第二章 聖杯戦争
貴方のお名前は?
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ワンルームの欠点は、壁が無いこと。逃げ場がバスルームくらいにしかないことだと思う。
敵襲から逃げ帰り、極度の緊張状態から抜け出せない私が撮った行動が、まさにそれである。室内で降ろされた私は服を着たまま風呂場に引きこもり、真っ暗のまま籠城を決め込んでいた。
鍵が無いのでいつでも開けられるし、なんならあったところですり抜けられるサーヴァント相手には意味がない。それでも彼は混乱しきりの私に気を使ってか、引きこもりの私を引き摺り出そうとはしなかった。
湯の張られていない浴槽に体育座りのまま、何十分経ったのか。まな板と包丁、それに食器が擦れる音が聞こえるということは、彼は夕食の準備をしてくれているのだろう。
「……怖かった」
ポツリと呟けば、少しだけ音が反響する。そう、怖かったのだ。聖杯を求める動機もさることながら、全く覚悟が足りてなかった。思えば喧嘩もロクにしてこなかった人生。身体が何処かに叩きつけられる衝撃も知らず、魔術の行使だってあれが初めてだ。
思っていたより疲労感はない。やはり最初に彼が言っていた通り、それなりに魔力量は多いのだろう。ゴン、と浴槽の縁に頭を置く。今すぐお湯を張って、沈んでしまいたい。
——よく考えたら泥々じゃないか。
服を脱ぐのも億劫で、着の身着のままでシャワーコックに手を伸ばす。力任せに捻り、流れてくる水が沸騰した頭を冷やした。
頭から足先まで水に浸すと、何もかも忘れられる。
思考の海に沈んでいるようだ。
冷たくて気持ちが良い。
眠い。
「何をしているのですか、マスター!」
扉を開く大きな音と共に、アサシンが飛び込んでくる。慌てたように水を止め、私にバスタオルを被せてきた。今日は随分、彼の色々な表情が見れる日だ。雨に濡れた動物を拭うように、水滴が吸い取られていく。
「死ぬ気ですか、貴女は」
「死にたくないから逃げたんですけど。いいから浴びさせて」
頭ごなしに叱られては、こちらもムッときてしまう。下から睨むように見てやれば、盛大に溜息を吐かれてしまった。
「マスターが正しくある限り、僕は貴女に従いましょう。けれどこれは駄目だ。風邪をひいてしまう」
「いいよ、もう」
疲れた。魔力を使ったせいで体温も高い。水を吸ったせいで身体も重い。
こんな時、素直に怖かったと縋れたらどんなに良いか。目の前の人間に、身体を預けることができたらどれだけ楽か。
身体の震えが止まらないのは、風邪のせいなのだ。
案の定と言うべきか、次の日私は見事に高熱を出した。そして一日中寝ていた私にアサシンが持ってきた報せが、セイバーの脱落。
「アサシンが倒したんですか?」
「いいえ、アーチャーが昨日のどさくさに紛れて、セイバーのマスターを倒したようです」
今回のアーチャーはゲリラ戦に特化しているのか、必ずと言っていいほどマスターに奇襲をかける。隠密、待ち伏せ、奇襲、毒。今までの脱落者の大半はそれらによるマスター殺しだと聞く。それではまるでもう一人のアサシンではないか。尤も、当のアサシンはそういった戦いを好まなさそうではあるが。
私が今まで無事でいられたのは、アサシンの気配遮断スキルの賜物だったのだ。そして、そのスキルが私に発動していたということは。
「アーチャーと、何度か交戦したことありそうですね」
「……何故」
「貴方の気配遮断スキル、三騎士クラスを欺けられるほど高くないので。だから気づかれそうになる前に私だけ隠して、自分に意識を向けさせた……違いますか?」
彼は目を見開き、ゆっくりと頷いた。こちらが溜息を吐くのは初めてかもしれない。
「とりあえず、会ったならアーチャーの特徴教えてください。最後の一人ですし、顔見られちゃいましたし。十中八九襲ってきますよ」
「ええ……国籍としてはおそらくイギリス人です」
「その根拠は」
「僕のことを“Froggy”と呼んでいたので」
