なまえをいれてね
氷の島と柘榴の実
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「オトナってずるい」
縁側に寝転んで、私の部屋から持ち出した漫画をめくりつつ、ざくろさんはそう愚痴をこぼした。投げ出された日焼けした細い脚がまぶしく、まったく小学生は最高ですね、というただれた言葉が暑さでゆるんだ私の口から出る。涼しげな風が風鈴を揺らし、彼女の傍らに置かれた麦茶のグラスに光がきらめいていた。
二軒隣の家に住んでいる彼女はよくこうして私の家に遊びに来る。たまには学校の友達と遊んだらどうですか、と以前に聞いたけれども、そのことには触れられたくないのか返答はなかった。
「ねえ菊さん、オトナってずるいよねえ」
「まあ、そうかもしれませんね」
「だって、こんな暑くって教室は扇風機だけなのに、職員室はクーラーついてるんだもん」
「おやおや、それはそれは」
いかにも小学生らしい愚痴に私は苦笑する。教師も教師でクーラーのついていない教室で授業するのは大変なのだろうな、ということは想像がつくが、彼女はその点についてはまだ思い至らないらしい。小学生に見えている光景は、教室の中と、せいぜい窓の外に広がるグラウンドぐらいしかないはずだ。オトナの苦労をまだまだ何も知らない、純粋な子供の目に違いない。
「お母さんはわたしに嘘をつかないようにって言うくせに、お母さん自身は嘘つくし」
「それはいけませんね」
「わたしの背が低いからって、幼稚園生だって言いなさいって。美術館とか、幼稚園生だと無料だから」
「まあ確かに、ざくろさんは幼稚園生に見えなくもないですが」
「わたし、もう9才なのに」
もう9才、と誇らしげに言う彼女に、私の実年齢を教えたらどんな顔をするだろう。「まあ、嘘はいけませんよね」と当り障りのない返事をする私も、本当はいろんな嘘で身を固めて日々を過ごしているずるいオトナなのだけれども。
……それから数年が経ち、ざくろさんも学校の友達と遊ぶようになったのか、私の家を頻繁には訪れなくなった。
ごくたまに、両親とケンカしただとかテストの点が悪くて家に帰りたくないだとかいう理由で来ることはあっても、以前のように気軽には訪れてはくれない。大抵、浮かない顔だったり、泣きべそをかいた顔をしてぽつんと玄関に立っている。
それは今も同じだった。夏が終わり、秋風が吹く頃。私が仕事を終えて家に帰ると、彼女が立っているのが見えた。手には何かのプリントを握りしめていて、その紙に寄った皺と同じぐらい、眉間に皺を寄せて深刻そうな顔をしている。
「おや、ここで待っていたんですか? もう寒いですから、中へどうぞ」
「……はい」
温かいお茶を淹れたが、彼女はその水面をじいっと見つめたまま飲もうともしない。何か重大なことを告白する決意の準備をしているみたいに息を吸っては吐くことを繰り返している。やがて心が決まったのか顔を上げ、持っていたプリントの皺を広げて机の上に置いた。『進路希望調査票』という文字が私の目に飛び込んでくる。
「わたし、日本を出ようと思うの」
私の国を出る? あまりに予想外の言葉に、思わず言葉を失う。
「……なぜです」
「行きたい国があるの」
「それは、どこですか」
その問にはざくろさんは答えてはくれなかった。彼女は答えたくないことに関しては決して答えないということは昔から変わらない。きっとそれ以上は聞いたところで無駄だろう。私の国より大切な場所があると? と聞けば、強い意志を秘めた目で見つめ返してくる。「もちろん」彼女の目の中に見える輝きが、本当にその国のことを愛しているのだと告げていた。
「バイトしてお金貯めて、この間の夏休みに行ってきたんだよ。絶対にこの国に住みたいって思った」
「しかし、旅行で行くのと住むのとでは違うでしょう?」
「英語だって勉強してだいぶ喋れるようになったよ。ずっと行きたいって思い続けてて、それは今も変わらない」
「……貴女のお母さんとお父さんは、何と」
その言葉を言った途端、ざくろさんの表情が歪む。
「海外なんて絶対に駄目だって、大反対されちゃった」
いわく、犯罪に巻き込まれたらどうするだとか、そんな夢が叶うはずがないだとか、今まで育ててやった恩を忘れるのかだとか、一人娘なんだから両親の老後の世話をしてくれないと困るだとか、さまざまな文句をつけてはざくろさんの進む道を塞ごうとしてくるのだという。
そのうちのいくつかは普通の両親が、普通に、本当に彼女を心配して言っていることだということは理解できた。けれども、それは私が第三者の視点をしているからそう見えているだけだ。まさに目の前の行く道を塞がれている彼女からすれば、両親は巨大な怪物にしか見えないだろう。
「ねえ菊さん、オトナってずるいよね」
「ええ、本当に」
