なまえをいれてね
氷の島と柘榴の実
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外はまだ寒い。
荒れ狂う吹雪の唸り声が柱をきしませる、すきまだらけの粗末な家で、羊の革の靴を履き、暖炉に火を灯して僕は震えていた。
今日も兄 は来ない。
たった一人の家族だというのに、ほとんど顔を見せることもなく、頭を撫でてくれることもない。
兄は自分の国のほうが大切で、他国――僕 のことは二の次三の次なのだ。
自分の国を守るために戦っているとか、離れられない仕事があるとか、僕のもとへ来るまでの航海が危険だとか。
来られない『事情』を考えれば考えるほど、けっきょく、結論は「僕のことを大切には思っていないからだ」という袋小路に行き着く。
(ああ、来ないのか)
そして、どこかで手放して、諦めた。首にかけていた重たいペンダントを外し、箱に放り投げる。
諦めたらとても『らく』になって、せいせいして、彼が兄だということすら忘れようとし、実際、忘れていった。
期待なんてしなければ苦しむこともないのだと、そのとき学んでしまった。
それから時が流れた。
芝生の屋根の小屋は、大地の下に無尽蔵に眠る地熱を循環させた、あたたかく美しい家に変わった。
底冷えのする粗末な床は、ふんわりとした絨毯の敷かれた清潔な床に。闇夜を照らすのが頼りない暖炉の火しかなかったときに比べ、洗練された照明器具がいつでも本を読むことを可能にした。恨み言をつぶやくことしかできなかった小さな僕は、宗主国から独立して、成長して一人の大人になりつつある。
そして隣には彼女がいた。いつのまにか僕の心の多くを占めるようになって、寒くて昏い日に一緒にいたいと思う相手になった。
「ねぇ、アイスくん、この箱はなあに?」
ある日、彼女が埃をかぶった箱を引っ張り出してきた。
これといって特徴の無い茶色の木製の箱で、大きさは両手に乗るほどでさほど大きなものではない。真鍮の金具とシンプルな鍵穴がついているが、鍵は見つからないらしく、開けることができない。
「何が入ってるのかなあ」
箱を振れば、ことんことん、硬質な何かが木とぶつかる音。中身は石か、金属製の何かだろうが、それ以上は判然としない。
埃を払ってみても、手がかりになるような文字や模様のたぐいは見られなかった。
「うーん、こんな箱持ってたっけ。思い出せないってことは、そんなに大切なものじゃなかったかも」
「そうかなあ」彼女は箱に耳を当てて、いとおしそうに木目を撫でる。「これもアイスくんの一部なんだよね」と言いながら。
「やめて、なんか恥ずかしい」
国土や記憶のことを僕の一部、と言われるとどうにもむずがゆい。
彼女も僕やほかのアイスランド人同様、七月や八月の天気のいい日に、市内の小高い丘の芝生に寝転んで日光浴をするのが好きだ。 夏のあいだしか享受できない貴重な日差しを貯めておこうという気概で、快晴の天気予報を知れば出かけていく。
「ふふふ、日差しがアイスくんの目のあったかさで、芝生のちくちくがアイスくんのうぶ毛だな~って」
そう言われた時は本当に意味がわからなかったし、若干引いた。
だけど、いつも僕の期待よりも斜め上を行って、全身で僕を受け止めようとしている彼女のことは、嫌いじゃなくて、見ていると胸に黄色のきんぽうげの花が咲いたような気分になる。ふわふわ、というか、ソワソワ、というか。
「やっぱり中身は大切なものだと思うよ、わたし」
「えぇ……開けてみたい?」
記憶をこじ開けられるのは、微妙な気分だ。国土が掘り返されて、新たな記憶が発掘されると、自分でも忘れていた過去の自分を直視させられて、やはり恥ずかしい。
