色褪せたスカイブルー
気分転換にと、家の近くを散歩していたある日の話。
普段滅多に通らない道沿いに佇む小さなアンティークショップで、小さなオルゴールを見つけた。
大きめの透き通ったスカイブルーの石が埋め込まれ、周りは唐草模様の装飾が施されている。サイズは手の平に収まるくらい。シンプルだが細かい装飾が凝っていて、アンティークにそれほど関心のない私でも、思わず欲しくなるようなオルゴールだ。お値段はそこそこ。だが、手持ちのお金では少し足りない。
こんなことならもう少し持ってくればよかったかなと後悔する反面、たとえお金が足りたとしても、きっと私がこのオルゴールを買うことはないだろうと何処かで思った。今からお金を取りに戻ったとしても、きっとそれを手に入れることはできないのだろうと。
オルゴールの前で茫然と佇んでいると、店員の女性が私に話しかけてきた。若くて綺麗だが、着飾っているというわけではなく、落ち着いた印象のこの店に違和感なく馴染んでいた。そもそも違和感というなら、Tシャツに短パンというラフすぎる格好で、何も買わずにただ立ち尽くしている私の方が勝っている。店内に私と彼女以外に誰もいないのが幸いだ。
そのオルゴール、綺麗でしょう?
そう言って会話を切り出した彼女は、淀みなくこのオルゴールの魅力について延々と語ってくれた。今女性の間で人気だとか、見た目は小さいけど中は結構入るから、小物入れとして使ってもいいだとか、曲も綺麗なので、よかったら聴いてみて下さいとか。こんな小さな商品に対して、よくもそれだけ話すことがあると思う。もしかしたら、すべての商品についての紹介も同じように暗唱しているのだろうか。どちらにせよ、元々何も買う気がないのにそこまでアピールされると、なんとなく罪悪感が芽生える。
勧められた通り、オルゴールを手に取り中を開けてみる。すると、CMか何かで聴いたことのある曲が優しい音色で流れ始めた。世間の流行に若干ついていけてない私には、曲名も誰が歌っているかも分からないが、彼女の言った通り綺麗な曲だし、オルゴールとも合っている気がする。中のスペースも確かに広く、見れば見るほど買う気をそそられるオルゴールだ。
店員を振り返って、綺麗ですね、と言うと、自分が褒められたかのように満足気に笑った。
一旦オルゴールを棚に戻し、他も見てみますね、と言うと、どうぞごゆっくり、と微笑んでレジの方へ戻っていった。
彼女を見送ってから、隣の棚に移動する。何処か神秘的な雰囲気を放つ商品たちを眺めながら、頭の中では先ほどのオルゴールのことで一杯だった。そこまでどうしても欲しいと思うほどオルゴールが気に入ったわけではない。ただ、ふと昔持っていたオルゴールのことを思い出したのだ。
そうは言っても、私の持っていたオルゴールにはもっと派手な石が沢山ついていたし、全体の印象ももっと子供っぽく、そして安っぽい代物だった。実際、値段ももっと安かったと思う。何せ、学生生活の片手間にしていたバイト代で足りたのだから。共通点と言えば、大きさと中央に大きめのスカイブルーの石がはまっていたことくらいだろう。店員お勧めのオルゴールとは似ても似つかないが、あの頃の私にはどんなアンティークより価値のあるものだった。先ほどの彼女のように、あれを褒められたら、まるで自分のことのように嬉しかったものだ。
オルゴールと共に、あの頃の想い出まで蘇って来る。前のようにしょっちゅう思い返すことはなくなったが、こんな風に些細なことですぐにフラッシュバックする。
その度に、あのオルゴールの存在が私の中でどれだけ大きいものだったかを思い知る。失ってから気づく、とはよく言ったものだ。大切さには気づいていたつもりだったが、失ってからのことは何も見えていなかった。
残像が消えない。オルゴールも、想い出も。
どれももう手に入らないというのに。
一度捨てたオルゴールは返ってくることはなく、取りに戻った時にはどこにもなかった。今の私には、どんなに手を伸ばしたところで決して届かない。
何故捨てたんだろう。そう思わずにはいられない。
他人の目には、見た目を上手く取り繕っただけの、酷く歪で安っぽいものに映っていただろう。それでも、あの頃の私には何より価値のあるものだったはずなのに。
