第四章 記憶
貴方のお名前は?
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝は上手く動けない。身体は重く、頭は最低限の思考しか働かない。だからアラームは起きなければいけない時間の一時間前にセットして、三十分から十五分間隔で鳴らす。何度も聞いた『Salut Enchantée』の言葉。最初が親しい人に対するこんにちは。次に、はじめまして。そう訳すとなんだか不思議な曲だ。
そんなアラームも、カルデアにはない。勿論パリにいた時だって無かった。それ故に一度寝ると、数日目を覚まさないなんてこともある。故に枕元に置かれた水と栄養剤を、起き抜けに飲むのが日課だ。時計を見ると「7:30」の表記。今日はそれなりに人間らしい時間で起きられたらしい。
ペタペタと裸足で室内を歩きながら、歯を磨く。顔を洗って着替えれば、人前には出られる格好になる。
カレンダーを見ると、今日の予定が書かれていた。定期検診だ。
「おはようございます、今日もよろしくお願いします」
「よろしく。さあ、掛けて」
医務室に入ると、そこにはシャルル=アンリ・サンソンがいた。椅子に座るとすぐに体温計を手渡され、脇に挟む。そして熱を計っている間に軽い問診が行われる。
検診は毎回、ドクターとシャルル=アンリ・サンソンの持ち回りで行われる。それが彼の前で破顔してからというもの、ずうっと彼が担当になっているのは気のせいではないだろう。加えて彼と目が合う回数が増えたのも、自惚れなどではない。
私としては喜ばしいこと。けれど彼にとってはどうなのか。一方的に情報を持たれ、知り合いだったかもしれず、跪いて泣き喚いたこの奇妙な女を、彼はどう思ったのだろう。
「さて、今日はこれで終わりだけど……他に何か変わったことは無いかい?」
カルテから顔を上げて、彼がこちらの目を見て話しかけてくる。ベッドの上で膝を抱えながら、暫し思案してみる。
バイタル値は正常。数値的に見れば目立った変化も見られない。レイシフト後のような昏倒も最近ではなく、唯一おかしいところといえば、聖杯を手に入れた後に変化した活動時間と睡眠時間のアンバランスさだ。しかしそれもパリにいた百何十年で慣れ切っている。
「……私の方からは特に」
「そうか、それでは僕の方から」
彼の手が、私の首元に添えられた。脈を測るように力がこもり、ドクリ、ドクリと血管の動きを感じる。彼は私の瞳を覗いた。いや、もしかすると網膜を見ているのかもしれない。
彼の顔がゆっくりと近づき、小さなメスが動脈に当てられた。そのまま彼が手を動かせば、私は多量出血で死ねるだろう。
顔が近すぎて、彼の表情が上手く見えない。それでも心地良い薬品の匂いに囲まれて、少しだけ表情が緩んだ。
けれどいくら待っても肉を切られる感覚はない。そもそも彼の処刑は痛みを与えないのが前提にあるので、正確にはいくら待っても意識が飛ぶ感覚がない、か。それとも死を前にして私の体感時間が長くなっているだけか。
ぐるぐるとそんなことを考えながら目を閉じていると、ゆっくりと彼は離れていった。目を開けると悲痛に歪んだ彼のかんばせが見えた。
「あの……?」
「……やはり“貴女”は笑うのですね」
自分で自分の頬を触る。指を目の下から顎の先まで伝ってみても、自分が笑っているという自覚はなかった。
「夢を見ました……いえ、サーヴァントは夢を見ませんので、正確には貴女の記憶ですが」
「……具体的には何を?」
「断頭台で、貴女の首を落としました」
「え……」
それは、私にも覚えがないものだった。確かに特異点に巻き込まれなければ、そういった未来もあっただろう。民衆に捕まり、魔女裁判となり、酷刑を受ける……そんな未来。
哀しげな表情を隠しもしない彼は「やはり」と言ったけれど「貴女」と呼びかけるトーンが若干違って聞こえた。
弱々しい敬語が、アサシンとダブった。
そうだ、敬語だったのはアサシンであって、シャルロもせんせも一貫して砕けた口調だったはず。
つまりそれは、彼は私の知っている彼ではないということ。私が最初に焦がれたアサシンでも、私が愛したシャルロでもない。恐怖政治を生き抜いたシャルル=アンリ・サンソンという幽霊が形を持ったもの。
「貴女の命を、この手で奪った」
彼の言葉に、小さく頷いた。彼はそのまま俯いてしまう。
「せんせ、というのも僕のことですか?」
「違う」
思わぬ問いかけに、即答してしまった。それを受けた彼が口を噤んでしまったので、慌てて言葉を重ねていく。
「確かに、生前のシャルル=アンリ・サンソンを私はそう呼んでいました。けれど貴方は違う。私の知っているあの人じゃあない」
彼は眉を下げてしまったが、問題はそこではない。
——彼が見た夢は誰のもので、どうして見ることが出来たか。
通常サーヴァントが見る他人の記憶は、パスの繋がっているマスターのものになる。それが過去のマスターであった私でもなく、別の人間の……しかも私に酷似した人間の記憶を見るだなんて異常だ。
「一緒にドクターのところへ行きませんか。そこで、色々お話ししましょう」
「話……?」
私はずっと、聖杯は“彼と出逢うこと”を前提に私を生き永らえさせているのだと思っていた。けれどそれが逆だったら?
