なまえをいれてね
氷の島と柘榴の実
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「お寿司でも食べに行きませんか」
僕達、北欧の5人が菊さんからそんなメールを受け取ったのが一週間前のことだ。
スーさん、ターさん、ノル君、アイス君、それから僕・フィンランドを出迎えたのは菊さんと、付き添いの女の子だった。
「は、はじめまして、ざくろといいます……」
その挨拶はなぜかぎこちない。うまく笑えていないようで、明らかに彼女も戸惑っている様子がうかがえた。「他の皆さんもいらっしゃるなんて言ってなかったじゃない」と菊さんに小さく抗議しているけれども、菊さんは聞こえないふりをして、彼女は職場見学のようなものです、と分かるような分からないような説明をしてくれた。
「お寿司屋さんの職場見学?」
「あ、いえ。私の仕事を見ててもらおうと思ったんです。彼女は卒業したら私の秘書として働く予定ですので」
おや。
彼の仕事はたぶん観光案内ではないはずだし、少なくともメインではない。なぜざくろさんを連れてきたんだろう? 何より、連れてこられたざくろさん自身が僕達が来ることを知らなかっただなんておかしいじゃないか。
違和感を感じて菊さんの目をじっと見ると、なぜだか彼の真っ黒い瞳の奥に冷たいものがあるのを感じた。
「それにしてもおめぇ、ずいぶんちっちぇえっぺなあ」
ターさんがざくろさんの頭をぽんぽんと叩いて、ノル君に脇腹をつつかれるがやめようとしない。そのノル君にも穴が空くんじゃないかというほどじろじろ見つめられていて、居心地悪そうにしているざくろさんが助けを求めて視線をさまよわせている。だいたいいつもだったらここで止めに入るのはアイス君なのだけれど、彼はなぜか全力で目線をそらし続けていて、しかたなくスーさんが仲裁に入る。
確かに、ターさんの言うとおり菊さんよりも背の低い女の子は子供にしか見えないが、こっそり年を聞くと成人しているらしい。東洋の神秘だ。スーさんも表情には出さないけど驚いているに違いない(なんとなく表情がいつもよりこわばっている。)
「北欧の皆さんは賑やかですねえ」
「あ、あはは……」
店の前で大騒ぎをしたせいか、通りすがりの人々からあいつら何してんだ、という視線を感じる。
賑やか、は嫌味で言われているのかもしれないと思うと胃が痛んだ。
お寿司屋さんに入ると、店内をぐるりと一周しているレーンをお皿に乗った寿司がかたかた音をたてながらめぐっていた。僕のとこの携帯電話投げ競争やザリガニ祭が奇妙だ奇妙だとよく言われるけれども、こんなお店が祭りじゃなくて日常だというのもなかなか奇妙な光景じゃないだろうか。
店中に、星を模した形の飾りと紙のくくりつけられた植物がたくさん飾られていた。理由を聞くと菊さんは、そろそろ七夕が近いですからね、と教えてくれる。
「天の川に隔てられた織姫と彦星が7月7日の晩にだけ逢えるから、そのお祝いなんだよ」
ざくろさんは誰か思う人がいるのか、頬を染めながら七夕の話をしてくれた。若い女の子のこういう淡い恋心に触れるのは僕も久しぶりで、甘酸っぱい気分にさせられる。
僕のところの民話にも、星にまつわる恋物語があったことを思い出した。
あるところにズラミスとサラミという仲の良い夫婦がいたが、二人は死後それぞれ星になり、離れ離れになってしまった。再び逢いたいと願った二人は少しずつ少しずつ星屑を集め、恋しい人に届くようにと願って、積み上げ続けた。
とうとう、千年をかけて、空に大きな橋ができあがった。これが現在の天の川だとされている。
こうして夫婦は橋を渡って再会し、仲睦まじく暮らすようになった……という話だ。
