エピソード
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ファラミアは療病院で眠っていた。体に走る数多くの傷跡からは、彼が受けた痛みや苦しみが見て取れる。
彼はオスギリアス奪還のために出陣し、敗れた。そしてそこで負った傷は癒えるのに時間がかかった。オークの使った矢による毒、そしてナズグルが与える黒の息の病…。それらによって彼は長い間死の淵をさまよっていたのだった。
そして…そんなファラミアを救い、目覚めさせたのは、一人の人間の男だった。その人物を前にしてファラミアは感嘆した!何故なら彼を救ったのはアセラスの芳しい爽やかな香りだからである。そう、アセラスが持つ効能を引き出すことができるのは…癒しの手を持つ者、つまりは王の血を引く者だけだからである。
*
目覚めてからも治療のためにファラミアは療病院に留まっていた。
こうしている間にも、多くの有志やゴンドールの兵士達が戦いに向かっている。ゴンドールの執政として彼らと共に戦いに赴けないことにファラミアは酷くもどかしさを感じていた。
そんな日々のなかで、ファラミアはローハンの乙女と出会った。
その人は見事な黄金色の髪をした美しい女性で、名をエオウィンといった。驚くことにエオウィンは、『人間の男には倒すことができない』と言われるナズグルの首領…アングマールの魔王を打ち破ったと言うのだ。その白く細い腕のどこにそのような力があるのだろうかとファラミアは思った。
彼女は魔王との戦いで傷つき病に倒れていた。そしてファラミアと同じく療病院で治療を受けていたのだった。
二人は同じ病と同じ傷を負っていた。そのためお互いに引かれあい交流を深めるのもごく自然のことだった。エオウィンはファラミアに好意を示し、親しげに言葉を交わしてもいた。しかし、ファラミアがもっと彼女と親しくなりたいと考えるほどに、エオウィンは親しくなることを恐れて離れていくようだった。
*
ファラミアとエオウィンは二人で療病院の中庭の小道を歩いていた。二人は医師から、陽を浴びたり外の風に当たったりすることを勧められていた。そのため、ファラミアはよくエオウィンを伴って散歩をした。そうする事はエオウィンの体や心に良い影響を与えるだろうと考えていたからであった。そして何よりもエオウィンと時間を共にすることを望んでいたのである。エオウィンは多くの若い乙女がするように微笑んで見せた。柔らかそうな黄金色の髪は風になびいて輝いていた。しかし、どこかその美しさは影に覆われて隠されているかのようだった。
ファラミアは隣を歩くエオウィンの横顔を見つめた。白い肌は赤みが差し、長い髪はゆるやかに編みこまれ下ろされていた。
彼女の口元の微笑みや優しい眼差しを見ながら、初めて出会ったときよりもずっと生気に満ちて美しくなったとファラミアは感じた。
ついにファラミアはこの乙女と出会ってから、常々感じていたことについて尋ねることにしたのである。
「貴女は美しい女性です。しかし貴女の顔からは生きる喜びや希望が見出せないのです。いつも私はそれを不思議に思っていました。そして酷く悲しみを感じるのです。」
エオウィンは驚いてファラミアの顔を見つめた。ファラミアは真面目な顔をしていた。ファラミアにはドゥネダインの血が流れていた。そのために父であるデネソールのように多くの事柄を知ることができた。
エオウィンはこの人の前では己の心の内を隠すことはできないと感じた。もはや隠し続ける意味などは無かった。ファラミアには他人の心の内を見通す力があったからである。そしてエオウィン自身も誰かに心の内を話したいと考えていた。
「仰るとおりわたくしには生きる喜びも希望も御座いません。わたくしは先の戦いで死を覚悟いたしました。ですがこうして生き長らえております。…しかし、そのようにお尋ねになるのは少々不躾ではありませんか?貴方はゴンドールの執政なのですから。」
「そうですね…。それに私は貴女と出会って、まだ日も浅い…。しかし私は貴女を救いたいと考えている。私は貴女を愛しているのです。」
「存じております。」
エオウィンは今は偽りのない喜びに満ち溢れて、ファラミアに向けて笑顔を見せた。その表情は、堅いつぼみが花開くように、凍える大地に春が訪れたかのように大変美しかった。
「ではお話いたしましょう。わたくしの心の内を…。」
そしてエオウィンは長い間彼女を苦しめ続けた日々について語ったのだった。
*
それは若き乙女の健康な心を蝕むに容易いであろうことだった。
蛇の舌が発する浅ましく下劣な言葉。その言葉にだけ耳を貸し国や民のことに注意を向けることを忘れたかのような王の姿。
それを間近で見ながら老いゆく王の世話をするしかない日々。
グリマの言葉は毒のように若く健康なエオウィンの心をも蝕み続けた。
エオウィンは生まれながらに勇気をもっていた。光の差さない暗い室内で王の傍に控えながら、己の勇気を試す機会を待ち望んでいたのである。
そして…ついに絶望の日々を打ち砕き、暗闇に満ちた王宮に光を灯した男が現れたのである。
彼はとても背が高く、誰にも負けない力と勇気を持っていた。エオウィンはその人に心惹かれた。そしてその恋は儚くも散るのだった…。
エオウィンの体に流れるローハンの血は脈打ち、ついに彼女は剣を握り戦いに赴いた。
盾を掲げ剣を振るった。アングマールの魔王が与える恐怖さえ、死を覚悟した彼女には通用しなかったのである。
ファラミアは美しいローハンの姫君を哀れんだ。そして未だ死を望んでいることに酷く悲しんだ。
ファラミアはこの乙女を救いたいと切に願った。
「貴女は誰にも出来ない事を成したのですね。そしてご自身の手で栄誉を勝ち取られた。…エオウィン姫よ。貴女は私とは別の人の愛を望まれていた。しかしその人が貴女に与えるものは、貴女が望んだものでは無かったのですね。…私は貴女に憐れみを感じた。しかし私が感じたのは憐れみだけではありません。貴女は美しく勇敢な姫君であられます。私は貴女に結婚を申し込みたい。貴女を愛しています。貴女は私のことを愛してはくださらないのでしょうか?」
