なまえをいれてね
氷の島と柘榴の実
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朝早く東京を出たが、着く頃には正午前になっていた。電車内は空調が効いて涼しいからとはいえ、スーツのままで来たのは失敗だったな、と心の中で悪態をつく。
せっかく僕が世界会議でアイスランドからこっちに来ているのに、ざくろの方は里帰りだとかで田舎にいるというのを聞いて、仕方なく彼女のいる町まで来た。何度か電車を乗り継いで、ようやく目的の駅に着く。
東京はどこもかしこも信じられないくらい人がいて、ビルも駅も目が眩むほど立派だったけれど、この駅は僕の他に降りる人もなく、駅名の看板も傾いている。
「アイスくん!こっち!」
探さなくても待ち人はすぐ見つけられた。青いリボンの麦わら帽子をかぶっている。そんな大きな声で呼ばなくたって、この駅で待ち合わせをしているのは僕たちくらいしかいないのに。
それほど僕に会えて嬉しかったのだろうか、ざくろは白いワンピースを揺らして、駆け寄ってハグをしてくる。駅員が妙に微笑ましい目で見てくるのが恥ずかしかった。
「やめて。暑い」
「うわ、こんな暑いのにスーツで来たの?」ざくろはそう言って、すぐに離れた。
「……すぐ帰るつもりだったから。あのさ、どこかでTシャツとか売ってない?」
駅の近くの、これまた寂れた服飾店でハーフパンツと白いTシャツと安いサンダルを購入し、案内されてざくろの家を目指す。この国はどこも東京みたいに発展しているのだとばかり思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。
駅から離れるにしたがって建物もまばらになり、青々と葉を茂らせた畑や、雑木林ばかりになってきた。蝉時雨がやかましく僕の頭の中をかき回す。
「どうにかなんないのあの虫、うるさすぎ……」
「蝉の声? あれはオスが求愛してるんだよ。まあ、うるさいけど」
「ほんと、こんな声ずっと聞かされて、よく頭がおかしくならないよね」
「慣れてるから。 ……ほら、着いたよ」
川沿いの古びた木造の家屋がざくろの祖母の家だった。たてつけの悪い扉を開けて、靴を脱ぐ。汗で張り付いたワイシャツがうっとうしくて早く着替えたかった。
「あ、おばあちゃん、ただいま」
と、リビングにいた老婆にざくろが声をかける。何かもごもごと彼女の祖母が言うのを聞いて、彼女は真っ赤になって表情をこわばらせる。いったい何を言われたんだ。
「ちょっと、今何て言われたの? 聞き取れなかった」
「何でもないから! ほら、早く着替えてきて」
この慌て具合からすると、多分ろくなことじゃないだろうな、ということだけはわかった。
「わ、冷たい」
サンダルを脱いで、僕の膝のところより少し浅いくらいの水に浸かる。丸っこい砂利の感触と、ゆるゆると流れる川の冷たさが心地良い。クーラーもなく、年代物の扇風機だけが現役の古い家でだらだらしているよりはずっと快適だった。
日差しはきついけれど、昼過ぎになってから適度に風も出てきて、さっきよりは体に感じる暑さはずっと和らいでいる。相変わらず、蝉の声は鬱陶しい。網と虫かごを持った小さい子供達が土手の上を走って通り過ぎていくのが見えた。
僕たちの頭上を、透明の羽根を持った虫が2匹、旋回している。あの虫は何かざくろに聞いたら、シオカラトンボという名前で、青い方がオスで、茶色い方がメスだという。
「トンボは鳴かないんだ?」
「そうね。トンボは鳴かない」
「トンボの方がいくぶんかスマートな恋愛だ」
「蝉も情熱的でいいと思うけど」
「……僕はそうは思わない」
じわじわと体に染み込んでいくような蝉の声には、まだ慣れきることができなかった。ひと夏しか生きられないから蝉も必死なんだよ、とざくろは言った。
彼女はワンピースの裾をつまんで、裸足で水を跳ね上げて笑っていた。光がキラキラと反射して、顔にかかる。アイスランドのひと夏の光を全部集めたような日差しが、あどけない横顔を輝かせていた。
(……ああ、綺麗だな)
僕はなぜか、その横顔をずっと忘れられないだろう、と思ってしまった。強い日差しが感熱紙に図像を移すように、僕の記憶にくっきりと焼け付くのを感じた。どこか現実離れしたようで、本当に彼女はそこにいるのか、不安になったのかもしれない。僕は思わず彼女に手を伸ばして、頬に触れていた。
「……どうしたの? アイスくん」
「ご、ごめん、何でも……」
ざくろは突然のことに戸惑っていたみたいだけれど、やがて僕に手を伸ばして、髪に触れてくる。落ち着かせるようにゆっくりと、僕の髪を撫でた。
なぜだか僕は泣きそうになって、視界が歪んだ。ざくろの頬のやわらかな感触も、水の冷たさも、これが現実であることを告げていた。これが現実だってちゃんと分かっているのに、それでも、この今がいずれはるか遠い思い出になってしまうであろう淋しさと、焼き付いた彼女の横顔は消えなかった。
「おやまあ、ざくろちゃん」
ずいぶん長いことそうしていたが、土手の上から声をかけられて、僕たちはお互いに慌てて手を引っ込める。通りかかった老人が彼女に何か声をかけて、そのままスクーターで走り去っていった。
「今、何て?」