「どうです? 素敵なお話でしょう」
「……フィン、ロマンチックすぎんべ」
ノル君は恋物語に興味はないのか、いつもにまして気のない返事だ。僕の甘酸っぱい気分を返してほしい。
「おーい! こっちだっぺよー」
席がちょうど空いて、ターさんは真っ先にレーンに一番近い側の座席を占め、スーさんと僕はその隣に座る。ボックス席の向かい側は、アイス君、ざくろさん、ノル君、そして菊さんの順となった。一番外側の菊さんがお冷を取りに行き、僕たちはざくろさんからお皿の種類によって料金が違うなどの説明を受ける。 「まあ、今日は菊さんのおごりだけど」そう言われると、逆にアイス君なんかは遠慮してしまいそうだなあ、と思う。
「皆さん、回転寿司って初めてなんですよね」
「はい、僕、初めて来ました!スーさんはどうですか?」
「……ん」
「スヴェーリエ、ん、じゃ分かんねっぺよ! 俺も初めてだっぺ! いやあ驚きだなー!」
「俺も。したっけ回らねぇ寿司に行ったことなら何度もあんべ」
さすがノル君はお金持ちだ。うらやましい。
ターさんは落ち着きなく店内を見回したり、メニューを手に取ったりしている。テーブルの端の方に黒いボタンのついた蛇口が据え付けられているのに目を留めて、「手ぇ洗う蛇口がついてるなんて、便利だっぺな!」と嬉しそうに押そうとする。
「あっだめだよ、デンさん!」「ダン、危ない!」
そう、ざくろさんとアイスくんが警告を発したのが同時だった。ターさんは蛇口から勢いよく噴出してきた熱湯をすんでのところで回避し、熱湯は小さく空いた排水口に全部吸い込まれていった。どうも手を洗う用の蛇口ではなくて、お茶を淹れるためのものらしい。
「おお……危なかったっぺ! 教えてくれてありがとうな」
「あんこはそんまま熱湯浴びればえがっだんだ。そういやアイス、回転寿司来たことあったんけ?」
「……うん、まあ……どうでもいいでしょ、そんなこと」
アイス君は言葉を濁す。ちらりとざくろさんと顔を見合わせて、すぐ目を背けた。なぜだかアイス君がざくろさんを避けるように、少しだけ間を空けて座っていることに気付く。シャイなアイス君は女の子の隣にいるのが恥ずかしいのかもしれない。
菊さんが7人分の水をお盆に乗せて戻ってきて、僕達に配ってくれた。蛇口の話をすると、菊さんはおかしそうに、ふんわりとした笑みを浮かべる。やはりさっき見た瞳の奥の冷たい何かは僕の見間違いだったのだろうか……。
「おや、やはりデンマークさんが間違えました?」
「……ん。おっちょこちょいだからなぃ」
「ひでぇよスヴェーリエ!」
「ふふふ。旅の恥は掻き捨て、ですよ。さあ、お好きな皿を取って、どうぞ召し上がれ」
店は奇妙だけれども、お寿司はどれも美味しかった。しかもお寿司だけじゃなくてパフェやプリンまで流れてくるのを見て、甘いものに目がない僕はむしろそっちの方ばかり食べてしまう。
スイーツを全力で楽しみながら、手づかみで豪快に食べるターさんと、食べ慣れていてお箸で上品に食べるノル君との違いが出て面白いなあ、と思って眺める。アイス君はお箸は不慣れみたいで、ざくろさんがその様子を気にしてそわそわしているが、手を出せずにいるようだ。二人とも心なしか頬を赤くしていて可愛らしい。そんな二人をノル君がによによしながら見ている。
スーさんは夏の風物詩であるザリガニと味が似ているのが気に入ったのか、ひたすらエビの皿を取っていた。しかし、無表情でエビをむしゃむしゃ食べるスーさんが何か物足りなさそうにしている気がする……。口には出さなくてもしょんぼりした気持ちを訴えているのが僕には分かる。
アルコールだ。
そうだ、何か足りないと思ってたけど、お酒がないと盛り上がりに欠けるじゃないか!
