ピーター・パンの忘却
「やあ。待ったよ」
自分の発言でまさか相手がここまでネガティブになっているとは夢にも思わない理音は、放課後、委員会が終わって教室に戻った私に、軽く右手を挙げて応じた。
「俺を待たせる人間は、世界広しといえども君くらいだね」
出会い頭に放たれたこの台詞から、彼がいかに周囲から甘やかされて育ったか窺えるだろう。第一、良く言えば裏表のない、悪く言えば馬鹿正直な性格でこの年齢まで生存していられたことが、世界に甘やかされている何よりの証とも言える。
すると、無人の教室で自分達がまるで密会でもしている気分になって、急に居心地が悪くなった。挨拶もそこそこに机の上のカバンをひったくるように掴むと、足早に教室を出て昇降口へ向かう廊下を進んだ。
しかし、理音は顔色ひとつ変えずについてきた。それどころか、身長の高い理音との歩幅の差は大きく、あっさり隣に並ばれてしまう。
先ほど理音が愚痴をこぼしたように、委員会が長引いた所為で普段の下校時刻から大きくずれたために、今学校に残っている生徒のほとんどが部活の真っ最中なので、やはり廊下にも人気がない。
「……ほんとに、今日良かったの?」
「何が?」
「………」
長年の経験で分かる。誤魔化しではなく、本気で思い当たる節がないという顔だ。疚しいことが何もないと思っている態度だ。
どうしてこんなに鈍い奴がモテるんだろう。
「……あんまり私ばっかりに構ってると、恋人に怒られるよ」
「大丈夫だよ。彼女、今日は書道部で遅くなるって」
そういう意味じゃない。
しかし、声を大にして主張してもきっと意味は伝わらないだろう。
色々と諦めて、歩く速度を緩めた。理音もそれに従う。
まあ、二人でいることが露見したとしても、理音のカリスマ性を考えれば、恨まれるのは私だけだろうから、さほど問題ではないのか。
ちなみに、理音は私と同じく帰宅部だ。だが、私のように人付き合いが面倒だからという消極的な理由ではなく、入学時にほぼすべての部活間で勃発した理音の争奪戦を平和に収めるための折衷案である。
同様のことが恋人にも言えて、だからこそ、彼が特定の女子を選んだことが未だに信じがたいのだ。
他人の機微に疎く、周りの影響を受けない自己中心的な彼であっても、自分が周りに与える影響は最低限把握しているようだった。
それでも敢えて恋人を作ったのには、何か深い意図があるのだろうか。
すごく気になる――気になるが、素直に訊けるほど素直な性格をしていない。
せめて、『彼女のどういったところを好きになったのか』を訊き出すことができればいいのだが、私がその質問をすると、彼女に対する負の感情が理音に伝わってしまう恐れがある。批判するわけではないのだが、彼女はかつて私をいじめていた筆頭だったので、あまり良い印象を抱いていないのだ。
だから、代わりに、普段からよく言っている嫌味をぶつけた(理音の悪口なら得意だ)。
「あんた、そんな感じでやっかまれたことないの?」
「あったかもしれないけど、嫌なことはあまり覚えてないんだよね」
なんて羨ましい性格だ。
私なんて、殺気だった女子達に取り囲まれた体験も、理音の彼女から牽制された記憶も未だ色褪せないのに。
嫌な体験も苦い記憶も、『覚えていない』で済ませられるなんて。
昇降口でそれぞれ靴を履き替え、校舎を出る。
「あんたって、高校卒業して私と会わなくなったら、あっさり私のこと忘れそうよね」
「やだな。さすがにそんな薄情じゃないよ」
どうだろうか。
実際、彼が毎日雪崩のように押し寄せる女子達の全員を把握しているとは思えない。きっと顔を覚えているのは特に積極的なアプローチをする一握りで、名前まで知っているとなると更に限られるはずだ。何せ、彼の元には毎日入れ替わり立ち代わり人がやって来るのだ。そのすべてを記憶しろというのは、いくら聡明な彼でも不可能だろう。
