アンドラス先生といっしょ
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うっすらと埃をかぶった標本箱にハタキをかけながら考える。昨日届いた、実家から来た手紙にどう返事したものか、と。
『いま何をしているの。そっちにも生活があるんでしょうけどたまには戻ってきなさい、急に出ていったから、みんな心配しているのよ。
おじいちゃんの命日には帰ってくるんでしょうね。返事はこれが届いたらすぐに出しなさい』
そんなことを言われましても、である。心配していると言いながら、戻ったら戻ったで小言ばかり浴びせられるに決まっている。
わたしと家族の関係はとても温かいとは言えなかったし、唯一味方してくれていた祖父も昨年旅立った。叱責されるのには慣れているとはいえ、自らすすんで針の筵の上に座りたくはない。
すぼめていた肩を回すと、憂鬱が凝縮されたような音をたてて軋んだ。
ともかく手紙は出さなくてはなるまい。
いま何をしているの、の答えとしては、一応ちゃんとお給金をいただいて人並みには働いている、と言えるだろう。××町のかたすみにある邸宅で、メイドとして働いている。仕事内容は多岐にわたり、掃除、洗濯、炊事、銀器磨きはもちろん、ご主人様のお仕事道具の買い出し、帳簿付け、手紙の整理。
それから大事なのが、コレクションの手入れ。
今も先生の――かなり昔のことだというが――自作だという蝶の標本箱に、防虫剤を入れ替えているところだった。
ご主人様はお医者様。だから先生、と呼んでいる。とは言っても生きている患者さんを診る医者ではなくて、死体を解剖して病気を解明したり、難しい言葉で論文を書いたり、といったことをしているらしい。頭の悪いわたしにはよくわからない。
先生はまだ若く、わたしとさほど年齢も変わらないのにとても博識で、頭の作りが最初から違うんじゃないかと思うことがあった。
せんせい、と呼んで、「なんだい」と返してくれるときの声は優しげで、わたしの家族みたいに声を荒げているところは見たことがない(たいがいは解剖に熱中しすぎていて、十回話しかけて一回返事が返ってくればいい方なのだけど)。ただそれだけでも家を出てよかった、と思えるぐらいには、わたしを取り囲んでいた今までの環境は最悪だった。
箱を開けると樟脳の香りが鼻をくすぐり、思わず顔をしかめてしまう。わたしに毒を吐き散らす、居丈高な祖母の部屋の箪笥の香りに似ていてあまり好きではなかった。祖母の部屋のことを地獄のお説教部屋、と心の中で呼んでいたぐらいだ。
アンタなんかどこへ行ったってやっていけないよ、だの、せっかく育ててやったのにその態度はなんだ、だの、生きてる価値なんてあるのかい……だの、くどくど言われるたびに祖父がかばってくれたっけ。思い出すだけで頭が痛い。
(ああ、嫌だな)
香りと結びついている嫌な記憶は時間が経ってもなかなか消えてくれなくて、鼻をつまみながら作業を進める。祖父もなんだってあんな人と結婚なんかしたのか。わたしにはわからないだけで、祖母にもいいところがあり、あんなに言われるぐらいなのだから、やっぱり生まれてきたわたしが悪いんだろうか、とすら思ってしまう。
考えてもきりがない。
標本箱の硝子をきっちり閉じて、一息つく。今日の仕事はこれでひととおり片がついたからここまでにしよう。
手紙には、毎日決められたとおりにきっちり仕事をしています、仕事が忙しくて帰れません、とでも書けばいいだろうか。この家にメイドはわたし一人だけだから、先生も困ってしまうに違いない。
街での買い出しの際、たまによその屋敷のメイドに会って話をすることがあるが、どこも来客の対応や食事の準備でひどく忙しいという。この家にめったに来客はないし、基本的に用意するのは二人分の食事で済む。たまにお客様が来たとしても、屋敷中に飾られた無数の剥製と標本の目という目が居心地悪くさせるのか、お茶を出す間もなくそそくさと退散してしまう。
そしていっこうに仕事仲間は増えない。
「それにしても、先生は今日は戻っていらっしゃるのかしら」つぶやいて、標本箱のすべらかな木の肌を撫でながら、ぼんやりと見つめていた。
仕事がよほど忙しいのか、先生自身も最近はこの自宅にあまり帰ってこられないらしく、わたし一人で過ごすことも多い。二人分の食事を毎日用意したら、逆に余りすぎてしまうぐらいだ。日持ちがする調理法のレパートリーが増えるのはいいが、誰かのために用意したものを結局自分で食べるのは少し寂しい。
漆塗りが施された、ひときわ立派な木箱の中身の蝶は、片方が鮮やかな黄色、片方は吸い込まれそうに真っ黒で、左右で異なる羽を持っている。その見事さにまわりのことも見えなくなるぐらい見惚れていると、硝子の蓋に、ふと夕焼けが差した。
あれ、いまは夜では?
「これはね、珍しい雌雄同体の個体なんだ。左がメス、右がオス」頭上すぐ近くから声が降ってきた。「『ハーフサイダー』、あるいは『雌雄嵌合体』ともいう」
「せ、先生!? ごめんなさい、お帰りに気づかなくて」気づけば、いつのまにか帰っていたらしい先生がわたしを見下ろしている。
夕焼けだと思ったのは、熟したネクタルの実に似た、先生の癖毛の色だった。
「――キミはこの蝶が好きかい?」先生は目を細める。真っ黒い瞳孔に見つめられて、麻痺したように身動きができない。
天井のランプが先生の笑顔に暗い影をおとしていて、背筋にぞくりとしたものを感じる。
「……好き、です」
「それはよかった。綺麗なものはいいよね」その言葉に言葉以上の意味があるのかどうか、判断に迷う。
「ああ、今日は外で食事を済ませてきたから要らないよ。お風呂を用意してくれるかな」
「……はい。すぐに」視線が外されてほっとすると同時に、夕食のスープが無駄になっちゃうなあ、という落胆もあった。うまく隠せていたかどうか、自信はない。
逃げるように部屋を出て浴室へ向かい、急いで支度を整える。
見つめられているあいだ、腰が抜けるかと思った。わたしは先生のことがわからない。
アンドラス。彼はそう名乗っているし、ごく稀に訪ねてくる来客も彼をドクター・アンドラスと呼ぶ。ただ、役所から届く書類の上の名前には『エミー』とあり、わたしも彼にかわって書類を出すときはその名前を記している。書類上はそれが本名なのだろうが、理由を聞いたらあいまいに笑うので、あまり触れてほしくないのだと思って深くは聞かないことにしている。
不思議なのはそれだけではない。浴室に脱ぎ散らかされた服を回収して、着心地のいい洗いたての寝間着と入れ替える。近ごろ先生が家を空けて戻ってきたら、かなりの確率でこうしてスーツを血まみれにしている。いくら解剖医だからといって、何をどうしたらこんなに汚れるのかというぐらいの血にまみれているスーツをしげしげと眺めながら、これは今回もシミ抜きが大変だなと憂鬱になる以上に、不審で不気味な気持ちがわいてくるのも当然だ。
検体の解剖作業だったらこの自宅でもできるのに、仕事というのはどこで、『何をしている』のか。
死体というのは心臓、つまり血流が止まっているから死体なのであって、切開したところであまり激しく血が噴出することはないはずだ。たまに先生の作業をかたわらで手伝わせてもらうこともあるから、経験的になんとなくわかる。
では、この返り血の量はいったい?