「菊さん、すみません……この店、お酒はないんですか?」
「ああ、ありますよ。そうですね、もう頼んでもいいでしょうね」
「おっ! やっぱ酒がねぇとな! よーし、飲むっぺよー!!」
ターさんがビールを、スーさんとノルさんが日本酒を注文し、酒盛りが始まる。「飲むのもいいけど、周りの迷惑にならないようにね」と、アイス君はいつもどおり僕らが飲んでいる時には素面のままだ。
ちょっといいですか、と菊さんがトイレに立つ。僕もちょうど行きたい気分だったところなので、同行した。用を済ませ、洗面台で二人並んで手を洗っていると、菊さんが僕に問いかける。
「何かお気づきになったことはありませんか、フィンランドさん」
「ええ……気づいてますよ、ノル君が一番高い金皿ばかり取ってるということを」
「違います」
おごりだからといってあんまり高いのばっかり取らないようノル君にそれとなく注意してくれ、と言われるのかと思ったが、違ったらしい。
「え、じゃあ、スーさんがターさんの取ったエビを時々こっそり自分のものにしてることですか」
「それも違います」
ううむ、どういうことだろう。勘の悪い僕に、菊さんはため息を吐きながら答えをばらしてくれた。
「ざくろさんのことですよ」
ざくろさんのことを聞かれるとは予想していなくて、「はあ」と妙な声が出る。一生懸命だし可愛い子だなと思う、という正直な感想を述べることしかできなかった。
「ええ、その通りですよね。あれはきっといい嫁になります。織姫とは違って真面目ですから」
彼の思惑が解らず、目を直接見るのが怖くて、洗面台の鏡に映った顔を盗み見る。いつもどおりの薄く微笑んだ顔に、やはり、どこかしら冷たいものを感じてならない。
「なぜ貴方がた5人をわざわざ私のポケットマネーを出してまで食事に誘ったのか、お教えしましょうか?」
あまり聞きたくないような気がするなあ、とは思ったけれども、ひやりとした空気に身体がすくんで逃げることができない。スーさんの威圧感といい勝負だけど、こちらの方が気心が知れない分、背中に走る焦燥感は比べ物にならない。
ざくろさんは、誰かを慕って日本を出ようとしている。長い付き合いである菊さんにも決して相手を教えることはなかったが、ざくろさんの両親から――かれらも愛娘をみすみす奪われたくはないらしい――、それは北欧の国のどこかだ、という情報を得た。
それで一計を案じて、僕らの中からその相手をあぶり出そうとし、実際その目論見はうまくいった。お酒を最初から提供しなかったのも、僕らを歓迎することではなく観察することこそが目的だったからだ。
静かな敵意に圧倒されて、「はあ」という声しか出ない。
僕はたぶんこの年齢不詳の国を見誤っていた。たった一人の人間を手放したくないだけでわざわざここまでするだなんて、普段の泰然とした態度からは想像もつかない。
「つまり菊さんは、大事なざくろさんを奪っていく盗人が僕らの中にいると言いたいんですね」
「そうですね。私は、二人の仲を応援はしませんよ、相手は盗人ですからね」
それは誰ですか。
かたりと扉の動く音がして、さっきまで空間に満ちていた冷気の呪縛が緩んだ気配がする。菊さんは微笑んだまま、僕の方へ指を向けた。
僕は後ろを振り返る。菊さんの指は、洗面所の扉を開けてやってきた人物に向けられていた。
「……あのさ、二人ともいつまでトイレしてんの」
そこにいたのは、なかなか戻ってこない僕達を呼びに来たアイス君だった。
確かに、盗人といえばそう――簒奪の限りを尽くしたヴァイキングの末裔、美しい氷の国の少年。オーロラの光を目に宿した彦星だ。
そうか、と僕は納得する。なんとなくざくろさんとアイス君が気まずそうだったのは、付き合っているかどうかは別として、お互いに想い合っていることを僕達に隠していたからだ。もしかしたらデートで一緒に回転寿司に来たこともあったのかもしれない。不自然に隠そうとしすぎて菊さんにはバレバレだったみたいだけど。
「いいえ、何でもありませんよ。戻りましょうか」
先ほどまでの殺気が嘘だったみたいに菊さんは穏やかな雰囲気に戻っていた。目をにっこりと細め、瞳の奥の冷たさを押し隠していることは僕にもわかったが、アイス君は気づいているのだろうか。