そう伝えると、エオウィンは恥ずかしそうに頬を赤らめて微笑んだ。
「わたくしも貴方を愛しましょう。ゴンドールの殿方よ!」
そうして二人は手を取り合ってお互いの顔を見つめあった。
「わたくしはようやく生きる喜びを得られました。しかしわたくしには未だ心苦しいことがあるのです…。魔王はわたくし一人の力で打ち破ったのではありません。わたくしの傍にはメリアドクと夢子がいました。彼らと力を合わせたからこそ魔王を滅ぼすことができたのです。」
そう話すエオウィンの美しい顔には辛苦の影が覆い、瞳には悲しみの色を滲ませていた。
「夢子は未だ目覚めないのです…。」
*
美しい人が身体を横たえていた。肌は透き通るかのように白く、血の気はない。緩やかに巻いた銀色の長い髪がその顔を縁取り寝台から零れるように垂れていた。
静かに眠るその人は…生きていることを感じさせなかった。まるで精巧に造られた彫刻のようだとファラミアは思った。それほどまでに美しく、また色彩が無かったのである。
アラゴルンは何度もこの部屋に足を運び、女性の治療に当たっていた。
煎じたアセラスを布巾に浸して女性の顔を拭い、時折その女性を労わるように優しい手つきで頬や額に手のひらを当てていた。
王の癒しの手だ…。
ファラミアはその光景にはっと息をのんだ。そして言葉を失ったかのようにぼんやりと佇んでいた。
アセラスの爽やかで芳しい香りは部屋の中に満ち、部屋の中にいる者を清々しい気分にさせた。アラゴルンの手つきは眠り続ける女性を慈しむように見えた。そして死者を悼むようにも…見えたのだった。
「ファラミア卿。」
名前を呼ばれて我に返ったファラミアは、返事を返した。
「どうぞこちらへ来てください。」
アラゴルンに促されたファラミアは女性が眠る寝台のそばに近づいた。
「…この女性は目覚めるのでしょうか?」
「わかりません。ですが可能な限りは治療を続けるつもりです。彼女…夢子が未だ目覚めないのは、黒の息の他になにか理由があるように感じるのです。」
改めて夢子と呼ばれた女性の顔を間近で覗き込むと、その顔にファラミアがよく知っている人物の姿が浮かび上がるのだった。
驚いて隣のアラゴルンに目配せをすると、彼は静かに頷いてみせた。
ファラミアが見たのは兄の姿だった。
ドゥネダインの血がそうさせたのか、兄弟の血がそうさせたのか、ファラミアには分からなかった。
しかし自分の為すべき事は、はっきりと分かったのだった。
「アラゴルン殿、どうか私にも治療を手伝わせてください。」
「ええ、そうなさるのが良いでしょう。」
ファラミアは跪いて夢子の手に触れた。
はじめはその手の冷たさに驚いたが、温めるように両手で包みこんだ。
夢子の手はファラミアの両手には余るほど小さく、また細かった。眠っている夢子の力の入らない華奢な手は、強く握れば折れてしまうように感じた。
「夢子。」
ファラミアがそう声を掛けると、握っている夢子の指先が微かに動いた。
「夢子…。」
もう一度名を呼び掛けた。すると今度は瞼や唇が微かに動いた。
反応を示した夢子の様子に、アラゴルンは驚きと喜びを感じた。
次にファラミアは、強い声ではっきりと夢子の名前を呼んだ。
「夢子…!貴女は目を覚まさなければならない。死の影はまだ貴女を覆ってはいないのだから。」
ついに夢子の瞼が開き、青みがかった灰色の瞳をのぞかせた。
涙が頬を伝ってこぼれ落ち、唇を震わせてファラミアのほうを向いた。
夢子は目の前の人物を確かめるように何度も瞬きをした。
そして、その人物の名前を呼んだのだった。
それは夢子が愛する男の名前だった。そしてその人はファラミアとよく似ていたのだった。
ファラミアはその呼び掛けには言葉を返さなかった。ただ兄の代わりを務めるかのように、目覚めたばかりの夢子を興奮させないように静かな声で言葉を掛けた。
「貴女は夢から戻ってきた…。もう心配はいらない。次に目を覚ましたら、今よりもずっと楽になっているはずだよ。」
ファラミアは握ったままだった夢子の手を布団に戻して、優しい声で眠るように促した。
「さあ眠りなさい、今は何もかも忘れて…。」
それはまるで恋人に掛けるかのような優しい声だったので、ファラミア自身も…隣にいるアラゴルンでさえも驚いた。
夢子は再び眠りについた。その顔には血の気が戻り、穏やかな表情をしていた。
その顔を見たアラゴルンは、ようやく肩の荷が下りて、ほっと息をついた。
「これで夢子は大丈夫だ。後は医師と看護師に任せれば、じきに健康になるだろう。」
アラゴルンとファラミアは立ち上がって、握手を交わした。
「ファラミア卿が居なければ夢子は目覚めなかったかもしれない。」
「お役に立てたなら、私も嬉しく存じます。」
「では私は医師に夢子の事を頼みに行きましょう。貴方は如何なされるか?」
「私は…しばらくこの部屋に留まりましょう。」
視線でアラゴルンを見送った後、ファラミアは夢子の傍でしばらく考え事に耽るのだった。
夢子が健康になったら、ボロミアの事を尋ねよう。
この人は、私が知らないボロミアの顔を良く知っているのだろうから。
そう考えるファラミアの心には、ボロミアとの思い出が浮かび上がっては消えた。
それは幼い頃から変わらない優しい兄の姿だった。
*
夢子が目覚めた事は、今では中つ国の英雄となった4人のホビット達にも伝えられた。
彼ら…特にメリーとピピンは…居ても立ってもいられず療病院へ足を運んだ。療病院ではフロドとサムも治療を受けていたので、彼らも連なって夢子の病室へと向かった。
いつもは静かな療病院も、ホビットが4人集まるととても賑やかな場所となった。ホビット達はそれぞれ楽しい話を夢子に聞かせた。
夢子も笑ったり驚いたりして、ホビット達と楽しい時間を過ごした。フロドは相槌を打つばかりではあったが、夢子の笑顔を見て自身も喜びを感じていた。
「ところで夢子はアラゴルンの事を聞きましたか?」
メリーが尋ねているのは、アラゴルンの戴冠式のことだった。そして、アルウェン姫を妃に迎えるという話は、ゴンドールでは知らない者はいなかった。
「勿論、私も聞きましたよ。彼の戴冠式が行われるのでしょう?それに結婚式も…その日が待ち遠しいですね…」
