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ジェドは車のエンジンをかけた。辺りは真っ暗で静かだった。この小さな町は既に寝静まっていて、どの家も既に明かりは消えていた。
ジェドは夢子を心配するように視線を向けた。
助手席に座った夢子は不安そうに窓から外を眺めていた。
「大丈夫?」
夢子は頷いた。だが落ち着くのは難しかった。今度の事件はあまりにも身近すぎたからだ。
夢子は同僚の顔を思い浮かべていた。
若くて可愛い子だった。気取ったところはなく、いつも明るくて、人気者だった。皆から好かれていて、恨みや悪意とは程遠いような子だ。
どうして彼女が……?
「ゴーストは、どうして彼女を襲ったのかしら。」
ジェドは少しだけ考えるような仕草をした。
「きっと、金髪が目に入ったとかそんな理由なんだろう。今までの被害者には共通点も無いし、無作為に選んでるようだからね。」
共通点は殺し方だけ……。鋭利な刃物での刺殺。
犯人は身近に潜んでいるのだ。そして、どこかで次の獲物を狙っている……。今、この瞬間にも。
恐怖で寒気を感じた夢子は腕を回して自分の体を抱いた。
真夜中で道路は空いていて、車はスムーズに大通りに入り流れるように進んでいった。
「会社に着くまで、原稿のチェックをお願いしても良い?」
「もちろん。」
夢子は頷いた。
ジェドは視線でダッシュボードを示した。
「そこを開けて、原稿を取り出して。」
夢子は車のダッシュボードを開けた。中には厚みのある茶封筒と、古びた黒い革手袋が入っていた。
夢子は不思議に思った。ジェドが今までこのような手袋をしたのを見た事が無かったからだ。
「これ、運転用?」
夢子がジェドに問い掛けた。「貴方が手袋をするのは見た事が無かった。」
ジェドは肯定も否定もせず、ただ微笑むだけだった。
革手袋はそのままにして、夢子は茶封筒を取り出した。その封筒は新聞社で書類を入れる為によく使っているものだった。
「読んでみて。」
夢子が封筒を開けると、中には原稿の下書きが入っていた。
細かく書き込まれた文字。脚注やメモ。
付けられた題名は、『ゴースト、再び現わる』だった。
夢子が顔を上げてジェドを見ると、彼はにっこりと微笑んだ。
「感想を聞かせてよ。」
夢子は文字に目を走らせた。
今までにもこうして何度もジェドの仕事を手伝ってきた。
ジェドは夢子の意見に耳を傾け、尊重し、記事に反映した。こうして作り上げた記事が採用される度に、二人は喜びを分かち合い、ささやかなお祝いをしたものだった。
原稿には事件の詳細が書かれていた。
殺害方法は刃物による刺殺。
場所は新聞社で、被害者は新聞社に受付として勤める女性だった。添えられた写真には微笑みを浮かべた金髪の若い女性が写っていた。
小さな新聞社だから、夢子も被害者の顔を知っていた。
犯行時刻は……午後7時から8時にかけて。今夜、夢子がレストランでジェドを待っていたその時間だった。
犯行現場は資料室の一角で、一つしかない扉の鍵は施錠されていた。
そしてその鍵は何事も無かったかのように″いつもの場所″に置かれたままだった。
受付の奥にある、職員だけが知っている保管場所に……。現場には血だまりとその中に横たわる彼女の遺体が残されていた。
夢子は冷たい床に横たわる被害者の姿を想像した。
声を出せないように口にはテープが巻き付けられ、その目は大きく見開かれている。その表情は恐ろしく、テープを外すと今にも叫び出しそうだ。