「アイスくんってさあ、千年は生きてるんだよねえ」しみじみと、わかりきったようなことを言う彼女。「その中には大切な記憶がたくさんあって、多すぎて埋もれてるのかもしれないじゃない」
「……つらい記憶もたくさんあったよ」
例えば、兄と名乗る人物をあてどなく待ち続ける寒い夜とか。島中に病気が流行した悪夢のような時代とか。火山が噴火し、空は閉ざされ、飢餓で周りの人間がバタバタ死んでいくのを見なきゃいけなかったときとか。いや、冗談じゃなく本当に思い出したくないことばかりだ。
「……そうね、だけど」
彼女はわかってるから、と僕の耳元でささやいて、薄くほほえむ。
箱を机に置いて、どこかへ行ったかと思えば、工具箱からハンマーを取ってきたらしい。
ためらいもなく振り下ろしたら、あっけなく箱の蓋は壊れた。
「あ……これ」
中に入っていたのは、兄が僕にくれた――いつかのお揃いの――ペンダントだった。
銀はくすみ、紐は千切れ、ぼろぼろだったけど、確かにそうだ。
「ねえ、大切なものほど、閉じ込めて忘れてしまうとは思わない?」
「たとえば」
「たとえば、信じる気持ちとか」
「……陳腐だね」
陳腐な台詞だけれど、悪くないかもしれない。
捨てたのではなくて、ずっと僕の中にあったのか、これは。
忘れていただけで。
僕は彼女のことをとても『大切』に思っているからこそ、いつか、しまい込んで忘れてしまうかもしれない。
たとえば、いつか来る別離のあとに、楽しかった大切な思い出をすべて孤独の箱に隠してしまうかもしれない、そう彼女は言いたかったのかも。
ぎゅっと抱きついてきて、「わかった?」と確認するように言って、頬をすりよせてきた。
「……うん、わかった」
「いいこね、アイスくん」
触れられているところから、じんわりと熱が生まれてめぐっていく。
彼女のくれたあたたかさが、この国に降り注いで日差しになっていくような、そんな気がした。
「……もう二度と、手放したりしないから。安心して」
荒れ狂う吹雪の唸り声が柱をきしませる、すきまだらけの粗末な家で、羊の革の靴を履き、暖炉に火を灯して僕は震えていた。
今日も
たった一人の家族だというのに、ほとんど顔を見せることもなく、頭を撫でてくれることもない。
兄は自分の国のほうが大切で、他国――
自分の国を守るために戦っているとか、離れられない仕事があるとか、僕のもとへ来るまでの航海が危険だとか。
来られない『事情』を考えれば考えるほど、けっきょく、結論は「僕のことを大切には思っていないからだ」という袋小路に行き着く。
(ああ、来ないのか)
そして、どこかで手放して、諦めた。首にかけていた重たいペンダントを外し、箱に放り投げる。
諦めたらとても『らく』になって、せいせいして、彼が兄だということすら忘れようとし、実際、忘れていった。
期待なんてしなければ苦しむこともないのだと、そのとき学んでしまった。
それから時が流れた。
芝生の屋根の小屋は、大地の下に無尽蔵に眠る地熱を循環させた、あたたかく美しい家に変わった。
底冷えのする粗末な床は、ふんわりとした絨毯の敷かれた清潔な床に。闇夜を照らすのが頼りない暖炉の火しかなかったときに比べ、洗練された照明器具がいつでも本を読むことを可能にした。恨み言をつぶやくことしかできなかった小さな僕は、宗主国から独立して、成長して一人の大人になりつつある。
そして隣には彼女がいた。いつのまにか僕の心の多くを占めるようになって、寒くて昏い日に一緒にいたいと思う相手になった。
「ねぇ、アイスくん、この箱はなあに?」
ある日、彼女が埃をかぶった箱を引っ張り出してきた。