そんな会話に耳を傾けながら、サムは美しいアルウェンの姿を思い出した。そしてアラゴルンとアルウェンが二人並んだ姿を想像して、うっとりとした。
「あのお綺麗なエルフの姫様を迎えて、アラゴルンはついに王様になるって事ですだ。これほど素晴らしい日はおらが死ぬまでに二度と起こらないだろうなぁ」
「そんな事はないさ!何故ならね、サム!ホビット庄に帰ったら、君とロージーの結婚式があるんだからね!」
茶化すようなピピンの言葉にサムは頬を真っ赤に染めた。
「とんでもねえ!ピピン旦那。そんな風に、からかっちゃいけねぇだよ。けれども、ロージーは元気にしているだろうかねぇ…。おらは今、あの娘がとても恋しいだよ」
そう言いながら、ロージーの姿を思い出しているのか…サムは寂しそうな顔をした。
サムは恋愛ごとには不器用で気付いてはいなかったが、ロージーのほうもサムの事を好いていた。そしてそれはフロドやメリーやピピン達から見ても明らかなことだった。
フロドはサムの肩を優しく抱いた。
「もちろんロージーは元気だろうよ。そしてお前の帰りを待ってるのだろうね。ホビット庄に帰ったら一番に会いに行って、立派になったお前の姿を見せておあげ」
「ええ、フロドの旦那。おら、そうしますだ。そう考えたらホビット庄に帰るのが楽しみになってきましただ」
フロドとサムの仲の良い姿に、メリーとピピン、そして夢子もにっこりと微笑んだ。
「夢子はこれからゴンドールで暮らすのですか?アルウェン姫が王妃になったら、侍女も必要だからねぇ。貴女はエルフだし歓迎されるでしょうから。それとも裂け谷やロリエンで他のエルフ達と共に?」
メリーにそう尋ねられて、夢子は言葉に詰まった。未だ先のことは何も決めていなかったからである。
夢子には記憶が無かった。過去のことは何一つ思い出せなかった。彼女には行く場所も帰る場所も無かったのである。
そしてぼんやりと先の事を考えてはみたが…答えは出なかった。ただ、このままゴンドールには居れないとは感じていたのだった。
*
季節は巡り、新しい生命が芽吹き、花はつぼみをつけ、木々は葉をつけた。
春という誕生と喜びの季節が訪れ、ゴンドールではアラゴルンの戴冠式を間近に控え、民はその日を指折り数えて待っていた。
そしてゴンドールの執政であるファラミアもその一人だった。彼は式典を取り仕切る役目を担っていたため、その準備に追われていた。
執政となってすぐにこのような大仕事をこなさねばならないのだから、この時のファラミアの心労は想像に難くない事だろう。
そうして執政としての仕事をこなし、日々その責任を感じていると…自然と父のことを思い出すのだった。
『父が執政としての人生をどのように過ごされたのか、今になってようやく理解できた。父が統治する時代は暗闇に覆われていた。ゴンドールは常に恐怖に脅かされていた。憐れな父上!時代が違えば、良き執政として、良き統治者として人々から尊敬され続けたでしょうに!』
そう思って、ファラミアは亡き父を偲んだ。しかし賢明にも悲しみに浸ることはせずに自身の仕事をこなし続けるのだった。
*
ある日、毎日のように書き物机に向かっていたファラミアが、ふと窓から外を眺めると背の高い美しいエルフの婦人とホビットが二人きりで歩いているのが見えた。
それは夢子とフロドだった。二人は何かを話して、時折楽しそうに笑っているのだった。
その姿を見たファラミアは、一先ず仕事を置いて、部屋にメリーを呼ぶため使いを出した。
呼ばれたメリーは急ぎ足で執政の部屋までやって来たのだった。
「ファラミア卿、私に御用でしょうか?」
突然名指しで呼ばれたために、メリーは幾らか緊張している様子だった。
しかしメリーはファラミアとは知り合いであったし、エオウィンを交えた3人でも何度か話をしていたので、すぐに緊張は解かれたようだった。
「メリアドク君!貴方に尋ねたいことがあって此処まで呼びに使いをやったのです」
そうファラミアが言うと、メリーは納得したように微笑んで何度も頷いた。
「私ははじめ何の用かと考えました。何故なら貴方の部屋まで呼ばれるような心当たりがなかったのですから…。しかし、貴方の顔を見てすぐに用件が分かりましたよ!貴方は夢子の事をお尋ねになりたいのですね?」
「その通りですとも!貴方の知ってる限りで構いません。どうか話してください」
メリーはしばしの間、どのように伝えるべきかを考えていた。
勿論そう考えているメリーの姿を見ているだけで、ファラミアは多くの事を読み取ってはいたのだが…。
「そうですね…私が知ることは、きっと…他の仲間も知っていることしかありません。つまりは、夢子は記憶を無くしているという事です」
メリーは夢子と旅の仲間との出会いから、その旅の最中に起こった出来事を、ファラミアに話して聞かせたのだった。
*
中つ国第三紀の3019年5月1日…ついにゴンドールにてアラゴルンの戴冠式が行われ、彼はガンダルフの手によって王冠を頂いた。
彼はエレスサール王としてゴンドールに迎えられ、ついに王の帰還を果たしたのだった。
エレスサール王が立ち上がって振り向いたとき、式を見守っていた者は皆、とても驚いた。
彼は丈高く、その顔と手には知恵と勇気が備わっていた。そして、海を渡ってきた太古の王のように美しく堂々としていた。
その姿を見た彼の民は歓声を上げた。彼らが何代にも渡り待ち望んでいた時が、今この時代において訪れた事を実感するのだった。
*
喇叭の音が高らかに鳴り響き、吟遊詩人は夜通し勝利と祝福を歌った。
すべての杯には葡萄酒が並々と注がれ、たっぷりの御馳走と美しい音楽が充分にあった。
その宴会の中では人間もエルフもドワーフも…ホビットも関係なかった。
彼らは皆身分も種族も関係なく、一様に乾杯をして酒を飲み干した。
着飾った女たちが花を散らして男と踊ると、膨らんだスカートの裾がふわふわと揺れて足元を覗かせ、白い靴下となめした革の靴が見えた。
賑やかな事が大好きなホビットの二人も、その輪に加わって歌や踊りを披露した。
エオウィンも彼らに誘われて踊っていた。そして、ファラミアに目配せをして、彼も踊りの輪の中に引き込んだのだった!
