はしてはならないと押しとどまった。何より私はパリの魔女なのだ。ここから移動しようものなら目立って仕方がない。
ちまちまと食い扶持を稼ぎ、死なない程度に眠っていればすぐに会える。学校といっても数年もすれば卒業できる。人間とはそういうものだ。
何より彼が処刑人 の子どもである以上、長期間パリから離れて暮らすことはない。絶対にここに戻ってくる。
——学校にいる間、彼が私のことを忘れたら?
幼少期の思い出として多少残っていては欲しいが、それで彼が幸せになるなら良いだろう。
——彼がだれか良い人を見つけたら?
そもそも成長できない私では、彼と永遠に一緒にいることはできない。その時はイマジナリー・フレンドのように忘却してもらおう。彼が自分以外とばかり仲良くしていることにも耐えられない私は、おそらく遠くへ旅に出るが。
目を瞑って身を縮こませていれば、冬が来る。彼と出会うまで数十年の時を待ったのだ。今更数年程度、苦ではない。
胸の前で手を組んで、信じてもいない神様に彼の無事を願う。どうか、学校が彼にとってあんねいのちとなりますように。
——「寝ているの?」
夢を見た。
声変わりもまだな子どもの声は、舌足らずだけが直っていた。頬に触れる柔らかな体温が、そっと首筋まで運ばれる。すっかり耳に馴染んだその声は、何やら歌を口ずさんでいた。
〽︎Frère Jacques, Frère Jacques
Dormez-vous ? Dormez-vous ?
フレール・ジャック。目覚めの歌とも、聖職者の処刑の歌とも呼ばれるそれは、フランスではよく知られた民謡だ。
〽︎Sonnez les matines ! Sonnez les matines !
Ding ! Ding ! Dong ! Ding ! Ding ! Dong !
短い節の歌が、繰り返し、繰り返し子どもの声で紡がれる。
起きろと、言われているようだった。
「……シャルロ?」
「あ、起きましたか? こんなところで寝ていては風邪を」
「シャルロだ」
文字通り夢にまで見た子どもが、目の前にいる。彼が何故か怒ったように口を開くのも御構い無しで、抱きついてみた。
もう卒業したのだろうか? それにしては成長が見られない。いや、正確には大きくはなっているのだが、数年単位で時が経ったとは思えなかった。
「シャルロ、学校は?」
「……処刑人の子どもだと知られてしまって」
抱きついたまま放たれた返事に、私は腕に力を込めた。彼は少し身をよじらせたが、まだまだ力で私に敵うはずもない。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
子供の成長は早いもので、就学のできる年齢になった彼は頭半分ほど背が高くなった。そしていつものようにお喋りを楽しんでいた私に、自分は学校へ行くのだと言った。……彼の手は震えていた。
「学校、行きたくないの?」
「行きたいけれど……やはり処刑人の子どもはパリでは学べない。だから、遠くへ行かなければ」
「そうか、ならしばらく会えなくなるね」
彼には友人と呼べる人間がいなかった。周りの大人たちに遠巻きにされる彼は、その子どもにまで避けられる。幼く無垢な心はひどく傷つき、ますます語ることのできる私に懐いた。
しかし、そのままではいけないのは火を見るより明らかだ。
私は俯く彼の手を取り、膝をついて下から目を合わせた。彼を刺激しないように、なるべくゆっくり声を出す。
「シャルロ」
「……」
「シャルロ、一生会えないわけじゃない。学校はいいものだ。友人ができる、知識がつく……そうすれば、見下す大人たちを見返してやれる」
瞳が揺れた。少し太めの眉は下がり、眼球には水の膜が薄っすらと張られていく。腰を上げて頬にキスしてやれば、ほろりと小さな涙が頬を伝った。薄氷色の瞳のせいで、氷が溶けたみたいだ。
「私を想ってくれて嬉しいよ。私もシャルロに会えないと寂しいよ。でも、今生の別れじゃない……わかるね」
彼はぎゅっと口をひき結んだまま、コクリと頷いた。