それがイギリス特有の言葉なのか、意味がわからず首を傾げる。すると彼は言いにくそうに、蔑称でカエル野郎という意味だと教えてくれた。
「因みにフランス人だったら、イギリス人のことなんて呼ぶんですか」
「えっと……これに返すなら“Raimie”ですかね」
「らいみー」
響きからしてライム野郎、といったところか。イギリスとライムの関係性がよくわからないが、今は関係ないだろう。
「それで、具体的な見た目は」
「全身緑でしたね」
「その場にいたら、カエル野郎はお前だよって空気の読めないツッコミしてた……危ない」
そもそも英語で言っていたなら、私には理解できなかったかもしれないが。と呟く私を無視して、彼は言葉を続ける。
「神出鬼没すぎて顔は見ていませんが、声色と発言は青年のそれです。声の近さの感じから、武器はボウガン……中距離で、透明化の宝具を持っているようです」
透明化、毒に奇襲、即ち暗殺。本当にアーチャーというよりは、二人目のアサシンだ。であれば、寧ろ一対一の方が勝機はある。唇が弧を描くのを自覚しながら、作戦を立てるために紙とペンを取り出す。熱のせいで頭は働かないが、なんとかなるだろう。
立てた作戦はこうだ。
一に、魔導書に書いてあったありったけの耐毒、耐魔術系の防具を私が製作する。二に、それを身につけた私が普段通りの生活をする。三に、マスターを狙う彼が毒なり弓なりを使った時点で、令呪によってアサシンを呼ぶ。後は一騎打ちで勝てるかどうかの一発勝負だ。
「どうですか」
「異論はありません」
箇条書きで半分ほどしか埋まらなかったメモ帳を見せると、彼は意外にもすんなり頷いた。こんな素人でもわかるくらい大雑把な作戦でいいのか。
「雑……とか、もう少し具体的に、とか言われるかと」
「いいえ、そのようなことは。何故なら僕は、勝利を確信していますので」
「……はい?」
現実主義の彼らしくない発言に、思わず怪訝そうな顔をしてしまう。前々から思っていたが、彼は中立的な物言いが多い割には、こちらへの信用度が初期から高かった。それは、主観的な期待や楽観的な思考などではなく、心から私のことを信頼しているような。
何故、ロクに戦場にも出たことのない小娘相手にここまで信頼ができる。
「貴女のことを、僕はよく知っている。知っているからこそ、本当は聖杯など手に入れてほしくない」
「それは……負ければいいと?」
「いいえ。言ったでしょう、“勝利を確信している”と。しかし勝利したからといって、聖杯が貴女を幸せにするとは限らない」
言葉の意味がわからず眉を寄せる私に、彼は薄氷の瞳を合わせてきた。それは私ではなく、裏側にいる別の人間を見ているような——。
「貴女の最初の目的である、戦争参加者の魔術師が殆ど居なくなった今。貴女は聖杯に何を望みますか」
かつて自分のことを天秤だと称した彼の問い。見つめる瞳はどこまでも真っ直ぐで、これは試されているのだと気がついた。
魔術を知った時は、自分の家が恐ろしかった。
聖杯戦争の書物で、他にも魔術師がいるのを知って喜んだ。
聖杯戦争に参加して、魔術師に会えなかった。
聖杯戦争の終盤で、参加の意義が無くなった。
元々聖杯にかけるための、大層な望みなんてものはない。それでも私は生き残ってしまった。生き残ったからには、権利がある。権利をくれるのは、目の前の彼だ。
彼と一緒にいれば、何か見つかるのではないだろうか。
「……私は、聖杯に友人を望む」
「それが、どんな孤独を産むかわかっていても?」
私は迷いなく頷く。彼は既に知っていたのだ、私の表向きの本心に。
——それはつまり、願いを叶えた先の私に会ったことがあるからだった。
次の日の昼、私たちがアーチャーを発見した頃には、彼は既に消えかけていた。フードを被りながら煙草をふかし、木に寄りかかっている。緑の外套に革鎧、そして茶色のブーツは木々に紛れるとよくわからなかった。
「戦う気がないのか?」