彼らの仲を知るメリーは勿論、初めは『二人は恋人同士だったの?』と驚いたピピンも、二人に拍手を送った。
そうして踊り終わると、二人は握っていた手を繋いだまま人々の熱気の中から抜け出たのだった。
二人は塀の縁まで来て、ゴンドールの街を見下ろした。夜は更けていたが、未だどの家にも明かりが灯っていた。
ひやりとする夜風が踊りで火照った肌を冷ました。
「ああ、ファラミア様!貴方はダンスもお上手なのですね。実を申しますと、わたくしがダンスを踊ったのは久しぶりですの。とても…楽しかったですわ」
そうしてにっこりと微笑むエオウィンの姿は、生きる希望を失い死を望んでいた頃の彼女とは別人のようだった。
「姫よ、謙遜なさることはありません。貴女のほうこそお上手ではありませんか。貴女がダンスを踊るのが久しぶりだとは思いもしなかったのですからね!」
ファラミアは、エオウィンの金色の髪を指先ですくった。そして、その柔らかく光沢のある美しい髪に口づけを落とした。
ホビット達と楽しげに踊る若々しい美しさに溢れたエオウィンの姿も、こうして頬を赤く染めて瞳に喜びの光を輝かせるエオウィンの姿も…彼はとても愛しく感じていた。
「くちづけをお許しいただけますか?」
「それは、わたくしの指先に?髪にはもうしてしまいましたもの」
「いいえ、貴女の唇にです」
エオウィンは恥ずかしそうにはにかんで、そして頷いた。
二人は唇を寄せてくちづけをした。
この晩、すべてのゴンドールの民が喜びを分かち合った。
空は澄んで、星々が宝石のように輝いていた。
*
エオウィンを客間の入り口まで見送った後、ファラミアは王の元へ行こうか、それともホビット達の元へ戻ろうか…と考えていた。
そしてふと夜空を見上げて星を眺めた。雲はなく、星は銀や白に輝いて空一面に散らばっていた。
…エルフは星空の下で生まれたという。
近くエルロンド卿の娘御であられるアルウェン姫がゴンドールの妃として王家へ嫁いでくる。
そして、今までは不安と恐怖を与えていた夜の闇も清められて…平穏と安らぎをもたらすように変わるだろう。
ファラミアは大きく息を吸い込んだ。
澄んだ空気が体を満たし、改めて勝利を実感した。
ゴンドールは多くのものを失った。民や兵士…かつては清らかで美しかった土地や建物。
ファラミア自身も、父や兄、彼の部下や親しい者を失くした。その後、彼が得たものも多かったが、この戦争で負った傷は生涯癒えることはないだろうと感じていた。
『兄上!私は失ったものが多すぎるのです。今私の傍に兄上がいてくれたらどんなに幸せでしょうか。兄上と喜びを分かち合う事が出来たのならば!…今日、エレスサール王は私を再び執政官に任命なさいました。愛する人もできました。しかし、兄上はもうこの世にはいないのです…。』
もしボロミアがこの場にいて、嘆く弟の姿を見ていたとしたら…、彼の功績を称え、共に王家の繁栄を願い、ゴンドールの新しい夜明けを喜んだだろう。
そして…弟を褒め、共に涙を流し、あまり嘆いてはいけないと叱り、励ましてくれただろう。兄弟がまだ幼かった頃と一つも変わらないまま、ボロミアは弟を愛しただろう。
夜の空に問いかけても、返事はない。
ボロミアの魂は…彼の肉体を離れ、どこへ行ったのだろうか。ただ、最早中つ国には存在しないのだろう…。
『ゴンドールに王が戻り、新しい時代が始まるのだ。家系が続く限り…我が執政家は王に仕えよう。そして私は…父や兄、先祖達の名に恥じない気高き執政として生きよう。いつか私が死を賜って、父上や兄上の元へ参るときに…迎え入れてくださるように!』
そう決意したファラミアの顔は、光が差したように晴れやかだった。
そして…ファラミアはボロミアと繋がりのある…一人の女性の名前を思い出した。
『私はあの人と話さねばなるまい。戴冠式が行われた今日、この夜に。』
そう強く感じたファラミアは療病院へと向かうのだった。
*
「…夢子殿でしたね」
「ファラミア様」
ファラミアに声をかけられた夢子は、優しく微笑んだ。
療病院の一室で、夢子は木で作られた簡素な長椅子にゆったりと腰かけていた。
彼女は清潔な白い衣服を身にまとい、薄地のショールを肩から垂らしていた。
銀色の髪は月明かりに照らされてきらきらと輝き、髪自体が光を発しているようにも見えた。
エルフ特有の人間よりも整った顔立ちと、細身の身体にすらりと伸びる四肢は、見る者に畏怖の念さえ抱かせるほどに美しかった。
「お加減はいかがですか?」
「ええ、おかげ様で体の傷や黒の病はほとんど癒えました。療病院の皆さんには大変良くしてもらってます。そして…メリーから聞きました。貴方が私を黒の病から救ってくださったのだと」
「あの日…貴女が目覚めた日です。エレスサール王はアセラスの葉を用いて貴女の治療に当たっていました。私は貴女の名前を呼びました。そして…目覚めたのです。その瞬間私は驚きました…。貴女は私を見てこう呼んだのです。ボロミア…と」
ボロミアの名前を出すと、夢子は酷く悲しい顔をして俯いてしまった。夢子も彼の死を嘆いているのだろうかとファラミアは考えた。
ファラミアにとっても愛する兄の死の知らせは辛い出来事だった。
そして目の前にいる美しい人も、自分と同じように愛する者を失い嘆いているのだろうか。その悲しみ様は見るに堪えないほどであった。
「貴女は酷く悲しんでおいでだ。まるで私やゴンドールの民のように。…貴女は彼と特別親しかったのではないですか?」
そう尋ねると夢子はついに涙をこぼした。肯定も否定もせずに、ただ泣くだけだった。
やはり、この人と兄の間には何かがあるに違いない。
それはただの愛情だけではない。男女としての愛情があったのではないか。ファラミアはそう確信した。
「ボロミアは私の兄なのです。…兄がどうして亡くなったのかは知っています。しかし、貴女のことは何も知らなかった」
ファラミアは夢子の足元に跪いた。
そして俯いて涙を流す夢子と目線を合わせて問いかけた。
「話していただけるだろうか?」
夢子はボロミアの弟であるファラミアの顔を見た。その顔はボロミアとよく似ていた。
ボロミアと同じ灰色の瞳は、真っ直ぐに夢子を捉えていた。彼の瞳は悲しげに揺れて、涙を零さずとも心の中では泣いているようだった。
夢子はファラミアの手を取って、彼を床から立ち上がらせた。
