なまえをいれてね
氷の島と柘榴の実
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「お砂糖は何杯?」
「五杯」
「本気? そんなにミルクいっぱい入れてお砂糖5杯?」
外は冷たい雨が降っていてお客さんは少なく、私は暇だった。静かな店内でそんな男女の会話が聞こえてきて思わずそちらへ目をやった。男の方は、光り輝くほどの銀色の髪をした少年で、何度か見たことのある顔だった。
(アイスランドさんだ)
『アイスランド』は祖母が言うには、ずっと昔からこの国を見守ってきた、島の精霊そのもののような存在だという。私はこの国の伝承に伝わる妖精は生まれてこのかた見たことがなかったが、すきとおる氷河の色の髪、夜明け色の目を持つ彼をまさに妖精のようだと思った。これほどに美しい存在が自分たちの『国』であることが誇らしかった。
机を手持ちぶさたに拭きながら、二人の様子をうかがう。
「アイスくん、コーヒー牛乳は甘ければ甘いほどおいしいの」
「コーヒーに対する冒涜だ」
「おいしく飲んでもらう方がきっと嬉しいわ」
「最初からカフェモカでも頼めばいいのに」
「だって、高いじゃない」
彼の向かい側にはマグカップを手に微笑む女の子が座っていた。こちらの方には見覚えがない。夜の闇を糸にして紡いだようなつややかな長い髪が目を引き、首をかしげるたびにさらさらと揺れている。低い鼻をはじめ、全体的に凹凸の少ない顔立ちで、背はこの国の平均よりもずいぶん小さいから幼い子供のようにも見える。ふわふわと柔らかい雰囲気の微笑みを見ていると、思わず私の心まで和んでしまう。
世の中の悪いことなど何も知らないかのように幸せに満ち溢れた表情で私の『祖国』を見つめている。
この子は何者だろう、と思った。彼と同じ『国』には見えないし、幼い外見とたどたどしい英語に見合わず、どこか只者ではない雰囲気を感じた。
「この国、とても素敵ね。コーヒーもおいしいし」
「だからざくろの飲んでるそれはコーヒーじゃないでしょ。……まあ、嬉しくはあるけど」
「それに、アイスくんにも会えたし……日本から来てよかった」
「……意味わかんない」
彼女の言葉を受けて、照れくさそうに彼は笑った。
『アイスランド』が笑っているところは私にとって初めてだった。日本から来たという少女が彼の眠っていた種を芽吹かせて、あたり一面が花畑になったかのような錯覚を覚える。外はとても寒いけれど、どういうわけか二人の座るテーブルだけが春の様相を見せていた。たぶん、『アイスランド』が笑えば、その一部である自分まで幸せな気分になるのだろうけれど、自然と彼女に惹きつけられて仕方なかった。
ふと、祖母の田舎で夏の農作業の手伝いをしていた時に聞いた話を思い出す。
「ヘルガや、今年はきっと素晴らしいことがあるよ」――祖母はよく予言のようなものを口にしていた。気象予報士でもないのに明日の天気を外したことはなく、占い師のおばあちゃんと呼ばれていた。
「素晴らしいことって? いっぱい穫れるってこと?」
「もちろん。島の精霊が恋をしたからね、きっとこの国に素敵なことがいっぱい起きる」
祖母の言葉通り、秋の収穫はかつてないほど素晴らしかった。祖母が言っていたのは、島の精霊、つまりこの目の前にいる少年、『アイスランド』が恋をして、それが気候や地質にまで良い影響を及ぼしていたということだろう。収穫が増えたおかげで家計に余裕ができて首都の大学に通えるようになったから、私にとっては確かに素晴らしいことがあったといえる。
「好きだよ、アイスくん」
「……僕も」
だけど、頬を染めながら見つめ合う二人のラブラブっぷりが羨ましくないと言ったら、嘘になる。どうかお幸せに!