彼に返事をせずに医務室を出る。握りしめた手は、白く柔らかい感触がした。
[#改ページ]
——これは、願望機としての聖杯のキセキではない。
赤い石は語った。
——これは、観測機としての聖杯のデータである。
赤い石は語った。
ムーンセル・オートマトンの欠片。それが彼女の持つ聖杯の正体。三千キロメートルに及ぶフォトニック純結晶体の欠片は、欠片であるが故に本来持つべき機能を持たない。
外部からの魔力の供給があって、はじめてそれらしい機能を得る。それを可能にすることができる彼女の魔力量は膨大であったことがわかる。
僕の役目は、彼女の持つ魔力を糧に聖杯を運用すること。彼女に寄り添う天秤として、彼女の思想をコントロールし、聖杯を使わせる。そして彼女が崩壊しかけた場合、この手でその命を絶つこと。
つまり彼女が立っている限り、誰の手によっても彼女を殺せない。
それは本当だった。薬品を取り替えても、首を絞めても、彼女は死ななかった。メスを首にあてがっても、彼女は笑って受け入れようとした。
それではこの記憶は何だろう。何故僕は、彼女の首を落としているのだろう。
——これは、観測機としての聖杯のデータである。
彼女が壊れる未来がある。
彼女が壊れた過去があった。
彼女が壊れるたびに、僕はこの手で首を落としてきた。
そんなことをしなくても、彼女はとっくに壊れていたのに。
恐怖政治の中で、貴族にとって断頭台は恐れないことこそ誇り高いという意識があった。痛みもなく一瞬で天に行けるからこそ、彼らの大半は無抵抗で断頭台の露と消えた。
彼女はその時の、狂った思想と同等のものを持っている。記憶になくとも記録はあり、何度も経験した無意識の死によって、死を恐れなくなっていた。
痛覚が鈍いのも、病気に気付きにくいのも、全ては経験という名の免疫が外部にのみ発動しているから。
彼女が僕の手を引いている。軽い足取りで、人間としても弱い力で、ドクターの元へと連れて行こうとしている。
僕は彼女の知るシャルル=アンリ・サンソンではなく、彼女もまた僕の“知った”霧音ではない。
歩いている途中、僕の部屋の前を通った。そのまま通り過ぎようとしたその身体を捉えて、部屋の中へと引き摺りこむ。
そのまま後ろから抱き込めば、目を丸くした彼女はこちらを見た。首元に額を付けると心臓の音が聞こえる。
僕の実感的な記憶としては、彼女が罪人として裁かれたものしかない。ある時はマスター、ある時は姉のような存在だった彼女は、今の僕にとって何なのだろうか。
[#改ページ]
急に後ろから抱きしめられた時、心臓が止まるかと思った。彼のかんばせは下を向き、その表情は窺えない。試しに後ろ手で頭を撫でてみると、彼は猫の様に擦り寄ってきた。
「どうかしたんですか」
絞り出した声は震えている。かつてこんな近くに彼の顔があったことはあっただろうか。いや、あったにはあったが、彼の生前と今ではわけが違う。カタカタと震え始める私に気を使ってか、少しだけ力を緩めた彼は、それでも離さずに口を開いた。
「……僕は、誰なんだろう」
「シャルル=アンリ・サンソンでしょう?」
彼は緩く首を振る。そういうことではなかったらしい。
「君にとって僕は、何だ?」
息が一瞬だけ止まる。
私にとって彼は何か。彼は私の願いの結晶であり、生きる糧。けれど後ろにいる彼は? 私の知るあの人ではないのなら、彼は何なのだろう。
「……私にとって」
これを、言ってしまっていいのだろうか。身体が小刻みに震え、振り払いたくなる。
……それでも、彼は彼だ。どの記録から生み出された分身であれ、私はシャルル=アンリ・サンソンの生き様に惚れたのだから——。
「私にとって貴方は、生きる意味だ」
彼が息を呑む。少しだけ緩んだ腕をほどき、正面に向かって目線を合わせれば、彼は酷く迷子の様な表情を浮かべていた。
「僕は、貴女を利用したのに?」
「それは初耳。けれど、私は貴方という存在が好き。芯を持った貴方の心が好き」