そのあまりの覇気のなさに、作戦も忘れたアサシンは問う。しかしアーチャーはこちらを向かないままヘラヘラと笑っている。
「いいえ、ありますよ? ただまあ、見ての通りの有様でして。一服してたってわけだ」
「マスターはどうした」
「序盤でおっ死んじまったよ。大方そこの女の呪いだろ」
「は……?」
身に覚えのない言いがかりに、思わず間抜けな声を出す。アサシンは眉をひそめるだけで何も言わなかった。
「魔女さんに自覚はなし……ってか。まあオレが手を下さなくても、アンタは他のマスターを殺してたんだろうが」
「え、待って、何の話。私が魔女ってどういうこと」
「なんだ、そこのアサシンは教えてくれなかったんで? 薄情なもんだ」
軽薄そうな、青年の声が響く。
魔女——魔術師ではなく、彼は私を魔女と呼んだ。そこに悪意と軽蔑、ほんの少しの畏怖を乗せて。
「……アサシン」
「申し訳ありませんマスター。言い出す機会がなかったもので」
「まあ、そちらさんの事情はオレには知ったこっちゃないんでね。バーサーカーのマスターも殺したことだし、あとはアンタたちだけだ。俺はマスターの最初で最期の命令だけ、果たさせてもらいますよ」
そう言うと彼は、右腕のボウガンを私に向けた。そのままストレートに向かってきた矢は、アサシンの剣によって弾かれる。私は相変わらず一歩も動けないでいたが、前回とは違いアサシンがいるなら大丈夫だろうという妙な安心感があった。
アーチャーの身体からは、粒子が舞い続けていた。限界が近いのだろう。ならばやるべきことは一つ、私は大きく息を吸って叫んだ。
「アサシン、帰ったら全部吐き出させてやるから。今は思いっきりやっちゃって!」
瞬間、アサシンの足が地面を蹴る。一気に間合いを詰めると、アーチャーは軽業師のように木に飛び乗った。マスターがいないまま使い続けた宝具のせいで魔力の切れた彼では、もう透明化も使えない。だったら間合いにいる今、こちらが叩き込めばいい。
「アサシン、宝具開帳!」
令呪三画分を使うように、ありったけの声量で叫ぶと彼は静かに口を開いた。
——「死は明日への希望なり 」
呟きともとれる詠唱とともに、巨大なギロチンが突如アーチャーの上に現れる。そのまま刃が落ちると、アーチャーは粒子となって消えた。実に呆気なかった。あんな雑な作戦ですら、立てる必要はなかったほどに。勝ってしまった。自分の知らない力によって。何の成長もなく、何の達成感もなく。
「聖杯の器は、教会にあるようです。行きましょう、マスター」
呆然と立ち尽くす私のもとに戻ってきたアサシンは、慈愛に満ちた瞳で笑っていた。
かくして、実感のないままに勝利した私たちは、景品を貰うべく聖堂教会の中にいた。監督役のシスターは、私たちを見るなり無言で奥の部屋に案内した。そこにあったのは片手で持てそうなほど小さく、けれども金色に輝いている杯。
私が触れようとしても手は空を切るだけ。けれどアサシンが聖杯に触れると、杯に満ちた水が揺れる。曰くこれは魔力の塊らしい。聖杯に触れられるのはサーヴァントだけ、そしてその聖杯を使うことができるのはマスターである魔術師だけ。
その様子を見届けたシスターから、あとは好きにお使いください、と教会を追い出されてしまった私たちは、一旦アパートに帰ることにした。
「……それで、聖杯を手に入れたわけですが。これを使う前に聞きたいことがあるんですよね」
「魔女……ですか」
逃す気はないといった私を、アサシンは凪いだ瞳で見つめた。彼は、私のことを知っている。それは私の願いが、彼の生前に関わるからだと思っていた。けれど、アーチャーも私のことを知っていた。それが何を意味するのか、私はなんとなくだが気づいてしまった。
彼は、聖杯が私を幸せにしないかもしれないと言った。それは私の願いが、歪みを産むと知っていたから。願望機は万能だが、万能のものは時に人間の理解を超える。人間の理解を超えたものは、いつかその身を滅ぼしてしまう。
「私の願い、叶えたくない?」