ドクター・アンドラス。十八歳にして解剖学の天才。博識な頭脳に神業の手を持ち合わせた蝋人形がそのまま動いているような青年の、感情の読み取れない穏やかな声をした――先生の、真っ白な皮膚の下でなにかが蠢いているのを時折感じる。先生だってヴィータには違いないのだから、表皮の下にあるのは筋肉と血液とリンパ液なのだろうけれど、もっと別の、何か不自然なものを感じることがある。
「せんせい」浴室の扉に向かって小さく呼びかける。返事はない。
アンドラス先生、あなたは何者なのでしょうか――?
一人で戦うことには慣れている。
目の前の実験対象はケラヴノスと呼ばれる、雷を帯びた大型の蠍のような幻獣だ。生半可な刃ではダメージが通らないため、動きを見定め、素早く近寄って甲殻の隙間から毒を注入し、再び距離をとる。経過観察。相手が毒で倒れるのを待つあいだ、先日のことを思い出していた。
「せんせい」――シャワーの音にかきけされそうな小さな声。たしか、アンドラス先生、あなたは何者なのでしょうか、と言ったか。
その答えは簡単だ。俺は『メギド』であって『ヴィータ』ではない。ヴィータであるエミーの身体をいわば乗っ取ったのがアンドラスというメギドだ。ソロモンの力を借りれば、こうしてメギド本来の姿で戦える。
あのとき、扉の向こうで俺を呼ぶ声は聞こえていたが、気づかないふりをした。彼女――アイネが俺のことを不審がっているのはさすがに分かっている。雇いはじめる際に、「俺はメギドで~す」などと言ったら一瞬で逃げられてしまいそうだったので、自分の素性を説明することはなかった。もうすぐ一年が経とうとしているので、さすがに潮時か、という感じだ。
彼女は「わたしは頭が悪いですから」と言いながらも思いのほか覚えが早く、標本と剥製の手入れも不自由なく行き届いている。帰るたびに力のつく食事が用意されているし、家を出る際には携帯食も持たせてくれるのでたいへん効率的だ。面倒な税金の手続きや学会などへの事務連絡も全部任せているのでこうして気兼ねなく家を空けてソロモンの力にもなれるし、戦える。つまり、今いなくなられては非常に困るというわけだ。
どうにかして俺がメギドだと知って円滑に受け入れてもらいたい。周囲のヴィータよりも近い距離で暮らす相手だから黙っているわけにもいかず、遅かれ早かれ話さないわけにはいかないことだった。
「これはなかなか骨が折れるなあ」
実験対象が完全に沈黙したのを確認してから少しずつバラしていく。めぼしい素材を積み込んで、アジトまで帰還するさなかも考えていた。
ここはやはり、七十二の個性的なメギドを束ねつつ発生するトラブルを解決するスペシャリスト、俺の雇用主でもあるソロモン王に相談するのがいいだろう。
「えっ、女の子との距離を縮めたい? どうしたんだ、急に」ソロモンは新しく加入したメギドのために装備品を作っている最中だった。瞼を思い切り持ち上げ、検体が予想外の挙動をしたときみたいな顔になっている。
「その女の子って追放メギドの誰かなのか?」
「急にでもないよ、ずっと考えてたんだ。それと相手はメギドじゃなくてヴィータの、うん、女性というべきだね。親密になりたいんだ」
「いや、よりによってアンドラスがそんなこと言い出すなんて意外でさ……うーん、そういう話なら俺より……」
「なになに~? 恋のハナシ? ならサーヤも混ぜてっ☆」
ソロモンと俺の間に割って入ったのは、サーヤ、正しくはサキュバス。異性を魅了することに長けたメギドだ。くりくりと動く青とピンクの眼球が、俺たちの会話に興味津々であることを雄弁に物語っている。サキュバスはヴィータの感情を栄養にしているから、この手の話には敏感にアンテナを張っているのだろう。彼女が顔を振るたびに馬の尻尾みたいな二つ結びの髪の束が背中をバシバシと叩いてきて、わずらわしい。
サキュバスは何か勘違いしているようだけど、繁殖を目的とした配偶行動という意図、およびそれに伴う感情はない。だが、距離を縮めたいという点は間違っていないから指摘はしなかった。
「もらって嬉しいもの? サーヤならやっぱ現ナマとか?」
「現金は普段から渡してるからなあ」雇用契約にある相手だし。
「それじゃお菓子とか、アクセサリーとか? 女性が欲しがるものといえば、そのぐらいしか思いつかないよ」
「お菓子かアクセサリーかあ。日持ちがしないものよりは装飾品の方がいいかな」
「それじゃ、探しに行きましょ!」
アジトを出て、糧食の買い出しついでに王都の宝飾店をあちこち覗いていると、とある店で、見知った顔の連中に行き合った。
「パイモン! それにフォラス!」
髭を丁寧に整えた白スーツの伊達男と、学者のローブをまとった眼鏡の男もこちらに気づいたらしい。二人とも追放メギドの仲間たちだ。
「なんだ? 女性へのプレゼント? それならこの色男、パイモン様に相談してくれよ」
「俺は嫁との結婚記念日にプレゼントを考えててさ。なんかいいやつないかなーって、パイモンに相談に乗ってもらってるんだ」
「なるほど。配偶関係にある相手への継続的な気配りは大事だという話だね。そういうことなら俺にもアドバイスをくれないかい?」
ショーケースの中の色とりどりの石をながめて、やいのやいのと騒がしくしているせいか、店員も怪訝そうに俺たちを遠巻きにしている。
「やっぱ予算は大事だろ。どれぐらい?」フォラスが現実的な提案をする。
「手持ちはこのぐらいかな」必要とあらば小切手を切ることもできる。
「うっそ、アンドラスって意外にお金持ちなんだ~! これならけっこういいのも買えそうね」サキュバスの目が光っている。
「それより俺、こんな格好で宝石店って場違いじゃないかな。ここ高級なとこだろ?」ソロモンは居心地悪そうだ。
「その子の好きな色とかはわからないのか? シルバーが似合いそうとか、明るいゴールドが好きとかは?」パイモンはアドバイス慣れしているのか、店員にかわってあれこれと質問を投げかけてくる。
「うーん。あんまりサキュバスみたいな派手な感じではないな。金具の色は……そうだな、ゴールドよりはシルバーかな」
ランプの薄明かりの下で、銀器を磨く彼女を思い浮かべる。どちらかといえば怜悧な銀の色が似合うような気がした。これは俺がふだん銀色のメスや膿盆を使い慣れているからかもしれないが。
「それじゃあ、仕事とかは? たとえば家事をする女の子なら、ふだん指輪をつけることは難しいってこともあるわよ」
「ああ、手をよく使う仕事だね。……そっか、指輪はダメか」
「それならピアスやネックレスだな。控えめなデザインなら、仕事中もつけられるかもしれない」
標本箱の、黄色と黒の蝶を見ていたことを思い出す。雌雄嵌合体。右と左で別の色。なんとなく、「ピアスがいいな」と口に出していた。
