なまえをいれてね
氷の島と柘榴の実
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
今日は朝からしとしとと、穏やかに雨が降っている。六月十七日、僕の誕生日だ。ノーレ、ダン、フィン、スヴィ―や、シーランド、香に、菊……他にもいろんな人が誕生日祝いの電話をくれた。素直にお礼を返せたとは言いがたいけれど、おめでとうの言葉を聞く度に、面映いような静かな幸せに包まれた。
ただ、それでも一番聞きたい声がまだ聞けていなかった。
二人掛けのソファの隣が空いていることなんていつもは気にならないのに、今日だけは、そわそわして落ち着かなかった。
ざくろは正午前には着くと言っていたはずだ。
僕の誕生日を祝いに、花束を持ってドアを開けるつもりだと、昨日は嬉しそうに話していた。時計を見れば時刻はすでに夕方を回っている。これまでも何度か連絡を入れてみたが、音沙汰はない。
何かトラブルでもあったのかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかったけれど、連絡がなくてはどこにいるかも分からないし、入れ違いになっても困る。そう思って、ここで待つしかないようだった。
落ち着かなくて、普段は目につかない、部屋の隅に溜まったほこりをなんとはなしに拭いていた。――電話が鳴る。受話器を取ると反射的に、「ざくろ?!」と、考えるより先にその言葉が出た。それを聞いて電話の向こうの声は、ざくろとは似ても似つかない野太い声で笑った。
「坊っちゃん。俺だよ、サディクだ。何でぃ、間違えたのかい?」
「あっ……おじさん……、ごめん。何でもないんだ」
「良いってことよ。坊っちゃん、お誕生日、おめでとうな」
「う、うん。ありがとう……」
引きつった顔でどうにかお礼を言ったものの、うっかり間違えてしまったことが恥ずかしくて仕方がない。受話器の向こうで、おじさんがおかしくてたまらないといった具合に笑う声が聞こえるので、このまま電話を切ってしまおうかと思った。しかし、きっと誰かに言いふらしたりはしないだろうから、間違えた相手がおじさんでよかった。これがノーレかダンだったら、と思うと恐ろしくて仕方がない。
おじさんはひとしきり笑ったあと、静かな声になって、「お前さん、その子をずいぶん心配してんだな」と寂しげにつぶやいた。
「そのざくろってのは、お前さんのガールフレンドの名前だろう」
「……そ、そうだけど。それが何」
おじさんがいつになく真剣な口調で言うので、思わずたじろいでしまう。何か言葉を探しているみたいだったが、一つ二つ咳払いをして、いいか、よく聞け、と前置きをして、口火を切る。
「いいか、その子を大切にしてやれ。いつもその子の都合ってモンを考えろ。分かったか」
「い、いきなりどうしたの、おじさん」
「分かったか、って聞いてんだ。一緒に居られる時間は有限なんでぃ。それをてめえのワガママで短くするなんざ、もってのほかだ」
おじさんは僕に説教しながら、自分自身に言い聞かせているようだった。一つ一つ教え諭すその声には後悔がにじんでいるように感じた。
もしかしたら、つい最近、失恋でもしたのかもしれない。
ざくろは結局、夜もずいぶん更けた頃にやってきた。といっても、夏至に近いこの時期なので、外は薄ぼんやりと明るい。
「アイス君の家に来ると、やっぱり時間の感覚がおかしくなっちゃうね」と、暗い顔をしたざくろが言った。時間の感覚がおかしくなったからこんなに遅くなったのか、と聞いたら、そうではなくて、乗り継ぎの際にいろいろトラブルがあったり、悪天候で飛行機が遅延したりしたためだという。連絡がなかったのは、単に携帯電話の充電がなくなってしまったからだった。
「それで……、ごめんね、アイス君。誕生日プレゼント、ないの」
「それはきみのスーツケースが無いことと関係がある?」
「うん、途中の空港で、スーツケースがどこかに行っちゃって、その中に入れてたプレゼントも……あと、もうお店もあんまり開いてなくって」
「……そっか、それは、大変だったね」
ざくろは僕の隣に座り、うつむいて、すっかりしょげかえっている。こんな状況になってでもこっちに来てくれただけで十分だし、おじさんの忠告なんかなくても、これ以上何かを望んだら罰が当たりそうだった。
