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サクラクライシス

 綺麗だ、と思った。
 陳腐で薄っぺらい言葉だけど、散りゆく桜の大木を目の前にして、不思議とそれ以外の感想が沸いて来なかった。
 不思議だ。桜が散る様子なんて、もう何度も見ているというのに。
 しかも目の前のこの木など、この高校に入ってから現在に至るまで数え切れないほど見ている。それなのに、毎年のように眺めるこの桜の木を綺麗だなんて感じたことは一度もなかった。精々、『ああ、もう散ってしまうのか』程度だ。もうすぐ訪れる夏から逃げるように散っていく花びらを、儚いと感じたことならある。けれど所詮それまでだ。特に感傷に浸ることもなく、すぐに視線を他へ移していた。でも今は、この大木から目が離せない。
 綺麗だ。
 悠然と聳え立つ大木も、雪のように舞い散る花びらも。
 何気なく、手の平で掬うように右手を前へ持っていく。空中を優雅に舞う花びらの内の一枚が、差し出した手のすぐ上まで降りて来た。
 あともう少し、そう思った時、何処からか一陣の風が吹いた。柔らかい春風が私の髪を靡かせ、花びらを攫っていく。すぐ目の前にあった花びらは、私の手に収まる直前で方向を変え、何処か遠くへ飛んでしまった。
「…………はあ」
 思わずため息が出た。
 別にどうも思わない。意識して手の上に花びらを乗せること自体難しいのに、たまたま差し出した手に乗るなんて最早奇跡に近い。風で花びらが飛んでしまうのだって、いたって普通の現象だ。当たり前の現象が当たり前に起こっただけである。だから、感傷に浸る必要も、悲哀を感じる余地もない。
「……はあ」
 今度のため息は、言語化できない感情の所為ではない。
 後ろから無遠慮に近づいてくる、ある人物が原因だ。
「なにボーッと突っ立ってんだよ」
 その声の主は、本気で私を心配しているというより、ただ興味本位で声を掛けたような口振りだ。
 確か、この声はクラスの男子のはずだ。ならばわざわざ相手をする必要はない。そう判断し、特に反応せず、視線すら向けなかった。
 無反応を決め込めば、その内興味を失って何処かへ行ってくれると考えたのだが、あろうことかそいつはわざわざ私の隣に並ぶような位置に移動したのだった。傍から見ると、二人で仲良く桜を眺めているみたいで、私としては迷惑極まりない。
「にしても、綺麗な桜だよな」
 唐突に彼はそう言った。間違いなく私の同意を求めるようなその台詞に、心の内を読まれたのかと不覚にもどきりとしてしまった。
 綺麗だと思った――私も。
 陳腐で薄っぺらい感想だけど、不思議とそれしか感じなかった、のだから。
「……桜なんて、毎年飽きるほど見てるじゃん」
 湧き上がった感情を抑え込み、わざと否定的な発言をした。しかし感情のこもっていない意見は思いの外滑稽に響き、私の気を余計に滅入らせた。
「そりゃあそうなんだけどさ。でも思わねえ? この桜の木自体もそうだし、特にこうやって花びらが散る瞬間とかさ、儚いんだけど、やっぱ綺麗なんだよな」
「……確かこの桜、もうすぐ五十年経つんだってさ」
 私の感想を的確に当て嵌めた発言に対して、咄嗟に上手い切り返しが浮かばなかった。結果、はぐらかすような言い方に――それも誤魔化し方としては低レベル過ぎる言い方しかできなかったが、当の本人は「え? そうなの? 知らなかった!」と見事に誤魔化されたようなので良しとする。
「詳しいんだな」
「別に普通でしょ」
「じゃあ、お前はこの桜が好きなんだな」
 なんでそんな発想になるんだ。
 思わずそう言い返したくなったが、どうにも不毛な結果に終わりそうな予感がしたのでぐっと堪えた。
 それから会話は途切れ、お互い無言で桜吹雪を眺める時間が続いた。相手としては大層つまらないだろうが、何故かその男子は一向に立ち去ろうとしない。何か用でもあるんだろうか。けれど、桜を眺める以外のアクションを起こしそうにないので、できれば早々にお帰り願いたいのだが。それとも、ただ単に暇潰しに来たんだろうか。なら彼には友達がいないのか。
「なんか寂しいよな」