これまたやいのやいの騒ぎながら宝石を選んで、枠にはめてもらう。ソロモンが驚くぐらいのなかなかのお値段だったが、俺には別にどうということもない。
店を出て、アジトに戻るとすぐ、見張りをしていたシャックスが大慌てで飛び込んできた。
「モンモンたいへん! また幻獣が出たって! 出動、しゅつどーう!」
「大変だ、行かなくちゃ! みんな行くぞ!」
王の号令に従い、すぐに出立をする。
……あ、プレゼント置いていくの忘れちゃったなあ。
先生はいつお戻りになるのかしら。
最後に出かけてくるよと言った先生を玄関で見送ってから、もう二週間は経つ。また長く帰れないかもしれないとは聞いているけど、さすがに心配になるというものだ。
なにかしていないと不安な気持ちになって、いつ帰ってきてもいいようにお掃除をして、コレクションの手入れをして、銀器を磨く毎日だ。家の中はぴかぴかなのに心の中は乱れたまま、あるべきものはすべてあるべき場所にきちんと揃っているのに先生だけがいない。
日が昇り、今日も目が覚める。「おはよう」枕元のトカゲの剥製に挨拶をする。いつもどおり冷たい水で顔を洗う。洗面所の鏡に映っているのは、冴えない顔色の痩せた身体だ。もともと貧相な胸がますます痩せてしまった気がしてならない。見ないふりして覆い隠すように、いつものメイド服に袖を通して、髪を結い上げる。
もしかしたら、と思ったが、夜のうちに帰ってきた形跡はない。
一日の予定を確認しようとカレンダーを見て、ようやく気づいた。
――今日は祖父の命日だ。
一年前の今日、シバの女王の座す王都は崩壊の危機にあった。、城壁のすぐ外側では凶暴な化物の群れが迫り、内側は刺客の手によって血の海になり、阿鼻叫喚の様相になったことがあって――女王の親衛隊隊長を務めていた祖父も国を守ろうと、武器を執って化け物たちと戦った。
力のないわたしたち家族はどうすることもできずに、祖母の大きな箪笥の中にこもって化物の目を逃れた。
そして、戦いはけっきょくこちら側の勝利に終わったと聞いたけれど、ずいぶん経って、騒ぎがようやく落ち着いた頃に帰ってきたのは祖父が生涯身につけていた、ひとつの指輪だけ。
「隊長は勇敢に戦いました。最後は幻獣の牙に腹を貫かれながら相手の喉に槍斧を突き刺して、死ぬ寸前まで俺たちを守ろうと……」
それを家まで届けに来た兵士はそう伝えるのがやっとで涙ぐんでしまい、あとは言葉にならなかった。
わたしはなぜだか涙が出なかった。あんなに大好きだった祖父が死んだのに、その兵士を見ていると妙にぼんやりとしてしまって、悲しさなど浮かんでこなかった。
これからどうやって生きていこう、という気持ちと同時に、夫を亡くしてヒステリックになる祖母とまだ小さい弟妹たち、そのすべての面倒を見なくてはいけない憂鬱さが肩にのしかかっていた。だから祖母に罵られて、生きている価値なんかあるのか、と叫ばれても仕方なかったのかもしれない。――子を残すこともないのに、お前はなぜ生きているのだと。
悪いのはわたしだ。わたしなんかを守るために祖父は死んだのかと、祖母は嘆いた。
この重苦しい空気の中にいることが耐えられず、わたしは仕事を探すと言い残して家を出た。
そうしていくつかの町を渡り歩いて見つけたのが、『お手伝いさん募集』の張り紙だった。そう、このアンドラス邸の。
仕事内容は家事手伝いとコレクションの手入れ。条件は家事が得意な方、動物や虫が好きな方、それから……。――うん、お給金も悪くないし、祖父がよく森へ連れて行ってくれたから虫だって気持ち悪いとは思わない。それに自分が変わり者だという自覚もある。
そう思って、軽い気持ちで応募した結果がこれだ。ひどく静かな家の中、生きているのか死んでいるのかもわからず、帰ってこない主人を待っていたあのときの祖母の気持ちが少しはわかるような気がする。
(先生が……もし、死んでしまったって聞いたら、涙は出るのかしら……)
せんせい。呼びかけても答えはない。
うなだれて、頭を振る。――たとえ帰ってこないとしても、食事の準備はしなくてはならない。今日のメニューは祖父が好きだったお肉のパイ包みにしようと決めて、買い物に出かけることにした。
「あっ、悪魔の家の……」
「本当だ、あの悪魔の手下だ」
市場で小麦粉を計ってもらうのを待っていると、少年たちがわたしを遠巻きに指さしてひそひそ噂話をしているのが聞こえてきた。先生の家が悪魔の家、と呼ばれているらしいことは耳にしていたが、わたしはごく善良なヴィータなのだけど。内心ため息をついたが訂正する気にもなれず、噂を背中で受け流す。
たしかに先生は悪魔なのかもしれない。狂気的なまでに解剖にのめりこむ姿も、血まみれで帰ってくる姿も、不自然にいつも笑顔なところも怪しまれないほうがおかしい。むしろ、近所付き合いをする時間を研究に使いたいから積極的に勘違いしてほしいとでも思っているのだろう。だからわたしが先生は悪魔なんかじゃない、と主張するのは、かえって迷惑になるかもしれない。無視が一番だ。
少年たちは調子に乗ったのか、わたしが何も言い返さないのをいいことに、野次を飛ばす声を大きくする。
「やーい、悪魔ー!」
「あんな家にいたら、一生結婚できないぞー!」
『結婚』。ですって。
その言葉のせいで、祖母の罵声が思い出されて、さすがに腹が立って、睨みつけると一目散に逃げていった。粉屋の店主も悪魔と呼ばれたわたしを怪訝そうな目で見ている。震える手で小麦粉の袋を受け取り、逃げ帰る。
剥製たちの硝子でできた眼球の視線よりも、生きているものたちの視線はどうしてこんなに――涙がでるぐらい、痛いのか。いいえ、どうしてみんなこんな痛いものを受けて平気でいられるのか。
ぐちゃぐちゃな感情で、お肉をぐちゃぐちゃに切り刻む。小麦粉に水とバターを混ぜて力任せに練る。忘れろ、と念じるように作業に没頭する。パイで包んだ肉をオーブンで焼くあいだ、水をぐらぐらと沸かして地獄のように赤いトマトスープに乱切りにんじんを入れる。食材も余りも、しょうもないやつらもみんなまとめて煮えてしまえ! とばかりにいろんなものをぶち込んだ。
祖母の言うことも、少年たちの野次も全て図星だった。それに言い返すことができない弱虫な自分もなにもかもが嫌になって、出来上がったパイも喉を通らず、めちゃくちゃになった台所を片付ける気もおきないまま、どうしていいかわからずにふらふらと、主人のいない寝室に入る。あの左右に色の別れた綺麗な蝶の標本がある部屋だ。
ふだんだったら絶対にそんなことはしないが、先生のベッドに横になって、枕に顔をうずめる。メイド用に用意されたのとは違ってふわふわの高級品で、涙を吸い込ませるのがもったいないぐらいだったけど、今のわたしにはそんなことは構わなかった。
