涙色ノスタルジー
今度という今度は許さない。
1LDLの狭い室内で、私は怒りに燃えていた。
床にはカップラーメンのゴミや空のペットボトルが散乱し、足の踏み場もない。出しっぱなしの布団の上には脱ぎ捨てられた服が落ちている。テーブルの上はゴミと大事なプリントの区別がつかない始末だ。
自分の彼氏が今までこんな汚部屋で生活していたのかと思うと、眩暈と吐き気がする。
何故こんな悲惨な事態になったのか。
確か、一週間前にここを訪れた時は、こうではなかった。整然としていたとまでは言わないが、男子大学生の一人暮らしの部屋としては及第点といった具合には“見られる”程度であったのだ。
果たして、たった一週間でここまで汚せるものだろうか。
確かに前から片付けの苦手な人だったが、ここまで盛大に散らかしたことは過去に一度もなかった。物を捨てられない性格ではあったが、さすがにカップ麺のゴミをゴミ箱に入れる程度の能力はあった。
この一週間で、一体何があったのか。
私が目を離したほんの一週間で、彼の生活は大きく一変していた。
もっと直接的な表現を使うなら、堕落していた。
ここ最近大学にも顔を出さず、連絡もつかないと心配する友人の話を聞いて、心配して彼のアパートを訪ねてみたら部屋がこんな有様だったのだ。
そして当の本人はというと、平日の昼間から布団の中で丸まって惰眠を貪っているのだった。それを見た私の怒りは頂点に達し、何をやっているんだと布団に向かって大声で怒鳴った。どうして大学に行かないんだ、この部屋の惨状は何だ、どうやって生活していたんだ、ちゃんとご飯は食べているのか、電話くらい出ろ心配したんだぞと延々叫んだ。その後も説教を続けたが、彼は私の言葉に耳を貸さなかった。身体を揺り動かしても微動だにせず、胡乱な瞳で虚空を見つめている。まるで私のことなど見えていないかのようだ。
怒鳴ったおかげか次第に怒りが収まっていき、代わりに心配がこみ上げてきた。
先ほどは怒りに任せて責めてしまったが、これは明らかに異常事態だ。
そもそも彼と知り合って数年経つが、彼のここまで自堕落な様子を見たことがない。体調を崩しているわけではなさそうだが、生気が全く感じられない。まるで抜け殻だ。
大丈夫かと聞いても、何も答えない。私のすべての言動に、一切のレスポンスを返さない。
まるで石像に向かって話しかけているようで空しくなり、仕方なく口を閉ざした。
部屋が静寂に包まれる。
開けっ放しの窓から風が流れ込み、ぐしゃぐしゃに丸まった紙が床を転がった。
とりあえず、部屋を掃除しようか。
それからご飯を作って、一緒に食べながらゆっくり話を聞こう。
まず手始めに身近にあるゴミを捨てようと屈んだ瞬間、突然彼が身を起こした。驚いて思わず跳ね上がるように立ち上がった。しかし、そんな愉快な動きをする私に目もくれず、布団から緩慢な動作で抜け出すと、一言も告げずに部屋を出て行ってしまった。ばたん、とドアが閉じる重い音の余韻を聞きながら暫く呆然としていたが、遅れて状況を理解し、怒りが爆発した。先ほど拾おうとした紙くずを力一杯踏みつける。
自分を見舞いに来た彼女を、もてなしもせずに部屋に放置するだろうか。いや、百歩譲ってそれはいい。
だが、心配してくれてありがとうとか、たった一言そう告げるくらいはしてもいいんじゃないのか。目も合わせずに出ていくなんて、よほど私といたくないのか。
確かに来て早々口うるさいことを言ったが、そもそも心配させるようなことをするあいつが悪いのだ。まさか病気にでも罹ったのだろうかと危惧したのに、奴は普通に出掛けていった。
ああ、心配して損した。
ぶつぶつ文句を言いながら、折り畳んだ布団の上に腰を下ろした。部屋の中で、ここしか座るスペースがなかったのだ。
