みじかいおはなし
氷でできた床に、わたしとビリーはさかさまに立っている。はるか下の方に天井があり、オーロラのように色を変える豪奢なシャンデリアが剣山のようにそびえ立っているのが見える。どういう仕組みなのかこのお城全体が空から生えて、さかさまになっているのだ。内部の重力がどうなっているのかはよくわからないが、不思議と頭に血が上るような感覚はない。
だけど、もしこの床から足が離れて落ちてしまったら、鋭利なシャンデリアに貫かれてぐちゃぐちゃで血まみれの逆オペラ座の怪人状態になってしまうだろう。想像したら血の気が引いて、下をあまり見ないようにしながら隣のビリーの手を思わずかたく握る。
「……大丈夫だよ、わたしがついてるから」
「いやそれ僕のセリフじゃないかなあ、震えながら言われても」
どうしてわたしたちがこんな城の中にいるのかといえば、時間は少し前にさかのぼる。
今日のミッションは巨人が住む森へ、資材集めのため分け入って調査すること。メンバーはわたしとビリー、そして新メンバーのキャスター、スカサハ=スカディさまだった。
「ど、れ、に、し、よ、う、か、な――」
その呪文とも言えない言葉と杖のひと振りだけで、ビリーの手にした愛銃に強力な魔力が上乗せされるのがわかる。ひゅ、と風を切る音がして、次の瞬間には、眉間に大穴を開けられた巨人が地響きをたて倒れていた。すごい威力だ。
たとえるなら、ふだんのサンダラーがカルデア食堂特製パンケーキだとすれば今のサンダラーは生クリーム魔神柱メガ盛りチョコレートソースがけパンケーキ。熟練のボクサーの繰り出すブローのごとき速度。威力は数倍にして早撃ちの精度は変わらず、ただのリボルバーが大砲に早変わりだ。
「すごい……」
それを可能にするのが北欧の古き女神、キャスター、スカサハ=スカディさまのスキル。縁あってわたしたちと契約した女神さまは紫の髪をなびかせ、オーロラを思わせる衣を風に遊ばせ、その微笑みは婉然としてたおやかに、とても美しく、もちろん強く、そして――ビリーと相性がぴったりなのだった。
「……いやぁ、『原初のルーン』ってすごいねぇ、女神サマ?」
「ふふん。女神だからな、これしき朝飯前よ。貴様こそ、噂通り目にも止まらぬ早撃ちよな、近代のアーチャーよ」
「まあね、次もよろしく。これなら僕ももうちょっといけそうだ」
そんな会話が聞こえてくる。初めて組むはずなのにずっとコンビを組んでいたかのようなコンビネーションだ。
支援ができる強力なサーヴァントが増えるのはとても喜ばしい。ビリーがもっと活躍できるなら大歓迎だし、効率よく敵を倒すことができれば素材だってもっといっぱい集められて、常にカツカツなカルデアの資材の足しにできるだろう。
だけど……
「おや――そこの小娘。なんだかもやもやする、という顔をしておるな? よいよい、悩み迷うことは生者の特権よ」
見破られていたことが恥ずかしくて、思わず目をそらしてしまう。
スカディさまは美しいかんばせに喜色をたたえ、面白くて仕方がないと言わんばかりだ。
「……ふむ。さて、先程の戦闘では、早撃ちだけでちゃっちゃと片付けられてしまったからの、私の宝具もまだ見せておらなんだ」
「あ、それ、僕も見たい。空からお城を生やすんだって?」
妖精の塔を地面から生やす、どこぞの人の心がわからないお兄さんと似たような感じなのだろうか。わたしも見たい、と言うと、スカディさまは目を細め、凛とすきとおる声で、先ほどとは違ってちゃんとした詠唱を唇から紡ぎだす。
「『我が名に紐付けられし力、我が声に応えて門を開け。来たれ我が城、影の城――ゲート・オブ・スカイ』!」
……というわけで今わたしたちはスカディさまの宝具の中にいる。氷でできているためひどく寒く、さっきから鳥肌が止まらない。
どうやったら出られるのだろう、ととりあえずビリーが壁に向かって拳銃を撃ってみるものの、弾かれてびくともしないようだ。
大きな扉があるので近づいてみたが、そもそもドアノブが高い位置にあって手が届かない。
何か張り紙がしてある。
「……『キスしないと出られない部屋』」
「キスしないと出られない部屋」