なぜ、菊さんはここまでしてざくろさんを渡したがらないのだろうか。
星が星を想うのならまだ分かる。でも星が人間に恋するなんてありえるだろうか、と思っていた。
「おかえりなさい、遅かったのね」
けれど、席に戻って分かったような気がした。
だって、ざくろさんったらアイス君を見て、あんなに嬉しそうに笑うなんて。あれじゃあ、ざくろさんを幼い頃から知っているという菊さんからしたら、やきもちを焼くのもしかたない。夜空に輝く星も、嫉妬という理不尽な黒い重力には決して逆らえない。
宇宙も僕達の心もいまだ現代科学では説明のつかない何かで溢れている。
(……いいなあ、恋するって)
アイス君とざくろさんを観測していて、そう思う。つかず離れず、近づきそうで近づけない双子星のような距離で、会話もせず時折相手を見つめてはすぐに目をそらしている。
隔てられた距離を少しずつきらめく星で埋めていくような、もどかしい恋もいいけれど。
これは僕の個人的な意見だが、ヴァイキングならヴァイキングらしくさっさと奪ってしまえ、なんて思う。
だって、人間に恋した星のおはなしなら、そっちの方がきっと面白いだろうから。
僕達、北欧の5人が菊さんからそんなメールを受け取ったのが一週間前のことだ。
スーさん、ターさん、ノル君、アイス君、それから僕・フィンランドを出迎えたのは菊さんと、付き添いの女の子だった。
「は、はじめまして、ざくろといいます……」
その挨拶はなぜかぎこちない。うまく笑えていないようで、明らかに彼女も戸惑っている様子がうかがえた。「他の皆さんもいらっしゃるなんて言ってなかったじゃない」と菊さんに小さく抗議しているけれども、菊さんは聞こえないふりをして、彼女は職場見学のようなものです、と分かるような分からないような説明をしてくれた。
「お寿司屋さんの職場見学?」
「あ、いえ。私の仕事を見ててもらおうと思ったんです。彼女は卒業したら私の秘書として働く予定ですので」
おや。
彼の仕事はたぶん観光案内ではないはずだし、少なくともメインではない。なぜざくろさんを連れてきたんだろう? 何より、連れてこられたざくろさん自身が僕達が来ることを知らなかっただなんておかしいじゃないか。
違和感を感じて菊さんの目をじっと見ると、なぜだか彼の真っ黒い瞳の奥に冷たいものがあるのを感じた。
「それにしてもおめぇ、ずいぶんちっちぇえっぺなあ」
ターさんがざくろさんの頭をぽんぽんと叩いて、ノル君に脇腹をつつかれるがやめようとしない。そのノル君にも穴が空くんじゃないかというほどじろじろ見つめられていて、居心地悪そうにしているざくろさんが助けを求めて視線をさまよわせている。だいたいいつもだったらここで止めに入るのはアイス君なのだけれど、彼はなぜか全力で目線をそらし続けていて、しかたなくスーさんが仲裁に入る。
確かに、ターさんの言うとおり菊さんよりも背の低い女の子は子供にしか見えないが、こっそり年を聞くと成人しているらしい。東洋の神秘だ。スーさんも表情には出さないけど驚いているに違いない(なんとなく表情がいつもよりこわばっている。)
「北欧の皆さんは賑やかですねえ」
「あ、あはは……」
店の前で大騒ぎをしたせいか、通りすがりの人々からあいつら何してんだ、という視線を感じる。
賑やか、は嫌味で言われているのかもしれないと思うと胃が痛んだ。
お寿司屋さんに入ると、店内をぐるりと一周しているレーンをお皿に乗った寿司がかたかた音をたてながらめぐっていた。僕のとこの携帯電話投げ競争やザリガニ祭が奇妙だ奇妙だとよく言われるけれども、こんなお店が祭りじゃなくて日常だというのもなかなか奇妙な光景じゃないだろうか。
店中に、星を模した形の飾りと紙のくくりつけられた植物がたくさん飾られていた。理由を聞くと菊さんは、そろそろ七夕が近いですからね、と教えてくれる。
「天の川に隔てられた織姫と彦星が7月7日の晩にだけ逢えるから、そのお祝いなんだよ」
ざくろさんは誰か思う人がいるのか、頬を染めながら七夕の話をしてくれた。若い女の子のこういう淡い恋心に触れるのは僕も久しぶりで、甘酸っぱい気分にさせられる。
僕のところの民話にも、星にまつわる恋物語があったことを思い出した。