標本の蝶、これはわたしだ。自分の身体を虫ピンで貫かれ、柔らかな綿の上に固定されている姿を思い浮かべる。羽はあってもどこにも行けない、誰に顧みられることもなく、子を残すこともない。
ふわふわの布団に包まれて、少年のような、あるいは成長期を迎える前の子供のような薄い身体を自分で抱きしめると、少しだけ落ち着いた。……枕からかすかに先生の匂いがする。薬品の香りではなく、夕焼け色の髪の毛から香る彼自身の……。
なんだか、うとうとしてきた。仕事のことも、嫌なことも放り出して、意識を手放す。死ぬときも、こんなに安らかならいいのに。
――ようやく家に戻ったら、台所にはしっちゃかめっちゃかに粉が撒き散らかされ、食事だけは一応用意されていたけど出迎えはなかった。さすがに愛想をつかされたか、あるいはなんらかの事件に巻き込まれたのかと焦ったけれど、あちこち探して、寝室で眠っているのを見つけてほっとする。
どんな夢を見ているのだろう。せんせい、と夢の中でも俺を呼んでいる。
「なんだい」と返してみるが、彼女は応えない。
ずいぶん長いこと家を空けてしまったのは、あのあと、アジトを襲撃してきたガオケレナにボコボコにされて、全治二週間と診断されて絶対安静を言い渡されていたせいだった。肋骨が折れまくっていて一時は死ぬんじゃないかと思ったが、生き残ったのは運が良かった。
しかしせっかく買ったピアスは吹っ飛ばされたときに片方どこかへ行ってしまったし、もう片方は石が取れてしまった。贈り物はまたの機会にしよう。
白いベッドに横たわる、疲れ切った青白いアイネを死体みたいで綺麗だと言ったら怒られるだろうか。どうも一般的には褒め言葉ではないらしいので黙っておく。
やがて睡眠から意識が戻ったらしい。ゆるゆると目を開く彼女に、「ただいま」と微笑みかける。
俺の顔を見たら一気に覚醒したみたいで、慌てて飛び起きる。が――次の瞬間には彼女の顔が目の前にあり、細い腕で抱きしめられていた。
「せ、先生……もうずっと帰ってこないんじゃないかと思ってました……!」
「うん? 君は俺のことを恐れているんじゃなかったっけ? まるで帰ってきてくれて嬉しいみたいじゃないか」これは予想外だ。
「怖いです。……だけど嬉しいのも本当ですから」
ヴィータの心理学には詳しくないけれど、相反する強い感情が同時に両立するのは興味深い。
気が済むまで泣きじゃくる彼女に抱きしめられたままでいると、やがて落ち着いたのか、腕はほどけていった。気まずそうに目をそらしている。
「……すみません、取り乱しました」
いわく、彼女の祖父の命日が今日でいろいろ思い出してしまい、しかも家主がなかなか帰ってこないから不安になってしまったためらしい。王都の兵士の一人として幻獣と戦って死んだとか。そういえば王都の防衛戦のとき、メギドラルの軍勢と戦っていたのは俺たちソロモン一行だけじゃなかったんだよなあ、と思い出して感慨深くなる。
「構わないよ。そうだね……俺も言葉が足りなかったかな」今なら贈り物がなくたって話を聞いてくれそうだ。「俺はね、君と同じヴィータじゃないんだ。君には言いそびれていたけれど、本当の悪魔だ」
そして、ソロモンの旅に協力していること、ハルマゲドンを阻止しようとしていること、スーツの血は幻獣のものであるから心配する必要はないこと……などなど、聞かれたことはすべて答えた。悪魔の家と周辺住民から恐れられていることについては実に正しい。誤解を解かずに放っておいてくれようとしていることも。
彼女は半ば呆れながらも、「そういうことならしょうがないですね」と理解を示してくれる。どちらにしてもこの家を出ていくつもりはないようで、俺としても一安心だ。これで安心して家を任せられる。
……と思ったのだが。
さっき抱きしめられたときに、憶測が確信に変わり、別の懸念がひとつ増えたことに気づいてしまった。高揚を抑えながら、つとめて優しい声で尋ねる。
「――それで。君もまだ黙っていることがあるんだろう?」
断定する根拠は三つあった。一つは年齢のわりには比較的、骨格が未発達な点。二つめは『配偶』、あるいは『繁殖』といった言葉に不快感を表す点。それから最後は、この蝶に強い興味を示していた点。
これだけ揃えば答えは簡単だ。
「きみはヴィータには珍しい雌雄同体の個体だね」蝶みたいに左右ではっきり分化していないから分かりづらいけれど。「正確には女性寄りの無性ってところかな。いいね、実に興味深い」
「……ご存知でしたか」
「ご存知だったわけじゃないよ。いま分かったんだ」
『お手伝いさん募集』の張り紙を貼ったときに、駄目元で条件を書いておいたのだ。家事が得意な方。動物や昆虫が好きな方。それから珍しい検体を提供できる方――まさか本当に検体本人が来るとは思っていなかったが。 パイモンのようなメギド体が女性、ヴィータ体が男性、というパターンとはまた違う。
「……そうですね。わたしは子供を作ることはできません。結婚もまあ、諦めています。ですからできることと言えば、仕事ぐらいで」
「君が死体なら今すぐ解剖したいんだけどなあ。生きてて、しかも仕事のできるヴィータじゃ困るよ」
これは切実な問題だ。死んだらすぐ解剖したいのに、生きているヴィータを殺す趣味はないし、死んでもらっては困る。もどかしくてままならない。
黄色と黒、ひとつの蝶に半分ずつの違う色……みたいな、この相反する感情がつまり恋ということなのかな。今度、サキュバスに聞いてみよう。
十二時の鐘が鳴る。動いている死体の魔法が解けるわけではないようだ。彼女が生きて動いていることが残念なような、嬉しいような。
「先生?」
「ああ、君が死体ならよかったのになあ……」しみじみ言うと、彼女ははじめて嬉しそうにくすくす声を立てて笑う。こんなことを言って嬉しそうにするヴィータは初めてかもしれない。不思議だ。
「今すぐ死体にはなれませんが、死ぬまでおそばにいますね。そうじゃないと、貴重な検体が腐ってしまいますから――」
「じゃあ、君を標本にしていいってことかな?」
何年先か、何十年先かわからないけれど、その約束を楽しみにしていいということだろうか。彼女の剥製がこの屋敷に並ぶときのことを想像すると、心拍数の上昇を感じた。
「嫌ですけど、先生にならいいですよ。でも……それなら、一人で戦ってわたしより先に死なないでくださいね、先生?」
『いま何をしているの。そっちにも生活があるんでしょうけどたまには戻ってきなさい、急に出ていったから、みんな心配しているのよ。
おじいちゃんの命日には帰ってくるんでしょうね。返事はこれが届いたらすぐに出しなさい』