そんななんてことない出会いからずいぶん長い時間が過ぎた。大学を卒業してからデンマークへ渡り、就職し、結婚した。
祖母は「きっとこれから大いなる冬が来るけれど、その下でも恋は続くものだよ」という不思議な遺言を残して世を去ったが、私にはその意味がよくわからなかった。祖母が亡くなったのはまさに冬の真っただ中で、これから冬が来るというのはおかしな言い回しだったからだ。それに恋とは……
(これも何かの予言なのだろうか)
夫に聞いたら、「貧乏な時期でも二人で協力して乗り越えなさいって意味じゃないかな」と言っていた。今でも意味がわからないが、その方が幸せなのかもしれない。
それから、祖母の危篤を見舞って以来、何十年かぶりに仕事の関係でアイスランドに戻ってきた。私が大学生の頃に働いていたカフェはとうになく、淋しい気分になる。無為に時を重ねてきたことがしみじみと虚しくなるから、できれば戻ってきたくはなかったのだ。デンマークの都会で働く私には、冬の冷たい雨が降るレイキャヴィクはみすぼらしく灰色にくすんで見えた。農村からこの街に出てきた時は輝いて見えたものだけれど……
「ねえ、こっちこっち! ……あっ!」
そのとき裏通りからはしゃぐ声が聞こえてきたと思えば、飛び出してきた影が私にぶつかりそうになる。物思いにふけりながら歩いていたから前をよく見ていなかった。「ごめんなさい」と見上げてくる幼い顔には見覚えがある。夢をたくさん抱えて持ちきれないほどだったころ、カフェで出会ったあの子だ。
「ざくろ、ちゃんと前見て歩きなよ。危ないから」
少し遅れて彼の方がやってくる。優しく彼女の背に手を添え、慈しむような顔は昔よりもさらに輝きを増したように思えた。その美しい銀色の二人の周りだけに花が咲き乱れて、見たこともない妖精の世界の住人のようだった。氷河の色の髪が揺れながら雨の粒を含んで輝いている。
(……あれ ?)
「本当にごめんなさい、それじゃ」すぐ側を彼女が通り過ぎた瞬間、ぞわりと鳥肌が立つ。その一瞬の時間が歪に引き伸ばされ、ひどく長く感じた。
私は、戸惑いで返事もできないまま立ちつくしていた。
黒かったはずの髪がいつのまにか彼と同じ銀色に変わっていたことじゃない。私に比べて彼女がまったく年老いていないことでもない。そんなことは瑣末な問題だ。
私とは違う。
彼女はもう人間ではないものになってしまっている。私とは違う、それだけがわかった。
もはや人間でもなく、かといって『国』になれるはずもなく中途半端なまま、恋の続く限り永遠の時を生きることを約束させられた、甘ったるいコーヒー牛乳みたいなひと。一度混じり合ってしまったらもう分離することはできないように、彼女はもう私と同じ人間には戻れない。
(どうかお幸せに)
羨ましさはなかった。触れてはいけない神聖なものに対する畏れと、想像もつかない過酷さに対する恐れが、私にそう思わせる。もっとも、彼女は人間に戻りたいなんて思わないだろうし、私なんかに祝福されなくても二人は幸せだろうけど。
名残惜しく、遠ざかっていく恋人たちの後ろ姿をいつまでも見つめていた。
「――コーヒー豆、買って帰ろう」
「お砂糖は?」
「そうだなぁ……」
「五杯」
「本気? そんなにミルクいっぱい入れてお砂糖5杯?」
外は冷たい雨が降っていてお客さんは少なく、私は暇だった。静かな店内でそんな男女の会話が聞こえてきて思わずそちらへ目をやった。男の方は、光り輝くほどの銀色の髪をした少年で、何度か見たことのある顔だった。
(アイスランドさんだ)
『アイスランド』は祖母が言うには、ずっと昔からこの国を見守ってきた、島の精霊そのもののような存在だという。私はこの国の伝承に伝わる妖精は生まれてこのかた見たことがなかったが、すきとおる氷河の色の髪、夜明け色の目を持つ彼をまさに妖精のようだと思った。これほどに美しい存在が自分たちの『国』であることが誇らしかった。
机を手持ちぶさたに拭きながら、二人の様子をうかがう。
「アイスくん、コーヒー牛乳は甘ければ甘いほどおいしいの」
「コーヒーに対する冒涜だ」
「おいしく飲んでもらう方がきっと嬉しいわ」
「最初からカフェモカでも頼めばいいのに」
「だって、高いじゃない」
彼の向かい側にはマグカップを手に微笑む女の子が座っていた。こちらの方には見覚えがない。夜の闇を糸にして紡いだようなつややかな長い髪が目を引き、首をかしげるたびにさらさらと揺れている。低い鼻をはじめ、全体的に凹凸の少ない顔立ちで、背はこの国の平均よりもずいぶん小さいから幼い子供のようにも見える。ふわふわと柔らかい雰囲気の微笑みを見ていると、思わず私の心まで和んでしまう。
世の中の悪いことなど何も知らないかのように幸せに満ち溢れた表情で私の『祖国』を見つめている。
この子は何者だろう、と思った。彼と同じ『国』には見えないし、幼い外見とたどたどしい英語に見合わず、どこか只者ではない雰囲気を感じた。
「この国、とても素敵ね。コーヒーもおいしいし」
「だからざくろの飲んでるそれはコーヒーじゃないでしょ。……まあ、嬉しくはあるけど」
「それに、アイスくんにも会えたし……日本から来てよかった」
「……意味わかんない」
彼女の言葉を受けて、照れくさそうに彼は笑った。
『アイスランド』が笑っているところは私にとって初めてだった。日本から来たという少女が彼の眠っていた種を芽吹かせて、あたり一面が花畑になったかのような錯覚を覚える。外はとても寒いけれど、どういうわけか二人の座るテーブルだけが春の様相を見せていた。たぶん、『アイスランド』が笑えば、その一部である自分まで幸せな気分になるのだろうけれど、自然と彼女に惹きつけられて仕方なかった。
ふと、祖母の田舎で夏の農作業の手伝いをしていた時に聞いた話を思い出す。
「ヘルガや、今年はきっと素晴らしいことがあるよ」――祖母はよく予言のようなものを口にしていた。気象予報士でもないのに明日の天気を外したことはなく、占い師のおばあちゃんと呼ばれていた。
「素晴らしいことって? いっぱい穫れるってこと?」
「もちろん。島の精霊が恋をしたからね、きっとこの国に素敵なことがいっぱい起きる」
祖母の言葉通り、秋の収穫はかつてないほど素晴らしかった。祖母が言っていたのは、島の精霊、つまりこの目の前にいる少年、『アイスランド』が恋をして、それが気候や地質にまで良い影響を及ぼしていたということだろう。収穫が増えたおかげで家計に余裕ができて首都の大学に通えるようになったから、私にとっては確かに素晴らしいことがあったといえる。
「好きだよ、アイスくん」
「……僕も」
だけど、頬を染めながら見つめ合う二人のラブラブっぷりが羨ましくないと言ったら、嘘になる。どうかお幸せに!