小さな身体を抱きしめて、お互いの体温を分け与える。魔女だろうと忌子であろうと、血が通っている以上は温度がある。子どもの肌は柔らかく、体温は高い。暖かな眠りにつけそうなその身体を、数分抱きしめて背中をさする。
名残惜しくてなるべくゆっくり身体を離すと、彼の涙はすっかり止まっていた。けれど目は充血して、頬はベタベタだ。袖で頬を優しく拭って、ツンと刺激が通った鼻を無視して頭を撫でてやる。
「帰ってきたら、学校で学んだことを教えて」
「……だったら絶対、この土地から離れないでください」
「離れるもんか」
私は彼のためにここにいるのだ。離れるなんてありえない。
それでも心配そうに瞳を揺らす彼に私が小指を差し出すと、不思議そうな顔で返された。小さな手を取り、小指を絡ませる。彼はこちらをじっと見ていた。
「これは、指切りっていうおまじない」
「指、切り?」
「実際に切るわけじゃないけど、まあ聴いてなって」
〽︎指切りげんまん嘘ついたら針千本のます
「指切った」
そんな掛け声と一緒に、小指をこちらから離した。
「約束を破ったら、針千本飲ませてげんこつ一万回なんだよ」
「物騒ですね」
「わかる。でも故郷の人間なら誰でも知ってるおまじないだから」
「それなら、僕が帰ってきたら君の故郷の話が聞きたいです」
それはいいね、と今度は自然と笑えた気がした。
シャルロと別れた後、買い込んだ食料を床に置いて壁に凭れた。
彼が知識を得るのは好ましい。彼が友人を作るのは喜ばしい。彼が人々に愛されれば誇らしい。
彼が行った学校はルーアンにある。正直自力で行けない距離ではないのだが、彼の成長の邪魔はしてはならないと押しとどまった。何より私はパリの魔女なのだ。ここから移動しようものなら目立って仕方がない。
ちまちまと食い扶持を稼ぎ、死なない程度に眠っていればすぐに会える。学校といっても数年もすれば卒業できる。人間とはそういうものだ。
何より彼が
——学校にいる間、彼が私のことを忘れたら?
幼少期の思い出として多少残っていては欲しいが、それで彼が幸せになるなら良いだろう。
——彼がだれか良い人を見つけたら?
そもそも成長できない私では、彼と永遠に一緒にいることはできない。その時はイマジナリー・フレンドのように忘却してもらおう。彼が自分以外とばかり仲良くしていることにも耐えられない私は、おそらく遠くへ旅に出るが。
目を瞑って身を縮こませていれば、冬が来る。彼と出会うまで数十年の時を待ったのだ。今更数年程度、苦ではない。
胸の前で手を組んで、信じてもいない神様に彼の無事を願う。どうか、学校が彼にとってあんねいのちとなりますように。
——「寝ているの?」
夢を見た。
声変わりもまだな子どもの声は、舌足らずだけが直っていた。頬に触れる柔らかな体温が、そっと首筋まで運ばれる。すっかり耳に馴染んだその声は、何やら歌を口ずさんでいた。
〽︎Frère Jacques, Frère Jacques
Dormez-vous ? Dormez-vous ?
フレール・ジャック。目覚めの歌とも、聖職者の処刑の歌とも呼ばれるそれは、フランスではよく知られた民謡だ。
〽︎Sonnez les matines ! Sonnez les matines !
Ding ! Ding ! Dong ! Ding ! Ding ! Dong !
短い節の歌が、繰り返し、繰り返し子どもの声で紡がれる。
起きろと、言われているようだった。
「……シャルロ?」
「あ、起きましたか? こんなところで寝ていては風邪を」
「シャルロだ」
文字通り夢にまで見た子どもが、目の前にいる。彼が何故か怒ったように口を開くのも御構い無しで、抱きついてみた。
もう卒業したのだろうか? それにしては成長が見られない。いや、正確には大きくはなっているのだが、数年単位で時が経ったとは思えなかった。
「シャルロ、学校は?」
「……処刑人の子どもだと知られてしまって」
抱きついたまま放たれた返事に、私は腕に力を込めた。彼は少し身をよじらせたが、まだまだ力で私に敵うはずもない。
「お帰りなさい」
「……ただいま」