「わたし、もう17歳よ。自分のことは自分で決めたいし、両親の人生とわたしの人生は、別物なのにね」
「……ええ、その通りですよね」
進路希望調査票の枠の中にはおさまらない夢。――それをどうして、この私に言おうと思い至ったのだろうかと、ふと疑問を抱いた。国である私に。
先ほど、その国に行きたいという意思を語っていたざくろさんの瞳の輝きは、強い憧れであると同時に、恋情でもあるのではないだろうか? 何より私は、空気を読むことには長けている自信がある。
「ざくろさん、もしかしたらなんですけれども、誰かを愛してはいませんか」
「誰かって」
「例えば、国である誰かを、です」
ざくろさんはさっと顔を紅くして、一瞬だけ、恋する乙女の表情を見せる。「……秘密」というその答えこそ、まさに私が彼女の気持ちを言い当てたことを示していた。
彼女はわたしから目をそらし、どこか遠くを見ていた。その方向に、彼女の愛する国があるのだろうか。硝子玉のようにすきとおった、私に向けられてはいない目を見ていると、彼女に愛されている誰かに対して嫌な感情が沸き起こってくる。私の国から、これほどまでに美しい宝石を奪おうとする盗人のように思えてならなかった。
私も彼女の両親と同じように、もう少しだけでもこの無垢な珠を手元に留めておきたくなったのかもしれない。一つ、頭の中で策謀を巡らした。「……ざくろさん。私にいい考えがあります」と切り出す。
「将来の進路を、秘書になることと書けばいいのです」
「だ、だって、わたしはこの国から出て――」
「私が貴女を雇うと言っているんです。貴女程の情熱があれば、省庁務めも容易いだろうことは、長年の付き合いで知っていますから」
きっと国際会議の場でざくろさんが愛している誰かに逢うこともできるだろう、それにいきなり海外に出ていくわけでもないから、ご両親もひとまずは納得させられる、と囁くと、彼女のこわばっていた顔もゆるむ。「大学への勉強も、私がなんなりと教えてさしあげますから」安心させるように頭を撫でる。私は嘘は言ってはいない、と自分に言い聞かせながら、本心が口から漏れ出ようとするのをおさえていた。
(……ああ、すみません、ざくろさん)
本当は、本当のことを言えば。私はざくろさんの恋が挫折することを期待している。もしそうなれば、おそらく私は労せずして貴女を手に入れることができるだろうから。そうでなくとも、仕事として貴女の時間を独占することはできる。
貴女の言うとおり、オトナってずるいものなんですよ。
縁側に寝転んで、私の部屋から持ち出した漫画をめくりつつ、ざくろさんはそう愚痴をこぼした。投げ出された日焼けした細い脚がまぶしく、まったく小学生は最高ですね、というただれた言葉が暑さでゆるんだ私の口から出る。涼しげな風が風鈴を揺らし、彼女の傍らに置かれた麦茶のグラスに光がきらめいていた。
二軒隣の家に住んでいる彼女はよくこうして私の家に遊びに来る。たまには学校の友達と遊んだらどうですか、と以前に聞いたけれども、そのことには触れられたくないのか返答はなかった。
「ねえ菊さん、オトナってずるいよねえ」
「まあ、そうかもしれませんね」
「だって、こんな暑くって教室は扇風機だけなのに、職員室はクーラーついてるんだもん」
「おやおや、それはそれは」
いかにも小学生らしい愚痴に私は苦笑する。教師も教師でクーラーのついていない教室で授業するのは大変なのだろうな、ということは想像がつくが、彼女はその点についてはまだ思い至らないらしい。小学生に見えている光景は、教室の中と、せいぜい窓の外に広がるグラウンドぐらいしかないはずだ。オトナの苦労をまだまだ何も知らない、純粋な子供の目に違いない。
「お母さんはわたしに嘘をつかないようにって言うくせに、お母さん自身は嘘つくし」
「それはいけませんね」
「わたしの背が低いからって、幼稚園生だって言いなさいって。美術館とか、幼稚園生だと無料だから」
「まあ確かに、ざくろさんは幼稚園生に見えなくもないですが」
「わたし、もう9才なのに」
もう9才、と誇らしげに言う彼女に、私の実年齢を教えたらどんな顔をするだろう。「まあ、嘘はいけませんよね」と当り障りのない返事をする私も、本当はいろんな嘘で身を固めて日々を過ごしているずるいオトナなのだけれども。
……それから数年が経ち、ざくろさんも学校の友達と遊ぶようになったのか、私の家を頻繁には訪れなくなった。
ごくたまに、両親とケンカしただとかテストの点が悪くて家に帰りたくないだとかいう理由で来ることはあっても、以前のように気軽には訪れてはくれない。大抵、浮かない顔だったり、泣きべそをかいた顔をしてぽつんと玄関に立っている。
それは今も同じだった。夏が終わり、秋風が吹く頃。私が仕事を終えて家に帰ると、彼女が立っているのが見えた。手には何かのプリントを握りしめていて、その紙に寄った皺と同じぐらい、眉間に皺を寄せて深刻そうな顔をしている。