そもそも、あれがあんなにも特別に感じていたのは、オルゴールの先にあった〝特別〟の所為に過ぎない。あのオルゴールは〝特別〟の具現化、言わば象徴だったのだ。あの時は、目に見える愛の形がどうしても欲しかった。あのオルゴールは、私の不安をいいようにかき消してくれる便利な道具だった。
ただ、その所為で気づくのが遅れてしまった。
オルゴールは私の不安を消してくれたけど、不安に感じる事象自体を消し去ってはくれないというのに。
気づいた時にはもう遅くて、〝特別〟は手の届かない遠い場所へ消えてしまい、追いかけようとしても、もはや追いかけるものすら存在していなかった。
手元に唯一残されたのは、〝特別〟の象徴であるオルゴール。〝特別〟の存在を否応なく感じさせるオルゴール。
〝特別〟はもうどこにもいないのに。
あの人を思い出させるだけの存在なんて。
一刻も早く手放したかったのだろう。そして、象徴を捨てた私は、すべてから逃れた気になっていたのだろう。後で気づいて取りに戻っても、もう夢の島だ。もし、今あのオルゴールが手元にあったなら、何か変わっていただろうか。
これ以上何もせずに居座り続けるのはさすがにまずいと思い、結局何も買わずに店を出た。またお越し下さい、という店員の声が背中で聞こえた。あんなに熱心に話してくれたのに、何だか悪いことをしてしまった気分だ。
外に出た途端、不快な熱気が身体中に纏わりつく。早速じっとりと汗が出始めた。暦の上ではもうすぐ夏も終わりだが、この暑さでは、まだまだクーラーは捨てられそうにない。こんな日は、クーラーの効いた部屋でのんびりテレビでも見て過ごすのが得策だ。外に出ても、気分転換どころではない。
空を見上げると、あのオルゴールの宝石と同じ透き通ったスカイブルーが広がっていた。瞬間、オルゴールと想い出が身体を突き抜ける。本当に、ため息を吐きたくなる。こっちの都合も考えず、何故こうも容赦なく襲うのか。一体あとどれくらいしたら、この青空の下を平然と歩けるのだろうか。一体いつになったら、綺麗なオルゴールを買い求められる日が来るのだろうか。私には分からない。想像もつかない。あのオルゴールは何か知っていただろうか。
本当に嫌になる。だから、こんな日は気分転換になどなりはしないのだ。忘れるためにと逃げ出しても、空が続いている限り、残像は何処までも付き纏う。〝特別〟の象徴は、何もオルゴールに限ったことではないのだ。失ってからそう気づいた。愛の形は、きっとあの頃からそこらじゅうに存在していたのだろう。目の前のことしか頭になかった私は、それが見えていなかっただけだったのだ。
スカイブルーの空を眺めながら、ふと淡い希望を抱いてみる。この青空の何処かにいるあの人。もしかしたら、今頃彼も私のことを想ってくれているだろうか。この青空の下で、同じように私の残像を見てくれているだろうか。できればそうであって欲しい。けれど、今の私に確かめる術はない。
色褪せた想い出に囚われる、そんなある日の話。
色褪せたスカイブルー
次の日、再びあの店に来てみると、オルゴールはもう何処にもなかった。
きっとあの後、見ず知らずの誰かに買われていったのだろう。
(了)
普段滅多に通らない道沿いに佇む小さなアンティークショップで、小さなオルゴールを見つけた。
大きめの透き通ったスカイブルーの石が埋め込まれ、周りは唐草模様の装飾が施されている。サイズは手の平に収まるくらい。シンプルだが細かい装飾が凝っていて、アンティークにそれほど関心のない私でも、思わず欲しくなるようなオルゴールだ。お値段はそこそこ。だが、手持ちのお金では少し足りない。
こんなことならもう少し持ってくればよかったかなと後悔する反面、たとえお金が足りたとしても、きっと私がこのオルゴールを買うことはないだろうと何処かで思った。今からお金を取りに戻ったとしても、きっとそれを手に入れることはできないのだろうと。
オルゴールの前で茫然と佇んでいると、店員の女性が私に話しかけてきた。若くて綺麗だが、着飾っているというわけではなく、落ち着いた印象のこの店に違和感なく馴染んでいた。そもそも違和感というなら、Tシャツに短パンというラフすぎる格好で、何も買わずにただ立ち尽くしている私の方が勝っている。店内に私と彼女以外に誰もいないのが幸いだ。
そのオルゴール、綺麗でしょう?