その子の都合ってモンを考えろ、か。確かに考えてみれば、女の子一人で日本からの直通便すらないアイスランドへの長旅は大変だろうし、道中では何が起こるかわからない。誕生日にはこっちに来るからと言われた時に、僕がそっちに行くから待っててほしいと押し切るべきだった。
そういえば、この間観た映画でも、遠距離恋愛の男女の話があった。結局その映画では恋は破綻し、男は仕事を選び、女も別のパートナーを見つけるというさして面白くもないエンドだった。相手の都合を考えず、自分ばかりが損をしているという不満がほこりのように静かに溜まっていった結果だろう。ほこりは人を殺さないが、倦怠期のカップルを別れさせる火種にはなる。
そのことを思い返すと、僕まで暗い気分になりそうだった。
「……別に、プレゼントなんて要らない」
「でもアイス君、プレゼント楽しみにしてるって言ってたでしょ?」
「そうだけど、ワガママ言うの悪いよ」
「ワガママ言って。もうアイス君の誕生日が終わっちゃう」
僕の頬を両手でふわりと包んで、ざくろは真剣なまなざしでまっすぐ見つめてくる。
プレゼントが要らないなんて嘘だった。この目で見つめられると、くだらない見栄とか言い訳とか、そういった分厚い心の殻が溶かされて、本心を言ってしまいたくなる。彼女の前でだけは素のままをさらけ出してもいいかな、と思えた。
「アイス君、普段ぜんぜんワガママ言わないんだから、今日くらいはワガママになって」
「……いいの?」
「あのね、アイス君のワガママを聞きに、ここまで来たんだよ」
そこまで言われたら、気持ちを抑える必要はもうない。堰を切ったように好きが溢れて止まらなくて、おずおずとだけれど僕も手を伸ばし、肩を引き寄せたら、ざくろの髪のやわらかな匂いが鼻孔をくすぐった。心臓の鼓動を共有してる感覚がたまらなく切なく、僕の理性を揺り動かす。幸せすぎて怖いというのは、こういうことを言うのだろうか。
二人の体温が溶け合っていくのを感じて、どちらからともなくキスをした。
気づけば、ざくろの体をぎゅっと抱きしめて、「どこにも行かないで」とつぶやいていた。そう言ってしまってから、ずいぶんなワガママを言ってしまったな、と怖くなってざくろを見たら、とろけそうな笑顔をして、小さくうなづいてくれた。「そのつもり」
その言葉に背を押されたのかもしれない。鳴り始めた12時の鐘を聞きながら、意を決して、今世紀最大のワガママを口にする。
もう後戻りはできないけれど、上等だ。
「――ずっと一緒にいてよ。きみをちょうだい」
ただ、それでも一番聞きたい声がまだ聞けていなかった。
二人掛けのソファの隣が空いていることなんていつもは気にならないのに、今日だけは、そわそわして落ち着かなかった。
ざくろは正午前には着くと言っていたはずだ。
僕の誕生日を祝いに、花束を持ってドアを開けるつもりだと、昨日は嬉しそうに話していた。時計を見れば時刻はすでに夕方を回っている。これまでも何度か連絡を入れてみたが、音沙汰はない。
何かトラブルでもあったのかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかったけれど、連絡がなくてはどこにいるかも分からないし、入れ違いになっても困る。そう思って、ここで待つしかないようだった。
落ち着かなくて、普段は目につかない、部屋の隅に溜まったほこりをなんとはなしに拭いていた。――電話が鳴る。受話器を取ると反射的に、「ざくろ?!」と、考えるより先にその言葉が出た。それを聞いて電話の向こうの声は、ざくろとは似ても似つかない野太い声で笑った。
「坊っちゃん。俺だよ、サディクだ。何でぃ、間違えたのかい?」
「あっ……おじさん……、ごめん。何でもないんだ」
「良いってことよ。坊っちゃん、お誕生日、おめでとうな」
「う、うん。ありがとう……」
引きつった顔でどうにかお礼を言ったものの、うっかり間違えてしまったことが恥ずかしくて仕方がない。受話器の向こうで、おじさんがおかしくてたまらないといった具合に笑う声が聞こえるので、このまま電話を切ってしまおうかと思った。しかし、きっと誰かに言いふらしたりはしないだろうから、間違えた相手がおじさんでよかった。これがノーレかダンだったら、と思うと恐ろしくて仕方がない。
おじさんはひとしきり笑ったあと、静かな声になって、「お前さん、その子をずいぶん心配してんだな」と寂しげにつぶやいた。
「そのざくろってのは、お前さんのガールフレンドの名前だろう」