「これは私の心にだけ留めておくつもりでした。私とボロミアとの大切な思い出ですもの。ですが…弟君のファラミア様にだけはお話いたしましょう。ボロミアは貴方にとっても大切な方なのですから」
夢子はファラミアに面会用の椅子を勧めた。
そして…愛する者の思い出を辿るように…ゆっくりと話し始めたのだった…。
彼はオスギリアス奪還のために出陣し、敗れた。そしてそこで負った傷は癒えるのに時間がかかった。オークの使った矢による毒、そしてナズグルが与える黒の息の病…。それらによって彼は長い間死の淵をさまよっていたのだった。
そして…そんなファラミアを救い、目覚めさせたのは、一人の人間の男だった。その人物を前にしてファラミアは感嘆した!何故なら彼を救ったのはアセラスの芳しい爽やかな香りだからである。そう、アセラスが持つ効能を引き出すことができるのは…癒しの手を持つ者、つまりは王の血を引く者だけだからである。
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目覚めてからも治療のためにファラミアは療病院に留まっていた。
こうしている間にも、多くの有志やゴンドールの兵士達が戦いに向かっている。ゴンドールの執政として彼らと共に戦いに赴けないことにファラミアは酷くもどかしさを感じていた。
そんな日々のなかで、ファラミアはローハンの乙女と出会った。
その人は見事な黄金色の髪をした美しい女性で、名をエオウィンといった。驚くことにエオウィンは、『人間の男には倒すことができない』と言われるナズグルの首領…アングマールの魔王を打ち破ったと言うのだ。その白く細い腕のどこにそのような力があるのだろうかとファラミアは思った。
彼女は魔王との戦いで傷つき病に倒れていた。そしてファラミアと同じく療病院で治療を受けていたのだった。
二人は同じ病と同じ傷を負っていた。そのためお互いに引かれあい交流を深めるのもごく自然のことだった。エオウィンはファラミアに好意を示し、親しげに言葉を交わしてもいた。しかし、ファラミアがもっと彼女と親しくなりたいと考えるほどに、エオウィンは親しくなることを恐れて離れていくようだった。
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ファラミアとエオウィンは二人で療病院の中庭の小道を歩いていた。二人は医師から、陽を浴びたり外の風に当たったりすることを勧められていた。そのため、ファラミアはよくエオウィンを伴って散歩をした。そうする事はエオウィンの体や心に良い影響を与えるだろうと考えていたからであった。そして何よりもエオウィンと時間を共にすることを望んでいたのである。エオウィンは多くの若い乙女がするように微笑んで見せた。柔らかそうな黄金色の髪は風になびいて輝いていた。しかし、どこかその美しさは影に覆われて隠されているかのようだった。
ファラミアは隣を歩くエオウィンの横顔を見つめた。白い肌は赤みが差し、長い髪はゆるやかに編みこまれ下ろされていた。
彼女の口元の微笑みや優しい眼差しを見ながら、初めて出会ったときよりもずっと生気に満ちて美しくなったとファラミアは感じた。
ついにファラミアはこの乙女と出会ってから、常々感じていたことについて尋ねることにしたのである。
「貴女は美しい女性です。しかし貴女の顔からは生きる喜びや希望が見出せないのです。いつも私はそれを不思議に思っていました。そして酷く悲しみを感じるのです。」
エオウィンは驚いてファラミアの顔を見つめた。ファラミアは真面目な顔をしていた。ファラミアにはドゥネダインの血が流れていた。そのために父であるデネソールのように多くの事柄を知ることができた。
エオウィンはこの人の前では己の心の内を隠すことはできないと感じた。もはや隠し続ける意味などは無かった。ファラミアには他人の心の内を見通す力があったからである。そしてエオウィン自身も誰かに心の内を話したいと考えていた。
「仰るとおりわたくしには生きる喜びも希望も御座いません。わたくしは先の戦いで死を覚悟いたしました。ですがこうして生き長らえております。…しかし、そのようにお尋ねになるのは少々不躾ではありませんか?貴方はゴンドールの執政なのですから。」
「そうですね…。それに私は貴女と出会って、まだ日も浅い…。しかし私は貴女を救いたいと考えている。私は貴女を愛しているのです。」
「存じております。」
エオウィンは今は偽りのない喜びに満ち溢れて、ファラミアに向けて笑顔を見せた。その表情は、堅いつぼみが花開くように、凍える大地に春が訪れたかのように大変美しかった。
「ではお話いたしましょう。わたくしの心の内を…。」
そしてエオウィンは長い間彼女を苦しめ続けた日々について語ったのだった。
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それは若き乙女の健康な心を蝕むに容易いであろうことだった。
蛇の舌が発する浅ましく下劣な言葉。その言葉にだけ耳を貸し国や民のことに注意を向けることを忘れたかのような王の姿。
それを間近で見ながら老いゆく王の世話をするしかない日々。
グリマの言葉は毒のように若く健康なエオウィンの心をも蝕み続けた。
エオウィンは生まれながらに勇気をもっていた。光の差さない暗い室内で王の傍に控えながら、己の勇気を試す機会を待ち望んでいたのである。
そして…ついに絶望の日々を打ち砕き、暗闇に満ちた王宮に光を灯した男が現れたのである。
彼はとても背が高く、誰にも負けない力と勇気を持っていた。エオウィンはその人に心惹かれた。そしてその恋は儚くも散るのだった…。
エオウィンの体に流れるローハンの血は脈打ち、ついに彼女は剣を握り戦いに赴いた。
盾を掲げ剣を振るった。アングマールの魔王が与える恐怖さえ、死を覚悟した彼女には通用しなかったのである。
ファラミアは美しいローハンの姫君を哀れんだ。そして未だ死を望んでいることに酷く悲しんだ。
ファラミアはこの乙女を救いたいと切に願った。