「……厳密に言えば、貴女が何を願ったのか僕は知らない」
「そっか」
聖杯に触れられるのはサーヴァントだけ、聖杯を使えるのはマスターだけ。だから私がこの話を切り上げなければ、それはただ聖杯としてあり続ける。
もう一度聖杯に指を伸ばしてみても、何も感触がない。サーヴァントが壁をすり抜けるように、私の指は聖杯をすり抜ける。
「まず、魔女の話をしましょう」
聖杯を机の端に置いて、彼は口を開く。
——十七世紀後半、ヴェルサイユ宮殿が建設されていた頃。パリに魔女がやってきた。
彼女は空を飛んだり、薬を作ったりはしない。しかし老いることはなく、いつも若々しい姿のままだった。けれど怪我もするし病気にもかかる、とても人間臭い魔女に人々は畏敬よりも畏怖が勝ってしまった。
そんな彼女は、何百年も街の人間からとても迫害されていた。そんな時。同じような境遇の処刑人——シャルル=アンリ・サンソンは彼女と出会う。
彼女は彼を「シャルロ」と呼び、世話を焼いてくれた。怪我をすれば互いに手当てをし、泣きたい時にはお菓子を持って語り合った。それが、彼の壮年期まで続いた。
そしてフランス革命期、彼女は暴動に巻き込まれて姿を消した。民衆に殺されたのか、逃げたのかはわからない。
ただその後の人生で二度と、彼女には会えなかった。
「これが、僕の知る魔女です。英霊になった時、彼女が聖杯の力で転生した人間だと知って驚きました」
つまり呪いはその副産物。過去に戻って魔女という存在を作った以上、聖杯を取らせる結果を作る矛盾。タイムパラドックスの成れの果てが、この私という魔女を生み出したのだ。
つまりは、卵が先か鶏が先かという話だった。けれどもアサシンの話を聞く限り、周りに迷惑をかけている感じではなさそうだ。まずはそこに安心する。
「彼女もまた、友人を望んでいたのでしょうか。友人を得るために、悠久の時をただの人間が……? 僕にはどうしても納得がいかない。待っているのは孤独だけだ」
俯いた彼が、絞り出すように声を出す。
「それは……」
それは、少し違う。年代は多少ズレていたようだが、彼女は確実にアサシンに会いたかった。末路がどんなものでも、貴方の生き様を見たかった。
何故なら、貴方の本を読んで私がそう思ったから。善人であれ悪人であれ、私は昔から芯のある人間が好きだ。何かを生涯やり遂げることがどれだけ尊いことか、私は知っているから。
白銀の頭に触れると、ふわふわとした髪が指に絡む。慈しみをもって撫でれば、彼は途端に泣きそうな顔になった。
今の私にとっては彼は過去の英霊で、ずうっと年上の人間。彼にとって私(彼女)は、幼い時から接してきたお姉さん。なんて矛盾だ。
「アサシン……私は、やっぱり聖杯にそれを望みます」
「何故」
「貴方とまた、会いたいからかなあ」
彼は震える唇で「正気か」と呟いた。
「そんな、貴女は生きて。僕のことは忘れて……」
「ごめんなさい。私は貴方が何よりも大切になってしまった」
聖杯に手をかざし、反対の手でアサシンの手を握る。暖かな、白い肌。武骨なそれは、男の人の手だ。
「いけない人だ。聖杯にそんなものを願わなければ、人として輪廻の輪に乗れたろうに」
「うん……そうだね。ごめんね、本当」
彼の口から溢れるのは、悲痛な叫び。二千七百の首を落としてきた男の、とても優しい冤罪。
「アサシンは、聖杯に何を願うの?」
「願いはあるにはありますが……とても声高にいうほどのものではありません」
「教えてくれないの?」
「黙秘権、というものがあるのでしょう?」
思いもよらない言葉にくすくすと笑い合う。彼のこんな優しい笑顔を見たのは、初めてかもしれない。
「サーヴァントが願うだけでも使えるのかな」
「さあ……もし駄目でしたら、次会った時に魔女に叶えてもらうとしましょう」
「それじゃあ前払いってことで、一つお願いが」
願望機のお願いの前に、頼みたいことがある。首を傾げる彼を横に倒し、隣に自分も寝そべった。そして最初に彼がやってくれたように、身体を優しく叩く。