まっすぐ目を見て言えば、薄氷の瞳が揺れた。それに構わずに言葉を重ねていく。
「私は、貴方の生き方に惚れた。貴方が疎んで否定した、夥しい屍を積み上げ続けるその仕事を投げなかったこと。その足で立ち続けた生き方を。貴方がその仕事を誇らなくとも、私はその生き方に救われた」
彼が何に悩んでるかはわからない。けれど、彼が思い悩む理由が私なら、何とかしなければ。
「私と一緒にトランクを開けてみませんか。鍵は貴方が持っている。聖杯はそこにある。私は貴方のためなら何だってなれる」
「それは……」
笑え、笑え。下手くそだと言われようとも、今は笑え。
「私は貴方のために生きている……ううん、貴方に生かされてる。だから貴方が一度死ねと命じるだけで私は喜んで首を搔き切るし、使役すると言うのなら首輪を填めるの」
彼の表情がみるみる絶望に染まっていく。それでいい、私の思考がわかれば、彼の気持ちも固まるだろう。拒絶か隔離、希望は許容。もしくは記憶から抹消か。けれどそれでいいのだ。元より彼の意見なんて聞く気は無いし、生きている限りは執着し続ける。
「それは、何故」
「人を好きになるのに理由が必要?」
「その思想が僕や聖杯に躍らされているとは?」
「それこそ本望だよ。私の絶望は貴方と逢えないまま生きていくことだけだもの」
彼は数回口を開閉し、そして意を決したようにこちらを見る。
「許されるのなら、君と一緒に居たい」
「好きにしていいのに」
「それではいけないんだ」
そう言うと彼は、軽く小指を絡めてきた。
そんなアラームも、カルデアにはない。勿論パリにいた時だって無かった。それ故に一度寝ると、数日目を覚まさないなんてこともある。故に枕元に置かれた水と栄養剤を、起き抜けに飲むのが日課だ。時計を見ると「7:30」の表記。今日はそれなりに人間らしい時間で起きられたらしい。
ペタペタと裸足で室内を歩きながら、歯を磨く。顔を洗って着替えれば、人前には出られる格好になる。
カレンダーを見ると、今日の予定が書かれていた。定期検診だ。
「おはようございます、今日もよろしくお願いします」
「よろしく。さあ、掛けて」
医務室に入ると、そこにはシャルル=アンリ・サンソンがいた。椅子に座るとすぐに体温計を手渡され、脇に挟む。そして熱を計っている間に軽い問診が行われる。
検診は毎回、ドクターとシャルル=アンリ・サンソンの持ち回りで行われる。それが彼の前で破顔してからというもの、ずうっと彼が担当になっているのは気のせいではないだろう。加えて彼と目が合う回数が増えたのも、自惚れなどではない。
私としては喜ばしいこと。けれど彼にとってはどうなのか。一方的に情報を持たれ、知り合いだったかもしれず、跪いて泣き喚いたこの奇妙な女を、彼はどう思ったのだろう。
「さて、今日はこれで終わりだけど……他に何か変わったことは無いかい?」
カルテから顔を上げて、彼がこちらの目を見て話しかけてくる。ベッドの上で膝を抱えながら、暫し思案してみる。
バイタル値は正常。数値的に見れば目立った変化も見られない。レイシフト後のような昏倒も最近ではなく、唯一おかしいところといえば、聖杯を手に入れた後に変化した活動時間と睡眠時間のアンバランスさだ。しかしそれもパリにいた百何十年で慣れ切っている。
「……私の方からは特に」
「そうか、それでは僕の方から」
彼の手が、私の首元に添えられた。脈を測るように力がこもり、ドクリ、ドクリと血管の動きを感じる。彼は私の瞳を覗いた。いや、もしかすると網膜を見ているのかもしれない。
彼の顔がゆっくりと近づき、小さなメスが動脈に当てられた。そのまま彼が手を動かせば、私は多量出血で死ねるだろう。
顔が近すぎて、彼の表情が上手く見えない。それでも心地良い薬品の匂いに囲まれて、少しだけ表情が緩んだ。