「貴女は誰にも出来ない事を成したのですね。そしてご自身の手で栄誉を勝ち取られた。…エオウィン姫よ。貴女は私とは別の人の愛を望まれていた。しかしその人が貴女に与えるものは、貴女が望んだものでは無かったのですね。…私は貴女に憐れみを感じた。しかし私が感じたのは憐れみだけではありません。貴女は美しく勇敢な姫君であられます。私は貴女に結婚を申し込みたい。貴女を愛しています。貴女は私のことを愛してはくださらないのでしょうか?」
そう伝えると、エオウィンは恥ずかしそうに頬を赤らめて微笑んだ。
「わたくしも貴方を愛しましょう。ゴンドールの殿方よ!」
そうして二人は手を取り合ってお互いの顔を見つめあった。
「わたくしはようやく生きる喜びを得られました。しかしわたくしには未だ心苦しいことがあるのです…。魔王はわたくし一人の力で打ち破ったのではありません。わたくしの傍にはメリアドクと夢子がいました。彼らと力を合わせたからこそ魔王を滅ぼすことができたのです。」
そう話すエオウィンの美しい顔には辛苦の影が覆い、瞳には悲しみの色を滲ませていた。
「夢子は未だ目覚めないのです…。」
*
美しい人が身体を横たえていた。肌は透き通るかのように白く、血の気はない。緩やかに巻いた銀色の長い髪がその顔を縁取り寝台から零れるように垂れていた。
静かに眠るその人は…生きていることを感じさせなかった。まるで精巧に造られた彫刻のようだとファラミアは思った。それほどまでに美しく、また色彩が無かったのである。
アラゴルンは何度もこの部屋に足を運び、女性の治療に当たっていた。
煎じたアセラスを布巾に浸して女性の顔を拭い、時折その女性を労わるように優しい手つきで頬や額に手のひらを当てていた。
王の癒しの手だ…。
ファラミアはその光景にはっと息をのんだ。そして言葉を失ったかのようにぼんやりと佇んでいた。
アセラスの爽やかで芳しい香りは部屋の中に満ち、部屋の中にいる者を清々しい気分にさせた。アラゴルンの手つきは眠り続ける女性を慈しむように見えた。そして死者を悼むようにも…見えたのだった。
「ファラミア卿。」
名前を呼ばれて我に返ったファラミアは、返事を返した。
「どうぞこちらへ来てください。」
アラゴルンに促されたファラミアは女性が眠る寝台のそばに近づいた。
「…この女性は目覚めるのでしょうか?」
「わかりません。ですが可能な限りは治療を続けるつもりです。彼女…夢子が未だ目覚めないのは、黒の息の他になにか理由があるように感じるのです。」
改めて夢子と呼ばれた女性の顔を間近で覗き込むと、その顔にファラミアがよく知っている人物の姿が浮かび上がるのだった。
驚いて隣のアラゴルンに目配せをすると、彼は静かに頷いてみせた。
ファラミアが見たのは兄の姿だった。
ドゥネダインの血がそうさせたのか、兄弟の血がそうさせたのか、ファラミアには分からなかった。
しかし自分の為すべき事は、はっきりと分かったのだった。
「アラゴルン殿、どうか私にも治療を手伝わせてください。」
「ええ、そうなさるのが良いでしょう。」
ファラミアは跪いて夢子の手に触れた。
はじめはその手の冷たさに驚いたが、温めるように両手で包みこんだ。
夢子の手はファラミアの両手には余るほど小さく、また細かった。眠っている夢子の力の入らない華奢な手は、強く握れば折れてしまうように感じた。
「夢子。」
ファラミアがそう声を掛けると、握っている夢子の指先が微かに動いた。
「夢子…。」
もう一度名を呼び掛けた。すると今度は瞼や唇が微かに動いた。
反応を示した夢子の様子に、アラゴルンは驚きと喜びを感じた。
次にファラミアは、強い声ではっきりと夢子の名前を呼んだ。
「夢子…!貴女は目を覚まさなければならない。死の影はまだ貴女を覆ってはいないのだから。」
ついに夢子の瞼が開き、青みがかった灰色の瞳をのぞかせた。
涙が頬を伝ってこぼれ落ち、唇を震わせてファラミアのほうを向いた。
夢子は目の前の人物を確かめるように何度も瞬きをした。
そして、その人物の名前を呼んだのだった。
それは夢子が愛する男の名前だった。そしてその人はファラミアとよく似ていたのだった。
ファラミアはその呼び掛けには言葉を返さなかった。ただ兄の代わりを務めるかのように、目覚めたばかりの夢子を興奮させないように静かな声で言葉を掛けた。
「貴女は夢から戻ってきた…。もう心配はいらない。次に目を覚ましたら、今よりもずっと楽になっているはずだよ。」
ファラミアは握ったままだった夢子の手を布団に戻して、優しい声で眠るように促した。
「さあ眠りなさい、今は何もかも忘れて…。」
それはまるで恋人に掛けるかのような優しい声だったので、ファラミア自身も…隣にいるアラゴルンでさえも驚いた。
夢子は再び眠りについた。その顔には血の気が戻り、穏やかな表情をしていた。
その顔を見たアラゴルンは、ようやく肩の荷が下りて、ほっと息をついた。
「これで夢子は大丈夫だ。後は医師と看護師に任せれば、じきに健康になるだろう。」
アラゴルンとファラミアは立ち上がって、握手を交わした。
「ファラミア卿が居なければ夢子は目覚めなかったかもしれない。」
「お役に立てたなら、私も嬉しく存じます。」
「では私は医師に夢子の事を頼みに行きましょう。貴方は如何なされるか?」
「私は…しばらくこの部屋に留まりましょう。」
視線でアラゴルンを見送った後、ファラミアは夢子の傍でしばらく考え事に耽るのだった。
夢子が健康になったら、ボロミアの事を尋ねよう。
この人は、私が知らないボロミアの顔を良く知っているのだろうから。
そう考えるファラミアの心には、ボロミアとの思い出が浮かび上がっては消えた。
それは幼い頃から変わらない優しい兄の姿だった。
*
夢子が目覚めた事は、今では中つ国の英雄となった4人のホビット達にも伝えられた。
彼ら…特にメリーとピピンは…居ても立ってもいられず療病院へ足を運んだ。療病院ではフロドとサムも治療を受けていたので、彼らも連なって夢子の病室へと向かった。
いつもは静かな療病院も、ホビットが4人集まるととても賑やかな場所となった。ホビット達はそれぞれ楽しい話を夢子に聞かせた。
夢子も笑ったり驚いたりして、ホビット達と楽しい時間を過ごした。フロドは相槌を打つばかりではあったが、夢子の笑顔を見て自身も喜びを感じていた。
「ところで夢子はアラゴルンの事を聞きましたか?」
メリーが尋ねているのは、アラゴルンの戴冠式のことだった。そして、アルウェン姫を妃に迎えるという話は、ゴンドールでは知らない者はいなかった。