あるところにズラミスとサラミという仲の良い夫婦がいたが、二人は死後それぞれ星になり、離れ離れになってしまった。再び逢いたいと願った二人は少しずつ少しずつ星屑を集め、恋しい人に届くようにと願って、積み上げ続けた。
とうとう、千年をかけて、空に大きな橋ができあがった。これが現在の天の川だとされている。
こうして夫婦は橋を渡って再会し、仲睦まじく暮らすようになった……という話だ。
「どうです? 素敵なお話でしょう」
「……フィン、ロマンチックすぎんべ」
ノル君は恋物語に興味はないのか、いつもにまして気のない返事だ。僕の甘酸っぱい気分を返してほしい。
「おーい! こっちだっぺよー」
席がちょうど空いて、ターさんは真っ先にレーンに一番近い側の座席を占め、スーさんと僕はその隣に座る。ボックス席の向かい側は、アイス君、ざくろさん、ノル君、そして菊さんの順となった。一番外側の菊さんがお冷を取りに行き、僕たちはざくろさんからお皿の種類によって料金が違うなどの説明を受ける。 「まあ、今日は菊さんのおごりだけど」そう言われると、逆にアイス君なんかは遠慮してしまいそうだなあ、と思う。
「皆さん、回転寿司って初めてなんですよね」
「はい、僕、初めて来ました!スーさんはどうですか?」
「……ん」
「スヴェーリエ、ん、じゃ分かんねっぺよ! 俺も初めてだっぺ! いやあ驚きだなー!」
「俺も。したっけ回らねぇ寿司に行ったことなら何度もあんべ」
さすがノル君はお金持ちだ。うらやましい。
ターさんは落ち着きなく店内を見回したり、メニューを手に取ったりしている。テーブルの端の方に黒いボタンのついた蛇口が据え付けられているのに目を留めて、「手ぇ洗う蛇口がついてるなんて、便利だっぺな!」と嬉しそうに押そうとする。
「あっだめだよ、デンさん!」「ダン、危ない!」
そう、ざくろさんとアイスくんが警告を発したのが同時だった。ターさんは蛇口から勢いよく噴出してきた熱湯をすんでのところで回避し、熱湯は小さく空いた排水口に全部吸い込まれていった。どうも手を洗う用の蛇口ではなくて、お茶を淹れるためのものらしい。
「おお……危なかったっぺ! 教えてくれてありがとうな」
「あんこはそんまま熱湯浴びればえがっだんだ。そういやアイス、回転寿司来たことあったんけ?」
「……うん、まあ……どうでもいいでしょ、そんなこと」
アイス君は言葉を濁す。ちらりとざくろさんと顔を見合わせて、すぐ目を背けた。なぜだかアイス君がざくろさんを避けるように、少しだけ間を空けて座っていることに気付く。シャイなアイス君は女の子の隣にいるのが恥ずかしいのかもしれない。
菊さんが7人分の水をお盆に乗せて戻ってきて、僕達に配ってくれた。蛇口の話をすると、菊さんはおかしそうに、ふんわりとした笑みを浮かべる。やはりさっき見た瞳の奥の冷たい何かは僕の見間違いだったのだろうか……。
「おや、やはりデンマークさんが間違えました?」
「……ん。おっちょこちょいだからなぃ」
「ひでぇよスヴェーリエ!」
「ふふふ。旅の恥は掻き捨て、ですよ。さあ、お好きな皿を取って、どうぞ召し上がれ」
店は奇妙だけれども、お寿司はどれも美味しかった。しかもお寿司だけじゃなくてパフェやプリンまで流れてくるのを見て、甘いものに目がない僕はむしろそっちの方ばかり食べてしまう。
スイーツを全力で楽しみながら、手づかみで豪快に食べるターさんと、食べ慣れていてお箸で上品に食べるノル君との違いが出て面白いなあ、と思って眺める。アイス君はお箸は不慣れみたいで、ざくろさんがその様子を気にしてそわそわしているが、手を出せずにいるようだ。二人とも心なしか頬を赤くしていて可愛らしい。そんな二人をノル君がによによしながら見ている。
スーさんは夏の風物詩であるザリガニと味が似ているのが気に入ったのか、ひたすらエビの皿を取っていた。しかし、無表情でエビをむしゃむしゃ食べるスーさんが何か物足りなさそうにしている気がする……。口には出さなくてもしょんぼりした気持ちを訴えているのが僕には分かる。
アルコールだ。
そうだ、何か足りないと思ってたけど、お酒がないと盛り上がりに欠けるじゃないか!