はだけた胸元はずたずたに引き裂かれ、衣服は赤黒い血の跡が染み付いている。
こんな風に彼女の遺体は横たわっているのだ。昼間、夢子がジェドと束の間の逢瀬を楽しんだあの場所で……。
夢子は原稿から顔を上げた。
その顔は恐怖で引き攣っている。
この事件についての詳細はまだ誰も知るはずが無い。遺体が発見されてまだ一時間も経っていないのだから。
夢子は恐る恐るジェドのほうへ視線を向けた。彼は自分が犯人だと種明かしをしているのだ。
「ジェド。」
夢子の声は静かな車内で鋭く響いた。
二人は見つめ合った。
ジェドはいつものように人の良さそうな顔をしている。
車は大通りを外れて静かに停まった。
周りには明かりの消えた小さなビルや小売店しか無く、人通りは全く無かった。
静かな車内で夢子の呼吸の音だけが響いていた。夢子は緊張で乱れた呼吸をどうにか抑えようと努力したが、抑えようとするほどそれがより一層不規則な音となって響いてしまった。
一瞬の隙をついて、夢子は車のドアを開けようとした。しかしジェドの方が素早く動いて夢子の手首を捉えた。
「嫌!」夢子は体をよじった。「離して!」
振り解こうともがいても、ジェドの腕はびくともしなかった。
「助けて!」
夢子は大声で助けを求めたが、すぐにジェドの拳が飛んできて夢子の頬を殴りつけた。
あまりに強い衝撃で、夢子はしばらく顔を上げる事が出来なかった。
めまいがして頭がぐらぐらと揺れていた。
頬骨がズキズキと痛み、歯で切ってしまったのだろうか。口内は血の味でいっぱいだった。
「静かに。」
ジェドは夢子の頬にそっと触れた。
「痛かっただろう?」
夢子の目から涙がこぼれ落ちた。
「泣くなよ。」
ジェドはダッシュボードから革手袋を取り出して身に付けた。そして素早く夢子の口を覆った。
それはとても自然な動作で、彼が普段からそうしていることを意味していた。
ジェドの親指が夢子の頬に食い込み、残りの指は反対の頬を強く押さえつけた。
夢子はジェドの手から逃れようと、顔を背けたり指に噛みつこうとしたが、どうやっても目の前の男の力には敵わなかった。
ジェドは夢子のカバンからハンカチを取り出し、それを丸めて彼女の口の中に詰め込んでダクトテープで覆った。
手首と足首にもダクトテープが巻き付けられる。
それは先程想像した被害者の姿と同じだった。唯一の違いは、夢子がまだ生きているという事だけだった。
ジェドは乱暴に夢子を車の後部へと押し込み、再び運転席へと戻った。
「少し我慢してくれ。」
ジェドはそう言って、車の運転を再開した。
夢子は身をよじり、両足でバックドアを蹴り付けた。車は大きな音を立て揺れるがそのドアが開くことは無かった。
後ろ手に縛られた手首がヒリヒリと痛んだ。
夢子がもがくのを気にもせず、ジェドは平然とした様子で車を運転し続けている。
車の後ろは荷物置き場となっていて、
夢子は目の前を旅行用の大きなカバンが車に合わせて揺れるのを眺めながら、ジェドはこのままどこかへ逃亡するつもりなのだと悟った。
夢子はもがくのをやめて、ぼんやりと窓を見つめた。
窓から見えるのは電灯の乏しい光と、果てしない暗闇だけだった。
夢子の頭の中に浮かぶのは、この先の事ではなく過去の事ばかりだった。
仕事熱心なジェドの姿。二人で過ごした時間……。
徹夜明けのジェドのためにコーヒーを淹れたこと。そのコーヒーを美味しいと言ったこと。