 自分のことを盛大に棚に上げた失礼な感想を抱いているうちに、彼はそう話題を切り換えてきた。どうやらこのまま会話を続行する気らしい。てっきり、そろそろ適当に理由をつけて立ち去るだろうと思っていたのに、何なんだ、よりにもよってその核心の見えない物言いは。
 本当に、彼は何が言いたいんだろう。
 言葉の選び方や抑揚だけで今の彼の真意を読み取れるほど、私達は親しくない。まともに話したのだって、今日が初めてかもしれない。
 けれど、その台詞に乗っている感情だけは、なんとなく共有できるような気がした。
「この桜とも今日でお別れだと思うとさ。それに、今まで仲良かった友達とか、もう会えなくなるんだぜ。すっげー寂しくならねえ?」
「……別に、もう一生会えなくなるわけじゃないじゃん。会おうと思えばいつでも会えるし、学校だって行こうと思えばいつでも行けるでしょ」
 どちらも陳腐な意見だ。
 けれど何故か、私の言葉だけが空しく響く。
 彼の方が、喋りながら自分の意見をまとめているような、ぎこちなくて拙いものなのに。
「でもさ、実際に会おうと思うほど会いたいとは思わないっつーか――うーん、違うな、なんつーかさ、会いたいって思ってても、実際にはなかなか会えないじゃん。高校卒業して社会人になったら皆忙しくなるし、会いたくなったらから会おう、っていうわけにはいかなくなるし。学校だって、俺東京の大学行くから簡単に行けないし」
 最後のはそいつの個人的な理由なので知るかという感じだし、それを聞いて私にどうしろという感じだ。
 なんだろう。何故か先ほどより嫌悪感が強くなった。
 どうしてそういうことが言えるのだろうか。
 どうしてそれを言うのに何の抵抗もないのだろうか。
 男子は女子よりもその類の柵が少ないと聞くけれど、そこまで大っぴらにしても支障のないものなのか。だったら私も男子に生まれたかった。
 私は集団生活すら満足に送れないほどの潔癖症だ。嘘をひとつ織り混ぜるたび、感情をひとつ偽るたび、自分の中の大切な何かが汚れていくようで吐き気がする。ごく一般的な社交辞令ですらそうなのだから、性格が捻くれていることは自覚している。だから独りを選んだ。卒業式に慰め合う友人すらいないほど。
 私は初めてそいつを視界に入れた。とは言っても、興味を持ったと勘付かれたくないので、横目でこっそり確認する程度だ。
 なのにばっちり目が合って、ぎょっとした。
 そいつは私を真っ直ぐ見据え、じっと返答を待っているのだ。
 正直困ってしまうくらいに純粋な目だ。
 純粋。そう、純粋だ。無知で無垢で、そういうものは刹那的だと相場が決まっている。
 それはさておき、こうして見つめ合っていても埒が明かない。この瞳に、何か答えを出さなくては。
「そりゃ、皆何処かでそう考えているとは思うよ。でも、仕方ないんじゃない? 高校の時の関係なんて忘れて、きっと大学でもすぐに親しい友達ができるよ」
 あ、言い方間違えたな、と吐き出した直後柄にもなく思った。これではまるで、八つ当たりのようじゃないか。
 彼は一瞬ぽかんとした表情を見せたが、すぐに意味を理解したのかふて腐れたように歪んだ。そんな顔もするのかと、少しだけ虚を突かれた。
 まあ、さして親しくもない奴が知ったような口を効けば、気を悪くするのは当然か。自分が彼の立場なら、もう二度とそいつと話そうとは思わない。極めつけに、素っ気なく視線を逸らしてやった。これに懲りたら、いくらこいつでも今度こそこの場を去るだろう。
 恨むなら、捻くれ者の私を存分に恨んでくれ。もう関わることはないのだし、どう思われても結構だ。
「捻くれ者」
 隣から掛けられた思わぬ言葉に、反射的に勢いよく振り向いてしまった。しまった、と一瞬焦ったが、本人は未だふて腐れた表情のまま右手で空を掴む仕草をした。拳を一旦自分の手元に持って行き、ゆっくりと拳を開く。
 そこには、一枚の桜の花びらが握られていた。
 絶句する私をよそに、そいつは独り言のように呟いた。
「それでも俺は、お前とまた会いたい」

サクラクライシス
 それはまさしく、何かの破壊。

(了)
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