そんななんてことない出会いからずいぶん長い時間が過ぎた。大学を卒業してからデンマークへ渡り、就職し、結婚した。
祖母は「きっとこれから大いなる冬が来るけれど、その下でも恋は続くものだよ」という不思議な遺言を残して世を去ったが、私にはその意味がよくわからなかった。祖母が亡くなったのはまさに冬の真っただ中で、これから冬が来るというのはおかしな言い回しだったからだ。それに恋とは……
(これも何かの予言なのだろうか)
夫に聞いたら、「貧乏な時期でも二人で協力して乗り越えなさいって意味じゃないかな」と言っていた。今でも意味がわからないが、その方が幸せなのかもしれない。
それから、祖母の危篤を見舞って以来、何十年かぶりに仕事の関係でアイスランドに戻ってきた。私が大学生の頃に働いていたカフェはとうになく、淋しい気分になる。無為に時を重ねてきたことがしみじみと虚しくなるから、できれば戻ってきたくはなかったのだ。デンマークの都会で働く私には、冬の冷たい雨が降るレイキャヴィクはみすぼらしく灰色にくすんで見えた。農村からこの街に出てきた時は輝いて見えたものだけれど……
「ねえ、こっちこっち! ……あっ!」
そのとき裏通りからはしゃぐ声が聞こえてきたと思えば、飛び出してきた影が私にぶつかりそうになる。物思いにふけりながら歩いていたから前をよく見ていなかった。「ごめんなさい」と見上げてくる幼い顔には見覚えがある。夢をたくさん抱えて持ちきれないほどだったころ、カフェで出会ったあの子だ。
「ざくろ、ちゃんと前見て歩きなよ。危ないから」
少し遅れて彼の方がやってくる。優しく彼女の背に手を添え、慈しむような顔は昔よりもさらに輝きを増したように思えた。その美しい銀色の二人の周りだけに花が咲き乱れて、見たこともない妖精の世界の住人のようだった。氷河の色の髪が揺れながら雨の粒を含んで輝いている。
(……あれ ?)
「本当にごめんなさい、それじゃ」すぐ側を彼女が通り過ぎた瞬間、ぞわりと鳥肌が立つ。その一瞬の時間が歪に引き伸ばされ、ひどく長く感じた。
私は、戸惑いで返事もできないまま立ちつくしていた。
黒かったはずの髪がいつのまにか彼と同じ銀色に変わっていたことじゃない。私に比べて彼女がまったく年老いていないことでもない。そんなことは瑣末な問題だ。
私とは違う。
彼女はもう人間ではないものになってしまっている。私とは違う、それだけがわかった。
もはや人間でもなく、かといって『国』になれるはずもなく中途半端なまま、恋の続く限り永遠の時を生きることを約束させられた、甘ったるいコーヒー牛乳みたいなひと。一度混じり合ってしまったらもう分離することはできないように、彼女はもう私と同じ人間には戻れない。
(どうかお幸せに)
羨ましさはなかった。触れてはいけない神聖なものに対する畏れと、想像もつかない過酷さに対する恐れが、私にそう思わせる。もっとも、彼女は人間に戻りたいなんて思わないだろうし、私なんかに祝福されなくても二人は幸せだろうけど。
名残惜しく、遠ざかっていく恋人たちの後ろ姿をいつまでも見つめていた。
「――コーヒー豆、買って帰ろう」
「お砂糖は?」
「そうだなぁ……」