「えっと……『ハンサムなボーイフレンドと、仲良くね』だって」
「……聞かなきゃよかった」
間違ってはいないが、こうもはっきり言われるとどうも気恥ずかしくて、ざくろの顔をまともに見ることができない。それは向こうも同じみたいで、顔を赤くしてしどろもどろになっている。僕はいい加減に川から出ようと彼女に背を向けて歩き出した。声が追いかけてくる。
「あの、アイスくんのこと、ハンサムだと思うしかっこいいし、髪の毛はつやつやで羨ましいし、えっと…… こんな暑いのにわざわざ会いに来てくれるし、優しいボーイフレンドだと思うし」
「それ以上やめて恥ずかしい……!」
「ま、待ってアイスくん!!」
「!? うわっ」
ぐい、と背中をざくろに引っ張られる。同時に苔で足元を滑らせ、僕は川の中へ尻餅をつき、ざくろはつんのめって顔面から水にダイブした。
派手な水しぶきをあげて、体中びしょぬれになる。水の中に座り込んだまま僕たちは顔を見合わせた。あまりの間抜けさにおかしくなって、二人で大声で笑いあった。
また僕たちの頭上に、トンボのつがいが通りがかった。
「他人からすれば、僕たちはああいうふうに見えてるわけか」
「そうだね、わたしは嫌じゃないけど。アイスくんは嫌?」
「……嫌じゃない」
あんまりおかしくて、自然に笑いがこぼれる。
明日にはもうこの国を発たなくちゃいけないということを、今は忘れたふりをしていたかった。
夜になり、ご飯とお風呂をいただいて、明日の準備を終えてあとは寝るだけのはずだった。
さっき言ったことを、もう訂正したい気分になっていた。
「たぶん、おばあちゃんが気を利かせてくれたんだと思うけど」
ざくろの祖母には僕たちがトンボのつがいのように見えているに違いない。二匹繋がったまま川面を飛ぶシオカラトンボを思い出しながら、ため息をつく。
僕たちの目の前には一組の寝具が用意されていた。気を利かせたって、要するに、今ここでざくろと寝ろということじゃないか。こんな兄以上の大きなお世話、久しぶりに見た。
「おばあちゃん、アイスくんを見て、『あのスーツの彼は、お前のお婿さんだね』って、言ってたから」
「すでにお婿さん認定」
「お婿さんになるの、嫌?」
「嫌じゃないけど、気が早すぎる」
「だからもっとテキトーな格好で来てくれてよかったのに」
「いや、会議終わったらすぐ帰るつもりだったし」
確かにスーツでわざわざ恋人の田舎まで訪ねてくる男なんて、結婚を申し込みに来たようにしか見えないだろう。そう見られるのが嫌と言ったところで言い訳は立たない。「いい男捕まえてきたね、とも言ってた」というのを聞いても、あまり嬉しくはなかった。捕まえてきたって、虫じゃないんだから。
蝉やトンボたちからは、相手が決まっているというのにどうして手を出さない、と嗤われそうだけど、心の準備というものがあるのだ。
「いいよ、寝ようよアイスくん」
ざくろは布団に横になって、僕を呼んだ。少しドキッとしたけど、「もう寝ないと」と言うので他意はないらしい。僕も彼女とできるだけ離れて床に就く。
眠れそうになくて、常夜灯のオレンジの明かりをなんとはなしに見つめていた。
無言のまま、りいん、りいんと外から聞こえる虫の音だけが響く。あれも求愛の歌なんだろうか、蝉もあれくらい綺麗な音で鳴けばいいのに、とぼんやり考えていたら、僕の指に、ざくろがそっと触れてきたのが分かった。
その触れられた部分だけが燃えるように熱い。気取られないように、平静を装って言う。
「どうしたの」
「……アイスくん、明日、帰っちゃうんだっけ」
「うん。そのつもり」
「次は、いつこっちに来るの?」
寸の間、答えに詰まった。会議の予定日が思い出せなかったわけではなくて、ざくろがあまりに淋しそうな声をするから。彼女の方を見遣ると、常夜灯のオレンジの明かりに照らされて、いつもの笑顔が少しだけ悲しげに見えた。
「秋……そうだな、10月にはまた来るよ」
「そう、遠いね」
すぐだよ、とは言えなかった。僕はだって、人間じゃない。1000年は生きている僕の時間感覚と、彼女のそれとはずいぶん違うということは痛いほど知っていた。
数ヶ月なんて一瞬だけど、ざくろにとってはたぶん何度も泣くくらい遠い。いま生命を謳歌している蝉やトンボたちは、数ヶ月後にはもう生きてはいないだろう。それを思うと急に胸が痛くなって、少しだけ、彼女の方に身を寄せた。
「アイスくん、もう寝なきゃ」
泣き出しそうな顔で、ざくろは笑った。
ざくろが触れ合った手を離すのを、無意識のうちに捕まえていた。「ごめん、手、繋いでて」だなんて、どうかしてる。ひと夏しか生きられない恋人達の熱に浮かされたのかもしれない。
きっと今が永遠には続かないことをあの虫たちは知っていて、それでも命を燃やして生きている。僕はどうにもその輝きが憎らしくて羨ましかった。光の届かない土地で暮らす僕には、光の下の彼女がとても眩しく見えたけれど、それは人間の短い寿命を担保にしてるということを、ともすれば忘れそうになる。
「……おやすみ。明日、早いから」
いっそ、彼女を連れて帰って、虫かごの中に捕まえてしまおうか、と思った。
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