「おや、ここで待っていたんですか? もう寒いですから、中へどうぞ」
「……はい」
温かいお茶を淹れたが、彼女はその水面をじいっと見つめたまま飲もうともしない。何か重大なことを告白する決意の準備をしているみたいに息を吸っては吐くことを繰り返している。やがて心が決まったのか顔を上げ、持っていたプリントの皺を広げて机の上に置いた。『進路希望調査票』という文字が私の目に飛び込んでくる。
「わたし、日本を出ようと思うの」
私の国を出る? あまりに予想外の言葉に、思わず言葉を失う。
「……なぜです」
「行きたい国があるの」
「それは、どこですか」
その問にはざくろさんは答えてはくれなかった。彼女は答えたくないことに関しては決して答えないということは昔から変わらない。きっとそれ以上は聞いたところで無駄だろう。私の国より大切な場所があると? と聞けば、強い意志を秘めた目で見つめ返してくる。「もちろん」彼女の目の中に見える輝きが、本当にその国のことを愛しているのだと告げていた。
「バイトしてお金貯めて、この間の夏休みに行ってきたんだよ。絶対にこの国に住みたいって思った」
「しかし、旅行で行くのと住むのとでは違うでしょう?」
「英語だって勉強してだいぶ喋れるようになったよ。ずっと行きたいって思い続けてて、それは今も変わらない」
「……貴女のお母さんとお父さんは、何と」
その言葉を言った途端、ざくろさんの表情が歪む。
「海外なんて絶対に駄目だって、大反対されちゃった」
いわく、犯罪に巻き込まれたらどうするだとか、そんな夢が叶うはずがないだとか、今まで育ててやった恩を忘れるのかだとか、一人娘なんだから両親の老後の世話をしてくれないと困るだとか、さまざまな文句をつけてはざくろさんの進む道を塞ごうとしてくるのだという。
そのうちのいくつかは普通の両親が、普通に、本当に彼女を心配して言っていることだということは理解できた。けれども、それは私が第三者の視点をしているからそう見えているだけだ。まさに目の前の行く道を塞がれている彼女からすれば、両親は巨大な怪物にしか見えないだろう。
「ねえ菊さん、オトナってずるいよね」
「ええ、本当に」
「わたし、もう17歳よ。自分のことは自分で決めたいし、両親の人生とわたしの人生は、別物なのにね」
「……ええ、その通りですよね」
進路希望調査票の枠の中にはおさまらない夢。――それをどうして、この私に言おうと思い至ったのだろうかと、ふと疑問を抱いた。国である私に。
先ほど、その国に行きたいという意思を語っていたざくろさんの瞳の輝きは、強い憧れであると同時に、恋情でもあるのではないだろうか? 何より私は、空気を読むことには長けている自信がある。
「ざくろさん、もしかしたらなんですけれども、誰かを愛してはいませんか」
「誰かって」
「例えば、国である誰かを、です」
ざくろさんはさっと顔を紅くして、一瞬だけ、恋する乙女の表情を見せる。「……秘密」というその答えこそ、まさに私が彼女の気持ちを言い当てたことを示していた。
彼女はわたしから目をそらし、どこか遠くを見ていた。その方向に、彼女の愛する国があるのだろうか。硝子玉のようにすきとおった、私に向けられてはいない目を見ていると、彼女に愛されている誰かに対して嫌な感情が沸き起こってくる。私の国から、これほどまでに美しい宝石を奪おうとする盗人のように思えてならなかった。
私も彼女の両親と同じように、もう少しだけでもこの無垢な珠を手元に留めておきたくなったのかもしれない。一つ、頭の中で策謀を巡らした。「……ざくろさん。私にいい考えがあります」と切り出す。
「将来の進路を、秘書になることと書けばいいのです」
「だ、だって、わたしはこの国から出て――」
「私が貴女を雇うと言っているんです。貴女程の情熱があれば、省庁務めも容易いだろうことは、長年の付き合いで知っていますから」
きっと国際会議の場でざくろさんが愛している誰かに逢うこともできるだろう、それにいきなり海外に出ていくわけでもないから、ご両親もひとまずは納得させられる、と囁くと、彼女のこわばっていた顔もゆるむ。「大学への勉強も、私がなんなりと教えてさしあげますから」安心させるように頭を撫でる。私は嘘は言ってはいない、と自分に言い聞かせながら、本心が口から漏れ出ようとするのをおさえていた。
(……ああ、すみません、ざくろさん)
本当は、本当のことを言えば。私はざくろさんの恋が挫折することを期待している。もしそうなれば、おそらく私は労せずして貴女を手に入れることができるだろうから。そうでなくとも、仕事として貴女の時間を独占することはできる。
貴女の言うとおり、オトナってずるいものなんですよ。