「菊さん、すみません……この店、お酒はないんですか?」
「ああ、ありますよ。そうですね、もう頼んでもいいでしょうね」
「おっ! やっぱ酒がねぇとな! よーし、飲むっぺよー!!」
ターさんがビールを、スーさんとノルさんが日本酒を注文し、酒盛りが始まる。「飲むのもいいけど、周りの迷惑にならないようにね」と、アイス君はいつもどおり僕らが飲んでいる時には素面のままだ。
ちょっといいですか、と菊さんがトイレに立つ。僕もちょうど行きたい気分だったところなので、同行した。用を済ませ、洗面台で二人並んで手を洗っていると、菊さんが僕に問いかける。
「何かお気づきになったことはありませんか、フィンランドさん」
「ええ……気づいてますよ、ノル君が一番高い金皿ばかり取ってるということを」
「違います」
おごりだからといってあんまり高いのばっかり取らないようノル君にそれとなく注意してくれ、と言われるのかと思ったが、違ったらしい。
「え、じゃあ、スーさんがターさんの取ったエビを時々こっそり自分のものにしてることですか」
「それも違います」
ううむ、どういうことだろう。勘の悪い僕に、菊さんはため息を吐きながら答えをばらしてくれた。
「ざくろさんのことですよ」
ざくろさんのことを聞かれるとは予想していなくて、「はあ」と妙な声が出る。一生懸命だし可愛い子だなと思う、という正直な感想を述べることしかできなかった。
「ええ、その通りですよね。あれはきっといい嫁になります。織姫とは違って真面目ですから」
彼の思惑が解らず、目を直接見るのが怖くて、洗面台の鏡に映った顔を盗み見る。いつもどおりの薄く微笑んだ顔に、やはり、どこかしら冷たいものを感じてならない。
「なぜ貴方がた5人をわざわざ私のポケットマネーを出してまで食事に誘ったのか、お教えしましょうか?」
あまり聞きたくないような気がするなあ、とは思ったけれども、ひやりとした空気に身体がすくんで逃げることができない。スーさんの威圧感といい勝負だけど、こちらの方が気心が知れない分、背中に走る焦燥感は比べ物にならない。
ざくろさんは、誰かを慕って日本を出ようとしている。長い付き合いである菊さんにも決して相手を教えることはなかったが、ざくろさんの両親から――かれらも愛娘をみすみす奪われたくはないらしい――、それは北欧の国のどこかだ、という情報を得た。
それで一計を案じて、僕らの中からその相手をあぶり出そうとし、実際その目論見はうまくいった。お酒を最初から提供しなかったのも、僕らを歓迎することではなく観察することこそが目的だったからだ。
静かな敵意に圧倒されて、「はあ」という声しか出ない。
僕はたぶんこの年齢不詳の国を見誤っていた。たった一人の人間を手放したくないだけでわざわざここまでするだなんて、普段の泰然とした態度からは想像もつかない。
「つまり菊さんは、大事なざくろさんを奪っていく盗人が僕らの中にいると言いたいんですね」
「そうですね。私は、二人の仲を応援はしませんよ、相手は盗人ですからね」
それは誰ですか。
かたりと扉の動く音がして、さっきまで空間に満ちていた冷気の呪縛が緩んだ気配がする。菊さんは微笑んだまま、僕の方へ指を向けた。
僕は後ろを振り返る。菊さんの指は、洗面所の扉を開けてやってきた人物に向けられていた。
「……あのさ、二人ともいつまでトイレしてんの」
そこにいたのは、なかなか戻ってこない僕達を呼びに来たアイス君だった。
確かに、盗人といえばそう――簒奪の限りを尽くしたヴァイキングの末裔、美しい氷の国の少年。オーロラの光を目に宿した彦星だ。
そうか、と僕は納得する。なんとなくざくろさんとアイス君が気まずそうだったのは、付き合っているかどうかは別として、お互いに想い合っていることを僕達に隠していたからだ。もしかしたらデートで一緒に回転寿司に来たこともあったのかもしれない。不自然に隠そうとしすぎて菊さんにはバレバレだったみたいだけど。
「いいえ、何でもありませんよ。戻りましょうか」
先ほどまでの殺気が嘘だったみたいに菊さんは穏やかな雰囲気に戻っていた。目をにっこりと細め、瞳の奥の冷たさを押し隠していることは僕にもわかったが、アイス君は気づいているのだろうか。
なぜ、菊さんはここまでしてざくろさんを渡したがらないのだろうか。
星が星を想うのならまだ分かる。でも星が人間に恋するなんてありえるだろうか、と思っていた。
「おかえりなさい、遅かったのね」
けれど、席に戻って分かったような気がした。
だって、ざくろさんったらアイス君を見て、あんなに嬉しそうに笑うなんて。あれじゃあ、ざくろさんを幼い頃から知っているという菊さんからしたら、やきもちを焼くのもしかたない。夜空に輝く星も、嫉妬という理不尽な黒い重力には決して逆らえない。
宇宙も僕達の心もいまだ現代科学では説明のつかない何かで溢れている。
(……いいなあ、恋するって)
アイス君とざくろさんを観測していて、そう思う。つかず離れず、近づきそうで近づけない双子星のような距離で、会話もせず時折相手を見つめてはすぐに目をそらしている。
隔てられた距離を少しずつきらめく星で埋めていくような、もどかしい恋もいいけれど。
これは僕の個人的な意見だが、ヴァイキングならヴァイキングらしくさっさと奪ってしまえ、なんて思う。
だって、人間に恋した星のおはなしなら、そっちの方がきっと面白いだろうから。