ジェドはホラー映画が好きで、映画館デートは二人の定番だったこと。
ふいに涙が溢れて、夢子の頬を伝った。思い出すのはジェドの優しい姿だけだった。
夢子を乗せた車は街を離れ、郊外へ向かって進んでゆく。すれ違う車もなく、ただ真っ直ぐに伸びる道路にジェドの白い車が走っているだけだった。
かなりの距離を走ってから、ジェドは国道を外れて脇道へと入り、そして車を停めた。
ジェドは一息ついて、車のダッシュボードから小型のデジタルカメラと白いマスクを取り出した。
ジェドは車を降りて空を見上げた。
辺りは真っ暗で星が輝いていた。冷たい風が頬を撫でる。この日に相応しい素晴らしい夜だ。
ジェドは車の後方へ回り、バックドアを開けた。後部座席に横たわる夢子と目が合うと、にっこりと微笑んだ。
「待たせたね。」
ジェドは白いマスクを身につけた。
ゴースト事件で何度も目撃され、そして写真に撮られたあのマスクだった。
ジェドは夢子の目の前でナイフの刃を振った。よく手入れされた刃の表面は鏡のように夢子の顔を映した。
「"これ"が今から君を切りつける。」
マスクごしの声はくぐもって響いた。その声は冷たく淡々として、普段の彼とは別人のような声だった。
夢子は首を左右に振った。
懇願……。涙が滲む目。恐怖と絶望に染まった表情。
男は興奮を覚えた。この表情を切り取って、永遠に自分のものにしたい……。
そんな考えに突き動かされて、男はカメラを構え、何度もシャッターを切った。この瞬間を永遠に残すために。
男は満足したのかカメラを置いてナイフを手に構えると、その鋭い刃を夢子の白い腕に当てた。
尖った刃先が肌の上を撫でるように滑り、線のような赤い跡を残した。
鋭い痛みで夢子は苦痛の声を漏らした。
夢子は荒い息をして、首を左右に振った。もうやめて!解放して!その言葉は呻き声となって消えた。
「とても可愛いよ。」
男はマスクごしに囁いた。ナイフの刃は何度も肌の上を往復し、夢子の身体のラインをなぞるように動いた。
静かに、スムーズに……愛撫のように。
そして男はナイフの刃を夢子脇腹にそっと当てた。
男は何の躊躇いも無く、強い力でナイフを押し込んだ。その刃は夢子の体内に滑り込むように深く入り込んだ。
男は革手袋ごしに、夢子の肌が引き裂かれる感触を感じ取った。
皮膚を突き破り、皮下脂肪を引き裂き、温かい体内にステンレスの冷たい刃を滑り込ませる感触。叫ぶような悲鳴はハンカチの中に吸い込まれて消えた。
ナイフの刃から、その柄から、夢子の身体の震えが振動となって男に伝わった。
男はあまりの心地良さにうっとりとした。
頭の中は夢子の事でいっぱいだった。
男は夢中でナイフを突き立てた。ひと突きごとに夢子の生命を奪い取る感覚。彼女の全てを奪い取り、自分の手の中に収めるかのような錯覚を覚えた。
初めは抵抗していた夢子も、すぐに気を失って大人しくなった。
柔らかく美しい肌は無惨に引き裂かれ、吹き出した血で赤く染まった。車のシートも、夢子の衣服も、髪の毛も、その全てが血まみれだった。
まだ新鮮で赤々とした色。錆びっぽい匂い。
男は執拗に、夢子の肉体に刃物を突き刺した。溢れる血が、その匂いが、男の飢えた心を満たしてゆく。
「一番良かった。」
男は夢子にそう囁いた。
「今までで、一番。」
男はマスクの奥で、ふーっとため息を漏らした。
大きな仕事を終えた後の、疲れと充実が混ざり合う心地よい感覚……。しかし男は違和感を感じていた。
この感覚は何だ?