そんなことを言われましても、である。心配していると言いながら、戻ったら戻ったで小言ばかり浴びせられるに決まっている。
わたしと家族の関係はとても温かいとは言えなかったし、唯一味方してくれていた祖父も昨年旅立った。叱責されるのには慣れているとはいえ、自らすすんで針の筵の上に座りたくはない。
すぼめていた肩を回すと、憂鬱が凝縮されたような音をたてて軋んだ。
ともかく手紙は出さなくてはなるまい。
いま何をしているの、の答えとしては、一応ちゃんとお給金をいただいて人並みには働いている、と言えるだろう。××町のかたすみにある邸宅で、メイドとして働いている。仕事内容は多岐にわたり、掃除、洗濯、炊事、銀器磨きはもちろん、ご主人様のお仕事道具の買い出し、帳簿付け、手紙の整理。
それから大事なのが、コレクションの手入れ。
今も先生の――かなり昔のことだというが――自作だという蝶の標本箱に、防虫剤を入れ替えているところだった。
ご主人様はお医者様。だから先生、と呼んでいる。とは言っても生きている患者さんを診る医者ではなくて、死体を解剖して病気を解明したり、難しい言葉で論文を書いたり、といったことをしているらしい。頭の悪いわたしにはよくわからない。
先生はまだ若く、わたしとさほど年齢も変わらないのにとても博識で、頭の作りが最初から違うんじゃないかと思うことがあった。
せんせい、と呼んで、「なんだい」と返してくれるときの声は優しげで、わたしの家族みたいに声を荒げているところは見たことがない(たいがいは解剖に熱中しすぎていて、十回話しかけて一回返事が返ってくればいい方なのだけど)。ただそれだけでも家を出てよかった、と思えるぐらいには、わたしを取り囲んでいた今までの環境は最悪だった。
箱を開けると樟脳の香りが鼻をくすぐり、思わず顔をしかめてしまう。わたしに毒を吐き散らす、居丈高な祖母の部屋の箪笥の香りに似ていてあまり好きではなかった。祖母の部屋のことを地獄のお説教部屋、と心の中で呼んでいたぐらいだ。
アンタなんかどこへ行ったってやっていけないよ、だの、せっかく育ててやったのにその態度はなんだ、だの、生きてる価値なんてあるのかい……だの、くどくど言われるたびに祖父がかばってくれたっけ。思い出すだけで頭が痛い。
(ああ、嫌だな)
香りと結びついている嫌な記憶は時間が経ってもなかなか消えてくれなくて、鼻をつまみながら作業を進める。祖父もなんだってあんな人と結婚なんかしたのか。わたしにはわからないだけで、祖母にもいいところがあり、あんなに言われるぐらいなのだから、やっぱり生まれてきたわたしが悪いんだろうか、とすら思ってしまう。
考えてもきりがない。
標本箱の硝子をきっちり閉じて、一息つく。今日の仕事はこれでひととおり片がついたからここまでにしよう。
手紙には、毎日決められたとおりにきっちり仕事をしています、仕事が忙しくて帰れません、とでも書けばいいだろうか。この家にメイドはわたし一人だけだから、先生も困ってしまうに違いない。
街での買い出しの際、たまによその屋敷のメイドに会って話をすることがあるが、どこも来客の対応や食事の準備でひどく忙しいという。この家にめったに来客はないし、基本的に用意するのは二人分の食事で済む。たまにお客様が来たとしても、屋敷中に飾られた無数の剥製と標本の目という目が居心地悪くさせるのか、お茶を出す間もなくそそくさと退散してしまう。
そしていっこうに仕事仲間は増えない。
「それにしても、先生は今日は戻っていらっしゃるのかしら」つぶやいて、標本箱のすべらかな木の肌を撫でながら、ぼんやりと見つめていた。
仕事がよほど忙しいのか、先生自身も最近はこの自宅にあまり帰ってこられないらしく、わたし一人で過ごすことも多い。二人分の食事を毎日用意したら、逆に余りすぎてしまうぐらいだ。日持ちがする調理法のレパートリーが増えるのはいいが、誰かのために用意したものを結局自分で食べるのは少し寂しい。
漆塗りが施された、ひときわ立派な木箱の中身の蝶は、片方が鮮やかな黄色、片方は吸い込まれそうに真っ黒で、左右で異なる羽を持っている。その見事さにまわりのことも見えなくなるぐらい見惚れていると、硝子の蓋に、ふと夕焼けが差した。
あれ、いまは夜では?
「これはね、珍しい雌雄同体の個体なんだ。左がメス、右がオス」頭上すぐ近くから声が降ってきた。「『ハーフサイダー』、あるいは『雌雄嵌合体』ともいう」
「せ、先生!? ごめんなさい、お帰りに気づかなくて」気づけば、いつのまにか帰っていたらしい先生がわたしを見下ろしている。
夕焼けだと思ったのは、熟したネクタルの実に似た、先生の癖毛の色だった。
「――キミはこの蝶が好きかい?」先生は目を細める。真っ黒い瞳孔に見つめられて、麻痺したように身動きができない。
天井のランプが先生の笑顔に暗い影をおとしていて、背筋にぞくりとしたものを感じる。
「……好き、です」
「それはよかった。綺麗なものはいいよね」その言葉に言葉以上の意味があるのかどうか、判断に迷う。
「ああ、今日は外で食事を済ませてきたから要らないよ。お風呂を用意してくれるかな」
「……はい。すぐに」視線が外されてほっとすると同時に、夕食のスープが無駄になっちゃうなあ、という落胆もあった。うまく隠せていたかどうか、自信はない。
逃げるように部屋を出て浴室へ向かい、急いで支度を整える。
見つめられているあいだ、腰が抜けるかと思った。わたしは先生のことがわからない。
アンドラス。彼はそう名乗っているし、ごく稀に訪ねてくる来客も彼をドクター・アンドラスと呼ぶ。ただ、役所から届く書類の上の名前には『エミー』とあり、わたしも彼にかわって書類を出すときはその名前を記している。書類上はそれが本名なのだろうが、理由を聞いたらあいまいに笑うので、あまり触れてほしくないのだと思って深くは聞かないことにしている。
不思議なのはそれだけではない。浴室に脱ぎ散らかされた服を回収して、着心地のいい洗いたての寝間着と入れ替える。近ごろ先生が家を空けて戻ってきたら、かなりの確率でこうしてスーツを血まみれにしている。いくら解剖医だからといって、何をどうしたらこんなに汚れるのかというぐらいの血にまみれているスーツをしげしげと眺めながら、これは今回もシミ抜きが大変だなと憂鬱になる以上に、不審で不気味な気持ちがわいてくるのも当然だ。
検体の解剖作業だったらこの自宅でもできるのに、仕事というのはどこで、『何をしている』のか。
死体というのは心臓、つまり血流が止まっているから死体なのであって、切開したところであまり激しく血が噴出することはないはずだ。たまに先生の作業をかたわらで手伝わせてもらうこともあるから、経験的になんとなくわかる。
では、この返り血の量はいったい?