「おやすみなさい、いい夢を」
大人しく瞳を閉じた彼を見届けて、私たちは眩い光に包まれた。
敵襲から逃げ帰り、極度の緊張状態から抜け出せない私が撮った行動が、まさにそれである。室内で降ろされた私は服を着たまま風呂場に引きこもり、真っ暗のまま籠城を決め込んでいた。
鍵が無いのでいつでも開けられるし、なんならあったところですり抜けられるサーヴァント相手には意味がない。それでも彼は混乱しきりの私に気を使ってか、引きこもりの私を引き摺り出そうとはしなかった。
湯の張られていない浴槽に体育座りのまま、何十分経ったのか。まな板と包丁、それに食器が擦れる音が聞こえるということは、彼は夕食の準備をしてくれているのだろう。
「……怖かった」
ポツリと呟けば、少しだけ音が反響する。そう、怖かったのだ。聖杯を求める動機もさることながら、全く覚悟が足りてなかった。思えば喧嘩もロクにしてこなかった人生。身体が何処かに叩きつけられる衝撃も知らず、魔術の行使だってあれが初めてだ。
思っていたより疲労感はない。やはり最初に彼が言っていた通り、それなりに魔力量は多いのだろう。ゴン、と浴槽の縁に頭を置く。今すぐお湯を張って、沈んでしまいたい。
——よく考えたら泥々じゃないか。
服を脱ぐのも億劫で、着の身着のままでシャワーコックに手を伸ばす。力任せに捻り、流れてくる水が沸騰した頭を冷やした。
頭から足先まで水に浸すと、何もかも忘れられる。
思考の海に沈んでいるようだ。
冷たくて気持ちが良い。
眠い。
「何をしているのですか、マスター!」
扉を開く大きな音と共に、アサシンが飛び込んでくる。慌てたように水を止め、私にバスタオルを被せてきた。今日は随分、彼の色々な表情が見れる日だ。雨に濡れた動物を拭うように、水滴が吸い取られていく。
「死ぬ気ですか、貴女は」
「死にたくないから逃げたんですけど。いいから浴びさせて」
頭ごなしに叱られては、こちらもムッときてしまう。下から睨むように見てやれば、盛大に溜息を吐かれてしまった。
「マスターが正しくある限り、僕は貴女に従いましょう。けれどこれは駄目だ。風邪をひいてしまう」
「いいよ、もう」
疲れた。魔力を使ったせいで体温も高い。水を吸ったせいで身体も重い。
こんな時、素直に怖かったと縋れたらどんなに良いか。目の前の人間に、身体を預けることができたらどれだけ楽か。
身体の震えが止まらないのは、風邪のせいなのだ。
案の定と言うべきか、次の日私は見事に高熱を出した。そして一日中寝ていた私にアサシンが持ってきた報せが、セイバーの脱落。
「アサシンが倒したんですか?」
「いいえ、アーチャーが昨日のどさくさに紛れて、セイバーのマスターを倒したようです」
今回のアーチャーはゲリラ戦に特化しているのか、必ずと言っていいほどマスターに奇襲をかける。隠密、待ち伏せ、奇襲、毒。今までの脱落者の大半はそれらによるマスター殺しだと聞く。それではまるでもう一人のアサシンではないか。尤も、当のアサシンはそういった戦いを好まなさそうではあるが。
私が今まで無事でいられたのは、アサシンの気配遮断スキルの賜物だったのだ。そして、そのスキルが私に発動していたということは。
「アーチャーと、何度か交戦したことありそうですね」
「……何故」
「貴方の気配遮断スキル、三騎士クラスを欺けられるほど高くないので。だから気づかれそうになる前に私だけ隠して、自分に意識を向けさせた……違いますか?」
彼は目を見開き、ゆっくりと頷いた。こちらが溜息を吐くのは初めてかもしれない。
「とりあえず、会ったならアーチャーの特徴教えてください。最後の一人ですし、顔見られちゃいましたし。十中八九襲ってきますよ」
「ええ……国籍としてはおそらくイギリス人です」
「その根拠は」
「僕のことを“Froggy”と呼んでいたので」
それがイギリス特有の言葉なのか、意味がわからず首を傾げる。すると彼は言いにくそうに、蔑称でカエル野郎という意味だと教えてくれた。