これといって特徴の無い茶色の木製の箱で、大きさは両手に乗るほどでさほど大きなものではない。真鍮の金具とシンプルな鍵穴がついているが、鍵は見つからないらしく、開けることができない。
「何が入ってるのかなあ」
箱を振れば、ことんことん、硬質な何かが木とぶつかる音。中身は石か、金属製の何かだろうが、それ以上は判然としない。
埃を払ってみても、手がかりになるような文字や模様のたぐいは見られなかった。
「うーん、こんな箱持ってたっけ。思い出せないってことは、そんなに大切なものじゃなかったかも」
「そうかなあ」彼女は箱に耳を当てて、いとおしそうに木目を撫でる。「これもアイスくんの一部なんだよね」と言いながら。
「やめて、なんか恥ずかしい」
国土や記憶のことを僕の一部、と言われるとどうにもむずがゆい。
彼女も僕やほかのアイスランド人同様、七月や八月の天気のいい日に、市内の小高い丘の芝生に寝転んで日光浴をするのが好きだ。 夏のあいだしか享受できない貴重な日差しを貯めておこうという気概で、快晴の天気予報を知れば出かけていく。
「ふふふ、日差しがアイスくんの目のあったかさで、芝生のちくちくがアイスくんのうぶ毛だな~って」
そう言われた時は本当に意味がわからなかったし、若干引いた。
だけど、いつも僕の期待よりも斜め上を行って、全身で僕を受け止めようとしている彼女のことは、嫌いじゃなくて、見ていると胸に黄色のきんぽうげの花が咲いたような気分になる。ふわふわ、というか、ソワソワ、というか。
「やっぱり中身は大切なものだと思うよ、わたし」
「えぇ……開けてみたい?」
記憶をこじ開けられるのは、微妙な気分だ。国土が掘り返されて、新たな記憶が発掘されると、自分でも忘れていた過去の自分を直視させられて、やはり恥ずかしい。
「アイスくんってさあ、千年は生きてるんだよねえ」しみじみと、わかりきったようなことを言う彼女。「その中には大切な記憶がたくさんあって、多すぎて埋もれてるのかもしれないじゃない」
「……つらい記憶もたくさんあったよ」
例えば、兄と名乗る人物をあてどなく待ち続ける寒い夜とか。島中に病気が流行した悪夢のような時代とか。火山が噴火し、空は閉ざされ、飢餓で周りの人間がバタバタ死んでいくのを見なきゃいけなかったときとか。いや、冗談じゃなく本当に思い出したくないことばかりだ。
「……そうね、だけど」
彼女はわかってるから、と僕の耳元でささやいて、薄くほほえむ。
箱を机に置いて、どこかへ行ったかと思えば、工具箱からハンマーを取ってきたらしい。
ためらいもなく振り下ろしたら、あっけなく箱の蓋は壊れた。
「あ……これ」
中に入っていたのは、兄が僕にくれた――いつかのお揃いの――ペンダントだった。
銀はくすみ、紐は千切れ、ぼろぼろだったけど、確かにそうだ。
「ねえ、大切なものほど、閉じ込めて忘れてしまうとは思わない?」
「たとえば」
「たとえば、信じる気持ちとか」
「……陳腐だね」
陳腐な台詞だけれど、悪くないかもしれない。
捨てたのではなくて、ずっと僕の中にあったのか、これは。
忘れていただけで。
僕は彼女のことをとても『大切』に思っているからこそ、いつか、しまい込んで忘れてしまうかもしれない。
たとえば、いつか来る別離のあとに、楽しかった大切な思い出をすべて孤独の箱に隠してしまうかもしれない、そう彼女は言いたかったのかも。
ぎゅっと抱きついてきて、「わかった?」と確認するように言って、頬をすりよせてきた。
「……うん、わかった」
「いいこね、アイスくん」
触れられているところから、じんわりと熱が生まれてめぐっていく。
彼女のくれたあたたかさが、この国に降り注いで日差しになっていくような、そんな気がした。
「……もう二度と、手放したりしないから。安心して」