しかも、今後年月が進むにつれて、更にその人数は膨れ上がっていく。そうなれば、たった一人の幼馴染など、存在が霞んでしまってもおかしくない。今でこそ彼女がいても私を誘ってくれているが、いつか、理音が余計なお世話を忘却する日も、遠くないのかもしれない。
それに、さすがに高校を卒業したら、この腐れ縁も途切れるだろう。『家が近い』というアドバンテージは、社会という枠組みではあまりに些事だ。
「高校卒業したら、か。あまり卒業しなくないな」
人生薔薇色の理音に似合わず、そんな後ろ向きな発言が出た。
歩調が乱れそうになって、ぎりぎり堪える。
初めてきいた。その哀愁の漂う口調も、物憂げな表情も。
「さすがに社会人になったら、ちやほやしてくれないだろうな」
今度こそ足が止まった。
どんな感慨かと思いきや、とんでもなく下らない理由だった。
数歩先で理音が立ち止まり、こちらを振り返って微笑んだ。
その笑みがあまりにいつも通りで無性に腹が立ったので、小走りで理音を抜き去ろうとする――が、やはり振り切れずに諦めた。
「……馬鹿じゃないの、あんた」
「君にはよく言われるな」
そもそも、理音をこのまま社会に解き放っていいのかという問題がある。理音の社会人姿など、どう頑張っても想像がつかない。
もっとも、実際に社会に出たら、彼ですらつまらない大人に成り下がるのかもしれない。
そんな彼を想像できないのは私の想像力が乏しい所為で、人は誰しも大人になる。いつまでも面白イケメンな高校生のままではいられない。
周りの影響を受けない彼も、大人に懐柔され、社会に淘汰され、人並みに矯正され、きっと凡庸な社会人になるのだろう。
ただ、想像がつかなくても、十数年理音の傍にいたのでこれだけは断言できる。
「あんたなら、何処でもへらへら楽しくやっていけるでしょ」
たとえつまらない大人になっても、つまらない人間にはならない。
そう告げると、彼は照れ臭そうにはにかんだ。
人は誰しも大人になる。
この男がどんな大人になるのか、少しだけ、見てみたい気がした。
自分の発言でまさか相手がここまでネガティブになっているとは夢にも思わない理音は、放課後、委員会が終わって教室に戻った私に、軽く右手を挙げて応じた。
「俺を待たせる人間は、世界広しといえども君くらいだね」
出会い頭に放たれたこの台詞から、彼がいかに周囲から甘やかされて育ったか窺えるだろう。第一、良く言えば裏表のない、悪く言えば馬鹿正直な性格でこの年齢まで生存していられたことが、世界に甘やかされている何よりの証とも言える。
すると、無人の教室で自分達がまるで密会でもしている気分になって、急に居心地が悪くなった。挨拶もそこそこに机の上のカバンをひったくるように掴むと、足早に教室を出て昇降口へ向かう廊下を進んだ。
しかし、理音は顔色ひとつ変えずについてきた。それどころか、身長の高い理音との歩幅の差は大きく、あっさり隣に並ばれてしまう。
先ほど理音が愚痴をこぼしたように、委員会が長引いた所為で普段の下校時刻から大きくずれたために、今学校に残っている生徒のほとんどが部活の真っ最中なので、やはり廊下にも人気がない。
「……ほんとに、今日良かったの?」
「何が?」
「………」
長年の経験で分かる。誤魔化しではなく、本気で思い当たる節がないという顔だ。疚しいことが何もないと思っている態度だ。
どうしてこんなに鈍い奴がモテるんだろう。
「……あんまり私ばっかりに構ってると、恋人に怒られるよ」
「大丈夫だよ。彼女、今日は書道部で遅くなるって」
そういう意味じゃない。
しかし、声を大にして主張してもきっと意味は伝わらないだろう。
色々と諦めて、歩く速度を緩めた。理音もそれに従う。
まあ、二人でいることが露見したとしても、理音のカリスマ性を考えれば、恨まれるのは私だけだろうから、さほど問題ではないのか。
ちなみに、理音は私と同じく帰宅部だ。だが、私のように人付き合いが面倒だからという消極的な理由ではなく、入学時にほぼすべての部活間で勃発した理音の争奪戦を平和に収めるための折衷案である。