「因みにフランス人だったら、イギリス人のことなんて呼ぶんですか」
「えっと……これに返すなら“Raimie”ですかね」
「らいみー」
響きからしてライム野郎、といったところか。イギリスとライムの関係性がよくわからないが、今は関係ないだろう。
「それで、具体的な見た目は」
「全身緑でしたね」
「その場にいたら、カエル野郎はお前だよって空気の読めないツッコミしてた……危ない」
そもそも英語で言っていたなら、私には理解できなかったかもしれないが。と呟く私を無視して、彼は言葉を続ける。
「神出鬼没すぎて顔は見ていませんが、声色と発言は青年のそれです。声の近さの感じから、武器はボウガン……中距離で、透明化の宝具を持っているようです」
透明化、毒に奇襲、即ち暗殺。本当にアーチャーというよりは、二人目のアサシンだ。であれば、寧ろ一対一の方が勝機はある。唇が弧を描くのを自覚しながら、作戦を立てるために紙とペンを取り出す。熱のせいで頭は働かないが、なんとかなるだろう。
立てた作戦はこうだ。
一に、魔導書に書いてあったありったけの耐毒、耐魔術系の防具を私が製作する。二に、それを身につけた私が普段通りの生活をする。三に、マスターを狙う彼が毒なり弓なりを使った時点で、令呪によってアサシンを呼ぶ。後は一騎打ちで勝てるかどうかの一発勝負だ。
「どうですか」
「異論はありません」
箇条書きで半分ほどしか埋まらなかったメモ帳を見せると、彼は意外にもすんなり頷いた。こんな素人でもわかるくらい大雑把な作戦でいいのか。
「雑……とか、もう少し具体的に、とか言われるかと」
「いいえ、そのようなことは。何故なら僕は、勝利を確信していますので」
「……はい?」
現実主義の彼らしくない発言に、思わず怪訝そうな顔をしてしまう。前々から思っていたが、彼は中立的な物言いが多い割には、こちらへの信用度が初期から高かった。それは、主観的な期待や楽観的な思考などではなく、心から私のことを信頼しているような。
何故、ロクに戦場にも出たことのない小娘相手にここまで信頼ができる。
「貴女のことを、僕はよく知っている。知っているからこそ、本当は聖杯など手に入れてほしくない」
「それは……負ければいいと?」
「いいえ。言ったでしょう、“勝利を確信している”と。しかし勝利したからといって、聖杯が貴女を幸せにするとは限らない」
言葉の意味がわからず眉を寄せる私に、彼は薄氷の瞳を合わせてきた。それは私ではなく、裏側にいる別の人間を見ているような——。
「貴女の最初の目的である、戦争参加者の魔術師が殆ど居なくなった今。貴女は聖杯に何を望みますか」
かつて自分のことを天秤だと称した彼の問い。見つめる瞳はどこまでも真っ直ぐで、これは試されているのだと気がついた。
魔術を知った時は、自分の家が恐ろしかった。
聖杯戦争の書物で、他にも魔術師がいるのを知って喜んだ。
聖杯戦争に参加して、魔術師に会えなかった。
聖杯戦争の終盤で、参加の意義が無くなった。
元々聖杯にかけるための、大層な望みなんてものはない。それでも私は生き残ってしまった。生き残ったからには、権利がある。権利をくれるのは、目の前の彼だ。
彼と一緒にいれば、何か見つかるのではないだろうか。
「……私は、聖杯に友人を望む」
「それが、どんな孤独を産むかわかっていても?」
私は迷いなく頷く。彼は既に知っていたのだ、私の表向きの本心に。
——それはつまり、願いを叶えた先の私に会ったことがあるからだった。
次の日の昼、私たちがアーチャーを発見した頃には、彼は既に消えかけていた。フードを被りながら煙草をふかし、木に寄りかかっている。緑の外套に革鎧、そして茶色のブーツは木々に紛れるとよくわからなかった。
「戦う気がないのか?」
そのあまりの覇気のなさに、作戦も忘れたアサシンは問う。しかしアーチャーはこちらを向かないままヘラヘラと笑っている。