男は夢子の肉体を見下ろした。
白っぽい顔は恐怖と絶望の表情を浮かべているのに、その目は虚ろだった。血で汚れ、絡むように肌に張り付いた髪の毛。
つい先程まで……その瞳は輝き、口元は微笑みを形作り、艶やかな黒髪はベッドのうえで波打っていた。
甘い香りと、温かく柔らかい肌をした特別な女性……。
満たされているはずなのに、その心には穴が空いたような、奇妙な喪失感があった。それは男にとって初めての感覚だった。
「くそ。」
男は悪態を付いた。
彼は普段、ジェドという人物を演じている内に、本来の自分が何者であるのかを忘れそうになった。
仕事の評価も高く、夢子という素晴らしい恋人もいた。そしてジェドは恋人のことを愛していた。それは普通の男になりきるための演技だった。しかしこの喪失感が真実を物語っていた。
愛していた。演技ではない。心の底から、夢子の事を!
男は運転席へ戻り、車のエンジンを付けた。
男はマスクを外した。汗でびっしょりと濡れた額を袖で拭って、ハンドルを握り直す。窓を少しだけ開けて、夜の冷たい空気を車内に取り込んだ。
真夜中だが眠くなかった。それどころか頭の中ははっきりとしている。
この車はこのまま乗り捨てるつもりだった。
彼はこの特徴の無い、ありふれた車を愛用していた。だが恋人の棺として使うのならそれで構わなかった。
元々、個人間で買った車で取引は現金だけだった。なんの契約も金の動きも記録されていない。
もし警察がこの車を調べたとしても、所有者は不明だった。前の持ち主の、そのまた前の持ち主か。それともデタラメなナンバーで偽装された盗難車か……。何にしろ記録上では彼の車では無かった。
全ては計画通りだった。連続する殺人事件。ゴーストを模した白いマスクの殺人鬼。
連日のニュース。新聞を飾る記事。
無作為に選ばれた被害者……だがその殺しの順番や時間はすべて計画に沿って進めていた。そして最後は……。
車は走る。次の行き先は決めていた。
もっと……暑い土地が良い。湿った空気と焼け付くような日差しが欲しい。
今までとは全く違う環境で、また新しく始めよう。新しい名前で、また新しい人生を。
そうすれば、彼女の記憶も、思い出も、すべて薄れていくだろう……。
舌の上にかすかな塩辛い味を感じて、男は目を擦った。
おわり
ジェドは夢子を心配するように視線を向けた。
助手席に座った夢子は不安そうに窓から外を眺めていた。
「大丈夫?」
夢子は頷いた。だが落ち着くのは難しかった。今度の事件はあまりにも身近すぎたからだ。
夢子は同僚の顔を思い浮かべていた。
若くて可愛い子だった。気取ったところはなく、いつも明るくて、人気者だった。皆から好かれていて、恨みや悪意とは程遠いような子だ。
どうして彼女が……?
「ゴーストは、どうして彼女を襲ったのかしら。」
ジェドは少しだけ考えるような仕草をした。
「きっと、金髪が目に入ったとかそんな理由なんだろう。今までの被害者には共通点も無いし、無作為に選んでるようだからね。」
共通点は殺し方だけ……。鋭利な刃物での刺殺。
犯人は身近に潜んでいるのだ。そして、どこかで次の獲物を狙っている……。今、この瞬間にも。
恐怖で寒気を感じた夢子は腕を回して自分の体を抱いた。
真夜中で道路は空いていて、車はスムーズに大通りに入り流れるように進んでいった。
「会社に着くまで、原稿のチェックをお願いしても良い?」
「もちろん。」
夢子は頷いた。
ジェドは視線でダッシュボードを示した。
「そこを開けて、原稿を取り出して。」
夢子は車のダッシュボードを開けた。中には厚みのある茶封筒と、古びた黒い革手袋が入っていた。