同様のことが恋人にも言えて、だからこそ、彼が特定の女子を選んだことが未だに信じがたいのだ。
他人の機微に疎く、周りの影響を受けない自己中心的な彼であっても、自分が周りに与える影響は最低限把握しているようだった。
それでも敢えて恋人を作ったのには、何か深い意図があるのだろうか。
すごく気になる――気になるが、素直に訊けるほど素直な性格をしていない。
せめて、『彼女のどういったところを好きになったのか』を訊き出すことができればいいのだが、私がその質問をすると、彼女に対する負の感情が理音に伝わってしまう恐れがある。批判するわけではないのだが、彼女はかつて私をいじめていた筆頭だったので、あまり良い印象を抱いていないのだ。
だから、代わりに、普段からよく言っている嫌味をぶつけた(理音の悪口なら得意だ)。
「あんた、そんな感じでやっかまれたことないの?」
「あったかもしれないけど、嫌なことはあまり覚えてないんだよね」
なんて羨ましい性格だ。
私なんて、殺気だった女子達に取り囲まれた体験も、理音の彼女から牽制された記憶も未だ色褪せないのに。
嫌な体験も苦い記憶も、『覚えていない』で済ませられるなんて。
昇降口でそれぞれ靴を履き替え、校舎を出る。
「あんたって、高校卒業して私と会わなくなったら、あっさり私のこと忘れそうよね」
「やだな。さすがにそんな薄情じゃないよ」
どうだろうか。
実際、彼が毎日雪崩のように押し寄せる女子達の全員を把握しているとは思えない。きっと顔を覚えているのは特に積極的なアプローチをする一握りで、名前まで知っているとなると更に限られるはずだ。何せ、彼の元には毎日入れ替わり立ち代わり人がやって来るのだ。そのすべてを記憶しろというのは、いくら聡明な彼でも不可能だろう。
しかも、今後年月が進むにつれて、更にその人数は膨れ上がっていく。そうなれば、たった一人の幼馴染など、存在が霞んでしまってもおかしくない。今でこそ彼女がいても私を誘ってくれているが、いつか、理音が余計なお世話を忘却する日も、遠くないのかもしれない。
それに、さすがに高校を卒業したら、この腐れ縁も途切れるだろう。『家が近い』というアドバンテージは、社会という枠組みではあまりに些事だ。
「高校卒業したら、か。あまり卒業しなくないな」
人生薔薇色の理音に似合わず、そんな後ろ向きな発言が出た。
歩調が乱れそうになって、ぎりぎり堪える。
初めてきいた。その哀愁の漂う口調も、物憂げな表情も。
「さすがに社会人になったら、ちやほやしてくれないだろうな」
今度こそ足が止まった。
どんな感慨かと思いきや、とんでもなく下らない理由だった。
数歩先で理音が立ち止まり、こちらを振り返って微笑んだ。
その笑みがあまりにいつも通りで無性に腹が立ったので、小走りで理音を抜き去ろうとする――が、やはり振り切れずに諦めた。
「……馬鹿じゃないの、あんた」
「君にはよく言われるな」
そもそも、理音をこのまま社会に解き放っていいのかという問題がある。理音の社会人姿など、どう頑張っても想像がつかない。
もっとも、実際に社会に出たら、彼ですらつまらない大人に成り下がるのかもしれない。
そんな彼を想像できないのは私の想像力が乏しい所為で、人は誰しも大人になる。いつまでも面白イケメンな高校生のままではいられない。
周りの影響を受けない彼も、大人に懐柔され、社会に淘汰され、人並みに矯正され、きっと凡庸な社会人になるのだろう。
ただ、想像がつかなくても、十数年理音の傍にいたのでこれだけは断言できる。
「あんたなら、何処でもへらへら楽しくやっていけるでしょ」
たとえつまらない大人になっても、つまらない人間にはならない。
そう告げると、彼は照れ臭そうにはにかんだ。
人は誰しも大人になる。
この男がどんな大人になるのか、少しだけ、見てみたい気がした。