「いいえ、ありますよ? ただまあ、見ての通りの有様でして。一服してたってわけだ」
「マスターはどうした」
「序盤でおっ死んじまったよ。大方そこの女の呪いだろ」
「は……?」
身に覚えのない言いがかりに、思わず間抜けな声を出す。アサシンは眉をひそめるだけで何も言わなかった。
「魔女さんに自覚はなし……ってか。まあオレが手を下さなくても、アンタは他のマスターを殺してたんだろうが」
「え、待って、何の話。私が魔女ってどういうこと」
「なんだ、そこのアサシンは教えてくれなかったんで? 薄情なもんだ」
軽薄そうな、青年の声が響く。
魔女——魔術師ではなく、彼は私を魔女と呼んだ。そこに悪意と軽蔑、ほんの少しの畏怖を乗せて。
「……アサシン」
「申し訳ありませんマスター。言い出す機会がなかったもので」
「まあ、そちらさんの事情はオレには知ったこっちゃないんでね。バーサーカーのマスターも殺したことだし、あとはアンタたちだけだ。俺はマスターの最初で最期の命令だけ、果たさせてもらいますよ」
そう言うと彼は、右腕のボウガンを私に向けた。そのままストレートに向かってきた矢は、アサシンの剣によって弾かれる。私は相変わらず一歩も動けないでいたが、前回とは違いアサシンがいるなら大丈夫だろうという妙な安心感があった。
アーチャーの身体からは、粒子が舞い続けていた。限界が近いのだろう。ならばやるべきことは一つ、私は大きく息を吸って叫んだ。
「アサシン、帰ったら全部吐き出させてやるから。今は思いっきりやっちゃって!」
瞬間、アサシンの足が地面を蹴る。一気に間合いを詰めると、アーチャーは軽業師のように木に飛び乗った。マスターがいないまま使い続けた宝具のせいで魔力の切れた彼では、もう透明化も使えない。だったら間合いにいる今、こちらが叩き込めばいい。
「アサシン、宝具開帳!」
令呪三画分を使うように、ありったけの声量で叫ぶと彼は静かに口を開いた。
——「
呟きともとれる詠唱とともに、巨大なギロチンが突如アーチャーの上に現れる。そのまま刃が落ちると、アーチャーは粒子となって消えた。実に呆気なかった。あんな雑な作戦ですら、立てる必要はなかったほどに。勝ってしまった。自分の知らない力によって。何の成長もなく、何の達成感もなく。
「聖杯の器は、教会にあるようです。行きましょう、マスター」
呆然と立ち尽くす私のもとに戻ってきたアサシンは、慈愛に満ちた瞳で笑っていた。
かくして、実感のないままに勝利した私たちは、景品を貰うべく聖堂教会の中にいた。監督役のシスターは、私たちを見るなり無言で奥の部屋に案内した。そこにあったのは片手で持てそうなほど小さく、けれども金色に輝いている杯。
私が触れようとしても手は空を切るだけ。けれどアサシンが聖杯に触れると、杯に満ちた水が揺れる。曰くこれは魔力の塊らしい。聖杯に触れられるのはサーヴァントだけ、そしてその聖杯を使うことができるのはマスターである魔術師だけ。
その様子を見届けたシスターから、あとは好きにお使いください、と教会を追い出されてしまった私たちは、一旦アパートに帰ることにした。
「……それで、聖杯を手に入れたわけですが。これを使う前に聞きたいことがあるんですよね」
「魔女……ですか」
逃す気はないといった私を、アサシンは凪いだ瞳で見つめた。彼は、私のことを知っている。それは私の願いが、彼の生前に関わるからだと思っていた。けれど、アーチャーも私のことを知っていた。それが何を意味するのか、私はなんとなくだが気づいてしまった。
彼は、聖杯が私を幸せにしないかもしれないと言った。それは私の願いが、歪みを産むと知っていたから。願望機は万能だが、万能のものは時に人間の理解を超える。人間の理解を超えたものは、いつかその身を滅ぼしてしまう。
「私の願い、叶えたくない?」
「……厳密に言えば、貴女が何を願ったのか僕は知らない」
「そっか」