部屋を掃除してやる気持ちはとうに失せた。
あんな奴、この部屋のゴミと一緒に朽ち果てるがいい。
そして二十分後、気持ちが少し落ち着いた頃合いを見計らって、彼がアパートに戻ってきた。ドアを乱暴に閉め、靴を脱ぎ捨て、出ていった時と同じようにふらふらと覚束ない足取りで部屋に入った。
彼の姿を視認した途端怒りが再燃し、あらん限りの罵倒をぶつけてやろうと口を開いたところで、出て行った時にはなかった荷物を見て言葉をのみ込んだ。
彼は無言で私の前まで来ると、テーブルの上のゴミを手で払って床に落とし、空いたスペースにそれを置いた。
ケーキの箱だ。
それもかなり大きいサイズ。
目を丸くしてそれを見つめ、台所に向かう彼の背中を見て、もう一度箱に目を落とした。
箱には、私の大好きな洋菓子店の名前が書いてある。
それを見て、思い出した。
慌てて、壁に掛かっているカレンダーを確認する。今日の日付が、赤い丸で囲まれていた。
今日は、私の誕生日だ。
彼は毎年同じ店で、二人では食べきれないくらい大きなホールケーキを買って祝ってくれたのだった。
今年も、彼は忘れていなかった。
変わっても、堕落しても、忘れてはいなかった。
じゃあ、先ほど出掛けていたのは、これを買いに行くためだったのか。もしかして、何も告げずに出て行ったのは、彼なりのサプライズのつもりだったのだろうか。
視界がぼやける。
私は、単純なのかもしれない。
こんな簡単なことで、先ほどの怒りを忘れてしまう。
彼の自堕落な生活の理由がどうでもよくなってしまう。
でも、今日は一年に一度の記念日だ。
今日くらい、すべてを忘れてもいいだろう。
彼が右手に文化包丁とライター、左手に皿とフォークをそれぞれ二人分持って戻ってきたので、慌てて目元を服の袖で拭った。
泣いていたのがばれなかったのか、見なかった振りをしてくれたのか、彼は何も言わずに床のゴミを足でどけて、私の目の前に座った。
本当に足の踏み場もないほど散らかった部屋だ。
ケーキを食べたら、一緒に掃除しなければならない。
彼が箱から慎重にケーキを取り出した。
中に入っていたのは私の大好きなチョコレートのホールケーキで、中央には私の名前と、『誕生日おめでとう』というメッセージが入ったチョコレートプレートが乗っている。
箱に入っていた蝋燭をケーキに刺し、ライターで順番に火を灯していく。
ここまで、二人とも無言だった。
沈黙を破ったのは、すべての蝋燭に火を点けた彼の方だった。
「ごめん」
何かに似ているな、と思いながら蝋燭を眺めていた私は、絞り出すように言われたその台詞に面食らった。
驚いて彼を見ると、泣きそうな表情で蝋燭の炎を見つめていた。
私は言った。
私の方こそごめん。
もう怒ってないよ。
本当は、きみは何も悪くない。
でもきみは、喧嘩をするといつも先に謝ってくれたよね。
たくさん喧嘩をしたし許せない部分もお互いに色々あっただろうけど、それ以上にきみのことが好きだった。
記念日を忘れずに祝ってくれるきみが好きだった。
ちょっとだらしないきみが好きだった。
私を大切にしてくれるきみが好きだった。
嬉しい時も悲しい時も一緒にいてくれるきみが好きだった。
楽しい時も辛い時も一緒にいてくれるきみが好きだった。
きみと出会えて幸せだった。
だから、もう泣かないで。
前を向いて、まっすぐ生きてほしい。
私は言った。
一生懸命、気持ちが伝わるようにと心を込めて。
しかし、彼は私の言葉に耳を貸さなかった。
まるで私のことなど見えていないかのように、泣き続けた。
涙色ノスタルジー
蝋燭の炎がゆらゆら揺れている。
愛する恋人の嗚咽を聞きながら、蝋が流れ落ちてケーキを侵食する前になんとかこの炎を消せないかと、そんなことをぼんやり考えた。
(了)
1LDLの狭い室内で、私は怒りに燃えていた。