キスしないと出られない部屋。それはサバフェスで発行される薄い本でときどき見かけたシチュエーションだけど、まさか自分の身に降りかかってくるとは思っていなかった。ちなみに読んだのは黒髭さんとドレイクさんの本だった。ギャグタッチで面白くて、ちょっぴりドキドキしたのを覚えている……。ではなくて。
「いやいや、絶対これあの女神サマが楽しんでるだけだろ……。さっさと済ませて、ここから出ようか」
壁を背にしたわたしのすぐ横に手をつき、唇が近づいてくる。
キスをするのは嫌じゃない。これまでに何度も魔力供給だと言って唇を合わせたこともある。でも今は――
「……嫌、さわらないで」
気づいたら、その手を振り払っていた。ビリーのひたいに、スカディさまの刻んだ原初のルーンの魔術のしるしが光っているのが見えてしまって、その瞬間に心の中がぞわりとざわめいてしまった。
ビリーがびっくりしたような顔をしているのを見て、途端に罪悪感に襲われる。目を見られない。恥ずかしい。嫌いなわけじゃないのに、口から出る言葉は城の向きと同じで、全てさかさまに変わってしまう。
(ああ、なんでこんなに嫌な気持ちになるんだろう、こんな気持ち)
『おっ、いいぞ、すぐクリアされてしまってはつまらんからな』姿は見えないが、女神さまの声だけが城の中に響く。
「ガヤは黙ってて。まったく――お嬢さん、嫌がっても仕方ないだろ、とりあえず形だけでもやるよ」
両手を強引に頭上にまとめられ、壁に押し付けられて、かぶりつくようなキスをされる。
押しのけたかったけれど力では敵わなくて、たっぷり何秒も息を止めていたら、涙が出てきて止まらなくなってしまった。
「……ああ、ごめん、泣かせたいわけじゃなかったんだ、ごめんね」
「ビリーくんのばかぁ~……」
「はいはい、それで? スカサハ=スカディ、これでキスはしただろ?」
キスはしたけれど、城が消える気配も扉が開く気配もない。どういうことかと思っていると、再びスカディさまの声がする。
『無理やりはノーカンじゃ。それ、ワンモア』
「女神サマ、ほんといい性格してるよね!? これじゃ泣かせ損じゃないか……まったく」
ぐすぐす泣いてしまったわたしに、ビリーはごく優しげに声をかける。落ち着かせるように距離をとって、背中を向ける。さわらないでと言ったわたしの言葉通りにしてくれる優しさが胸に痛かった。
やがて、しゃくりあげる喉が落ち着いたころ、どうにか気持ちを落ち着かせて声をしぼり出す。
「こんなことになってしまったの、きっとわたしのせいだわ。……やきもちだったの、ごめんなさい」
「やきもち……? 誰に?」
「スカディさまに。わたしがあんなにビリーくんを強くできたらいいのにって思ってしまったから、それを見抜かれていたのかも。隣に並ぶのがわたしだけって思ってたの、傲慢なぐらいに」
神さまは『傲慢』を何より嫌うと聞いたことがある。それは確か、メディアさんの言っていたギリシャの神々の話だったけれど、アテナ女神より上手く糸を織れると豪語した娘が女神の怒りに触れ、「そんなに織物が好きなら一生織ってろ!」とばかりに蜘蛛に変えられたとも言われている。
おそらくスカディさまだって、人間の娘に自分が見くびられたとしたら良い気分はしないだろう。ちょっと凝らしめるために閉じ込めてやろうなんて考えてもおかしくはない。
『ふふ。素直でよろしい。反省したのなら良し』
「スカディさま……ごめんなさい」
『いやしかし、そこまで心が狭いと見くびられては困る。そんな理不尽な理由で怒ってはおらぬ――私は単に初々しい若者の恋が見たいだけじゃ』
「なんかもう清々しいね」
『あと私の宝具、見せびらかしたかったし』
「清々しい……」
『この完璧なシチュエーションにてラブラブなキスをするのじゃ。そうすればすぐ出してやろう』
やきもちを妬いていたのがバレバレだったのが恥ずかしくて、顔を覆いそうになる。それきり静まりかえった氷の大広間の中で、わたしの顔だけ火が出そうなほど熱い。
「っぷ、あはは。なんだ、お嬢さん、きみってそんなこと考えてたんだ」
「悪い?」 恥ずかしくてついまた、さかさまな言葉を言ってしまいそうになる。あわてて、「そうだよ」と言い直す。
「ねぇ、今度はきみからしてくれないかな?」
「……はい」
唇が静かに重なる。さかさまの冷たい城の中で、触れている体温だけがあたたかかった。