夢子は不思議に思った。ジェドが今までこのような手袋をしたのを見た事が無かったからだ。
「これ、運転用?」
夢子がジェドに問い掛けた。「貴方が手袋をするのは見た事が無かった。」
ジェドは肯定も否定もせず、ただ微笑むだけだった。
革手袋はそのままにして、夢子は茶封筒を取り出した。その封筒は新聞社で書類を入れる為によく使っているものだった。
「読んでみて。」
夢子が封筒を開けると、中には原稿の下書きが入っていた。
細かく書き込まれた文字。脚注やメモ。
付けられた題名は、『ゴースト、再び現わる』だった。
夢子が顔を上げてジェドを見ると、彼はにっこりと微笑んだ。
「感想を聞かせてよ。」
夢子は文字に目を走らせた。
今までにもこうして何度もジェドの仕事を手伝ってきた。
ジェドは夢子の意見に耳を傾け、尊重し、記事に反映した。こうして作り上げた記事が採用される度に、二人は喜びを分かち合い、ささやかなお祝いをしたものだった。
原稿には事件の詳細が書かれていた。
殺害方法は刃物による刺殺。
場所は新聞社で、被害者は新聞社に受付として勤める女性だった。添えられた写真には微笑みを浮かべた金髪の若い女性が写っていた。
小さな新聞社だから、夢子も被害者の顔を知っていた。
犯行時刻は……午後7時から8時にかけて。今夜、夢子がレストランでジェドを待っていたその時間だった。
犯行現場は資料室の一角で、一つしかない扉の鍵は施錠されていた。
そしてその鍵は何事も無かったかのように″いつもの場所″に置かれたままだった。
受付の奥にある、職員だけが知っている保管場所に……。現場には血だまりとその中に横たわる彼女の遺体が残されていた。
夢子は冷たい床に横たわる被害者の姿を想像した。
声を出せないように口にはテープが巻き付けられ、その目は大きく見開かれている。その表情は恐ろしく、テープを外すと今にも叫び出しそうだ。
はだけた胸元はずたずたに引き裂かれ、衣服は赤黒い血の跡が染み付いている。
こんな風に彼女の遺体は横たわっているのだ。昼間、夢子がジェドと束の間の逢瀬を楽しんだあの場所で……。
夢子は原稿から顔を上げた。
その顔は恐怖で引き攣っている。
この事件についての詳細はまだ誰も知るはずが無い。遺体が発見されてまだ一時間も経っていないのだから。
夢子は恐る恐るジェドのほうへ視線を向けた。彼は自分が犯人だと種明かしをしているのだ。
「ジェド。」
夢子の声は静かな車内で鋭く響いた。
二人は見つめ合った。
ジェドはいつものように人の良さそうな顔をしている。
車は大通りを外れて静かに停まった。
周りには明かりの消えた小さなビルや小売店しか無く、人通りは全く無かった。
静かな車内で夢子の呼吸の音だけが響いていた。夢子は緊張で乱れた呼吸をどうにか抑えようと努力したが、抑えようとするほどそれがより一層不規則な音となって響いてしまった。
一瞬の隙をついて、夢子は車のドアを開けようとした。しかしジェドの方が素早く動いて夢子の手首を捉えた。
「嫌!」夢子は体をよじった。「離して!」
振り解こうともがいても、ジェドの腕はびくともしなかった。
「助けて!」
夢子は大声で助けを求めたが、すぐにジェドの拳が飛んできて夢子の頬を殴りつけた。
あまりに強い衝撃で、夢子はしばらく顔を上げる事が出来なかった。
めまいがして頭がぐらぐらと揺れていた。
頬骨がズキズキと痛み、歯で切ってしまったのだろうか。口内は血の味でいっぱいだった。
「静かに。」
ジェドは夢子の頬にそっと触れた。
「痛かっただろう?」
夢子の目から涙がこぼれ落ちた。
「泣くなよ。」
ジェドはダッシュボードから革手袋を取り出して身に付けた。そして素早く夢子の口を覆った。