「……そ、そうだけど。それが何」
おじさんがいつになく真剣な口調で言うので、思わずたじろいでしまう。何か言葉を探しているみたいだったが、一つ二つ咳払いをして、いいか、よく聞け、と前置きをして、口火を切る。
「いいか、その子を大切にしてやれ。いつもその子の都合ってモンを考えろ。分かったか」
「い、いきなりどうしたの、おじさん」
「分かったか、って聞いてんだ。一緒に居られる時間は有限なんでぃ。それをてめえのワガママで短くするなんざ、もってのほかだ」
おじさんは僕に説教しながら、自分自身に言い聞かせているようだった。一つ一つ教え諭すその声には後悔がにじんでいるように感じた。
もしかしたら、つい最近、失恋でもしたのかもしれない。
ざくろは結局、夜もずいぶん更けた頃にやってきた。といっても、夏至に近いこの時期なので、外は薄ぼんやりと明るい。
「アイス君の家に来ると、やっぱり時間の感覚がおかしくなっちゃうね」と、暗い顔をしたざくろが言った。時間の感覚がおかしくなったからこんなに遅くなったのか、と聞いたら、そうではなくて、乗り継ぎの際にいろいろトラブルがあったり、悪天候で飛行機が遅延したりしたためだという。連絡がなかったのは、単に携帯電話の充電がなくなってしまったからだった。
「それで……、ごめんね、アイス君。誕生日プレゼント、ないの」
「それはきみのスーツケースが無いことと関係がある?」
「うん、途中の空港で、スーツケースがどこかに行っちゃって、その中に入れてたプレゼントも……あと、もうお店もあんまり開いてなくって」
「……そっか、それは、大変だったね」
ざくろは僕の隣に座り、うつむいて、すっかりしょげかえっている。こんな状況になってでもこっちに来てくれただけで十分だし、おじさんの忠告なんかなくても、これ以上何かを望んだら罰が当たりそうだった。
その子の都合ってモンを考えろ、か。確かに考えてみれば、女の子一人で日本からの直通便すらないアイスランドへの長旅は大変だろうし、道中では何が起こるかわからない。誕生日にはこっちに来るからと言われた時に、僕がそっちに行くから待っててほしいと押し切るべきだった。
そういえば、この間観た映画でも、遠距離恋愛の男女の話があった。結局その映画では恋は破綻し、男は仕事を選び、女も別のパートナーを見つけるというさして面白くもないエンドだった。相手の都合を考えず、自分ばかりが損をしているという不満がほこりのように静かに溜まっていった結果だろう。ほこりは人を殺さないが、倦怠期のカップルを別れさせる火種にはなる。
そのことを思い返すと、僕まで暗い気分になりそうだった。
「……別に、プレゼントなんて要らない」
「でもアイス君、プレゼント楽しみにしてるって言ってたでしょ?」
「そうだけど、ワガママ言うの悪いよ」
「ワガママ言って。もうアイス君の誕生日が終わっちゃう」
僕の頬を両手でふわりと包んで、ざくろは真剣なまなざしでまっすぐ見つめてくる。
プレゼントが要らないなんて嘘だった。この目で見つめられると、くだらない見栄とか言い訳とか、そういった分厚い心の殻が溶かされて、本心を言ってしまいたくなる。彼女の前でだけは素のままをさらけ出してもいいかな、と思えた。
「アイス君、普段ぜんぜんワガママ言わないんだから、今日くらいはワガママになって」
「……いいの?」
「あのね、アイス君のワガママを聞きに、ここまで来たんだよ」
そこまで言われたら、気持ちを抑える必要はもうない。堰を切ったように好きが溢れて止まらなくて、おずおずとだけれど僕も手を伸ばし、肩を引き寄せたら、ざくろの髪のやわらかな匂いが鼻孔をくすぐった。心臓の鼓動を共有してる感覚がたまらなく切なく、僕の理性を揺り動かす。幸せすぎて怖いというのは、こういうことを言うのだろうか。
二人の体温が溶け合っていくのを感じて、どちらからともなくキスをした。
気づけば、ざくろの体をぎゅっと抱きしめて、「どこにも行かないで」とつぶやいていた。そう言ってしまってから、ずいぶんなワガママを言ってしまったな、と怖くなってざくろを見たら、とろけそうな笑顔をして、小さくうなづいてくれた。「そのつもり」
その言葉に背を押されたのかもしれない。鳴り始めた12時の鐘を聞きながら、意を決して、今世紀最大のワガママを口にする。
もう後戻りはできないけれど、上等だ。
「――ずっと一緒にいてよ。きみをちょうだい」