ドクター・アンドラス。十八歳にして解剖学の天才。博識な頭脳に神業の手を持ち合わせた蝋人形がそのまま動いているような青年の、感情の読み取れない穏やかな声をした――先生の、真っ白な皮膚の下でなにかが蠢いているのを時折感じる。先生だってヴィータには違いないのだから、表皮の下にあるのは筋肉と血液とリンパ液なのだろうけれど、もっと別の、何か不自然なものを感じることがある。
「せんせい」浴室の扉に向かって小さく呼びかける。返事はない。
アンドラス先生、あなたは何者なのでしょうか――?
一人で戦うことには慣れている。
目の前の実験対象はケラヴノスと呼ばれる、雷を帯びた大型の蠍のような幻獣だ。生半可な刃ではダメージが通らないため、動きを見定め、素早く近寄って甲殻の隙間から毒を注入し、再び距離をとる。経過観察。相手が毒で倒れるのを待つあいだ、先日のことを思い出していた。
「せんせい」――シャワーの音にかきけされそうな小さな声。たしか、アンドラス先生、あなたは何者なのでしょうか、と言ったか。
その答えは簡単だ。俺は『メギド』であって『ヴィータ』ではない。ヴィータであるエミーの身体をいわば乗っ取ったのがアンドラスというメギドだ。ソロモンの力を借りれば、こうしてメギド本来の姿で戦える。
あのとき、扉の向こうで俺を呼ぶ声は聞こえていたが、気づかないふりをした。彼女――アイネが俺のことを不審がっているのはさすがに分かっている。雇いはじめる際に、「俺はメギドで~す」などと言ったら一瞬で逃げられてしまいそうだったので、自分の素性を説明することはなかった。もうすぐ一年が経とうとしているので、さすがに潮時か、という感じだ。
彼女は「わたしは頭が悪いですから」と言いながらも思いのほか覚えが早く、標本と剥製の手入れも不自由なく行き届いている。帰るたびに力のつく食事が用意されているし、家を出る際には携帯食も持たせてくれるのでたいへん効率的だ。面倒な税金の手続きや学会などへの事務連絡も全部任せているのでこうして気兼ねなく家を空けてソロモンの力にもなれるし、戦える。つまり、今いなくなられては非常に困るというわけだ。
どうにかして俺がメギドだと知って円滑に受け入れてもらいたい。周囲のヴィータよりも近い距離で暮らす相手だから黙っているわけにもいかず、遅かれ早かれ話さないわけにはいかないことだった。
「これはなかなか骨が折れるなあ」
実験対象が完全に沈黙したのを確認してから少しずつバラしていく。めぼしい素材を積み込んで、アジトまで帰還するさなかも考えていた。
ここはやはり、七十二の個性的なメギドを束ねつつ発生するトラブルを解決するスペシャリスト、俺の雇用主でもあるソロモン王に相談するのがいいだろう。
「えっ、女の子との距離を縮めたい? どうしたんだ、急に」ソロモンは新しく加入したメギドのために装備品を作っている最中だった。瞼を思い切り持ち上げ、検体が予想外の挙動をしたときみたいな顔になっている。
「その女の子って追放メギドの誰かなのか?」
「急にでもないよ、ずっと考えてたんだ。それと相手はメギドじゃなくてヴィータの、うん、女性というべきだね。親密になりたいんだ」
「いや、よりによってアンドラスがそんなこと言い出すなんて意外でさ……うーん、そういう話なら俺より……」
「なになに~? 恋のハナシ? ならサーヤも混ぜてっ☆」
ソロモンと俺の間に割って入ったのは、サーヤ、正しくはサキュバス。異性を魅了することに長けたメギドだ。くりくりと動く青とピンクの眼球が、俺たちの会話に興味津々であることを雄弁に物語っている。サキュバスはヴィータの感情を栄養にしているから、この手の話には敏感にアンテナを張っているのだろう。彼女が顔を振るたびに馬の尻尾みたいな二つ結びの髪の束が背中をバシバシと叩いてきて、わずらわしい。
サキュバスは何か勘違いしているようだけど、繁殖を目的とした配偶行動という意図、およびそれに伴う感情はない。だが、距離を縮めたいという点は間違っていないから指摘はしなかった。
「もらって嬉しいもの? サーヤならやっぱ現ナマとか?」
「現金は普段から渡してるからなあ」雇用契約にある相手だし。
「それじゃお菓子とか、アクセサリーとか? 女性が欲しがるものといえば、そのぐらいしか思いつかないよ」
「お菓子かアクセサリーかあ。日持ちがしないものよりは装飾品の方がいいかな」
「それじゃ、探しに行きましょ!」
アジトを出て、糧食の買い出しついでに王都の宝飾店をあちこち覗いていると、とある店で、見知った顔の連中に行き合った。
「パイモン! それにフォラス!」
髭を丁寧に整えた白スーツの伊達男と、学者のローブをまとった眼鏡の男もこちらに気づいたらしい。二人とも追放メギドの仲間たちだ。
「なんだ? 女性へのプレゼント? それならこの色男、パイモン様に相談してくれよ」
「俺は嫁との結婚記念日にプレゼントを考えててさ。なんかいいやつないかなーって、パイモンに相談に乗ってもらってるんだ」
「なるほど。配偶関係にある相手への継続的な気配りは大事だという話だね。そういうことなら俺にもアドバイスをくれないかい?」
ショーケースの中の色とりどりの石をながめて、やいのやいのと騒がしくしているせいか、店員も怪訝そうに俺たちを遠巻きにしている。
「やっぱ予算は大事だろ。どれぐらい?」フォラスが現実的な提案をする。
「手持ちはこのぐらいかな」必要とあらば小切手を切ることもできる。
「うっそ、アンドラスって意外にお金持ちなんだ~! これならけっこういいのも買えそうね」サキュバスの目が光っている。
「それより俺、こんな格好で宝石店って場違いじゃないかな。ここ高級なとこだろ?」ソロモンは居心地悪そうだ。
「その子の好きな色とかはわからないのか? シルバーが似合いそうとか、明るいゴールドが好きとかは?」パイモンはアドバイス慣れしているのか、店員にかわってあれこれと質問を投げかけてくる。
「うーん。あんまりサキュバスみたいな派手な感じではないな。金具の色は……そうだな、ゴールドよりはシルバーかな」
ランプの薄明かりの下で、銀器を磨く彼女を思い浮かべる。どちらかといえば怜悧な銀の色が似合うような気がした。これは俺がふだん銀色のメスや膿盆を使い慣れているからかもしれないが。
「それじゃあ、仕事とかは? たとえば家事をする女の子なら、ふだん指輪をつけることは難しいってこともあるわよ」
「ああ、手をよく使う仕事だね。……そっか、指輪はダメか」
「それならピアスやネックレスだな。控えめなデザインなら、仕事中もつけられるかもしれない」