それはとても自然な動作で、彼が普段からそうしていることを意味していた。
ジェドの親指が夢子の頬に食い込み、残りの指は反対の頬を強く押さえつけた。
夢子はジェドの手から逃れようと、顔を背けたり指に噛みつこうとしたが、どうやっても目の前の男の力には敵わなかった。
ジェドは夢子のカバンからハンカチを取り出し、それを丸めて彼女の口の中に詰め込んでダクトテープで覆った。
手首と足首にもダクトテープが巻き付けられる。
それは先程想像した被害者の姿と同じだった。唯一の違いは、夢子がまだ生きているという事だけだった。
ジェドは乱暴に夢子を車の後部へと押し込み、再び運転席へと戻った。
「少し我慢してくれ。」
ジェドはそう言って、車の運転を再開した。
夢子は身をよじり、両足でバックドアを蹴り付けた。車は大きな音を立て揺れるがそのドアが開くことは無かった。
後ろ手に縛られた手首がヒリヒリと痛んだ。
夢子がもがくのを気にもせず、ジェドは平然とした様子で車を運転し続けている。
車の後ろは荷物置き場となっていて、
夢子は目の前を旅行用の大きなカバンが車に合わせて揺れるのを眺めながら、ジェドはこのままどこかへ逃亡するつもりなのだと悟った。
夢子はもがくのをやめて、ぼんやりと窓を見つめた。
窓から見えるのは電灯の乏しい光と、果てしない暗闇だけだった。
夢子の頭の中に浮かぶのは、この先の事ではなく過去の事ばかりだった。
仕事熱心なジェドの姿。二人で過ごした時間……。
徹夜明けのジェドのためにコーヒーを淹れたこと。そのコーヒーを美味しいと言ったこと。
ジェドはホラー映画が好きで、映画館デートは二人の定番だったこと。
ふいに涙が溢れて、夢子の頬を伝った。思い出すのはジェドの優しい姿だけだった。
夢子を乗せた車は街を離れ、郊外へ向かって進んでゆく。すれ違う車もなく、ただ真っ直ぐに伸びる道路にジェドの白い車が走っているだけだった。
かなりの距離を走ってから、ジェドは国道を外れて脇道へと入り、そして車を停めた。
ジェドは一息ついて、車のダッシュボードから小型のデジタルカメラと白いマスクを取り出した。
ジェドは車を降りて空を見上げた。
辺りは真っ暗で星が輝いていた。冷たい風が頬を撫でる。この日に相応しい素晴らしい夜だ。
ジェドは車の後方へ回り、バックドアを開けた。後部座席に横たわる夢子と目が合うと、にっこりと微笑んだ。
「待たせたね。」
ジェドは白いマスクを身につけた。
ゴースト事件で何度も目撃され、そして写真に撮られたあのマスクだった。
ジェドは夢子の目の前でナイフの刃を振った。よく手入れされた刃の表面は鏡のように夢子の顔を映した。
「"これ"が今から君を切りつける。」
マスクごしの声はくぐもって響いた。その声は冷たく淡々として、普段の彼とは別人のような声だった。
夢子は首を左右に振った。
懇願……。涙が滲む目。恐怖と絶望に染まった表情。
男は興奮を覚えた。この表情を切り取って、永遠に自分のものにしたい……。
そんな考えに突き動かされて、男はカメラを構え、何度もシャッターを切った。この瞬間を永遠に残すために。
男は満足したのかカメラを置いてナイフを手に構えると、その鋭い刃を夢子の白い腕に当てた。
尖った刃先が肌の上を撫でるように滑り、線のような赤い跡を残した。
鋭い痛みで夢子は苦痛の声を漏らした。
夢子は荒い息をして、首を左右に振った。もうやめて!解放して!その言葉は呻き声となって消えた。
「とても可愛いよ。」
男はマスクごしに囁いた。ナイフの刃は何度も肌の上を往復し、夢子の身体のラインをなぞるように動いた。
静かに、スムーズに……愛撫のように。
そして男はナイフの刃を夢子脇腹にそっと当てた。