「勿論、私も聞きましたよ。彼の戴冠式が行われるのでしょう?それに結婚式も…その日が待ち遠しいですね…」
そんな会話に耳を傾けながら、サムは美しいアルウェンの姿を思い出した。そしてアラゴルンとアルウェンが二人並んだ姿を想像して、うっとりとした。
「あのお綺麗なエルフの姫様を迎えて、アラゴルンはついに王様になるって事ですだ。これほど素晴らしい日はおらが死ぬまでに二度と起こらないだろうなぁ」
「そんな事はないさ!何故ならね、サム!ホビット庄に帰ったら、君とロージーの結婚式があるんだからね!」
茶化すようなピピンの言葉にサムは頬を真っ赤に染めた。
「とんでもねえ!ピピン旦那。そんな風に、からかっちゃいけねぇだよ。けれども、ロージーは元気にしているだろうかねぇ…。おらは今、あの娘がとても恋しいだよ」
そう言いながら、ロージーの姿を思い出しているのか…サムは寂しそうな顔をした。
サムは恋愛ごとには不器用で気付いてはいなかったが、ロージーのほうもサムの事を好いていた。そしてそれはフロドやメリーやピピン達から見ても明らかなことだった。
フロドはサムの肩を優しく抱いた。
「もちろんロージーは元気だろうよ。そしてお前の帰りを待ってるのだろうね。ホビット庄に帰ったら一番に会いに行って、立派になったお前の姿を見せておあげ」
「ええ、フロドの旦那。おら、そうしますだ。そう考えたらホビット庄に帰るのが楽しみになってきましただ」
フロドとサムの仲の良い姿に、メリーとピピン、そして夢子もにっこりと微笑んだ。
「夢子はこれからゴンドールで暮らすのですか?アルウェン姫が王妃になったら、侍女も必要だからねぇ。貴女はエルフだし歓迎されるでしょうから。それとも裂け谷やロリエンで他のエルフ達と共に?」
メリーにそう尋ねられて、夢子は言葉に詰まった。未だ先のことは何も決めていなかったからである。
夢子には記憶が無かった。過去のことは何一つ思い出せなかった。彼女には行く場所も帰る場所も無かったのである。
そしてぼんやりと先の事を考えてはみたが…答えは出なかった。ただ、このままゴンドールには居れないとは感じていたのだった。
*
季節は巡り、新しい生命が芽吹き、花はつぼみをつけ、木々は葉をつけた。
春という誕生と喜びの季節が訪れ、ゴンドールではアラゴルンの戴冠式を間近に控え、民はその日を指折り数えて待っていた。
そしてゴンドールの執政であるファラミアもその一人だった。彼は式典を取り仕切る役目を担っていたため、その準備に追われていた。
執政となってすぐにこのような大仕事をこなさねばならないのだから、この時のファラミアの心労は想像に難くない事だろう。
そうして執政としての仕事をこなし、日々その責任を感じていると…自然と父のことを思い出すのだった。
『父が執政としての人生をどのように過ごされたのか、今になってようやく理解できた。父が統治する時代は暗闇に覆われていた。ゴンドールは常に恐怖に脅かされていた。憐れな父上!時代が違えば、良き執政として、良き統治者として人々から尊敬され続けたでしょうに!』
そう思って、ファラミアは亡き父を偲んだ。しかし賢明にも悲しみに浸ることはせずに自身の仕事をこなし続けるのだった。
*
ある日、毎日のように書き物机に向かっていたファラミアが、ふと窓から外を眺めると背の高い美しいエルフの婦人とホビットが二人きりで歩いているのが見えた。
それは夢子とフロドだった。二人は何かを話して、時折楽しそうに笑っているのだった。
その姿を見たファラミアは、一先ず仕事を置いて、部屋にメリーを呼ぶため使いを出した。
呼ばれたメリーは急ぎ足で執政の部屋までやって来たのだった。
「ファラミア卿、私に御用でしょうか?」
突然名指しで呼ばれたために、メリーは幾らか緊張している様子だった。
しかしメリーはファラミアとは知り合いであったし、エオウィンを交えた3人でも何度か話をしていたので、すぐに緊張は解かれたようだった。
「メリアドク君!貴方に尋ねたいことがあって此処まで呼びに使いをやったのです」
そうファラミアが言うと、メリーは納得したように微笑んで何度も頷いた。
「私ははじめ何の用かと考えました。何故なら貴方の部屋まで呼ばれるような心当たりがなかったのですから…。しかし、貴方の顔を見てすぐに用件が分かりましたよ!貴方は夢子の事をお尋ねになりたいのですね?」
「その通りですとも!貴方の知ってる限りで構いません。どうか話してください」
メリーはしばしの間、どのように伝えるべきかを考えていた。
勿論そう考えているメリーの姿を見ているだけで、ファラミアは多くの事を読み取ってはいたのだが…。
「そうですね…私が知ることは、きっと…他の仲間も知っていることしかありません。つまりは、夢子は記憶を無くしているという事です」
メリーは夢子と旅の仲間との出会いから、その旅の最中に起こった出来事を、ファラミアに話して聞かせたのだった。
*
中つ国第三紀の3019年5月1日…ついにゴンドールにてアラゴルンの戴冠式が行われ、彼はガンダルフの手によって王冠を頂いた。
彼はエレスサール王としてゴンドールに迎えられ、ついに王の帰還を果たしたのだった。
エレスサール王が立ち上がって振り向いたとき、式を見守っていた者は皆、とても驚いた。
彼は丈高く、その顔と手には知恵と勇気が備わっていた。そして、海を渡ってきた太古の王のように美しく堂々としていた。
その姿を見た彼の民は歓声を上げた。彼らが何代にも渡り待ち望んでいた時が、今この時代において訪れた事を実感するのだった。
*
喇叭の音が高らかに鳴り響き、吟遊詩人は夜通し勝利と祝福を歌った。
すべての杯には葡萄酒が並々と注がれ、たっぷりの御馳走と美しい音楽が充分にあった。
その宴会の中では人間もエルフもドワーフも…ホビットも関係なかった。
彼らは皆身分も種族も関係なく、一様に乾杯をして酒を飲み干した。
着飾った女たちが花を散らして男と踊ると、膨らんだスカートの裾がふわふわと揺れて足元を覗かせ、白い靴下となめした革の靴が見えた。
賑やかな事が大好きなホビットの二人も、その輪に加わって歌や踊りを披露した。
エオウィンも彼らに誘われて踊っていた。そして、ファラミアに目配せをして、彼も踊りの輪の中に引き込んだのだった!