けれどいくら待っても肉を切られる感覚はない。そもそも彼の処刑は痛みを与えないのが前提にあるので、正確にはいくら待っても意識が飛ぶ感覚がない、か。それとも死を前にして私の体感時間が長くなっているだけか。
ぐるぐるとそんなことを考えながら目を閉じていると、ゆっくりと彼は離れていった。目を開けると悲痛に歪んだ彼のかんばせが見えた。
「あの……?」
「……やはり“貴女”は笑うのですね」
自分で自分の頬を触る。指を目の下から顎の先まで伝ってみても、自分が笑っているという自覚はなかった。
「夢を見ました……いえ、サーヴァントは夢を見ませんので、正確には貴女の記憶ですが」
「……具体的には何を?」
「断頭台で、貴女の首を落としました」
「え……」
それは、私にも覚えがないものだった。確かに特異点に巻き込まれなければ、そういった未来もあっただろう。民衆に捕まり、魔女裁判となり、酷刑を受ける……そんな未来。
哀しげな表情を隠しもしない彼は「やはり」と言ったけれど「貴女」と呼びかけるトーンが若干違って聞こえた。
弱々しい敬語が、アサシンとダブった。
そうだ、敬語だったのはアサシンであって、シャルロもせんせも一貫して砕けた口調だったはず。
つまりそれは、彼は私の知っている彼ではないということ。私が最初に焦がれたアサシンでも、私が愛したシャルロでもない。恐怖政治を生き抜いたシャルル=アンリ・サンソンという幽霊が形を持ったもの。
「貴女の命を、この手で奪った」
彼の言葉に、小さく頷いた。彼はそのまま俯いてしまう。
「せんせ、というのも僕のことですか?」
「違う」
思わぬ問いかけに、即答してしまった。それを受けた彼が口を噤んでしまったので、慌てて言葉を重ねていく。
「確かに、生前のシャルル=アンリ・サンソンを私はそう呼んでいました。けれど貴方は違う。私の知っているあの人じゃあない」
彼は眉を下げてしまったが、問題はそこではない。
——彼が見た夢は誰のもので、どうして見ることが出来たか。
通常サーヴァントが見る他人の記憶は、パスの繋がっているマスターのものになる。それが過去のマスターであった私でもなく、別の人間の……しかも私に酷似した人間の記憶を見るだなんて異常だ。
「一緒にドクターのところへ行きませんか。そこで、色々お話ししましょう」
「話……?」
私はずっと、聖杯は“彼と出逢うこと”を前提に私を生き永らえさせているのだと思っていた。けれどそれが逆だったら?
彼に返事をせずに医務室を出る。握りしめた手は、白く柔らかい感触がした。
[#改ページ]
——これは、願望機としての聖杯のキセキではない。
赤い石は語った。
——これは、観測機としての聖杯のデータである。
赤い石は語った。
ムーンセル・オートマトンの欠片。それが彼女の持つ聖杯の正体。三千キロメートルに及ぶフォトニック純結晶体の欠片は、欠片であるが故に本来持つべき機能を持たない。
外部からの魔力の供給があって、はじめてそれらしい機能を得る。それを可能にすることができる彼女の魔力量は膨大であったことがわかる。
僕の役目は、彼女の持つ魔力を糧に聖杯を運用すること。彼女に寄り添う天秤として、彼女の思想をコントロールし、聖杯を使わせる。そして彼女が崩壊しかけた場合、この手でその命を絶つこと。
つまり彼女が立っている限り、誰の手によっても彼女を殺せない。
それは本当だった。薬品を取り替えても、首を絞めても、彼女は死ななかった。メスを首にあてがっても、彼女は笑って受け入れようとした。
それではこの記憶は何だろう。何故僕は、彼女の首を落としているのだろう。
——これは、観測機としての聖杯のデータである。
彼女が壊れる未来がある。
彼女が壊れた過去があった。
彼女が壊れるたびに、僕はこの手で首を落としてきた。
そんなことをしなくても、彼女はとっくに壊れていたのに。
恐怖政治の中で、貴族にとって断頭台は恐れないことこそ誇り高いという意識があった。痛みもなく一瞬で天に行けるからこそ、彼らの大半は無抵抗で断頭台の露と消えた。