男は何の躊躇いも無く、強い力でナイフを押し込んだ。その刃は夢子の体内に滑り込むように深く入り込んだ。
男は革手袋ごしに、夢子の肌が引き裂かれる感触を感じ取った。
皮膚を突き破り、皮下脂肪を引き裂き、温かい体内にステンレスの冷たい刃を滑り込ませる感触。叫ぶような悲鳴はハンカチの中に吸い込まれて消えた。
ナイフの刃から、その柄から、夢子の身体の震えが振動となって男に伝わった。
男はあまりの心地良さにうっとりとした。
頭の中は夢子の事でいっぱいだった。
男は夢中でナイフを突き立てた。ひと突きごとに夢子の生命を奪い取る感覚。彼女の全てを奪い取り、自分の手の中に収めるかのような錯覚を覚えた。
初めは抵抗していた夢子も、すぐに気を失って大人しくなった。
柔らかく美しい肌は無惨に引き裂かれ、吹き出した血で赤く染まった。車のシートも、夢子の衣服も、髪の毛も、その全てが血まみれだった。
まだ新鮮で赤々とした色。錆びっぽい匂い。
男は執拗に、夢子の肉体に刃物を突き刺した。溢れる血が、その匂いが、男の飢えた心を満たしてゆく。
「一番良かった。」
男は夢子にそう囁いた。
「今までで、一番。」
男はマスクの奥で、ふーっとため息を漏らした。
大きな仕事を終えた後の、疲れと充実が混ざり合う心地よい感覚……。しかし男は違和感を感じていた。
この感覚は何だ?
男は夢子の肉体を見下ろした。
白っぽい顔は恐怖と絶望の表情を浮かべているのに、その目は虚ろだった。血で汚れ、絡むように肌に張り付いた髪の毛。
つい先程まで……その瞳は輝き、口元は微笑みを形作り、艶やかな黒髪はベッドのうえで波打っていた。
甘い香りと、温かく柔らかい肌をした特別な女性……。
満たされているはずなのに、その心には穴が空いたような、奇妙な喪失感があった。それは男にとって初めての感覚だった。
「くそ。」
男は悪態を付いた。
彼は普段、ジェドという人物を演じている内に、本来の自分が何者であるのかを忘れそうになった。
仕事の評価も高く、夢子という素晴らしい恋人もいた。そしてジェドは恋人のことを愛していた。それは普通の男になりきるための演技だった。しかしこの喪失感が真実を物語っていた。
愛していた。演技ではない。心の底から、夢子の事を!
男は運転席へ戻り、車のエンジンを付けた。
男はマスクを外した。汗でびっしょりと濡れた額を袖で拭って、ハンドルを握り直す。窓を少しだけ開けて、夜の冷たい空気を車内に取り込んだ。
真夜中だが眠くなかった。それどころか頭の中ははっきりとしている。
この車はこのまま乗り捨てるつもりだった。
彼はこの特徴の無い、ありふれた車を愛用していた。だが恋人の棺として使うのならそれで構わなかった。
元々、個人間で買った車で取引は現金だけだった。なんの契約も金の動きも記録されていない。
もし警察がこの車を調べたとしても、所有者は不明だった。前の持ち主の、そのまた前の持ち主か。それともデタラメなナンバーで偽装された盗難車か……。何にしろ記録上では彼の車では無かった。
全ては計画通りだった。連続する殺人事件。ゴーストを模した白いマスクの殺人鬼。
連日のニュース。新聞を飾る記事。
無作為に選ばれた被害者……だがその殺しの順番や時間はすべて計画に沿って進めていた。そして最後は……。
車は走る。次の行き先は決めていた。
もっと……暑い土地が良い。湿った空気と焼け付くような日差しが欲しい。
今までとは全く違う環境で、また新しく始めよう。新しい名前で、また新しい人生を。
そうすれば、彼女の記憶も、思い出も、すべて薄れていくだろう……。
舌の上にかすかな塩辛い味を感じて、男は目を擦った。
おわり