彼らの仲を知るメリーは勿論、初めは『二人は恋人同士だったの?』と驚いたピピンも、二人に拍手を送った。
そうして踊り終わると、二人は握っていた手を繋いだまま人々の熱気の中から抜け出たのだった。
二人は塀の縁まで来て、ゴンドールの街を見下ろした。夜は更けていたが、未だどの家にも明かりが灯っていた。
ひやりとする夜風が踊りで火照った肌を冷ました。
「ああ、ファラミア様!貴方はダンスもお上手なのですね。実を申しますと、わたくしがダンスを踊ったのは久しぶりですの。とても…楽しかったですわ」
そうしてにっこりと微笑むエオウィンの姿は、生きる希望を失い死を望んでいた頃の彼女とは別人のようだった。
「姫よ、謙遜なさることはありません。貴女のほうこそお上手ではありませんか。貴女がダンスを踊るのが久しぶりだとは思いもしなかったのですからね!」
ファラミアは、エオウィンの金色の髪を指先ですくった。そして、その柔らかく光沢のある美しい髪に口づけを落とした。
ホビット達と楽しげに踊る若々しい美しさに溢れたエオウィンの姿も、こうして頬を赤く染めて瞳に喜びの光を輝かせるエオウィンの姿も…彼はとても愛しく感じていた。
「くちづけをお許しいただけますか?」
「それは、わたくしの指先に?髪にはもうしてしまいましたもの」
「いいえ、貴女の唇にです」
エオウィンは恥ずかしそうにはにかんで、そして頷いた。
二人は唇を寄せてくちづけをした。
この晩、すべてのゴンドールの民が喜びを分かち合った。
空は澄んで、星々が宝石のように輝いていた。
*
エオウィンを客間の入り口まで見送った後、ファラミアは王の元へ行こうか、それともホビット達の元へ戻ろうか…と考えていた。
そしてふと夜空を見上げて星を眺めた。雲はなく、星は銀や白に輝いて空一面に散らばっていた。
…エルフは星空の下で生まれたという。
近くエルロンド卿の娘御であられるアルウェン姫がゴンドールの妃として王家へ嫁いでくる。
そして、今までは不安と恐怖を与えていた夜の闇も清められて…平穏と安らぎをもたらすように変わるだろう。
ファラミアは大きく息を吸い込んだ。
澄んだ空気が体を満たし、改めて勝利を実感した。
ゴンドールは多くのものを失った。民や兵士…かつては清らかで美しかった土地や建物。
ファラミア自身も、父や兄、彼の部下や親しい者を失くした。その後、彼が得たものも多かったが、この戦争で負った傷は生涯癒えることはないだろうと感じていた。
『兄上!私は失ったものが多すぎるのです。今私の傍に兄上がいてくれたらどんなに幸せでしょうか。兄上と喜びを分かち合う事が出来たのならば!…今日、エレスサール王は私を再び執政官に任命なさいました。愛する人もできました。しかし、兄上はもうこの世にはいないのです…。』
もしボロミアがこの場にいて、嘆く弟の姿を見ていたとしたら…、彼の功績を称え、共に王家の繁栄を願い、ゴンドールの新しい夜明けを喜んだだろう。
そして…弟を褒め、共に涙を流し、あまり嘆いてはいけないと叱り、励ましてくれただろう。兄弟がまだ幼かった頃と一つも変わらないまま、ボロミアは弟を愛しただろう。
夜の空に問いかけても、返事はない。
ボロミアの魂は…彼の肉体を離れ、どこへ行ったのだろうか。ただ、最早中つ国には存在しないのだろう…。
『ゴンドールに王が戻り、新しい時代が始まるのだ。家系が続く限り…我が執政家は王に仕えよう。そして私は…父や兄、先祖達の名に恥じない気高き執政として生きよう。いつか私が死を賜って、父上や兄上の元へ参るときに…迎え入れてくださるように!』
そう決意したファラミアの顔は、光が差したように晴れやかだった。
そして…ファラミアはボロミアと繋がりのある…一人の女性の名前を思い出した。
『私はあの人と話さねばなるまい。戴冠式が行われた今日、この夜に。』
そう強く感じたファラミアは療病院へと向かうのだった。
*
「…夢子殿でしたね」
「ファラミア様」
ファラミアに声をかけられた夢子は、優しく微笑んだ。
療病院の一室で、夢子は木で作られた簡素な長椅子にゆったりと腰かけていた。
彼女は清潔な白い衣服を身にまとい、薄地のショールを肩から垂らしていた。
銀色の髪は月明かりに照らされてきらきらと輝き、髪自体が光を発しているようにも見えた。
エルフ特有の人間よりも整った顔立ちと、細身の身体にすらりと伸びる四肢は、見る者に畏怖の念さえ抱かせるほどに美しかった。
「お加減はいかがですか?」
「ええ、おかげ様で体の傷や黒の病はほとんど癒えました。療病院の皆さんには大変良くしてもらってます。そして…メリーから聞きました。貴方が私を黒の病から救ってくださったのだと」
「あの日…貴女が目覚めた日です。エレスサール王はアセラスの葉を用いて貴女の治療に当たっていました。私は貴女の名前を呼びました。そして…目覚めたのです。その瞬間私は驚きました…。貴女は私を見てこう呼んだのです。ボロミア…と」
ボロミアの名前を出すと、夢子は酷く悲しい顔をして俯いてしまった。夢子も彼の死を嘆いているのだろうかとファラミアは考えた。
ファラミアにとっても愛する兄の死の知らせは辛い出来事だった。
そして目の前にいる美しい人も、自分と同じように愛する者を失い嘆いているのだろうか。その悲しみ様は見るに堪えないほどであった。
「貴女は酷く悲しんでおいでだ。まるで私やゴンドールの民のように。…貴女は彼と特別親しかったのではないですか?」
そう尋ねると夢子はついに涙をこぼした。肯定も否定もせずに、ただ泣くだけだった。
やはり、この人と兄の間には何かがあるに違いない。
それはただの愛情だけではない。男女としての愛情があったのではないか。ファラミアはそう確信した。
「ボロミアは私の兄なのです。…兄がどうして亡くなったのかは知っています。しかし、貴女のことは何も知らなかった」
ファラミアは夢子の足元に跪いた。
そして俯いて涙を流す夢子と目線を合わせて問いかけた。
「話していただけるだろうか?」
夢子はボロミアの弟であるファラミアの顔を見た。その顔はボロミアとよく似ていた。
ボロミアと同じ灰色の瞳は、真っ直ぐに夢子を捉えていた。彼の瞳は悲しげに揺れて、涙を零さずとも心の中では泣いているようだった。
夢子はファラミアの手を取って、彼を床から立ち上がらせた。
「これは私の心にだけ留めておくつもりでした。私とボロミアとの大切な思い出ですもの。ですが…弟君のファラミア様にだけはお話いたしましょう。ボロミアは貴方にとっても大切な方なのですから」
夢子はファラミアに面会用の椅子を勧めた。
そして…愛する者の思い出を辿るように…ゆっくりと話し始めたのだった…。
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