標本箱の、黄色と黒の蝶を見ていたことを思い出す。雌雄嵌合体。右と左で別の色。なんとなく、「ピアスがいいな」と口に出していた。
これまたやいのやいの騒ぎながら宝石を選んで、枠にはめてもらう。ソロモンが驚くぐらいのなかなかのお値段だったが、俺には別にどうということもない。
店を出て、アジトに戻るとすぐ、見張りをしていたシャックスが大慌てで飛び込んできた。
「モンモンたいへん! また幻獣が出たって! 出動、しゅつどーう!」
「大変だ、行かなくちゃ! みんな行くぞ!」
王の号令に従い、すぐに出立をする。
……あ、プレゼント置いていくの忘れちゃったなあ。
先生はいつお戻りになるのかしら。
最後に出かけてくるよと言った先生を玄関で見送ってから、もう二週間は経つ。また長く帰れないかもしれないとは聞いているけど、さすがに心配になるというものだ。
なにかしていないと不安な気持ちになって、いつ帰ってきてもいいようにお掃除をして、コレクションの手入れをして、銀器を磨く毎日だ。家の中はぴかぴかなのに心の中は乱れたまま、あるべきものはすべてあるべき場所にきちんと揃っているのに先生だけがいない。
日が昇り、今日も目が覚める。「おはよう」枕元のトカゲの剥製に挨拶をする。いつもどおり冷たい水で顔を洗う。洗面所の鏡に映っているのは、冴えない顔色の痩せた身体だ。もともと貧相な胸がますます痩せてしまった気がしてならない。見ないふりして覆い隠すように、いつものメイド服に袖を通して、髪を結い上げる。
もしかしたら、と思ったが、夜のうちに帰ってきた形跡はない。
一日の予定を確認しようとカレンダーを見て、ようやく気づいた。
――今日は祖父の命日だ。
一年前の今日、シバの女王の座す王都は崩壊の危機にあった。、城壁のすぐ外側では凶暴な化物の群れが迫り、内側は刺客の手によって血の海になり、阿鼻叫喚の様相になったことがあって――女王の親衛隊隊長を務めていた祖父も国を守ろうと、武器を執って化け物たちと戦った。
力のないわたしたち家族はどうすることもできずに、祖母の大きな箪笥の中にこもって化物の目を逃れた。
そして、戦いはけっきょくこちら側の勝利に終わったと聞いたけれど、ずいぶん経って、騒ぎがようやく落ち着いた頃に帰ってきたのは祖父が生涯身につけていた、ひとつの指輪だけ。
「隊長は勇敢に戦いました。最後は幻獣の牙に腹を貫かれながら相手の喉に槍斧を突き刺して、死ぬ寸前まで俺たちを守ろうと……」
それを家まで届けに来た兵士はそう伝えるのがやっとで涙ぐんでしまい、あとは言葉にならなかった。
わたしはなぜだか涙が出なかった。あんなに大好きだった祖父が死んだのに、その兵士を見ていると妙にぼんやりとしてしまって、悲しさなど浮かんでこなかった。
これからどうやって生きていこう、という気持ちと同時に、夫を亡くしてヒステリックになる祖母とまだ小さい弟妹たち、そのすべての面倒を見なくてはいけない憂鬱さが肩にのしかかっていた。だから祖母に罵られて、生きている価値なんかあるのか、と叫ばれても仕方なかったのかもしれない。――子を残すこともないのに、お前はなぜ生きているのだと。
悪いのはわたしだ。わたしなんかを守るために祖父は死んだのかと、祖母は嘆いた。
この重苦しい空気の中にいることが耐えられず、わたしは仕事を探すと言い残して家を出た。
そうしていくつかの町を渡り歩いて見つけたのが、『お手伝いさん募集』の張り紙だった。そう、このアンドラス邸の。
仕事内容は家事手伝いとコレクションの手入れ。条件は家事が得意な方、動物や虫が好きな方、それから……。――うん、お給金も悪くないし、祖父がよく森へ連れて行ってくれたから虫だって気持ち悪いとは思わない。それに自分が変わり者だという自覚もある。
そう思って、軽い気持ちで応募した結果がこれだ。ひどく静かな家の中、生きているのか死んでいるのかもわからず、帰ってこない主人を待っていたあのときの祖母の気持ちが少しはわかるような気がする。
(先生が……もし、死んでしまったって聞いたら、涙は出るのかしら……)
せんせい。呼びかけても答えはない。
うなだれて、頭を振る。――たとえ帰ってこないとしても、食事の準備はしなくてはならない。今日のメニューは祖父が好きだったお肉のパイ包みにしようと決めて、買い物に出かけることにした。
「あっ、悪魔の家の……」
「本当だ、あの悪魔の手下だ」
市場で小麦粉を計ってもらうのを待っていると、少年たちがわたしを遠巻きに指さしてひそひそ噂話をしているのが聞こえてきた。先生の家が悪魔の家、と呼ばれているらしいことは耳にしていたが、わたしはごく善良なヴィータなのだけど。内心ため息をついたが訂正する気にもなれず、噂を背中で受け流す。
たしかに先生は悪魔なのかもしれない。狂気的なまでに解剖にのめりこむ姿も、血まみれで帰ってくる姿も、不自然にいつも笑顔なところも怪しまれないほうがおかしい。むしろ、近所付き合いをする時間を研究に使いたいから積極的に勘違いしてほしいとでも思っているのだろう。だからわたしが先生は悪魔なんかじゃない、と主張するのは、かえって迷惑になるかもしれない。無視が一番だ。
少年たちは調子に乗ったのか、わたしが何も言い返さないのをいいことに、野次を飛ばす声を大きくする。
「やーい、悪魔ー!」
「あんな家にいたら、一生結婚できないぞー!」
『結婚』。ですって。
その言葉のせいで、祖母の罵声が思い出されて、さすがに腹が立って、睨みつけると一目散に逃げていった。粉屋の店主も悪魔と呼ばれたわたしを怪訝そうな目で見ている。震える手で小麦粉の袋を受け取り、逃げ帰る。
剥製たちの硝子でできた眼球の視線よりも、生きているものたちの視線はどうしてこんなに――涙がでるぐらい、痛いのか。いいえ、どうしてみんなこんな痛いものを受けて平気でいられるのか。
ぐちゃぐちゃな感情で、お肉をぐちゃぐちゃに切り刻む。小麦粉に水とバターを混ぜて力任せに練る。忘れろ、と念じるように作業に没頭する。パイで包んだ肉をオーブンで焼くあいだ、水をぐらぐらと沸かして地獄のように赤いトマトスープに乱切りにんじんを入れる。食材も余りも、しょうもないやつらもみんなまとめて煮えてしまえ! とばかりにいろんなものをぶち込んだ。
祖母の言うことも、少年たちの野次も全て図星だった。それに言い返すことができない弱虫な自分もなにもかもが嫌になって、出来上がったパイも喉を通らず、めちゃくちゃになった台所を片付ける気もおきないまま、どうしていいかわからずにふらふらと、主人のいない寝室に入る。あの左右に色の別れた綺麗な蝶の標本がある部屋だ。