聖杯に触れられるのはサーヴァントだけ、聖杯を使えるのはマスターだけ。だから私がこの話を切り上げなければ、それはただ聖杯としてあり続ける。
もう一度聖杯に指を伸ばしてみても、何も感触がない。サーヴァントが壁をすり抜けるように、私の指は聖杯をすり抜ける。
「まず、魔女の話をしましょう」
聖杯を机の端に置いて、彼は口を開く。
——十七世紀後半、ヴェルサイユ宮殿が建設されていた頃。パリに魔女がやってきた。
彼女は空を飛んだり、薬を作ったりはしない。しかし老いることはなく、いつも若々しい姿のままだった。けれど怪我もするし病気にもかかる、とても人間臭い魔女に人々は畏敬よりも畏怖が勝ってしまった。
そんな彼女は、何百年も街の人間からとても迫害されていた。そんな時。同じような境遇の処刑人——シャルル=アンリ・サンソンは彼女と出会う。
彼女は彼を「シャルロ」と呼び、世話を焼いてくれた。怪我をすれば互いに手当てをし、泣きたい時にはお菓子を持って語り合った。それが、彼の壮年期まで続いた。
そしてフランス革命期、彼女は暴動に巻き込まれて姿を消した。民衆に殺されたのか、逃げたのかはわからない。
ただその後の人生で二度と、彼女には会えなかった。
「これが、僕の知る魔女です。英霊になった時、彼女が聖杯の力で転生した人間だと知って驚きました」
つまり呪いはその副産物。過去に戻って魔女という存在を作った以上、聖杯を取らせる結果を作る矛盾。タイムパラドックスの成れの果てが、この私という魔女を生み出したのだ。
つまりは、卵が先か鶏が先かという話だった。けれどもアサシンの話を聞く限り、周りに迷惑をかけている感じではなさそうだ。まずはそこに安心する。
「彼女もまた、友人を望んでいたのでしょうか。友人を得るために、悠久の時をただの人間が……? 僕にはどうしても納得がいかない。待っているのは孤独だけだ」
俯いた彼が、絞り出すように声を出す。
「それは……」
それは、少し違う。年代は多少ズレていたようだが、彼女は確実にアサシンに会いたかった。末路がどんなものでも、貴方の生き様を見たかった。
何故なら、貴方の本を読んで私がそう思ったから。善人であれ悪人であれ、私は昔から芯のある人間が好きだ。何かを生涯やり遂げることがどれだけ尊いことか、私は知っているから。
白銀の頭に触れると、ふわふわとした髪が指に絡む。慈しみをもって撫でれば、彼は途端に泣きそうな顔になった。
今の私にとっては彼は過去の英霊で、ずうっと年上の人間。彼にとって私(彼女)は、幼い時から接してきたお姉さん。なんて矛盾だ。
「アサシン……私は、やっぱり聖杯にそれを望みます」
「何故」
「貴方とまた、会いたいからかなあ」
彼は震える唇で「正気か」と呟いた。
「そんな、貴女は生きて。僕のことは忘れて……」
「ごめんなさい。私は貴方が何よりも大切になってしまった」
聖杯に手をかざし、反対の手でアサシンの手を握る。暖かな、白い肌。武骨なそれは、男の人の手だ。
「いけない人だ。聖杯にそんなものを願わなければ、人として輪廻の輪に乗れたろうに」
「うん……そうだね。ごめんね、本当」
彼の口から溢れるのは、悲痛な叫び。二千七百の首を落としてきた男の、とても優しい冤罪。
「アサシンは、聖杯に何を願うの?」
「願いはあるにはありますが……とても声高にいうほどのものではありません」
「教えてくれないの?」
「黙秘権、というものがあるのでしょう?」
思いもよらない言葉にくすくすと笑い合う。彼のこんな優しい笑顔を見たのは、初めてかもしれない。
「サーヴァントが願うだけでも使えるのかな」
「さあ……もし駄目でしたら、次会った時に魔女に叶えてもらうとしましょう」
「それじゃあ前払いってことで、一つお願いが」
願望機のお願いの前に、頼みたいことがある。首を傾げる彼を横に倒し、隣に自分も寝そべった。そして最初に彼がやってくれたように、身体を優しく叩く。
「おやすみなさい、いい夢を」
大人しく瞳を閉じた彼を見届けて、私たちは眩い光に包まれた。