彼女はその時の、狂った思想と同等のものを持っている。記憶になくとも記録はあり、何度も経験した無意識の死によって、死を恐れなくなっていた。
痛覚が鈍いのも、病気に気付きにくいのも、全ては経験という名の免疫が外部にのみ発動しているから。
彼女が僕の手を引いている。軽い足取りで、人間としても弱い力で、ドクターの元へと連れて行こうとしている。
僕は彼女の知るシャルル=アンリ・サンソンではなく、彼女もまた僕の“知った”霧音ではない。
歩いている途中、僕の部屋の前を通った。そのまま通り過ぎようとしたその身体を捉えて、部屋の中へと引き摺りこむ。
そのまま後ろから抱き込めば、目を丸くした彼女はこちらを見た。首元に額を付けると心臓の音が聞こえる。
僕の実感的な記憶としては、彼女が罪人として裁かれたものしかない。ある時はマスター、ある時は姉のような存在だった彼女は、今の僕にとって何なのだろうか。
[#改ページ]
急に後ろから抱きしめられた時、心臓が止まるかと思った。彼のかんばせは下を向き、その表情は窺えない。試しに後ろ手で頭を撫でてみると、彼は猫の様に擦り寄ってきた。
「どうかしたんですか」
絞り出した声は震えている。かつてこんな近くに彼の顔があったことはあっただろうか。いや、あったにはあったが、彼の生前と今ではわけが違う。カタカタと震え始める私に気を使ってか、少しだけ力を緩めた彼は、それでも離さずに口を開いた。
「……僕は、誰なんだろう」
「シャルル=アンリ・サンソンでしょう?」
彼は緩く首を振る。そういうことではなかったらしい。
「君にとって僕は、何だ?」
息が一瞬だけ止まる。
私にとって彼は何か。彼は私の願いの結晶であり、生きる糧。けれど後ろにいる彼は? 私の知るあの人ではないのなら、彼は何なのだろう。
「……私にとって」
これを、言ってしまっていいのだろうか。身体が小刻みに震え、振り払いたくなる。
……それでも、彼は彼だ。どの記録から生み出された分身であれ、私はシャルル=アンリ・サンソンの生き様に惚れたのだから——。
「私にとって貴方は、生きる意味だ」
彼が息を呑む。少しだけ緩んだ腕をほどき、正面に向かって目線を合わせれば、彼は酷く迷子の様な表情を浮かべていた。
「僕は、貴女を利用したのに?」
「それは初耳。けれど、私は貴方という存在が好き。芯を持った貴方の心が好き」
まっすぐ目を見て言えば、薄氷の瞳が揺れた。それに構わずに言葉を重ねていく。
「私は、貴方の生き方に惚れた。貴方が疎んで否定した、夥しい屍を積み上げ続けるその仕事を投げなかったこと。その足で立ち続けた生き方を。貴方がその仕事を誇らなくとも、私はその生き方に救われた」
彼が何に悩んでるかはわからない。けれど、彼が思い悩む理由が私なら、何とかしなければ。
「私と一緒にトランクを開けてみませんか。鍵は貴方が持っている。聖杯はそこにある。私は貴方のためなら何だってなれる」
「それは……」
笑え、笑え。下手くそだと言われようとも、今は笑え。
「私は貴方のために生きている……ううん、貴方に生かされてる。だから貴方が一度死ねと命じるだけで私は喜んで首を搔き切るし、使役すると言うのなら首輪を填めるの」
彼の表情がみるみる絶望に染まっていく。それでいい、私の思考がわかれば、彼の気持ちも固まるだろう。拒絶か隔離、希望は許容。もしくは記憶から抹消か。けれどそれでいいのだ。元より彼の意見なんて聞く気は無いし、生きている限りは執着し続ける。
「それは、何故」
「人を好きになるのに理由が必要?」
「その思想が僕や聖杯に躍らされているとは?」
「それこそ本望だよ。私の絶望は貴方と逢えないまま生きていくことだけだもの」
彼は数回口を開閉し、そして意を決したようにこちらを見る。
「許されるのなら、君と一緒に居たい」
「好きにしていいのに」
「それではいけないんだ」
そう言うと彼は、軽く小指を絡めてきた。