ふだんだったら絶対にそんなことはしないが、先生のベッドに横になって、枕に顔をうずめる。メイド用に用意されたのとは違ってふわふわの高級品で、涙を吸い込ませるのがもったいないぐらいだったけど、今のわたしにはそんなことは構わなかった。
標本の蝶、これはわたしだ。自分の身体を虫ピンで貫かれ、柔らかな綿の上に固定されている姿を思い浮かべる。羽はあってもどこにも行けない、誰に顧みられることもなく、子を残すこともない。
ふわふわの布団に包まれて、少年のような、あるいは成長期を迎える前の子供のような薄い身体を自分で抱きしめると、少しだけ落ち着いた。……枕からかすかに先生の匂いがする。薬品の香りではなく、夕焼け色の髪の毛から香る彼自身の……。
なんだか、うとうとしてきた。仕事のことも、嫌なことも放り出して、意識を手放す。死ぬときも、こんなに安らかならいいのに。
――ようやく家に戻ったら、台所にはしっちゃかめっちゃかに粉が撒き散らかされ、食事だけは一応用意されていたけど出迎えはなかった。さすがに愛想をつかされたか、あるいはなんらかの事件に巻き込まれたのかと焦ったけれど、あちこち探して、寝室で眠っているのを見つけてほっとする。
どんな夢を見ているのだろう。せんせい、と夢の中でも俺を呼んでいる。
「なんだい」と返してみるが、彼女は応えない。
ずいぶん長いこと家を空けてしまったのは、あのあと、アジトを襲撃してきたガオケレナにボコボコにされて、全治二週間と診断されて絶対安静を言い渡されていたせいだった。肋骨が折れまくっていて一時は死ぬんじゃないかと思ったが、生き残ったのは運が良かった。
しかしせっかく買ったピアスは吹っ飛ばされたときに片方どこかへ行ってしまったし、もう片方は石が取れてしまった。贈り物はまたの機会にしよう。
白いベッドに横たわる、疲れ切った青白いアイネを死体みたいで綺麗だと言ったら怒られるだろうか。どうも一般的には褒め言葉ではないらしいので黙っておく。
やがて睡眠から意識が戻ったらしい。ゆるゆると目を開く彼女に、「ただいま」と微笑みかける。
俺の顔を見たら一気に覚醒したみたいで、慌てて飛び起きる。が――次の瞬間には彼女の顔が目の前にあり、細い腕で抱きしめられていた。
「せ、先生……もうずっと帰ってこないんじゃないかと思ってました……!」
「うん? 君は俺のことを恐れているんじゃなかったっけ? まるで帰ってきてくれて嬉しいみたいじゃないか」これは予想外だ。
「怖いです。……だけど嬉しいのも本当ですから」
ヴィータの心理学には詳しくないけれど、相反する強い感情が同時に両立するのは興味深い。
気が済むまで泣きじゃくる彼女に抱きしめられたままでいると、やがて落ち着いたのか、腕はほどけていった。気まずそうに目をそらしている。
「……すみません、取り乱しました」
いわく、彼女の祖父の命日が今日でいろいろ思い出してしまい、しかも家主がなかなか帰ってこないから不安になってしまったためらしい。王都の兵士の一人として幻獣と戦って死んだとか。そういえば王都の防衛戦のとき、メギドラルの軍勢と戦っていたのは俺たちソロモン一行だけじゃなかったんだよなあ、と思い出して感慨深くなる。
「構わないよ。そうだね……俺も言葉が足りなかったかな」今なら贈り物がなくたって話を聞いてくれそうだ。「俺はね、君と同じヴィータじゃないんだ。君には言いそびれていたけれど、本当の悪魔だ」
そして、ソロモンの旅に協力していること、ハルマゲドンを阻止しようとしていること、スーツの血は幻獣のものであるから心配する必要はないこと……などなど、聞かれたことはすべて答えた。悪魔の家と周辺住民から恐れられていることについては実に正しい。誤解を解かずに放っておいてくれようとしていることも。
彼女は半ば呆れながらも、「そういうことならしょうがないですね」と理解を示してくれる。どちらにしてもこの家を出ていくつもりはないようで、俺としても一安心だ。これで安心して家を任せられる。
……と思ったのだが。
さっき抱きしめられたときに、憶測が確信に変わり、別の懸念がひとつ増えたことに気づいてしまった。高揚を抑えながら、つとめて優しい声で尋ねる。
「――それで。君もまだ黙っていることがあるんだろう?」
断定する根拠は三つあった。一つは年齢のわりには比較的、骨格が未発達な点。二つめは『配偶』、あるいは『繁殖』といった言葉に不快感を表す点。それから最後は、この蝶に強い興味を示していた点。
これだけ揃えば答えは簡単だ。
「きみはヴィータには珍しい雌雄同体の個体だね」蝶みたいに左右ではっきり分化していないから分かりづらいけれど。「正確には女性寄りの無性ってところかな。いいね、実に興味深い」
「……ご存知でしたか」
「ご存知だったわけじゃないよ。いま分かったんだ」
『お手伝いさん募集』の張り紙を貼ったときに、駄目元で条件を書いておいたのだ。家事が得意な方。動物や昆虫が好きな方。それから珍しい検体を提供できる方――まさか本当に検体本人が来るとは思っていなかったが。 パイモンのようなメギド体が女性、ヴィータ体が男性、というパターンとはまた違う。
「……そうですね。わたしは子供を作ることはできません。結婚もまあ、諦めています。ですからできることと言えば、仕事ぐらいで」
「君が死体なら今すぐ解剖したいんだけどなあ。生きてて、しかも仕事のできるヴィータじゃ困るよ」
これは切実な問題だ。死んだらすぐ解剖したいのに、生きているヴィータを殺す趣味はないし、死んでもらっては困る。もどかしくてままならない。
黄色と黒、ひとつの蝶に半分ずつの違う色……みたいな、この相反する感情がつまり恋ということなのかな。今度、サキュバスに聞いてみよう。
十二時の鐘が鳴る。動いている死体の魔法が解けるわけではないようだ。彼女が生きて動いていることが残念なような、嬉しいような。
「先生?」
「ああ、君が死体ならよかったのになあ……」しみじみ言うと、彼女ははじめて嬉しそうにくすくす声を立てて笑う。こんなことを言って嬉しそうにするヴィータは初めてかもしれない。不思議だ。
「今すぐ死体にはなれませんが、死ぬまでおそばにいますね。そうじゃないと、貴重な検体が腐ってしまいますから――」
「じゃあ、君を標本にしていいってことかな?」
何年先か、何十年先かわからないけれど、その約束を楽しみにしていいということだろうか。彼女の剥製がこの屋敷に並ぶときのことを想像すると、心拍数の上昇を感じた。
「嫌ですけど、先生にならいいですよ。でも……それなら、一人で戦ってわたしより先に死なないでくださいね、先生?」
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