床にはカップラーメンのゴミや空のペットボトルが散乱し、足の踏み場もない。出しっぱなしの布団の上には脱ぎ捨てられた服が落ちている。テーブルの上はゴミと大事なプリントの区別がつかない始末だ。
自分の彼氏が今までこんな汚部屋で生活していたのかと思うと、眩暈と吐き気がする。
何故こんな悲惨な事態になったのか。
確か、一週間前にここを訪れた時は、こうではなかった。整然としていたとまでは言わないが、男子大学生の一人暮らしの部屋としては及第点といった具合には“見られる”程度であったのだ。
果たして、たった一週間でここまで汚せるものだろうか。
確かに前から片付けの苦手な人だったが、ここまで盛大に散らかしたことは過去に一度もなかった。物を捨てられない性格ではあったが、さすがにカップ麺のゴミをゴミ箱に入れる程度の能力はあった。
この一週間で、一体何があったのか。
私が目を離したほんの一週間で、彼の生活は大きく一変していた。
もっと直接的な表現を使うなら、堕落していた。
ここ最近大学にも顔を出さず、連絡もつかないと心配する友人の話を聞いて、心配して彼のアパートを訪ねてみたら部屋がこんな有様だったのだ。
そして当の本人はというと、平日の昼間から布団の中で丸まって惰眠を貪っているのだった。それを見た私の怒りは頂点に達し、何をやっているんだと布団に向かって大声で怒鳴った。どうして大学に行かないんだ、この部屋の惨状は何だ、どうやって生活していたんだ、ちゃんとご飯は食べているのか、電話くらい出ろ心配したんだぞと延々叫んだ。その後も説教を続けたが、彼は私の言葉に耳を貸さなかった。身体を揺り動かしても微動だにせず、胡乱な瞳で虚空を見つめている。まるで私のことなど見えていないかのようだ。
怒鳴ったおかげか次第に怒りが収まっていき、代わりに心配がこみ上げてきた。
先ほどは怒りに任せて責めてしまったが、これは明らかに異常事態だ。
そもそも彼と知り合って数年経つが、彼のここまで自堕落な様子を見たことがない。体調を崩しているわけではなさそうだが、生気が全く感じられない。まるで抜け殻だ。
大丈夫かと聞いても、何も答えない。私のすべての言動に、一切のレスポンスを返さない。
まるで石像に向かって話しかけているようで空しくなり、仕方なく口を閉ざした。
部屋が静寂に包まれる。
開けっ放しの窓から風が流れ込み、ぐしゃぐしゃに丸まった紙が床を転がった。
とりあえず、部屋を掃除しようか。
それからご飯を作って、一緒に食べながらゆっくり話を聞こう。
まず手始めに身近にあるゴミを捨てようと屈んだ瞬間、突然彼が身を起こした。驚いて思わず跳ね上がるように立ち上がった。しかし、そんな愉快な動きをする私に目もくれず、布団から緩慢な動作で抜け出すと、一言も告げずに部屋を出て行ってしまった。ばたん、とドアが閉じる重い音の余韻を聞きながら暫く呆然としていたが、遅れて状況を理解し、怒りが爆発した。先ほど拾おうとした紙くずを力一杯踏みつける。
自分を見舞いに来た彼女を、もてなしもせずに部屋に放置するだろうか。いや、百歩譲ってそれはいい。
だが、心配してくれてありがとうとか、たった一言そう告げるくらいはしてもいいんじゃないのか。目も合わせずに出ていくなんて、よほど私といたくないのか。
確かに来て早々口うるさいことを言ったが、そもそも心配させるようなことをするあいつが悪いのだ。まさか病気にでも罹ったのだろうかと危惧したのに、奴は普通に出掛けていった。
ああ、心配して損した。
ぶつぶつ文句を言いながら、折り畳んだ布団の上に腰を下ろした。部屋の中で、ここしか座るスペースがなかったのだ。
部屋を掃除してやる気持ちはとうに失せた。
あんな奴、この部屋のゴミと一緒に朽ち果てるがいい。