そう言って会話を切り出した彼女は、淀みなくこのオルゴールの魅力について延々と語ってくれた。今女性の間で人気だとか、見た目は小さいけど中は結構入るから、小物入れとして使ってもいいだとか、曲も綺麗なので、よかったら聴いてみて下さいとか。こんな小さな商品に対して、よくもそれだけ話すことがあると思う。もしかしたら、すべての商品についての紹介も同じように暗唱しているのだろうか。どちらにせよ、元々何も買う気がないのにそこまでアピールされると、なんとなく罪悪感が芽生える。
勧められた通り、オルゴールを手に取り中を開けてみる。すると、CMか何かで聴いたことのある曲が優しい音色で流れ始めた。世間の流行に若干ついていけてない私には、曲名も誰が歌っているかも分からないが、彼女の言った通り綺麗な曲だし、オルゴールとも合っている気がする。中のスペースも確かに広く、見れば見るほど買う気をそそられるオルゴールだ。
店員を振り返って、綺麗ですね、と言うと、自分が褒められたかのように満足気に笑った。
一旦オルゴールを棚に戻し、他も見てみますね、と言うと、どうぞごゆっくり、と微笑んでレジの方へ戻っていった。
彼女を見送ってから、隣の棚に移動する。何処か神秘的な雰囲気を放つ商品たちを眺めながら、頭の中では先ほどのオルゴールのことで一杯だった。そこまでどうしても欲しいと思うほどオルゴールが気に入ったわけではない。ただ、ふと昔持っていたオルゴールのことを思い出したのだ。
そうは言っても、私の持っていたオルゴールにはもっと派手な石が沢山ついていたし、全体の印象ももっと子供っぽく、そして安っぽい代物だった。実際、値段ももっと安かったと思う。何せ、学生生活の片手間にしていたバイト代で足りたのだから。共通点と言えば、大きさと中央に大きめのスカイブルーの石がはまっていたことくらいだろう。店員お勧めのオルゴールとは似ても似つかないが、あの頃の私にはどんなアンティークより価値のあるものだった。先ほどの彼女のように、あれを褒められたら、まるで自分のことのように嬉しかったものだ。
オルゴールと共に、あの頃の想い出まで蘇って来る。前のようにしょっちゅう思い返すことはなくなったが、こんな風に些細なことですぐにフラッシュバックする。
その度に、あのオルゴールの存在が私の中でどれだけ大きいものだったかを思い知る。失ってから気づく、とはよく言ったものだ。大切さには気づいていたつもりだったが、失ってからのことは何も見えていなかった。
残像が消えない。オルゴールも、想い出も。
どれももう手に入らないというのに。
一度捨てたオルゴールは返ってくることはなく、取りに戻った時にはどこにもなかった。今の私には、どんなに手を伸ばしたところで決して届かない。
何故捨てたんだろう。そう思わずにはいられない。
他人の目には、見た目を上手く取り繕っただけの、酷く歪で安っぽいものに映っていただろう。それでも、あの頃の私には何より価値のあるものだったはずなのに。
そもそも、あれがあんなにも特別に感じていたのは、オルゴールの先にあった〝特別〟の所為に過ぎない。あのオルゴールは〝特別〟の具現化、言わば象徴だったのだ。あの時は、目に見える愛の形がどうしても欲しかった。あのオルゴールは、私の不安をいいようにかき消してくれる便利な道具だった。
ただ、その所為で気づくのが遅れてしまった。
オルゴールは私の不安を消してくれたけど、不安に感じる事象自体を消し去ってはくれないというのに。
気づいた時にはもう遅くて、〝特別〟は手の届かない遠い場所へ消えてしまい、追いかけようとしても、もはや追いかけるものすら存在していなかった。
手元に唯一残されたのは、〝特別〟の象徴であるオルゴール。〝特別〟の存在を否応なく感じさせるオルゴール。
〝特別〟はもうどこにもいないのに。
あの人を思い出させるだけの存在なんて。
一刻も早く手放したかったのだろう。そして、象徴を捨てた私は、すべてから逃れた気になっていたのだろう。後で気づいて取りに戻っても、もう夢の島だ。もし、今あのオルゴールが手元にあったなら、何か変わっていただろうか。
これ以上何もせずに居座り続けるのはさすがにまずいと思い、結局何も買わずに店を出た。またお越し下さい、という店員の声が背中で聞こえた。あんなに熱心に話してくれたのに、何だか悪いことをしてしまった気分だ。
外に出た途端、不快な熱気が身体中に纏わりつく。早速じっとりと汗が出始めた。暦の上ではもうすぐ夏も終わりだが、この暑さでは、まだまだクーラーは捨てられそうにない。こんな日は、クーラーの効いた部屋でのんびりテレビでも見て過ごすのが得策だ。外に出ても、気分転換どころではない。
空を見上げると、あのオルゴールの宝石と同じ透き通ったスカイブルーが広がっていた。瞬間、オルゴールと想い出が身体を突き抜ける。本当に、ため息を吐きたくなる。こっちの都合も考えず、何故こうも容赦なく襲うのか。一体あとどれくらいしたら、この青空の下を平然と歩けるのだろうか。一体いつになったら、綺麗なオルゴールを買い求められる日が来るのだろうか。私には分からない。想像もつかない。あのオルゴールは何か知っていただろうか。
本当に嫌になる。だから、こんな日は気分転換になどなりはしないのだ。忘れるためにと逃げ出しても、空が続いている限り、残像は何処までも付き纏う。〝特別〟の象徴は、何もオルゴールに限ったことではないのだ。失ってからそう気づいた。愛の形は、きっとあの頃からそこらじゅうに存在していたのだろう。目の前のことしか頭になかった私は、それが見えていなかっただけだったのだ。
スカイブルーの空を眺めながら、ふと淡い希望を抱いてみる。この青空の何処かにいるあの人。もしかしたら、今頃彼も私のことを想ってくれているだろうか。この青空の下で、同じように私の残像を見てくれているだろうか。できればそうであって欲しい。けれど、今の私に確かめる術はない。
色褪せた想い出に囚われる、そんなある日の話。
色褪せたスカイブルー
次の日、再びあの店に来てみると、オルゴールはもう何処にもなかった。
きっとあの後、見ず知らずの誰かに買われていったのだろう。
(了)
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