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ピーター・パンの忘却

 校門へ近づいたところで、私はある違和感に気づいた。
 理音より先に気づけたのは、単なる偶然だ。
 ただ、何も恥じることのない人生を送っている理音と違って、私は校舎を出てから人の目を気にして周囲を警戒していた。
 その時、ふと目についたのだ。
 下校する生徒などいないはずの時間帯に、校門へ続く並木道の端にぽつんと佇む人影に。
 女子生徒だ。学年は分からない。見たことのない顔だ。
 不思議なことに、彼女は自分のバッグを持っていない。
 こんな時刻に、こんな場所で、手ぶらで一体何をやっているのだろうか。
 様子も何処かおかしい。虚ろな瞳でこちらを睨み、身体を小刻みに震わせている。時折何かを呟いているようだが、この距離からでは聞き取れない。「どうして彼女が」「恋人なんて……」「理音君は私のもの」という言葉が断片的に耳に入ってくる。
 思わず立ち止まり、彼女を凝視する。
 向こうは私に気づいていないようだ。彼女の視線は、ある特定の人物に注がれている。
 すると、彼女がおもむろにブレザーのポケットに手を入れ、あるものを取り出した。脳が“それ”を理解する前に、女子生徒が、理音目掛けて走り出す。
 それを見て、硬直しかけた身体を無理矢理動かし、前を歩く理音に向かって駆けた。
 そこでやっと異変に気づいたのか、理音が私の方を振り向いた――違う。見るのはこっちじゃない。
 説明する前に、反射的に理音の身体を突き飛ばした。
 しかし勢いを殺しきれず、よろめいた理音にもたれ掛かってしまう。
 女子生徒の持った折り畳み式ナイフが私の腹部を刺したのは、その時だった。
 世界の時間が、止まった気がした。
 私も、理音も、女子生徒も、暫く動けなかった。
 ずぷり、とゆっくりナイフが抜かれる音でようやく我に返った。と同時に、堪え切れず膝から崩れ落ちる。
 堰を切ったように、傷口から体液が溢れ出した。無機質な石畳を毒々しく染め上げる。
 倒れ込む最中、女子生徒がもう一度刃物を振り上げ、理音がそれを弾き飛ばすのが見えた。彼女が校門から外へ走り去る音がした。しかし、返り血塗れのあの姿では、すぐに通行人に取り押さえられるだろう。
 理音が私の名を呼んだ。冷たい地面から、理音の腕の中に抱え上げられる。
 急所は外れている。
 だけど、血が止まらない。
 刺された時、下手にナイフを抜いてはいけないという話を何処かで聞いた気がする。
 ならば、下手に抜いてしまった場合は、どうしたらいいんだっけ?
 激痛に喘ぐ私を抱きしめ、理音が涙目で叫んだ。
「俺を庇ったのか……? どうして……っ」
 その言葉に、絶句した。
 『どうして』だと?
 痛みを堪え、怒りを血と一緒に吐き出した。
「……馬鹿じゃないの……っ」
 そんなことも分からないのか。
 そんなことも分からないのか。
 何も、知らないのか――当然か。誰にも言っていないのだから。
 意識が朦朧とする。
 目が霞んでよく見えないが、血がとめどなく流れていく感覚がある。命が終わっていく実感がある。
 人は誰しも大人になる。
 だけど、私は、どうやら大人にはなれないようだ。
 口を開こうとするが、力がでない。
 理音の声が遠くの方で聞こえるが、何を言っているのか認識できない。
 死への恐怖を実感する前に、目や耳の機能を失って良かった。この世の未練を思い出す前に、声を失って助かった。もう少しで、最期に迂闊なことを言うところだった。
 命が途切れる僅かな時間、静かで真っ白な世界で、走馬燈をみた。私の短かった人生すべて。ただし、幼馴染という間柄の所為で、思い出のほとんどに鈴城理音が登場している。
 最後に、教室から校門までの理音との会話が再生された。
 あれから十分も経っていないのか。もう随分昔のことのようだ。
――あんたさ。
――私と会わなくなったら。
――あっさり私のこと忘れそうよね。
 いつも通り、嫌味と皮肉の込もった、理音曰く劣等感に塗れた台詞。
 その言葉の通り、私が死んで、あと数年もしたら、私のことなんて綺麗さっぱり忘れてしまうのだろうか。
 できればそうであるといい。
 大人になっても子供のままでも、嫌な体験も苦い記憶も、彼には似合わないのだから。

ピーター・パンの忘却

(了)
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