そして二十分後、気持ちが少し落ち着いた頃合いを見計らって、彼がアパートに戻ってきた。ドアを乱暴に閉め、靴を脱ぎ捨て、出ていった時と同じようにふらふらと覚束ない足取りで部屋に入った。
彼の姿を視認した途端怒りが再燃し、あらん限りの罵倒をぶつけてやろうと口を開いたところで、出て行った時にはなかった荷物を見て言葉をのみ込んだ。
彼は無言で私の前まで来ると、テーブルの上のゴミを手で払って床に落とし、空いたスペースにそれを置いた。
ケーキの箱だ。
それもかなり大きいサイズ。
目を丸くしてそれを見つめ、台所に向かう彼の背中を見て、もう一度箱に目を落とした。
箱には、私の大好きな洋菓子店の名前が書いてある。
それを見て、思い出した。
慌てて、壁に掛かっているカレンダーを確認する。今日の日付が、赤い丸で囲まれていた。
今日は、私の誕生日だ。
彼は毎年同じ店で、二人では食べきれないくらい大きなホールケーキを買って祝ってくれたのだった。
今年も、彼は忘れていなかった。
変わっても、堕落しても、忘れてはいなかった。
じゃあ、先ほど出掛けていたのは、これを買いに行くためだったのか。もしかして、何も告げずに出て行ったのは、彼なりのサプライズのつもりだったのだろうか。
視界がぼやける。
私は、単純なのかもしれない。
こんな簡単なことで、先ほどの怒りを忘れてしまう。
彼の自堕落な生活の理由がどうでもよくなってしまう。
でも、今日は一年に一度の記念日だ。
今日くらい、すべてを忘れてもいいだろう。
彼が右手に文化包丁とライター、左手に皿とフォークをそれぞれ二人分持って戻ってきたので、慌てて目元を服の袖で拭った。
泣いていたのがばれなかったのか、見なかった振りをしてくれたのか、彼は何も言わずに床のゴミを足でどけて、私の目の前に座った。
本当に足の踏み場もないほど散らかった部屋だ。
ケーキを食べたら、一緒に掃除しなければならない。
彼が箱から慎重にケーキを取り出した。
中に入っていたのは私の大好きなチョコレートのホールケーキで、中央には私の名前と、『誕生日おめでとう』というメッセージが入ったチョコレートプレートが乗っている。
箱に入っていた蝋燭をケーキに刺し、ライターで順番に火を灯していく。
ここまで、二人とも無言だった。
沈黙を破ったのは、すべての蝋燭に火を点けた彼の方だった。
「ごめん」
何かに似ているな、と思いながら蝋燭を眺めていた私は、絞り出すように言われたその台詞に面食らった。
驚いて彼を見ると、泣きそうな表情で蝋燭の炎を見つめていた。
私は言った。
私の方こそごめん。
もう怒ってないよ。
本当は、きみは何も悪くない。
でもきみは、喧嘩をするといつも先に謝ってくれたよね。
たくさん喧嘩をしたし許せない部分もお互いに色々あっただろうけど、それ以上にきみのことが好きだった。
記念日を忘れずに祝ってくれるきみが好きだった。
ちょっとだらしないきみが好きだった。
私を大切にしてくれるきみが好きだった。
嬉しい時も悲しい時も一緒にいてくれるきみが好きだった。
楽しい時も辛い時も一緒にいてくれるきみが好きだった。
きみと出会えて幸せだった。
だから、もう泣かないで。
前を向いて、まっすぐ生きてほしい。
私は言った。
一生懸命、気持ちが伝わるようにと心を込めて。
しかし、彼は私の言葉に耳を貸さなかった。
まるで私のことなど見えていないかのように、泣き続けた。
涙色ノスタルジー
蝋燭の炎がゆらゆら揺れている。
愛する恋人の嗚咽を聞きながら、蝋が流れ落ちてケーキを侵食する前になんとかこの炎を消せないかと、そんなことをぼんやり考えた。
(了)
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